海の底へ
二週間後。
死の島と海を隔てて向かい合う港町には、夜明け前から漁師たちの声が響いていた。
桟橋へ繋がれたベイルの船へ、食料や真水の樽、予備の帆布が次々と運び込まれている。
遠い海まで漁に出られる、二本の帆柱を備えた小型の漁船だった。
大勢を運べるほどの船ではない。それでも三年前には、アルノたちを死の島まで運び、約束どおり海の上で帰りを待ってくれた。
「その樽は船尾だよ。食料の箱は帆布の下へ入れときな。濡らしたら承知しないよ!」
桟橋では、ミラが積み込みを指揮していた。ベイルが荷の置き場所へ口を挟むたび、「あんたは帆を見てな」と追い払われている。
「少し積みすぎじゃねえか」
「何もない海で、食料を切らしたいのかい?」
「減らせとは言ってねえ。船の釣り合いの話だ」
「大漁の時に積んでくる魚より軽いよ」
「魚と一緒にすんな」
「だったら、黙ってちゃんと積みな」
ベイルは言い返しかけたが、結局、真水の樽を抱えて船へ運んだ。
周囲の漁師たちは、いつものことだと笑いながら、それぞれの持ち場へ戻っていく。
アルノは甲板の端に立ち、まだ薄闇の残る海を見ていた。
海風に乱されないよう、肩まで伸びた栗色の髪は首の後ろで緩く束ねている。
すぐ近くでは、リネが漁師と二人で荷箱を固定していた。
高く結んだ赤茶色の髪が揺れ、細く見える腕は重い箱を難なく支えている
。レグルスは海図を押さえ、リュネ諸島までの航路をベイルと確かめていた。
アレクシスは長身を屈め、帆柱へ回した索の緩みを一つずつ調べている。
アウレリアの所在を示す原資料は、第七星環の研究室に残してきた。
覚えているのは、エルディア海域西方、リュネ諸島沖という広い範囲だけだった。
その海の底に都市が残っているのか。
アウレリア側の結節点を構成する魔法陣が墜落に耐えたのか。それは行ってみなければ分からない。
背後で金具が噛み合う音がした。
振り返ると、アレクシスが四本の革帯を順に確かめていた。
腰へ巻く帯の両側には、潜るための重りが取り付けられている。
留め具を引けば、重りだけが外れる仕組みだった。
「金具に問題はない」
アレクシスが一本をリネへ渡した。
「上がる時は、これを外せばいいのね」
「うん。防護膜の中には空気があるから、重りを外せば浮かぶ」
「四人同時に外す必要はない、ということですね」
レグルスの確認に、アルノは頷いた。
「膜は一人ずつ別に作ります。声と膜の状態を伝える線だけ繋ぎますけど、四つの術式は独立させます。一人の膜に何かあっても、ほかの膜まで一緒に崩れることはありません」
深海へ降りるために、四人は二週間、港の浅瀬で潜行と浮上を繰り返した。
海上ではベイルが時間を測り、潮に流された距離を確かめた。
四人がそれぞれの防護膜に包まれたまま浮上できると確認するまで、外海へ出ることを認めなかったのもベイルだった。
使うのは、これまで何度も仲間を守ってきたAegisである。
ただ水を押し返すのではなく、身体の周囲に地上の空気を残したまま、一人ずつを薄い膜で包む。外側から掛かる力は、Leの流れによって一か所へ溜めず、膜全体へ分散させる。
浅瀬での試験は成功した。
それでも、実際の深海で同じように保てる保証はない。膜の中へ取り込める空気にも、アルノの魔力にも限りがある。潜っていられる時間を先に決め、半分を過ぎたら、何も見つからなくても引き返すことにしていた。
「アルノ」
リネが革帯を抱えたまま、まっすぐこちらを見た。
「予定より魔力が減ったら、そこで戻るからね」
「分かってるよ」
「ほんとうに?」
「今回は、本当に分かってる」
誰か一人でも膜に異常を感じたら、調査はその場で中止する。
それが四人で決めた、最初の約束だった。
積み込みが終わると、ミラが桟橋の先へ立った。
「ベイル」
「分かってる」
「まだ何も言ってないよ」
「ちゃんと全員連れて帰ってこい、だろ」
「それと、船も壊すんじゃないよ」
「俺の船だ!」
「だから心配してるんだろ」
ミラは笑い、今度は四人へ顔を向けた。
「いってらっしゃい。帰ってきたら、見つけたものを聞かせておくれ」
「はい。行ってきます」
アルノが答えると、ミラは満足そうに頷いた。
ベイルの号令で係留索が外され、風を受けた帆が頭上で大きく膨らんでいく。
船はゆっくりと桟橋を離れ、死の島へ向かう時とは反対の、西へ舳先を向けた。
朝霧の向こうに、長い海が続いている。
探しに行くのは、海底に沈んだ都市だけではない。
切れた道が、かつて繋がっていた相手をどう記憶しているのか。その答えを探す旅だった。
◇
船は本土の南岸に沿って西へ進んだ。
二日目の夕方には南西端の岬を回り、その翌朝には、岸の山影も見えなくなった。
