継ぐ者
砕け散った光の粒が、黒い奔流の中へ呑み込まれていく。
五百年前、レオン・アステリアが世界を守るために築いた封印術式は、その役目を終えるように消えていた。
巨大な傷口を覆っていた蓋が失われ、底の見えない裂け目が剥き出しになっている。
次の瞬間、裂け目が大きく震えた。
空間そのものが軋み、奥底から噴き上がった黒い光が地下空間を染めていく。
五百年間押さえ込まれていた異界エネルギーが、封印を失ったことで一気に溢れ出したのだ。
「何をした!」
魔術師の一人が叫び、周囲からも動揺した声が上がる。
「封印を壊したぞ!」
「止めろ!」
「裂け目が広がる!」
魔術師たちは、アルノがレオンの封印術式を補強するものだと考えていた。
欠けた術式線を修復し、弱くなった封印を強める。
その予想に反して、アルノは封印を補うどころか、自らの手で取り外した。
騎士たちも剣を構え、黒い光の向こうへ目を凝らす。
裂け目の奥には、先ほどまでよりも鮮明になった無数の目が浮かんでいた。
まるで世界の向こう側から身を乗り出し、こちらを覗き込んでいるかのようだった。
誰かが息を呑み、別の誰かが後ずさった。
広がり始めた恐怖が、整えられていた隊列を内側から崩しかける。
「静かにしてください!」
鋭い声が地下空間を裂いた。
声を上げたのはレグルスだった。
普段の淡々とした響きはなく、明確な怒気が含まれている。
異界の光に淡い金髪を揺らし、銀縁眼鏡の奥にある灰紫色の瞳で、騒ぎ立てる魔術師たちをまっすぐに見据えていた。
「黙って見ていてください」
魔術師たちが驚いたように振り返る。
「しかし――」
「アルノさんの邪魔をしないでください」
レグルスは一歩も退かなかった。
背後では異界エネルギーが噴き上がり、足元の石床が絶え間なく震えている。
それでも、その視線には迷いがなかった。
「彼は封印を壊したのではありません」
レグルスは、剥き出しになった裂け目へ視線を移す。
「閉じるために、蓋を外したんです」
魔術師たちは、すぐにはその意味を理解できなかった。
レオンの封印術式は、五百年間世界を守り続けた。
だが、それは裂け目そのものを閉じたのではなく、巨大な傷口へ蓋をすることで、異界エネルギーの流出を押さえ込んでいたにすぎない。
蓋が残っている限り、その下にある傷へ直接触れることはできない。
だから、外すしかなかった。
アルノは背後の騒ぎを振り返らず、裂け目だけを見つめていた。
噴き上がる黒い光が明るい栗色の髪と外套を激しく揺らし、露出した皮膚には焼けるような痛みが走っている。
それでも、大きな灰銀色の瞳は、異界の光に染まり始めた石床から離れなかった。
アルノは床へ右手を置き、深く息を吸った。
レオンの封印が消えた直後から、溢れ出した異界エネルギーが石床を黒く染め始めている。
このまま汚染が広がれば、床に刻まれた神代魔法陣を確認することも、動かすこともできない。
まず、汚染を払う必要があった。
「Le-Purus」
神代スペルへ魔力が重なり、アルノの指先から柔らかな白い光が広がった。
光は石床を這うように進み、表面へ染みつこうとしていた異界の汚染を少しずつ洗い流していく。
黒い汚染が薄れた場所から、石床に刻まれた神代魔法陣の一部が見え始めた。
白い光がさらに広がるにつれ、裂け目の直下の床に刻まれた巨大な魔法陣が、次第に全容を現していく。
それは神代文明によって築かれた、裂け目の維持機構だった。魔法陣の大部分は原形を保っていたが、裂け目に近い一部だけが途切れ、全体へ巡るはずの魔力の流れを止めている。
魔術師たちは、汚染の下から現れた巨大な魔法陣を前に息を呑んだ。
床一面に刻まれた構造はあまりにも複雑で、大部分が原形を保っているにもかかわらず、どこから魔力が入り、どこへ流れるのかさえ読み取れない。
幾重にも重なる円と術式線を追おうとしても、途中で別の構造へ分かれ、やがて同じ場所へ戻ってしまう。
アルノは床いっぱいに現れた魔法陣へ意識を移した。
指先が宙を動き、離れた点と点を結びながら、幾重にも重なる魔力の流れを一つずつ辿っていく。
神代文字へ視線を重ねるたび、刻まれた意味が断片となって頭の中へ流れ込んできた。
神代人は、この魔法陣によって異界との接続を安定させ、向こう側から得た力を施設へ取り込んでいた。
彼らにとって裂け目は、世界へ刻まれた傷であると同時に、利用すべきエネルギーの入口でもあった。
目の前に広がる裂け目は、これまでの星環で見てきたものよりはるかに大きい。
五百年前、邪竜はここを通って異界から現れた。
それでも、アルノが最初に行うことは第二星環の時と同じだった。
神代魔法陣の構造を読み、そこに刻まれたスペルへ魔力を重ねる。
