第二十五話 五人の帰路
魔王が消えたあと、城を満たしていた魔力も急速に薄れた。
扉へ刻まれた呪いが消え、廊下の明かりが一つずつ落ちる。城内の兵たちは戦意を失った者と、侵入者を討とうとする者に分かれ、指揮もなく走り回っていた。
五人は来た道を戻らなかった。
ガレスが最上階の窓から城壁を確かめ、北側の外廊へ出る。貯水槽を伝い、厨房の搬入口から城下へ抜けた。
「これ、勝った人間の帰り方?」
リタは水と煤で汚れた服を見下ろした。
「正門から名乗って出たいなら止めんぞ」
ガレスが答える。
「大魔道士が魔王倒したぞ、道を開けえ、って」
「それええね」
「乗るな」
カイルに止められた。
城下では、すでに魔王の死が伝わり始めていた。
王の魔力で動いていた城の結界が消え、軍の紋章も光を失った。通りへ出た人々は、城を見上げている。
歓声はなかった。
誰もが、次に何が起きるのかを恐れていた。
染物屋の商人は五人を見るなり、地下室へ押し込んだ。
「本当にやったのか」
「やったよ」
リタが答える。
「五人とも?」
「見たら分かるじゃろ」
商人は数えた。
一人、二人と指を動かし、五人目で止める。
「そうか」
それだけを言って、椅子へ座り込んだ。
顔を両手で覆う。
「終わったのか」
「少なくとも、あの魔王の戦争は終わる」
カイルが言った。
商人は長く肩を震わせていた。
その夜、五人は染物屋の地下へ戻った。
出発前に残していた荷が、壁際へそのまま置かれている。遺書の紙が入った箱も、棚の下にあった。
ガレスが箱を引き出した。
「いらなかったな」
封を開けないまま、商人へ返す。
「次の誰かへ使ってくれ」
商人は箱を受け取ったが、しばらく何も言えなかった。
エレナは長椅子へ座ると、すぐ治療を始めた。
まずカイルの肩。次にガレスの足首。リタの腕には、魔力回路が熱を持った跡が残っている。
「しばらく魔法を使わないでください」
エレナが冷却布を巻いた。
「どのくらい?」
「最低でも三日」
「三日も?」
「魔王を倒したあとくらい、休んでください」
「大魔道士に休みはないんよ」
「では、右腕を使えなくします」
「休みます」
エレナの声に冗談がなかった。
ソラの番になる。
彼は大きな傷を負っていない。折れた剣を握っていた手に裂傷があり、腕と背中へ打撲がある程度だった。
「ほかに痛む場所は」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
リタは、ソラを覆う膜を見た。
裂け目は閉じていない。淡い魔力が、細い煙のように漏れ続けている。
「これは痛うないん?」
指を近づける。
「痛みはありません」
「直せる?」
「今は、できません」
「王都へ着いたら話すんじゃろ」
「はい」
エレナがソラの手へ包帯を巻く。
その横で、リタは裂け目から目を離せなかった。
「死ぬようなもんじゃない?」
「今すぐには」
「今すぐじゃなかったら?」
「王都で話します」
また同じ答えだった。
「分かった」
分かったふりをした。
今は城下を出ることが先だ。王都へ帰れば、時間も場所もある。五人とも生きているのだから、明日はもう急いで奪い取らなくてよい。
床へ外套を並べた。
旅の最初の夜、ソラは輪の外へ寝床を作った。
今夜は誰も場所を決めなかったのに、五枚の外套が一つの塊になった。
カイルが壁側。隣にエレナ。その横にリタとソラ。入口へ近い場所にガレス。
「見張りは?」
リタが尋ねる。
「俺が最初に立つ」
カイルが身体を起こそうとする。
商人が止めた。
「今夜くらい、こちらに任せてくれ」
地下室の扉の外には、彼の仲間が二人立っていた。
「朝まで誰も入れない。あんたたちは眠れ」
旅が始まってから、五人全員が同時に眠る夜は初めてだった。
明かりを消す。
しばらく、誰も寝息を立てなかった。
「生きとる?」
リタが暗闇へ聞いた。
「いる」
カイル。
「おります」
エレナ。
「寝かせろ」