そこから先は、西へ広がる外海だった。夜もベイルと漁師たちが交代で舵を取り、星と方位器を頼りに船を進めていく。
リュネ諸島が見えたのは、出航から四日目の朝だった。
水平線の上に、緑に覆われた島々が低く連なっている。
島の周囲には白い波が砕け、何羽もの海鳥が船の上を横切っていった。
ベイルは海図と方位器を見比べ、諸島の南側を回って西へ進んだ。
記録にあったのは、リュネ諸島沖というところまでである。島からの距離も、正確な方角も分からない。
昼近くになると、島影はしだいに遠ざかった。
海の色は深くなり、島の近くで見えていた海底の砂や魚影も、やがて青い水の下へ沈んで見えなくなる。
「ここから先だ」
舵を握るベイルの声に、甲板の空気が引き締まった。
アルノは船縁に立ち、何もない海を見つめた。
陽光を受けた波が、細かな光を散らしている。その中に一つだけ、波とは違う光があった。
細く、淡い線だった。
海面の上を斜めに横切り、船の進む先から西へ伸びている。
アルノはその線を追い、船縁に沿って数歩移動した。
「アルノ?」
リネが振り返る。
「僕、この先へ続く線が見えます」
レグルスとアレクシスも、アルノの視線を追った。
けれど二人に見えているのは、陽光にきらめく波だけだった。
「海図で想定した方向とは、ずれています」
レグルスが言う。
「でも、どこかへ繋がってる気がします」
ラウム山脈へ入った時も、そうだった。
登山道とは違う方向へ、アルノにしか見えない線が続いていた。
道は僕が探す。第七星環はアルノが探して。
あの時、エルディオンはそう言って、線を追う役目をアルノへ任せた。
あれから三年、アルノは星環や神代遺跡に残る線を追い続けてきた。
目の前にあるものが何の線なのかは、まだ分からない。
それでも、この先に何かがあることだけは、はっきりと分かった。
ベイルは海図を閉じ、アルノが見つめる方角へ目を向けた。
「その線を追えるか」
「はい」
アルノは光の続く先へ指を向けた。
「少し左へ進んでください」
ベイルの号令で帆の向きが変わり、船は想定していた進路を外れた。
誰の目にも、目印は見えていない。
あるのは、波の輝きへ紛れそうな細い線と、それを見失わずにいるアルノだけだった。
線は幾度も波の陰へ隠れた。そのたびにアルノは甲板を移動し、見える位置からベイルへ進む方向を伝えた。
「もう少し右です。……はい、そのまま」
ベイルは理由を尋ねず、アルノの声に合わせて舵を切った。
エルディオンから役目を任されたあの日と同じように、アルノも線の先から目を離さなかった。
やがて、斜めに伸びていた線が、船のすぐ脇で海面の下へ折れた。
「止めてください」
アルノはその場に膝をつき、海面の奥を覗き込んだ。
淡い線は波にも潮にも流されず、深い青の中へまっすぐ降りている。
「ここです。この真下へ続いています」
ベイルの指示で帆が畳まれ、錨が下ろされた。
太い索が張り、船体が波へ船首を向けたまま留まる。
ベイルは空と海を交互に見た。
風の向き、波の高さ、船を押す潮の力を確かめ、最後に錨索の張りへ手を触れる。
「今なら潜れる」
その一言を待って、アルノは立ち上がった。
目の前の線に、力が流れているようには見えない。
新しく生まれたものでもなかった。
今はもう切れてしまった道の形だけが、長い時間を越えて海へ残っている。
どうして消えずに残ったのかは分からない。
偶然と呼ぶしかないほどの幸運だったのかもしれない。
残っていた線は、見つける者と出会って初めて、進むべき道になった。
「潜る準備をします」
◇
四人は降下用の革帯を腰へ巻き、甲板へ並んだ。
船縁には海面へ続く縄梯子が下ろされている。
漁師たちが周囲の索具を片付け、四人が水へ入るための場所を空けた。
アルノは右手を上げた。
指先が動くたび、青白い線が空中へ残る。
アルノの足元に一つ。リネ、レグルス、アレクシスの足元にも、それぞれ一つずつ。
同じ形の円が四つ、互いに触れないよう間隔を空けて描かれていった。
「Le-Aegis」
スペルが響き、四つの円が同時に輝いた。
青白い光がそれぞれの足元から立ち上がり、四人の身体へ沿って広がっていく。
頭から足先までを包んだのは、肌から手のひら一つ分ほど離れて浮く、薄い透明な膜だった。
一人が腕を動かせば、膜もその動きに合わせて形を変える。
リネが指を開き、身体をひねっても、膜はほかの三人と交わらず、それぞれの身体を包み続けた。
最後に、アルノの左手首から三本の細い光が伸びた。
それは三人の膜を支えるための線ではない。互いの声と、術式の状態だけを伝えるための線だった。
「聞こえる?」
リネが尋ねる。
「聞こえるよ」
「こちらも問題ありません」