Nodusで各部を繋ぎ、Ordoで流れを整えれば、荒れ狂う裂け目を安定した状態へ戻せる。
アルノの視線が、裂け目に近い一箇所で止まった。
そこで魔力の流れが途切れ、魔法陣全体の繋がりを断っている。
魔法陣を一つの術式へ戻すには、失われた繋がりを結び直さなければならない。
Nodus――結節。
アルノは途切れた箇所に刻まれた神代文字へ指先を触れた。そこから流れ込んでくる意味を受け止め、発音へ自らの魔力を重ねる。
「Le-Nodus」
淡い光が指先から流れ込み、途切れていた術式線を繋いだ。
そこから光が左右へ走り、幾重にも重なる円環へ次々と広がっていく。
長く沈黙していた神代魔法陣が一つの術式として繋がり、地下空間全体へ低い振動が広がった。
同時に、アルノの身体から大量の魔力が引き出された。
Leによって余分な消費を抑えていても、動かしている魔法陣の規模が大きすぎる。
床へ触れている指先から熱が失われ、身体の奥に冷たい空洞が広がっていった。
起動した魔法陣は、裂け目から溢れ出す異界エネルギーを取り込み始めた。
しかし、流れ込む力の向きも量も激しく揺らぎ、床を覆う円環が明滅を繰り返している。
黒い光が導線を逆流するたび、石床を震わせる脈動も大きくなった。
アルノは円環を巡る魔力を追った。
Nodusによって魔法陣は繋がったが、取り込まれた異界エネルギーの流れは、まだ整っていない。
このままでは、裂け目を安定させることはできなかった。
流れを一定の方向へ整えるために必要な意味を、アルノはすでに知っている。
Ordo――秩序。
アルノはその役割を担う神代文字へ指先を移し、刻まれた意味へ自らの魔力を重ねた。
「Le-Ordo」
床に刻まれた魔法陣の光が、一定の方向へ巡り始めた。
裂け目から噴き上がっていた黒い奔流が流れを変え、円環の内側へ沿うように引き込まれていく。
光は床を覆う円環を駆け抜け、そのまま壁の導線を上っていった。
暗い天井にも幾重もの魔法陣が浮かび上がる。
床、壁、天井に刻まれた術式が一つに繋がり、巨大な維持機構が動き始めた。
魔術師たちは、目まぐるしく変化する光を追いながら言葉を失っていた。
アルノが触れた箇所から魔法陣全体へ変化が広がり、暴れていた異界エネルギーを巨大な円環の中へ収めていく。
彼らの知る魔法理論では、その構造の一部さえ読み解くことができなかった。
レグルスは銀縁眼鏡の奥から、空中の裂け目と、その直下の床に刻まれた神代魔法陣を交互に見つめていた。
レオンの封印が覆っていた裂け目を、神代魔法陣が再び制御下へ戻そうとしている。
その巨大な仕組みを動かしているのは、アルノだった。
外側へ広がっていた裂け目の輪郭が、ゆっくりと内側へ引き寄せられていく。
噴き上がる黒い光も弱まり、奥に浮かんでいた無数の目は、狭まる暗闇の向こうへ遠ざかっていった。
やがて、世界へ開いていた傷口が閉じた。
地下空間を揺らしていた脈動が収まり、異界エネルギーの流出も止まる。
裂け目があった場所には、髪の毛ほど細い暗がりだけが残されていた。
それが、神代魔法陣によって管理された接続だった。
向こう側から力が溢れ出すことはなく、周囲の空間も安定している。
アルノが島へ来る前に考えていた裂け目の閉鎖は、ここまでで成功していた。
それでも、アルノは床から手を離さなかった。
魔法陣を巡る流れを確かめていると、細い暗がりの奥へ伸びる魔力の経路が指先へ伝わってきた。
傷口は閉じても、神代魔法陣と異界は今も一本の道で繋がっている。
当面の危険は退いている。
このまま維持機構が動き続ければ、異界エネルギーは制御されたまま保たれる。
かつて神代人が管理していた状態へ戻ったのだ。
けれど、その接続は、この先も残る。
魔法陣に何か起きれば、向こう側の力が世界へ溢れ出す可能性も残されている。
レオンの封印は、その危険を五百年間押さえ込んできた。
アルノは、細く残された暗がりを見つめた。
Nodusで魔法陣を繋ぎ、Ordoで流れを整える。
それが、アルノの知っていた裂け目の閉じ方だった。
その時、グランベルの鉱山で手に入れた神代スペルが胸の奥へ蘇った。
Limes――境界。
国と国を分ける線。世界の端。そして、こちら側と向こう側の境目。
もしかして、二つの世界の境界を定めることができれば、今も残っている接続だけを捉えられるんじゃないだろうか。
アルノは床の魔法陣へ新たな線を加えることなく、起動中の術式を巡る魔力へLimesの意味を重ねた。身体の奥に残る魔力を集め、発音へ注ぎ込んでいく。
「Le-Limes」
発音と同時に、裂け目があった空間へ白い光が走った。
光は空間をなぞり、空中へ薄い境界を描いていく。