ガレス。
「はい」
ソラ。
「うちも」
「お前は聞いてない」
ガレスの返事が来る。
「言うとかんと分からんじゃろ」
「一番うるさいから分かる」
暗闇の中で、誰かが笑った。
一人ではなく、何人もだった。
リタは隣へ手を伸ばした。
ソラの手があった。
指を絡めると、握り返される。
そのまま、朝まで一度も目を覚まさなかった。
翌朝、城下の門が開いた。
魔王国軍の有力者たちは後継を巡って争うより先に、王国軍へ停戦の使者を送った。補給は尽きかけ、徴発された兵の多くは戦う理由を失っている。
五人は混乱へ紛れ、城下を出た。
来た道をそのまま戻る必要はなくなった。
王国軍が押さえた街道を東へ進む。途中で騎兵隊と合流し、初めて魔王討伐の成功を正式に報告した。
「討伐隊、全員生還!」
伝令の声が陣を走った。
報告所へ入ると、若い書記が帳面を開いた。
「討伐隊の帰還者名を」
「五人全員だ」
カイルが答える。
書記は羽根筆を止めた。
「全員、ですか」
「見えんの?」
リタは机の前へ五人で並んだ。
書記は慌てて数える。
「失礼しました。では、戦死者と行方不明者は」
「おらん」
「同行した支援兵などは」
「最初から、うちら五人だけ」
書記は帳面の戦死者欄へ線を引いた。
空欄のまま残すと、書き忘れだと思われるからだろう。
一本の線だけだった。
リタは、その線を長く見た。
「何か訂正が?」
「ない。綺麗な線じゃな思うて」
書記は困った顔をした。
カイルだけが、リタの言いたいことを分かったらしい。
「ああ」
短くうなずいた。
兵たちが集まってくる。
誰かがリタの名を呼び、次にカイル、エレナ、ガレスの名が続いた。ソラの名を知る者はいなかったが、五人目の剣士だと聞くと、同じように歓声を上げた。
リタは並んだ仲間を見た。
カイルの肩には包帯がある。
エレナは魔力をほとんど使い切り、立っているのもつらそうだった。
ガレスの装備は半分に減っている。
ソラは剣も盾も失った。
それでも、全員がいる。
「大魔道士!」
兵の一人が叫んだ。
「大魔道士リタ!」
声が重なった。
普段なら胸を張り、当然だと言うところだった。
リタは口を開き、うまく声が出せなかった。
隣で、ソラが見ている。
「何よ」
「認められています」
「今さら泣いて認めても遅いわ」
「泣いているのはリタです」
「汗じゃ」
「目から?」
「大魔道士は目からも汗かくんよ」
ソラが笑った。
その顔を見ていると、ますます涙が止まらなくなった。
帰路には二週間かかった。
負傷者を乗せた軍の隊列と共に進んだ。
最初の二日は、五人とも馬車に乗せられた。
歩けると主張しても、軍医が許さなかった。
「魔王を倒した人間が、帰り道で倒れたら私の責任になる」
そう言われ、リタは渋々、幌付きの荷車へ入った。
中には寝台代わりの藁が敷かれている。五人で座ると狭かったが、水車小屋ほどではない。
「うちら、なんか前にも詰め込まれとらんかった?」
「何度もだ」
ガレスが壁へ背を預ける。
「旅って、もっと景色見るもんじゃないん?」
「お前は十分見ただろう」
「鼠と天井ばっかりよ」
荷車が石を踏む。
全員の身体が一斉に跳ねた。
カイルが肩を押さえ、エレナがすぐにその手を外させる。
「触らないでください」
「傷が開いていないか確かめただけだ」
「それは私が確かめます」
「今ここで脱ぐのか」
「必要なら」
カイルが黙った。
ガレスは外を向き、リタは笑いを堪えた。
ソラだけが真面目に尋ねる。
「脱いだ方がよいのでは?」
「あんたは黙っとき」
「なぜですか」
「今は基準が難しいとこなんよ」
三日目から、短い時間だけ歩くことを許された。
途中の町では、住民が道へ並んで待っていた。
勝利を祝う酒も食事も出されたが、長居はしない。一杯だけ受け取り、負傷兵と同じ宿で眠り、翌朝には出発した。
最初の町で、片腕を失った兵がソラへ声をかけた。
「あんたが五人目か」
「はい」
「名は」