レグルスの声も、細い線を通して届いた。
アルノは四つの膜を順に確かめた。
いずれも浅瀬で試した時と同じように安定している。
「行けます」
四人は縄梯子を伝い、順番に海面へ降りた。
アルノの靴が水へ触れる。
海水は透明な膜に沿って分かれ、内側へは一滴も入ってこない。
全員が水面へ揃うと、アルノは船上へ手を上げた。
「行ってきます」
「決めた時間を忘れるな」
ベイルが船縁から四人を見下ろしている。
「海が待ってるうちに、必ず戻ってこい」
「はい」
四人が縄梯子から手を離す。
腰の重りに引かれ、それぞれの身体が海面の下へ沈み始めた。
最初は、水面から差し込む光が足元まで届いていた。
船底の影が頭上にあり、水面は揺れる銀色の膜のように見える。
小さな魚の群れが四人を避け、青い水の中へ消えていった。
沈むにつれて、頭上の船底が輪郭を失う。
明るかった青はゆっくりと濃くなり、やがて紺色へ変わった。
「アルノ、膜は?」
「大丈夫。どれも安定してる」
外から掛かる力が増すたび、膜の表面へ淡い波紋が広がった。
水圧を一点で押し返さず、膜全体へ分散させていく。
Le-Aegisの線は揺らぐことなく、四人を包み続けている。
途中、深い場所を流れる潮が、四人の身体へ横からぶつかった。
リネの身体が押され、繋いだ光の線が斜めに伸びる。
しかし、彼女は無理に潮へ逆らわず、流れが弱まったところで三人のそばへ戻った。
防護膜に乱れはない。
「このくらいなら大丈夫」
リネは光の向こうから手を振った。
アレクシスが周囲を確かめ、四人は互いの距離を縮めて降下を続ける。
やがて、最後の陽光も頭上へ消えた。
深海の闇が、四人を飲み込んだ。
上も下も、前も分からない。
見えるのは、防護膜の外周を巡る青白い線だけだった。
その光さえ届かない先には、底の知れない暗闇が広がっている。
「……アルノ」
リネの声が、光の線を伝って届く。
「うん。光を出す」
アルノは自分の膜へ指先を添えた。
「Le-Luxel」
短いスペルが海の中へ溶けた。
四つの防護膜の縁が淡い白色へ変わり、四人の周囲を照らし始める。
光は数歩先までしか届かない。
その外には、なお深い闇が残っていた。
時折、青白い光を宿した小さな生き物が、闇の向こうへ流れていく。
姿を見られるのは一瞬だけで、その光もすぐに消えた。
それでも、アルノには進む先が見えていた。
海面から追ってきた線が、闇の中をまっすぐ下へ伸びている。
それは防護膜の明かりに照らされて見えるものではない。
水も、闇も、永い時間も越えて、ただアルノの目にだけ届いていた。
四人はその線を辿り、さらに深い場所へ降りていった。
どれほど沈んだのか。
時間の感覚さえ曖昧になり始めた頃、追ってきた線の先に、白い輪郭が現れた。
アルノは下方へ目を凝らした。
「……見えます」
「何が?」
リネが尋ねる。
「線が、壁の魔法陣へ繋がってる」
四人を引く重りの先に、巨大な白い影が現れた。
初めは、闇の中へ浮く細い白い縁にしか見えなかった。
しかし降りるにつれ、その輪郭は左右へ広がり、泥と海藻に覆われた巨大な外壁が姿を現した。
海面からアルノを導いた線は、白い壁の表面に刻まれた神代魔法陣へ繋がっていた。
淡い光は海藻の下を抜け、壁の向こうへ続いている。
アルノは外壁から少し離れた高さで体勢を整えた。
三人も同じ深さで止まり、四人はゆっくりと壁の上へ回り込んだ。
防護膜の淡い光が、壁の内側へ滑り込む。
闇の中から、白い建物の輪郭が浮かび上がった。
崩れた橋。泥に覆われた石畳。屋根を失った建物。
その向こうには、幾つもの白い塔が、深海の闇へ伸びている。
第七星環の壁画で見た街と、まったく同じ姿ではない。
空を流れていた水はなく、陽の光を受けて輝く白い道もなかった。
それでも、壁画の中にあった街の形は、海の底へ確かに残っている。
リネも、レグルスも、アレクシスも、すぐには声を出さなかった。
アルノは、淡い光に浮かぶ街を見つめた。
かつてエルディオンと並んで見上げたのは、この街の壁画だった。
僕も見てみたかった。
そう言った人は、今はここにいない。
けれど、その人へ続く道を探すために、アルノはここまで来た。
細い線は、外壁から街の奥へ、まだ続いている。
「……アウレリア」
アルノの声が、四人を繋ぐ光の中へ落ちた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
更新は19時半時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾
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