凱旋
目を開けたとき、最初に見えたのは、見慣れない木の天井だった。
少しだけ開いた窓から潮風が入り、白いカーテンをゆっくりと揺らしている。
波の音に、港で荷を運ぶ人々の掛け声と、遠くで鳴く海鳥の声が重なっていた。
穏やかな朝だった。
アルノはしばらく天井を見つめ、ぼんやりとしていた意識を少しずつ手繰り寄せた。
身体を起こそうと腕へ力を込めた瞬間、全身へ重い痛みが走る。
「……っ」
腕に力が入らず、身体は寝台へ沈んだままだった。
胸の奥へ意識を向けても、そこにあるはずの魔力はほとんど感じられない。
身体の内側だけが、すっかり抜け落ちてしまったようだった。
邪竜が通った巨大な裂け目。第四星環の地下に残されていた神代魔法陣。
Leによって余分な消費を抑えても、あれほど大きな術式を動かし、二つの世界を結ぶ接続を断つには、それでも足りなかった。
最後には、本当にすべてを使い切ったのだ。
「起きた?」
窓際から声がした。椅子に座っていたリネが本を閉じ、寝台のそばへ歩いてくる。
赤茶色のポニーテールはいつもより少し乱れ、大きな琥珀色の瞳には安堵と、まだ消え切らない心配が浮かんでいた。
「……ここ」
「港町の宿」
短い返事を聞き、アルノは首だけを動かして部屋を見回した。
木造の壁と小さな机。
その向こうにある窓からは漁船の並ぶ港が見え、少し離れた桟橋には王国軍の船も停泊している。
「……どれくらい寝てた?」
「三日」
アルノは灰銀色の瞳を少し見開いた。
「そんなに……」
「魔力枯渇」
リネは一言だけ告げた。責めるような口調ではなかったが、それがかえって、どれほど心配をかけたのかを伝えていた。
「心配かけた?」
「うん。すごく」
即答され、アルノが気まずそうに視線を逸らしたところで、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのはレグルスだった。
淡い金髪はきちんと整えられ、細い銀縁眼鏡の奥にある灰紫色の瞳が、目を覚ましたアルノの様子を確かめる。
「目が覚めましたか」
「うん」
「まずは報告します」
相変わらずの言葉に、リネが呆れたように息を吐いた。
「この人、本当にこういう時も変わらない」
「変える必要がありません」
レグルスは机へ書類を置いた。第四星環では現在も騎士団と魔術師団が安全確認を続けている。
異界エネルギーの流出は止まり、裂け目の跡に再活動の兆候はなく、周囲へ広がっていた侵食も収まり始めているという。
「魔獣は?」
「大幅に減少しました。異界エネルギーの供給を失ったことで、残存個体の活動も鈍っています」
アルノは静かに息を吐いた。
窓の外に広がる海は穏やかで、数日前まで命懸けで渡った場所とは思えないほど、青い光を返している。
「……閉じたんだ」
「はい。完全に」
その言葉だけで十分だった。
レオンが五百年間守り続けた裂け目は、ようやく閉じた。もう、あの場所から異界エネルギーが溢れ出すことはない。
「……よかった」
自然と零れた言葉に、リネの表情がわずかに緩んだ。
「ほんと、そればっか」
「だって、本当にそう思ってるから」
その時、開いた扉の向こうから白い上着が見えた。
アレクシスは整えられた金髪にも白い外套にも乱れを残さず、いつもどおりの姿で部屋へ入ってきた。
「起きたようだな」
「アレクシスさん」
「身体は」
「まだ重いです」
「当然だ。無理はするな」
「はい」
アレクシスは窓の外へ目を向けた。港では漁師たちが船へ網を積み込み、何艘かはすでに沖へ出ている。
「港は平和だ。久しぶりに安心して船が出せると、漁師たちが喜んでいた」
アルノも窓の向こうを見つめた。
黒い霧も、異界の気配もない。そこにあるのは、朝の光を受けて進んでいく一隻の漁船と、いつもの海だった。
その景色が、何より嬉しかった。
◇
その翌朝、アルノは自分の足で宿の外へ出た。
まだ足元には頼りなさが残っていたが、潮の香りを胸いっぱいに吸い込むと、ようやく港へ戻ってきたのだと実感できた。
朝の港では船板を打つ槌の音が響き、魚を詰めた籠が次々と市場へ運ばれている。
「やっと出てきたね。まだ顔色が悪い」
声に顔を向けると、ミラが市場へ荷を運ぶ漁師たちに指示を出しながら、こちらへ歩いてくるところだった。
