第二十一話 決戦前夜
三日後の夕方、遠くで角笛が鳴った。
王国軍の攻勢が始まった合図だった。
城下の兵が慌ただしく動き、東門から部隊が出ていく。染物屋の地下にも、地面を伝って軍靴の音が響いた。
討伐隊は最後の作戦を確認した。
夜半に北水路から城内へ入る。地下を通り、魔王のいる中央塔へ向かう。ガレスが先導し、カイルとソラが道を開く。エレナは呪いと障壁。リタは魔王の術へ対応する。
簡単な言葉にすれば、それだけだった。
「眠れる者は休め」
カイルが言った。
誰も眠れそうには見えなかった。
商人が、地下室へ小さな箱を置いていた。
「遺書を書く紙だそうだ」
ガレスが蓋を開ける。
紙が五枚、封蝋と一緒に入っている。
誰も手を伸ばさなかった。
「いらんじゃろ」
リタが言う。
「帰るんじゃけえ」
「書いた方がよいのではありませんか」
ソラが紙を見ている。
「あんた、渡す相手おるん?」
「剣の師へ」
遠い場所にいると言っていた人だ。
どうやって届くのかを聞きかけ、やめた。
「手紙なんか、帰ってから自分で渡しんさい」
「リタは書かないんですか」
「うちは家族に、死ぬつもりで行った思われとうない」
カイルが箱の蓋を閉じた。
「俺も書かない」
エレナは聖印を握ったまま、紙を見ていた。
「私は、神殿へ出立前に残しました」
「抜け駆けじゃん」
「備えです」
「ガレスは?」
「書く相手がいない」
軽く答えた声に、誰も冗談を返せなかった。
ガレスは箱を棚の下へ押し込む。
「代わりに、帰ったあとの予定を言え」
「何それ」
「死ぬ前の話よりましだ」
彼は爆薬の紐を確かめながら続けた。
「俺は東区の酒場で三日飲む。代金は王家へ回す」
「勝手に国の払いにせんで」
「魔王を倒す報酬だ」
「もっとええもん貰いんさいよ」
「酒よりいいものがあるのか」
「駄目じゃ、この人」
エレナが少し笑った。
「私は、神殿の治療院へ戻ります。負傷者が大勢運ばれてくるはずですから」
「帰った日くらい休め」
カイルが言う。
「カイルこそ、怪我をしても騎士団へ顔を出すのでしょう」
「報告は必要だ」
「私の治療も必要です」
「なら、先に神殿へ行く」
エレナは聖印から顔を上げた。
「必ず来てください」
「ああ」
二人の間にだけ、約束が一つできた。
リタはソラを肘でつつく。
「見た?」
「何をですか」
「あんたは見んでええ」
「リタが聞いたのでは」
「今のなし」
カイルは咳払いし、自分の予定を続けた。
「報告のあとは、実家へ戻る。母が、出立前から帰還祝いの支度をしているらしい」
「気が早いねえ」
「お前の家は何もしていないのか」
「しとるよ。父さんが近所中に、娘が魔王倒す言うて回っとる」
「似た者親子ですね」
エレナが言った。
「母さんは恥ずかしいけえやめろ言うとるらしい」
「それも想像できます」
「帰ったら、大魔道士の旗でも屋根に立っとるかもね」
自分で言い、家の屋根を思い出した。
本当に帰りたくなる。
「ソラは?」
四人の目が、一斉に彼へ向いた。
ソラは少し困った顔をした。
「まだ、決めていません」
「王都の肉の煮込み」
リタが助け舟を出す。
「まず、それを食べます」
「俺の実家の庭も見るんじゃなかったか」
カイルが言う。
「はい」
「神殿の鐘もです」
エレナが加える。
ガレスは爆薬を鞄へ戻した。
「俺の酒場は来なくていい」
「なんであんただけ拒否するん」
「静かに飲みたい」
ソラの予定へ、四人の場所が一つずつ加わった。
「全部回るまで、帰れんね」
リタが言う。
ソラはすぐに返事をしなかった。
「はい」
少し遅れて、答えた。
ガレスは携行する罠と爆薬を、床へ並べて確かめている。
エレナは聖印の鎖を磨いていた。カイルが向かいへ座り、盾の革帯を締め直す。
リタは杖を持ち、染物屋の裏庭へ出た。
