第十九話 眠れない男
砦を抜けてから三日、五人はまともな道を歩かなかった。
追手を避けるため、昼は森と岩場を進み、夜も短い休息だけで場所を変えた。エレナの治療があっても、疲労までは消えない。
四日目の夕方、ようやくガレスが長い休息を許した。
選んだのは、山腹に残る古い見張り塔だった。
一階は崩れていたが、地下の倉庫は乾いている。入口を倒木で隠せば、外から人がいるとは分からない。五人は外套を敷き、ほとんど会話もせずに眠った。
リタが目を覚ましたとき、明かりは消えていた。
どのくらい寝たのか分からない。
身体を起こすと、すぐ隣にいるはずのソラがいなかった。
見張りの順番ではない。
ガレスは入口の近くに座り、壁へ背を預けている。目だけを開け、上を指した。
「塔?」
ガレスがうなずく。
リタは音を立てず、壊れかけた階段を上った。
塔の最上部には屋根がない。
ソラは崩れた壁のそばに座り、夜の山を見ていた。左腕には新しい布が巻かれている。
「何しよるん」
振り返らないまま答える。
「休んでいます」
「寝とらんじゃん」
「眠れなかったので」
リタは隣へ座った。
眼下に暗い森が広がっている。遠くの平地には、いくつもの火が並んでいた。魔王国軍の野営地だろう。
「腕、痛む?」
「少し」
「少しは信用ならんね」
布の上から触れる。
熱はない。エレナの治療も効いている。
その内側で、薄い魔力の膜は変わらず流れ続けていた。
よく探れば、初めて触れたときより弱くなっている気がする。
「この魔法、ずっと使うとるん?」
「はい」
「寝とる間も?」
「止められません」
「しんどくない?」
ソラは答えるまでに少し間を置いた。
「慣れています」
しんどくない、とは言わなかった。
「旅を続けるため言うとったね」
「はい」
「旅が終わったら、どうなるん?」
「分かりません」
「嘘」
リタが言うと、ソラはようやくこちらを見た。
「あんた、分からんときと、言えんときで顔が違うよ」
「どんな顔ですか」
「それ教えたら、直すじゃろ」
「直した方がよいのでは?」
「うちが困るけえ嫌」
しばらく、どちらも話さなかった。
冷たい風が塔を抜ける。
ソラの腕へ触れていた手を離す理由を見つけられず、リタはそのままにしていた。
「うちに言えんことがあるんは、もうええ」
先に口を開く。
「ええんですか」
「よくはない。でも、言わせてどうにかなるもんでもないじゃろ」
「すみません」
「それも、もうええよ」
ソラは夜の火を見た。
「師匠にも、言えないことがありました」
久しぶりに、その人の話が出た。
「隠し事する人じゃったん?」
「自分の身体のことを、私には詳しく話しませんでした」
「病気?」
「似たようなものです」
「怒った?」
「いいえ。知ったときには、怒るという感情をうまく理解していませんでした」
リタはソラの横顔を見る。
冗談ではないらしい。
「怒るんも分からんような子どもじゃったん?」
「身体は今と同じでした」
「……なんか、ややこしい育ちしとるね」
「はい」
「その人が、あんたを育てたん?」
「言葉も、魔法も、人と生きる方法も教わりました」
声は静かだった。
それでも、その人がソラにとってどれほど大きいかは分かる。
「今の自分があるのは、師匠のおかげです」
リタは胸の内に、小さな羨ましさが生まれるのを感じた。
会ったこともない人だ。
ソラの人生を作り、今も彼の中にいる。
その場所へ自分が入る余地はないように思えた。
「その人んとこへ、帰りたい?」
「帰れません」
「もう、おらんの?」
ソラは答えなかった。
それだけで十分だった。
「ごめん」
「謝る必要はありません」
「あるよ。聞きたくないこと聞いた」
リタは腕から手を離した。
代わりに、塔の石床へ両手をつく。
「魔王倒したあと、うちらと王都へ来ん?」
思いついたように言った。
実際には、何日か前から考えていた。
「王都へ?」
「うちの行きつけの店、肉の煮込みがうまいんよ。カイルんちの庭は無駄に広いし、エレナがおる神殿は昼寝にちょうどええ場所あるし」
「神殿は昼寝をする場所ではありません」
階下からエレナの声がした。
リタは床の穴を覗き込む。
「起きとったん!」
「声が聞こえました」
「寝んさい!」
「二人ともです」
声が途切れる。
リタは座り直した。
「まあ、そういうとこ。見せたいもんがあるけえ」
ソラはすぐには答えなかった。
「行きたいです」
「ほいじゃ決まり」
「ですが、約束はできません」
嬉しくなった直後に落とされた。
「なんで?」
「先のことは分からないので」
また、言えない方の顔だった。
リタは追及しなかった。
「なら、予定にしとこ。約束じゃなくて」
「予定なら、よいんですか」
「破っても、怒るだけで済むけえね」
「怒るんですね」
「そりゃ怒るよ」
ソラが笑った。
未来の話をしたときだけ見せる、どこか無防備な笑いだった。
「ほいじゃ、寝よ」
リタは立ち上がった。
冷えた石へ長く座っていたせいで、足が痺れている。一歩目で身体が傾いた。
ソラが腕を出す。
「大丈夫」
言いながら、袖をつかんだ。
階段は途中で何段も欠けていた。
上るときは気にならなかった暗さが、下りると急に深く見える。ソラが先へ降り、右手を差し出した。
「左、怪我しとるじゃろ」
「こちらは右です」
「分かっとる」
二段だけ手を借りた。
地下へ戻ると、三人とも眠っているふりをしていた。
ガレスは入口で外套をかぶり、エレナは壁際で横になっている。カイルだけは盾の手入れを終えたばかりらしく、布を握ったまま目を閉じていた。
リタは自分の寝床へ戻る。
隣へソラが横になった。
数日前なら、身体一つ分の隙間があった。今夜は、外套の端が触れている。
直そうと思えば直せる程度だった。
リタはそのまま目を閉じた。
眠りへ落ちる直前、隣から小さな声がした。
「肉の煮込みからですね」
「うん」
「覚えておきます」
今度は返事をせず、眠った。