その隣では、ベイルが岸壁に繋がれた漁船の船体を確かめている。
「ミラさん。ベイルさん」
「三日も眠り続けたんだ。無理するんじゃないよ」
「大丈夫です」
「大丈夫な顔には見えないけどね」
ミラはアルノの顔を覗き込み、確かめるように目を細めた。
隣まで来たベイルは口を挟まず、イオ島がある方角へ視線を戻す。
「霧が消えた」
水平線の向こうには青い空と海が続き、島を隠していた黒い霧は、もうどこにもなかった。
「この人、朝から何度も海を見ては、同じことを言ってるのさ」
「お前だって見てただろ」
「あたしは港の様子を見てたんだよ」
言い返しかけたベイルは、結局何も言わずに口を閉じた。
ミラは勝ち誇るでもなく笑い、もう一度、霧の消えた海へ目を向ける。
「港の連中はみんな気付いてる。長いあいだ見続けた景色が変わったんだからね」
ミラはアルノへ向き直った。
「ありがとね」
「僕は……」
「受け取っときな。港の人間に、礼くらい言わせておくれ」
アルノが答えられずにいると、ベイルもこちらを見た。
「霧が消えても、お前らが帰ってこなきゃ意味がねぇ。よく戻ったな」
その言葉に、アルノは胸の奥が温かくなるのを感じた。
港では子どもたちが走り回り、漁師たちは船の整備を続けている。
宿や食堂からは朝の仕込みをする音が聞こえ、通りには焼いた魚とパンの匂いが漂っていた。
失われずに残った、当たり前の日常だった。
「……ありがとうございます」
アルノが頭を下げると、ミラは明るく笑った。
ベイルも満足そうにうなずき、二人の背後には、穏やかな海と動き始めた港の朝が広がっていた。
◇
その日の夕方、王都から使者が到着した。
王家の紋章を掲げた馬車が宿の前へ止まり、降りてきた使者がアルノたちの前で丁寧に一礼する。
「アルノ・ルーメル様。イオ島での任務について、陛下へ直接ご報告いただきたいとの仰せです。ご体調が整い次第、王都までお越しください」
「承知しました。出立の日が決まり次第、ご連絡いたします」
アレクシスが答えると、使者はあらためて一礼して宿を出ていった。
扉が閉じ、馬車の音が遠ざかってから、レグルスは机に置かれた報告書へ目を落とした。
「正式な報告では、裂け目を閉じた術式についても説明を求められるでしょう。その部分は、あなたからお願いします」
「はい。僕にしか説明できないところもありますから」
その返事に迷いはなかった。
第四星環で何を見つけ、どう考えて術式を動かしたのか。
それを自分の言葉で伝えることも、最後まであの場所に立っていた者の役目だと思えた。
「でも、身体は大丈夫なの?」
リネに顔を覗き込まれ、アルノは自分の手を握ったり開いたりしてみた。
魔力はまだ戻り切っていないものの、昨日までのような力の入らなさはない。
「まだ少し重いけど、馬車なら大丈夫。それに、早く研究室へ戻りたいんだ」
「そっちが本音じゃないでしょうね」
「それだけじゃないよ。第四星環で起きたことは、ちゃんと僕の口から報告したい」
リネはしばらくアルノの顔を見つめ、嘘や無理がないかを確かめるように目を細めた。
それから、ひとまず納得したように頷く。
「出立は明朝とする。ただし、今夜の様子を見て、問題がなければだ」
アレクシスの言葉に、アルノは素直に頷いた。
「はい」
窓の外では、夕日が港を赤く染めていた。
長かったイオ島での戦いは終わったが、アルノの旅はまだ終わっていない。
エルディオンを迎えに行く。
その約束だけは、まだ果たせていなかった。
◇
翌朝、アルノたちは王都へ向けて港町を発った。
馬車は街道を進み、窓の外には畑や川、風に揺れる木々が流れていく。
どれも少し前までは当たり前に見ていた景色だったが、今のアルノには、失われずに残ったものとして映っていた。
向かいではリネが本を読み、レグルスは膝の上へ置いた報告書に目を通している。
アレクシスは窓際に座り、過ぎていく街道へ警戒を向けていた。
誰も無理に話そうとはしなかった。車輪の音と紙をめくる音だけが続く時間は、今のアルノには心地よかった。
昼を過ぎた頃、馬車は王都の城壁へ辿り着いた。
「第四星環調査隊、帰還!」
門番の声とともに重い門が開き、馬車は王都の中へ入っていく。