夕暮れは終わりかけている。
高い壁に囲まれた狭い庭には、染料を取るための草が植えられていた。青、赤、黄色。日が沈むにつれ、どれも同じ暗い色へ変わっていく。
「ここにいましたか」
ソラが裏口から出てきた。
「うちを探しとった?」
「はい」
「なんで?」
「話したかったので」
ソラはリタの隣へ来た。
薄い魔力の膜は、出会ったときより明らかに弱くなっていた。
戦いを終えればどうなるのか。
聞いても答えないと分かっている。
「怖いね」
リタは先に言った。
「はい」
「否定せんのじゃ」
「あなたには必要ないと思います」
「大魔道士も怖がるんよ」
魔王は、これまで戦ったどの敵より強い。
自分たちが負ければ王国が滅びる、などと考える余裕はなかった。
カイルが死ぬかもしれない。
エレナも、ガレスも。
ソラも。
自分が死ぬことより、そちらの方が怖かった。
「ねえ、ソラ」
「はい」
「王都の予定、覚えとる?」
「覚えています」
「絶対来て、とは言わん。約束できん理由も、今は聞かん」
リタは暗くなった草を見た。
「でも、来たいと思うとる?」
「思っています」
「うちと?」
「あなたと」
すぐに答えた。
顔を上げる。
ソラは逃げずに、リタを見ていた。
「それ、どういう意味か分かっとる?」
「リタは、どういう意味で聞きましたか」
「ずるいね」
「間違えたくないので」
ここで冗談にすれば、今までどおりでいられる。
自称大魔道士と、師匠自慢ばかりする妙な剣士。明日を生き延びれば、王都へ行く予定も立てられる。
けれど、予定が果たされないかもしれないことを、二人とも知っていた。
「うちは、あんたが好き」
リタは言った。
「仲間としてだけじゃない。一人の男として、そばにおってほしい」
ソラの表情が止まった。
瞳を褒めたときと同じ、ほんの短い停止だった。
「困った?」
「いいえ」
「ほいじゃ、なんか言いんさい」
「嬉しいです」
「それだけ?」
「私も、あなたを愛しています」
まっすぐすぎる言葉だった。
リタの方が先に目を逸らした。
「好き、くらいからでええのに」
「違う言葉を選ぶ必要がありますか」
「ないけど。心の準備がね」
ソラの手が、リタの頬へ触れた。
触れてから、動きを止める。
「口づけてもいいですか」
「そこは聞くんじゃ」
「聞いた方がよいと教わりました」
「誰に」
「師匠に」
こんなときまで出てきた。
リタは笑った。
「ほんま、ようできた師匠じゃね」
「はい」
「今だけは、うちだけ見んさい」
ソラの目が、わずかに見開かれる。
「分かりました」
リタは彼の襟をつかみ、自分から顔を寄せた。
最初の口づけは、驚くほど短かった。
離れたあと、どちらも何も言わない。
「終わり?」
リタが尋ねる。
今度はソラが、答える代わりに顔を寄せた。
背中へ腕が回る。
剣を握る手の強さを知っている。盾の代わりに自分の身体を差し出す男だということも知っている。
その腕が今は、壊れ物を扱うようにリタを抱いていた。
夜が深くなるまで、まだ少し時間があった。
二人は地下へ戻らず、染料草の匂いが残る小部屋で過ごした。
ソラは一つずつ確かめるようにリタへ触れ、そのたびに彼女の答えを待った。リタは待たせず、自分の望むものを言葉と手で返した。
明日を恐れて選んだのではない。
生きて帰る未来を、二人で欲しいと思った。
夜半前、リタはソラの胸へ頬を預けていた。
規則正しい鼓動が聞こえる。
「今だけじゃ、嫌になった」
小さく言う。
ソラの腕が、わずかに強くなる。
「私もです」
それでも、約束の言葉はなかった。
二人は服を整え、仲間の待つ地下室へ戻った。
エレナはリタの顔を見て、何も聞かずに手を握った。
カイルも、ガレスも、作戦の話を繰り返さなかった。
夜半。
五人は染物屋を出た。




