第二十四話 二人の魔法
ソラの魔力が解き放たれた瞬間、魔王が振り向いた。
初めて、老人の顔に明らかな驚きが浮かぶ。
「貴様、その力をどこで得た」
ソラは答えなかった。
両手を上げる。
魔力は膨大だった。
それなのに、広間へ無秩序に溢れない。細い糸へ分けられ、必要な場所で止まり、次の指示を待っている。
リタとは違う。
自分なら、これほどの魔力を外へ出した時点で半分も扱えない。
ソラの制御には、余分な揺れが一つもなかった。
「リタ!」
呼ばれ、我に返る。
今は驚いている場合ではない。
「ガレス、鎖を四方へ! 自分から外して!」
「外したら緩むぞ!」
「うちらが持つ!」
ガレスは迷わず腰の留め具を切った。
鎖が魔王へ引かれる。
その前に、リタは床へ杖を突き立てた。
土を起こす。
一本では足りない。四本の柱を、鎖の外側へ作る。どれも太くはない。リタ一人の魔力では、魔王に引かれればすぐ砕ける。
ソラの魔力が流れ込んだ。
石の柱が低い音を立て、床の深くまで根を張る。
「次!」
リタは水を呼んだ。
四本の鎖へまとわせ、輪にする。魔王が熱で蒸発させようとする前に凍らせた。
ソラの魔力が氷の形を保つ。
黒い炎が上がっても、溶けない。
「そんな馬鹿な」
魔王が腕を広げる。
膨れ上がった魔力へ、リタは風の網をかけた。
一枚目は粗い。
二枚目を斜めに重ねる。
三枚目で隙間を埋める。
ソラは網の交点だけへ魔力を送り、動かないよう固定した。
リタが形を変えるたび、過不足なく力が届く。
「なんで、うちの術が分かるん!」
「知っているからです!」
答えの意味を考える暇はなかった。
魔王の力が、風の網を内側から押す。
右が膨らむ。
リタは土の柱を一本減らし、その魔力を右へ回した。上から黒い炎が漏れれば、水の輪を解いて蒸気へ変え、熱を奪う。
完成した術式を守るのではない。
壊されるたび、使える系統で穴を埋める。
どれもリタが少しずつ使える魔法だった。
一つでは魔王へ届かない。
ソラの魔力が入ることで、初めて拘束として成立する。
「エレナ!」
「まだ持ちます!」
魔王の出力が落ち、光の障壁へ走っていた亀裂が止まった。
エレナは血を拭い、障壁を張り直す。
カイルがその内側から飛び出した。
損傷した盾を魔王の胸へ叩きつけ、身体を拘束の中心へ押し戻す。
「ガレス!」
「もう置いてる!」
魔王の足元で、拘束具が四つ弾けた。
今度はガレスの身体につながっていない。
鋼線だけが石の柱へ巻きつき、リタとソラの術を外から締める。
魔王が吠えた。
黒い力が広がる。
風の網が二枚破れた。
リタは火を細い輪へして、老人の胸へ巻いた。黒い魔力が漏れる場所だけを焼く。
ソラが力を足す。
火は大きくならない。
細い形のまま、白く変わった。
「リタ、中心を」
「見えとる!」
拘束の中で、魔王の魔力が胸へ集まっている。
次の一撃で、すべてを壊すつもりだ。
止めるなら今しかない。
「カイル、離れて! エレナ、二人を囲って! ガレス、伏せる!」
三人が動く。
リタは残った魔力を杖へ集めた。
少ない。
ここまで系統を替え続け、底が見え始めている。魔王の中心を壊す威力には届かない。
「ソラ!」
「使ってください」
ソラがリタの杖へ手を重ねた。
巨大な魔力が流れ込む。
多すぎる。
そのまま受ければ、杖もリタの回路も焼ける。
だがソラの力は、リタが形を作れる太さまで分けられていた。
リタは火を中心に置いた。
外側へ風を巻き、熱を逃がさない。
水で杖と自分の腕を冷やす。
土の細片を混ぜ、魔王の障壁を削る芯にする。
どれも単独では並の魔法だった。
継ぎ足し、重ね、一本の光へ束ねる。
形を決めるのはリタ。
その形を一分の狂いもなく満たすのはソラ。
「いくよ!」
「はい!」
二人で杖を前へ出した。
白い光が走った。
魔王の黒い障壁へ突き刺さる。
止まる。
リタは火の形を細くした。
ソラが同じ場所へ力を集める。
一点が割れた。
光が魔王の胸を貫く。
老人の身体が反り返った。
「余が……この程度の器どもに……」
最後の魔力が膨らむ。
エレナの障壁が全員を包んだ。
カイルがその前へ盾を置く。
ガレスは床へ伏せたまま、残った鋼線を引いた。
リタとソラは、光を止めなかった。
黒い魔力が内側から崩れる。
魔王の身体へ亀裂が走った。
白い光が広間を満たす。
音が消えた。
やがて光が収まると、玉座の前には黒い灰だけが残っていた。
誰もすぐには動かなかった。
灰の中央で、小さな黒い火が灯った。
カイルが盾を上げる。
リタも杖を向けたが、腕に力が入らない。
火は誰かを狙うことなく、空中で揺れた。
エレナが聖印の光を重ねる。
黒い火は細くなり、最後には一筋の煙へ変わった。
「魂の残滓です」
エレナが言う。
「もう、意志はありません」
それでもガレスは灰へ拘束具を一つ投げた。
反応はない。
「念のためだ」
「灰へ罠かける人、初めて見た」
リタが言う。
「起き上がってから後悔するよりいい」
「起きたら、うちがもう一回倒すよ」
「腕が上がってないぞ」
指摘され、リタは杖を下ろした。
膝が急に重くなる。
床へ座り込む前に、ソラが肩を支えた。