市場では野菜を売る声が飛び交い、通りを子どもたちが走り、パン屋からは香ばしい匂いが流れてきた。
道行く人々が馬車の中にいるアルノへ気付くことはない。
王都の日常は、彼らの帰還とは関係なく、いつもどおり続いていた。
「よかった」
誰にも聞こえないほどの声で呟き、アルノは窓の向こうを見つめた。
◇
王城の小謁見室には、今回の作戦へ関わった者たちが集められていた。
国王の左右には宰相、騎士団長、魔術師団長、海防局長が並び、その前にアルノたち四人が立っている。大広間で行われる公の式典ではなく、報告を受けるための内々の謁見だった。
国王はアルノを見たあと、集まった者たち全員へ視線を巡らせた。
「まず、報告を受けよう」
レグルスが一歩前へ出て、第四星環へ上陸してからの経緯を話し始めた。
島を覆っていた異界汚染と、地下に残されていた巨大な裂け目。レオンが五百年前に施した封印を解き、神代魔法陣を動かしたこと。
そして最後に、アルノが異界へ伸びていた接続を切り離し、裂け目を完全に閉鎖したこと。
報告は事実に沿って淡々と進み、その場にいる誰も口を挟まなかった。
すべてを聞き終えた国王は、しばらく手元の報告書へ目を落としたあと、ゆっくりと頷いた。
「ご苦労だった。イオ島異界災害は、これをもって終息とする」
室内にいる全員が頭を下げる。国王は壇上から彼らを見渡し、言葉を続けた。
「五百年にわたる危険を退けたことは、王国にとって大きな功績である。調査に加わったすべての者へ、王国を代表して礼を言う」
侍従が銀の盆を運んできた。その上には、王国特別功労章が置かれている。
「アルノ・ルーメル」
「はい」
「裂け目を閉鎖した功績を称え、この章を授与する」
アルノは一歩前へ出て、差し出された勲章を両手で受け取った。
掌に載せると、見た目から想像したよりも重かった。
守れた命や、失われずに済んだ未来まで、その重さの中に含まれているように感じられた。
騎士団長と魔術師団長、宰相たちから拍手が送られる。
大きな歓声はなく、内々の謁見にふさわしい静かなものだったが、そこには確かな敬意が込められていた。
拍手が収まると、国王は調査に加わった者たちへ、あらためて労いの言葉を述べた。
内々の謁見はそれで終わり、アルノたちは揃って礼を取ると、静かに小謁見室を退出した。
◇
その日、イオ島異界災害の終息は、王国の正式な記録へ加えられた。
記されたのは、第四星環で起きたことと、裂け目が閉じるまでの経緯。
そして、調査へ加わった者たちの名だった。その中には、アルノ・ルーメルの名も残されている。
五百年前の英雄と並べて称えられるためではない。
エルディオンとレオンが守り、託したものを受け取った一人の魔術師が、自分の役目を果たした記録として。
◇
その夜、アルノは王都魔術塔の研究室へ戻っていた。
室内は出発した時とほとんど変わっていない。
積み上げられた本と、壁一面に貼られた魔法陣。机の上には計算途中の紙が散らばり、途中まで描かれた帰還魔法陣が、空白を残したまま置かれていた。
アルノは授与された勲章を机の端へ置いた。月明かりを受けた銀の表面が、淡く光を返している。
「……きれいだ」
一度だけ眺めてから、その隣へノートを開いた。
イオ島の裂け目は閉じ、世界へ迫っていた危険の一つは去った。
けれど、アルノが本当に望んでいることは、まだ終わっていない。
脳裏に浮かんだのは、月光を編み込んだような銀髪と、最後に見た深い碧眼だった。
アルノはペンを取り、埋まらない空白を囲む術式線へ視線を戻した。
指先が紙の上を辿り、離れた点と点のあいだに、まだ見つからない一本の道を探していく。
「エルさん」
呼びかける声は、紙を擦るペンの音へ溶けていった。
「もう少しだけ、待っていてください」
王国特別功労章は、机の端で静かに輝いていた。
その隣で、アルノ・ルーメルはいつもと変わらず、エルディオンへ続く魔法陣を描き続けていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
更新は19時半時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