「ソラです」
兵はその名を何度か口にし、覚えた。
「俺らは城まで行けなかった。東門で壁に張りついただけだ」
「その攻勢で、城の兵が減りました」
「役に立ったか」
「はい。あなたたちがいなければ、私たちは魔王へ届いていません」
兵は片腕で杯を持ち上げた。
「なら、飲め」
ソラも杯を受け取る。
「酒は飲めますか」
「飲んだことはあります」
「うまいか」
ソラは一口飲み、考えた。
「苦いです」
兵が大きく笑った。
「正直な英雄だな」
次の町では、ソラの名を知る者が増えていた。
三つ目では、子どもが作った青い布を渡された。
「空の色だから」
名を聞いた仕立屋の娘が、夜のうちに縫ったらしい。
ソラは布を腕へ巻いた。
リタは、淡い青と彼の目を見比べた。
似合うと言おうとして、ベルカで初めて瞳を褒めたときの停止を思い出す。
「何ですか」
「別に。ええ色じゃね思うて」
今度のソラは、止まらなかった。
「はい。私も、そう思います」
布は王都まで、彼の腕にあった。
道中、カイルとエレナはよく隣を歩いた。
エレナが疲れれば、カイルは何も言わず歩調を落とす。カイルの傷が痛めば、エレナは何も言わせず休ませた。
ガレスは兵たちへ、魔王城の罠を大げさに語った。話すたび数が増えるので、三日目には千本の槍を一人で止めたことになっていた。
帰路の九日目、ソラは出発の時刻になっても起きなかった。
軍の野営地では、すでに荷車が動き始めている。
ガレスが外套の上から足を蹴った。
「起きろ」
反応がない。
「ソラ?」
リタは隣へ膝をついた。
胸は上下している。
額へ手を当てても、熱はない。
「エレナ!」
呼ばれた聖女が、薬箱を持って駆けてくる。
聖印の光をソラの胸へ当てた。
「身体に異常はありません。魔力が、極端に減っています」
「魔王戦のせい?」
「おそらく」
エレナが肩を揺する。
「ソラ。起きてください」
青い目が開いた。
すぐに身体を起こそうとして、片腕が支えきれず、また外套へ沈む。
「今、何刻ですか」
「出発するとこ」
リタが答える。
ソラは二度目で起き上がった。
「すみません」
「謝る前に、寝ときんさい」
「歩けます」
「その台詞、うちらの中で信用なくしたんよ」
「私もですか」
「あんたが一番」
軍医へ頼み、負傷者用の馬を一頭借りた。
ソラは断らなかった。
鞍へ上がろうとして、足が鐙を二度外れる。
リタが手を出した。
「持ち上げるよ」
「自分でできます」
「さっき信用ない言うたじゃろ」
ソラは鐙を見た。
もう一度試すか、手を借りるかを考えている顔だった。
「お願いします」
初めて、自分から助けを受け入れた。
リタは嬉しくなるより先に、怖くなった。
ソラが頼らなければならないほど、弱っている。
風で身体を少しだけ押し上げる。
ソラは鞍へ座り、手綱を握った。
「食べられる?」
「必要ありません」
「必要か聞いとらん」
保存食を渡す。
ソラは半分だけ食べた。
残りを包み直そうとする手が止まる。
指先の向こうに、鞍の革が透けて見えた気がした。
リタは瞬きをした。
もう一度見ると、普通の手だった。
「今の」
「どうしましたか」
「手、見せて」
触れる。
温かい。重さもある。
けれど、その皮膚の下を流れる魔力は、出会ったころよりはっきりと薄い。
「膜、弱うなっとる」
「はい」
「魔王戦で使うたけえ?」
「はい」
「止めたらどうなるん」
「止められません」
「そうじゃなくて。なくなったら」
ソラは周囲を見た。
兵たちが荷をまとめ、カイルとエレナも近くにいる。
ここでは話さない方がよいという意味だと、リタにも分かった。
「王都へ着いたら話します」
「悪い話?」
返事はなかった。
「嘘でも違う言いんさいよ」
「嘘は言えません」
「検問じゃ上手かったくせに」
「あれは、必要な嘘でした」
「これは必要じゃないん?」
「あなたへは、言いたくありません」
言えません、ではなかった。
リタは手を離した。