神代魔法陣を巡る淡い光はその手前に留まり、境界を越えて異界へ伸びるものだけが、一本の黒い線となって浮かび上がった。
一端は中央の円環へ繋がり、もう一端は白い境界の向こうへ消えている。
これが、神代人の維持機構と異界を結んでいた接続だった。
アルノの灰銀色の瞳が、白い境界と黒い線の交わる一点を捉えた。
ここを断てば、閉じた裂け目の奥に残る繋がりまで切り離せる。
一年前、東の遺跡で見つけた神代スペルが脳裏をよぎった。
Severis――断絶。完全分離。永久切断。
エルディオンを迎えに行く魔法陣には必要のない言葉だと思い、記憶の隅に留めていた。
けれど、境界を越えて残るこの接続へなら、Severisの意味を重ねられる。
できるかもしれない。
アルノは床へついた腕に力を込めた。
すでに多くの魔力を失い、指先の感覚も薄れ始めている。
それでも、白い境界を横切る黒い線だけは鮮明に見えていた。
今度は、Limesによって捉えた黒い接続へ、Severisの意味を重ねる。
境界と接続が交わる一点へ、残る魔力を集中させた。
「Le-Severis」
白い境界を横切っていた黒い接続へ、鋭い光が重なった。
黒い接続がわずかに揺らぐ。白い光が交点へ重なり、黒い線を少しずつ細くしていく。
周囲の者たちは、その変化を見つめたまま息を詰めた。
アルノは床へ片膝をついたまま、接続へ魔力を送り続ける。
腕の震えは肩まで広がり、呼吸も浅くなっていた。
Leによって消費を抑えても、二つの世界を結ぶ接続を永久に断つには、多くの魔力が必要だった。
それでも、アルノの指先は接続を捉え続けた。
エルディオンが救い、レオンが五百年守り続けた世界。
その先の時間を、今度は自分が守る。
白い光が、境界と接続の交点を貫いた。
短く、乾いた音が響く。
黒い接続が、白い境界の上で断ち切られた。
切断された両端は互いから離れるように縮み、一方は中央の円環へ、もう一方は境界の向こうへ消えていく。
白い境界を横切る線は、どこにも残っていなかった。
術式を巡っていた淡い光は、天井から壁、床へと最後の一巡を終え、中央の円環へ戻ってくる。
その先へ伸びる道は、もうなかった。
天井を覆っていた光が薄れ、壁の術式線が上から順に暗くなっていく。
最後に床の円環が淡く明滅し、やがて光を失った。
石床に刻まれた神代魔法陣は残っている。
だが、異界へ伸びていた黒い接続は、Severisによって術式から永久に切り離されていた。
再び魔力を注がれても、失われた接続が戻ることはない。
Limesによって描かれていた白い境界も淡くなり、空中へ溶けるように消えた。
静寂が訪れた。
裂け目があった場所には、歪みも暗闇も残っていない。
神代人は裂け目を維持し、レオンはその傷口へ封印を重ねた。
アルノは二人が残したものを受け取り、異界へ続く道を断った。
世界を守る役目が、アルノへ受け継がれた。
「……終わった」
誰かの呟きが、静まり返った地下空間へ落ちた。声の主を確かめる者はいなかった。
魔術師たちは光を失った神代魔法陣と、何もなくなった空間を、身じろぎもせずに見つめている。
アルノは床へ触れたまま、術式の流れを最後まで追った。
円環の内側に残っていた反応は次第に静まり、中心から先へ伸びる気配は戻ってこない。
すべてを確かめた瞬間、身体から力が抜けた。
床についていた右腕が支えを失い、アルノの身体が前へ傾く。
「アルノ!」
リネが真っ先に駆け寄った。
赤茶色のポニーテールを大きく揺らしながら、倒れかけたアルノの身体を両腕で抱き留める。
三年前より背が伸び、肩幅も広くなった身体の重みが、一気に腕へかかった。
リネはその勢いを受け止めながら片膝をつき、アルノを床へ倒さないよう支えた。
大きな琥珀色の瞳には、隠し切れない不安が浮かんでいる。
アレクシスもすぐに手を伸ばし、二人の身体を支えた。
レグルスはアルノの手首を取り、脈と呼吸を確かめる。顔色は悪く、残された魔力もほとんど感じられなかった。
巨大な神代魔法陣を動かし、異界との接続を永久に断った代償だった。
アルノは薄く目を開けた。霞む視界の中に、心配そうに自分を覗き込むリネの顔が見える。
「……閉じた?」
掠れた声で尋ねると、リネは一瞬だけ唇を噛んだ。
それから不安を押し込めるように、はっきりと頷く。
「閉じたよ。ちゃんと閉じた」
その言葉を聞いたアルノは、わずかに口元を緩めた。
「よかった……」
声とともに、張り詰めていた意識がほどけていく。
遠くで誰かが名前を呼んでいた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
更新は19時半時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




