第十四話 それでも前へ
ガレスが崖を下りる場所を見つけたのは、日が山へ隠れる直前だった。
「下に古い作業道がある」
戻ってきた彼の手は、泥と苔で汚れていた。
「炭鉱の水を流していた跡だ。谷底を半里進めば、術式の向こう側へ出られる。ただし、途中で水路が切れてる」
「幅は?」
カイルが尋ねる。
「十二歩くらい。下は川だ。流れが速い」
飛んで越えられる距離ではない。
術式を解くのは無理でも、谷を越える方法なら考えられる。
リタは紙を裏返し、簡単な図を描いた。
「向こう岸に木は?」
「ある」
「ガレスの矢で縄を渡せる?」
「届くが、人の重さには耐えない」
「最初は細い縄でええ。それを使って太いのを引っ張る。向こうで固定する人が要るね」
「誰が渡る」
全員がソラを見た。
「私ですね」
「そうじゃね」
「異論はない」
「適任です」
「俺より重いが、落ちても助かりそうだからな」
ガレスまで続いた。
ソラは特に不満を見せなかった。
「どうやって渡りますか」
「そこを今から考える」
「まだ決まっていなかったんですね」
「適任だけ先に決まった」
夜は崖の上で休んだ。
翌朝、五人は荷を分けて谷底へ下りた。
作業道は崖へ打ち込まれた石の棚だった。人ひとりが歩ける幅しかなく、横では白く泡立つ川が流れている。
切れた場所まで来ると、対岸の水路が遠く見えた。
ガレスが細い縄を矢へ結ぶ。
「風は」
「右から左」
リタは濡れた指を上げた。
「うちが抑える。いつでも」
ガレスの矢が放たれた。
同時に、リタは谷を横切る風を一瞬だけ止める。
矢は対岸の木を越え、細い縄を運んだ。
その縄で少し太い縄を引き、さらに人の重さへ耐える綱へ替える。こちら側はカイルが岩へ固定した。
問題は、向こう側だった。
綱は木の幹へ回しただけで、締める者がいない。
「これを伝っていくん?」
ソラが綱を引いた。
「途中までは」
リタは杖を水路の端へ向けた。
土の魔法で、残った石材を少しずつ前へ押し出す。橋にはならない。せいぜい、二歩分の足場だった。
「足場の先から綱へ飛びつく。振り子みたいに向こうへ。届かん分は風で押す」
「私が重すぎた場合は?」
「川で泳ぐ」
「泳げます」
「冗談よ。落とさん」
ソラは剣と盾を置き、最低限の荷だけを背負った。
綱を両手で握る。
「合図したら」
「はい」
「三、二、一!」
石の足場を蹴り、ソラの身体が谷へ出た。
綱が大きくしなる。
結び目が軋み、木の幹から少しずれた。
「重っ!」
「今言うことか!」
カイルがこちら側の綱を支える。
ソラが最も低い位置へ来た瞬間、リタは風を放った。
人を持ち上げるほど強くはない。落ちる方向を、わずかに横へ変えるだけだ。
ソラの足が対岸の石壁へ着いた。
一度滑る。
腕だけで身体を支え、もう一度足をかけた。そのまま綱を上り、水路の縁へ手を伸ばす。
届いた。
対岸へ上がったソラが、木へ綱を結び直す。
「もう大丈夫です」
谷越しに声が響いた。
最初に、荷を渡した。
剣や盾、薬箱、食料を二つずつ袋へまとめる。濡らせない物は油布で二重に包んだ。
ガレスがこちらで滑車を確かめ、ソラが対岸から引く。
一袋目は無事に渡った。
二袋目が谷の中央まで来たとき、上から小石が落ちた。
袋へ当たり、回転する。結び目が綱へ食い込んだ。
「止めて!」
エレナが障壁を頭上へ張る。
透明な光へ小石がぶつかり、川へ落ちた。
「崖が緩んどる」
リタは上を見た。
昨夜の雨で、岩の隙間の土が柔らかくなっている。大きな振動を与えれば、綱ごと崩れかねない。
「急いだ方がいいですね」
エレナの声は落ち着いていたが、障壁へ次々に石が当たっている。
荷を渡し終え、次は人だった。
「私から行きます」
エレナが滑車へ身体を固定する。
「障壁は?」
カイルが尋ねた。
「自分の頭上だけなら、渡りながら維持できます」
「無理だと思ったら切れ。魔力を使い切るな」
「分かっています」
リタが脇から言う。
「カイルはエレナのことになると、うちより心配性じゃね」
「今言うことか」
「今じゃないと、あとで言いにくいじゃろ」
