第十七話 退路
砦の西には、背の低い森が広がっていた。
木々の間隔は狭く、馬では追いにくい。五人は枝をかき分け、斜面を下った。
「腕を見せてください」
エレナが走りながらソラへ言う。
「あとで構いません」
「出血しています」
「動きに問題はありません」
「本人の判断は聞いていません」
エレナの声には、反論を許さない強さがあった。
リタがソラの外套をつかむ。
「止まって」
「追手が来ます」
「十数える間に塞ぐ。ガレス、先見とって!」
ガレスとカイルが森の先へ走る。
ソラの左袖を裂くと、肩から肘まで深く切れていた。盾の破片が入ったらしい。
エレナが破片を抜き、光を当てる。
血が止まるまで、本当に十もかからなかった。
「痛みは?」
「あります」
「ほいじゃ最初から言いんさい」
「聞かれませんでした」
「屁理屈言う元気はあるんじゃね」
枝を踏む音が近づく。
追手だ。
「行きます」
ソラが袖を結び、剣を持ち直した。
三人は先の二人を追った。
森はすぐに藪へ変わった。
枝が顔の高さへ張り出し、傷んだ腕へ何度も当たる。ソラは右手の剣だけで枝を払い、左腕は胸元へ寄せていた。
いつもなら、後ろから来るリタやエレナのために枝を押さえている。
今は一度切るたび、次の枝へ間に合わない。
「うちが前行く」
リタはソラの横を抜け、風で細い枝を左右へ分けた。
「魔力を使わないでください」
「これくらい、ほとんど減らん」
「それでも、積み重なります」
「誰が言うとるん」
振り返らずに返す。
「あんたこそ左、動かさんで。エレナに言われたじゃろ」
「走ると揺れます」
「揺らすなとは言うとらん。使うな言うたんよ」
「違いは分かります」
「なら言い返さん」
それからしばらく、ソラは右手だけを使った。
倒木を越えるときも、自分が先に上るのではなく、カイルが踏んだ場所を選ぶ。斜面では速度を落とし、エレナに追いつかれても先を譲った。
言われたことを守っている。
それなのにリタは、何度も後ろを見た。
ソラが少し遅れるたび、胸の内側が冷たくなる。
ガレスは浅い谷間で待っていた。
「この先は二手に分かれる。南は川、西は岩場だ」
「どちらへ」
「西。足跡を南へ付ける」
リタが水を呼び、五人の靴底を濡らした。ガレスとソラが南へ走り、泥へわざと足跡を残す。途中から岩を踏んで戻り、西の斜面へ合流した。
その間にも、警鐘は鳴っている。
追手の声が谷間へ入った。
「南だ! 川へ向かっている!」
足音が遠ざかる。
「うまくいった?」
「半分はな」
ガレスが西を指した。
岩場の上に、三人の兵が立っている。
待ち伏せだった。
中央には、青い長衣を着た術師がいる。
砦でソラの盾を砕いた者だ。
「痕跡をごまかす程度は予想している」
術師が杖を振る。
地面から紫の杭が突き出した。
カイルが大盾を下ろし、全員の前へ入る。杭が盾へ当たり、金属を大きくへこませた。
「散れ!」
五人が左右へ分かれる。
リタは火球を三つ作った。
術師へ放つ。
青い衣の前に薄い障壁が現れ、すべて消えた。
速い。
町で戦った術師より、明らかに上だった。
リタは水へ替え、足元を狙う。術師は杖を地面へ一度つくだけで、水を左右へ割った。
「相性悪いね!」
「相手の方が上なだけだ!」
ガレスが岩陰から矢を放つ。
術師は見もせずに弾いた。
正面から魔法を撃ち合えば負ける。
分かっていても、他の四人を動かすには相手の注意を引くしかない。
リタは風、火、土を順に放った。
どれも防がれる。
敵の杭が返ってくる。
避けきれない。
ソラが横から飛び込み、リタを地面へ押し倒した。
紫の光が頭上を抜ける。
「また勝手に囮になった!」
「今のは囮ではありません」
「うちを庇ったじゃろ!」
「避けられなかったので」
「あんたがじゃなくて、うちが?」
「はい」
腹が立つほど正しかった。
ソラはすぐに立ち、術師へ向かう。
盾はない。左腕も完全には動いていない。
それでも剣だけで、紫の杭を斜めへ受け流した。
「近づけさせるな!」
術師の左右にいた兵が槍を構える。
カイルが一人を受け持ち、ソラがもう一人へ踏み込んだ。
リタは起き上がり、周囲を見る。
岩場。
乾いた斜面。
少し上には、雨で削られた溝がある。崩れた石が溜まり、低い灌木の根だけで止まっていた。
「みんな、下がって!」
地面へ杖を突き立てる。
火を細く伸ばし、灌木の根を焼いた。
支えを失った石が動き出す。
最初は数個だった。周りを巻き込み、斜面全体が崩れる。
術師がこちらを見た。
障壁を張る。
岩を防ぐため、リタへの注意が切れた。
「今!」
ソラが術師の懐へ入った。
剣の柄で杖を跳ね上げる。
カイルの盾が横から当たり、術師の身体を崩れる斜面へ押し出した。
敵は岩ごと谷間へ流された。
「走れ!」
ガレスが西の道へ入る。
五人は追った。
背後で術師が生きているかは、確かめなかった。
日が暮れるまで、一度も足を止めなかった。
途中で二度、ガレスが道を変えた。
一度目は遠くに馬の音を聞いたから。二度目は、谷の出口に新しい足跡を見つけたからだった。
西へ向かうはずが北へ曲がり、川を渡ってまた西へ戻る。
夕方には、誰も口を利かなくなった。
エレナが石へつまずいた。
倒れる前にカイルが腕を取る。
「すみません」
「休めないか」
前のガレスへ聞く。
「まだだ」
「あとどれくらい」
「分からん」
エレナはカイルの手を借りず、自分で立ち直った。
「行けます」
声に力がなかった。
カイルは何も言わず、彼女の薬箱を自分の肩へ移した。
ソラが手を伸ばす。
「持ちます」
「お前は腕を休めろ」
「右は動きます」
「俺も動く」
短い言葉だった。
ソラは一度だけカイルの顔を見て、手を下ろした。
さらに進む。
空が赤くなったころ、リタの足も上がらなくなった。
小さな段差へ靴先が当たり、膝をつく。
土へ手をつく前に、外套の襟をつかまれた。
ソラが右手一本で引いている。
「腕使わんで言うたじゃろ」
「右です」
「右なら何してもええわけじゃない」
「怪我をしていません」
「そういう話じゃ――」
言い返そうとして、息が続かなかった。
ソラも呼吸が荒い。
出会ってから初めて、疲れているとはっきり分かる顔をしていた。
それでも、リタが立つまで手を離さない。
「ありがと」
小さく言う。
「はい」
二人とも、それ以上は話さなかった。
森が深くなり、警鐘も追手の声も聞こえなくなってから、ようやくガレスが歩みを緩めた。
「今夜は火を使わない。傷だけ見て、すぐ移動できるように休む」
誰も反対しなかった。
リタは木の幹へ背を預けた。
魔力はまだ残っている。身体にも大きな傷はない。
それなのに、指先が震えていた。
岩場で紫の杭が迫った瞬間ではない。
ソラの身体が、自分との間へ入った瞬間を思い出している。
あの薄い膜が何のためにあるのかも知らない。
彼がどこから来たのかも、何を抱えているのかも知らない。
知らないまま失いかけたことが、怖かった。