「魔力を使いすぎています」
「あんたに言われたくないわ」
「私は、まだ立てます」
「身体で張り合わんで」
「……終わった?」
リタの声が、広間へ小さく響いた。
ガレスが顔を上げる。
「少なくとも、立ってる魔王は見えんな」
「生きとる?」
「誰に聞いてる」
「みんなに!」
カイルが盾を下ろした。
「生きている」
エレナはその場へ座り込んでいたが、手を上げる。
ガレスも立った。
ソラはリタの隣にいる。
五人。
誰も欠けていない。
エレナは自分の口元の血を拭う前に、カイルの肩へ手を当てた。
盾を貫いた刃は鎧の内側まで届いていた。傷は深くないが、血が流れている。
「座ってください」
「先に自分を診ろ」
「私は出血していません」
「口から血が出ていただろう」
「魔力の逆流です。治療する傷ではありません」
「なら休め」
「あなたが座ったら」
二人とも譲らない。
ガレスが横からカイルの膝裏を蹴った。
力の抜けていた足が曲がり、カイルが床へ座る。
「何をする」
「治療を早く終わらせろ」
エレナが礼を言い、カイルはガレスを睨んだ。
「あんたは怪我ないん?」
リタが尋ねる。
ガレスは外套を開いた。
巻き取り具が腰へ食い込み、服に血が滲んでいる。
「あるじゃん!」
「死ぬ傷じゃない」
「その基準、今後禁止ね」
「誰が決めた」
「大魔道士」
「なら無効だ」
「なんでよ!」
広間に、いつもの声が戻った。
それを聞いた途端、リタの目から涙が落ちた。
ついさっきまで、ガレスの手は自爆用の火へかかっていた。
エレナの障壁は、あと一撃で砕けていた。
カイルは肩から血を流し、ソラは剣を失った。
誰か一人が遅ければ、今の言い合いはなかった。
けれど、ここには全員の声がある。
「やった」
リタはもう一度言った。
今度は声が震えた。
「うちら、やったよ」
エレナが笑った。
ガレスは床へ仰向けになり、カイルは長く息を吐いた。
リタはソラへ向き直った。
「あんた、魔法使えるどころじゃないじゃん」
「黙っていて、すみません」
「ほんまよ。帰ったら全部聞くけえね」
「はい」
すぐに立てる者はいなかった。
エレナは全員の傷を診たあと、壁へ背を預けて目を閉じた。魔力を使い切り、指先まで白くなっている。
カイルは彼女の隣へ座り、自分の外套を肩へ掛けた。
「眠ってはいません」
目を閉じたまま、エレナが言う。
「知っている」
「では、外套は自分で使ってください」
「俺は鎧を着ている」
「穴が開いています」
「肩だけだ」
「そこから冷えます」
二人の声に力はなかったが、言い合う余裕は戻っていた。
ガレスは床へ散らばった拘束具を集めている。
壊れた物、使える物、魔導火薬だけ抜ける物。魔王の灰へ仕掛けた一つまで回収しようとした。
「それ持って帰るん?」
「高いんだ」
「褒賞もらえるじゃろ」
「褒賞は別だ」
彼は切れた鋼線を巻き、鞄へ押し込んだ。
「帰ったら、まず新しいのを買う」
「酒じゃなかったん?」
「両方だ」
「強欲じゃねえ」
「命を張った」
「ほいじゃ、好きなだけもらいんさい」
リタが言うと、ガレスは手を止めた。
「素直だと気味が悪いな」
「うちだって、たまには素直よ」
「魔力を使い切って熱があるんじゃないか」
「失礼な!」
立ち上がろうとし、膝へ力が入らず、ソラの肩につかまった。
ガレスはやはり熱だな、と言って作業へ戻った。
荷の底から、固くなった保存食が見つかった。
五人で分けるには少ない。
カイルが五つに割った。大きさは揃っていなかったが、誰も選ばず、手に近いものを取った。
ソラだけが食べなかった。
「食べんの?」
「必要ありません」
「必要かどうかじゃなくて。勝ったあとの飯よ」
リタは自分の欠片を半分に折り、ソラの手へ置いた。
「硬いですね」
一口かじったソラが言う。
「道中でもずっと硬かったじゃろ」
「今は、もっと硬く感じます」
「顎も疲れとるんよ」
全員、黙って保存食を噛んだ。
祝杯も音楽もない。崩れた玉座の前で、黒い灰を見張りながら食べる、味のない食事だった。
それでもリタには、旅のどの食事より贅沢に思えた。
五人で分けたからだ。
水筒も順に回した。
最後に飲んだガレスが、残りを確認する。
「動けるか」
カイルが先に立った。
エレナへ手を差し出す。彼女は少し迷ってから、その手を取った。
ガレスは荷を背負った。
リタは杖を支えに立つ。
ソラが隣へ来る。
「一人で歩けるよ」
「知っています」
「ほいじゃ、なんで肩貸すん」
「私が、そうしたいので」
橋でガレスが銀貨を置いたときと同じ答えだった。
「あんた、ほんま何でも覚えるね」
「大魔道士の弟子ですから」
「誰が教えたん、その言い方」
ソラは答えず、リタの腕を自分の肩へ回した。
玉座の間を出る前に、五人は一度だけ振り返った。
魔王の灰は動かない。
誰も欠けていない。
今度は声に出して確かめず、五人で扉を越えた。
隣を歩くソラの身体を覆う膜には、大きな裂け目ができていた。
薄い光が、そこから絶えずこぼれている。
リタは帰ったら全部聞くと、もう決めていた。
今は彼の肩を借り、残る四人の背中を追った。