エレナが滑車へぶら下がったまま、二人を見た。
「送っていただいてよろしいですか」
「はい」
カイルが即座に綱を押す。
エレナの身体が谷へ出た。
小さな障壁が彼女の頭上だけを追い、落石を左右へ弾く。半分を過ぎたところで光が揺れた。
ソラが綱を引く速度を上げる。
対岸へ着いたエレナは、自分より先に薬箱の結び目を確かめた。
「無事です」
「どっちが?」
「両方です」
カイルが息を吐く。
次はリタだった。
「うち、飛んだ方が早くない?」
「さっきソラ一人を押しただけで、ずいぶん魔力を使っただろう」
カイルが言う。
「滑車を使え」
「分かっとるよ」
胴へ縄を回す。腰の横で金具が鳴った。
川を見下ろした途端、思ったより遠く感じた。
ソラが渡るのを見ていたときは、風の向きと綱の動きしか考えていなかった。自分の身体が宙へ出るとなると、下の白い流れが急に現実味を持つ。
「リタ」
対岸からソラが呼んだ。
「何よ」
「落としません」
昨日、自分が言った言葉だった。
「分かっとる。うちの作戦じゃけえね」
強がってから、滑車へ体重を預ける。
カイルが背中を押した。
足場が離れる。
川の音が全身を包んだ。
滑車が小さく跳ねるたび、指へ力が入る。途中で風が吹き上がり、外套が顔へ張りついた。
対岸に近づく。
ソラが片腕を伸ばした。
リタはその腕をつかみ、石棚へ引き上げられた。
「ほら、余裕じゃった」
「目を閉じていました」
「風が強かったんよ」
「そうですか」
笑っている。
リタは脇腹を一度小突いた。
「落とさん言うた人が笑わんの」
「もう渡り終えたので」
「ほんま意地悪になったね、あんた」
続いてカイルが渡った。
対岸へ着くなり、エレナが肩の留め具を外す。カイルは礼を言ったあと、彼女の手に擦り傷がないかを確かめた。
最後にガレスが残った。
こちら側の固定を解けば、綱を張る者がいなくなる。
彼は回収用の細縄を結び、太い綱を岩から外した。自分の身体を古い鉄輪へ通した短い縄で支え、崖沿いに移る。
「それ、最初からできたんじゃない?」
リタが叫ぶ。
「一人ならな! 全員やったら誰か落ちる!」
「誰が?」
「お前だ!」
「なんでうち!」
怒鳴り合う声に、崖の土がまた崩れた。
「二人とも静かにしてください!」
エレナの声が一番よく響いた。
ガレスは最後の数歩を飛び、ソラとカイルに腕をつかまれて対岸へ上がった。
細縄を引き、太い綱を回収する。
結び目を解き終えたころ、五人とも手のひらが赤くなっていた。
谷底の作業道を進み、昼過ぎに斜面を上る。
森へ出たところで、リタは魔力を探った。
空間を曲げる術式は、もう背後にある。
「抜けた!」
両腕を上げる。
「術は解けませんでしたけどね」
エレナが言った。
「抜けたんじゃけえ、うちらの勝ちよ」
「勝敗だったのか?」
「うちが決めた」
ソラは地図へ現在地を書き込むガレスを手伝っていた。
リタは隣へしゃがむ。
「どう?」
「何がですか」
「大魔道士の判定」
「それを聞くために考えたんですか」
「違うわ! みんなを進ませるためじゃ!」
声が谷へ反響した。
ガレスが耳を押さえる。
「監視を抜けた意味をなくすな」
リタは声を落とした。
「で、どうなん」
ソラは少しだけ笑う。
「まだ保留です」
「厳しすぎん?」
「ですが、一つ分かりました」
「なに?」
「あなたは、自分にできないことを認めても、止まらない人です」
思いがけず、まともな言葉が返ってきた。
リタは何も言えずにソラを見る。
淡い青の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「それは、大魔道士に必要?」
「私は、必要だと思います」
胸の奥が、むずがゆくなる。
褒められることには慣れている。討伐隊へ選ばれるだけの実績もある。
けれど、できなかったことごと認められたのは初めてだった。
「ほいじゃ、あとちょっとじゃね」
リタは立ち上がり、服についた土を払った。
「魔王んとこ着くまでには、絶対認めさせちゃる」
「楽しみにしています」
今度は、言わせなくてもそう答えた。