「分かった。王都まで待つ」
「ありがとうございます」
その日は一日、馬を並べて進んだ。
ソラはほとんど話さなかった。
眠っているのかと思うほど目を閉じている時間があり、呼べばすぐに返事だけはした。
夕方、野営地へ着く。
ソラは馬から自分で下りられなかった。
カイルが片側、リタが反対側を支えた。
「剣の腕は、ずいぶん上だったのにな」
カイルが言う。
「馬から下りるのは、まだ習っていません」
ソラが答えた。
「冗談言う元気はあるんじゃね」
「今のは冗談ですか」
「自分で分かっとらんかったん?」
「半分は事実です」
カイルが笑った。
リタも笑った。
笑いながら、腕へかかるソラの体重を感じていた。
旅の最初、荷と盾を持って馬と同じ速さで歩いた男が、今は二人に支えられている。
その夜、ソラは食事の途中で眠った。
椀を持ったまま、木の幹へ背を預けている。
リタは椀を取り、外套を掛けた。
隣へ座り、薄い膜を見つめる。
裂け目から漏れる光を、指で塞ぐことはできない。
王都まで、あと五日。
急げば身体へ負担がかかる。休めば、その分だけ膜が薄くなる。
どちらが正しいのか分からなかった。
「待つ言うたんじゃけえね」
眠るソラへ言う。
「ちゃんと王都で話しんさいよ」
返事はなかった。
リタは自分の寝床へ戻らず、そのまま隣へ座っていた。夜の途中で何度もソラの呼吸を数え、数えたことを知られたくなくて、彼が身じろぎするたび目を閉じた。四人を失わず帰っているはずなのに、すでに別の何かが指の間からこぼれている気がした。
夜明け前、エレナが毛布を持ってきた。
「交代します」
「寝とったよ、うち」
「目の下に跡がありません」
「寝相がええんよ」
エレナは反論せず、リタの肩へ毛布を掛けた。
少し離れた場所で、カイルとガレスが帰路の地図を広げている。
「軍の本隊と同じ道では、明日もこの時刻に発つことになる」
カイルが言う。
「北の宿場で一日休む。そのあと川沿いへ出れば、荷車でも王都まで四日」
「遠回りじゃろ」
「距離は増えるが、道が平らだ」
「追われとるわけじゃないしね」
ガレスが地図へ木片を置いた。
「俺は先に行って、宿と馬を取る。英雄一行が押しかけるって知れたら、一番高い部屋しか残らないからな」
「国払いじゃろ」
「そういう考えで宴を二回増やしたでしょう」
エレナが言う。
「二回だけよ」
「反省していませんね」
話しているうちに、ソラが目を開けた。
「進路を変更するのですか」
「聞いとったん?」
「途中から」
「あんたが寝て進める道へ変える」
ソラは起き上がろうとした。
エレナが肩を押さえる。
「まだ横になっていてください」
「私のために、全員の日程を遅らせる必要はありません」
「全員で帰る日程だ」
カイルが地図を畳んだ。
「お前一人を軍へ預けて先に行く案は、誰も出していない」
「合理的ではありません」
「五人で魔王倒しといて、帰りだけ合理的に四人になるん?」
リタが尋ねる。
ソラは答えなかった。
「困ったときには、人を頼れと、師匠に教わりませんでしたか」
エレナが言う。
「教わりました」
「では、四人へ頼ってください」
「あなたたちは、困っていません」
「困っていますよ。あなたが一人で何でも決めようとするので」
ソラは四人を見た。
「お願いします」
前日より、言うまでの時間が短かった。
ガレスが立ち上がる。
「よし。英雄様のために、一番安い宿を取ってくる」
「高いとこにしんさい!」
「国払いなんだろ?」
「今は使うとこじゃろ!」
ガレスが笑い、馬を借りに行った。
旅程は一日延びた。
誰も、その一日を失ったとは言わなかった。
その朝、ソラは馬も断らなかった。
その次の日も、休息では誰より早く横になった。
リタが膜のことを尋ねると、返事は毎回同じだった。
王都へ着いたら話します。
だから、待った。
約束ではなく予定しか作れなかった二人に、初めてできた約束だと思っていた。




