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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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世界の傷跡

 軍船は速度を落とし、ゆっくりとイオ島へ接岸した。

 黒く濁った海には波が立つたびに粘つくような泡が浮かび、湿った潮風に混じって微かな腐臭が流れてくる。

 黒い霧に覆われた海岸は昼間とは思えないほど薄暗く、一か月前よりも汚染が広がっていることは誰の目にも明らかだった。

 騎士団長が剣を抜き、霧の向こうに広がる島へ切っ先を向ける。


「全軍、上陸!」


 渡し板が下ろされると、騎士団が先頭を切って進み、その後ろへ魔術師団が続いた。

 重い鎧と軍靴が板を踏む音が途切れることなく響き、最後尾からアルノたちも島へ足を踏み入れる。


 誰も言葉を発しなかった。

 一か月前、この島で敗北した者も少なくない。

 裂け目の奥に浮かんでいた無数の目を、一度でも見た者が忘れられるはずがなかった。


 レグルスは地図を開き、海岸から森へ続く道を確認した。

 湿った風に淡い金髪を揺らしながら、銀縁眼鏡の奥にある灰紫色の瞳を進行方向へ向ける。


「第四星環まで徒歩三十分です。」


 地図を閉じたレグルスは、黒い靄に覆われた森を見据えた。


「前回より侵食範囲が広がっています。警戒してください」


 隊列が動き始め、森へ入った瞬間、周囲の空気が変わった。

 海岸よりも湿り気が強く、息をするたびに重いものが肺の奥へ入り込んでくる。

 身体そのものが拒絶しているような感覚に、魔術師の一人が顔をしかめた。


「息苦しい……」


「魔力じゃありません。」


 レグルスが周囲の空気を確かめるように視線を巡らせる。


「異界エネルギーです。」


 その言葉を聞いた騎士たちの足取りが、わずかに慎重になった。

 魔力であれば対処する方法を知っている。

 だが、世界の外側から流れ込むものに対して、彼らが持つ知識はあまりにも少なかった。

 一行は重い空気に耐えながら、森の中を二十分ほど進んだ。

 頭上を覆う枝葉は黒く変色し、地面に落ちた枯れ葉も湿った泥と一体になっている。

 鳥や虫の声は聞こえず、騎士たちの足音と鎧の擦れる音だけが、不自然な静けさの中へ響いていた。


 その時、森の奥から低い唸り声が聞こえた。

 続いて木々が激しく揺れ、何かが枝を折りながら近付いてくる。


「来ます!」


 見張り役の騎士が叫んだ直後、黒い影が木々の間から飛び出した。


 狼だった。いや、狼の姿をした魔獣だった。

 全身を黒い靄に覆われ、異様なほど長く伸びた牙の間から、濁った息を漏らしている。


 一体ではない。

 二体、三体と続き、さらに後方から次々に姿を現した。

 黒い靄を纏った巨体が低く身を沈め、隊列へ向かって一斉に駆け出す。


「迎撃!」


 騎士団長の号令が飛び、騎士たちが剣を抜いた。

 後方にいた魔術師たちも杖を構え、互いの射線を塞がないように間隔を取る。


 一か月前、この魔獣一体を倒すために、魔術師十人がかりで魔法を撃ち込み、ようやく仕留めることができた。

 今回も同じだけの被害を覚悟していた者たちの顔には、隠し切れない緊張が浮かんでいる。


 その前へ、一人の男が進み出た。


 元聖騎士団第一位、《白銀剣》アレクシス・ヴァン・アークライト。

 陽光を思わせる金髪の下で澄んだ蒼眼が魔獣を捉え、鞘から白銀剣が静かに抜かれた。


 次の瞬間、白い軌跡が森を走った。

 一閃。


 先頭の魔獣が横一文字に断たれ、地面へ倒れ込む。

 アレクシスは足を止めることなく踏み込み、返す刃で二体目を斬り上げ、そのまま身体をひねって三体目の急所を貫いた。


 魔獣は反応すらできなかった。

 ただ速いのではない。

 一太刀ごとに急所だけを正確に斬り裂き、次の敵へ移るまでの動きにも一切の無駄がなかった。


「前へ!」


 短い号令に、呆然としていた騎士たちが我に返る。


「続け!」


「道を開け!」


 アレクシスが切り開いた隙間へ騎士たちが踏み込み、止まりかけていた隊列が再び動き始めた。

 先ほどまで押されていた士気が、一気に戻っていく。


 その横では、リネが魔獣の群れへ飛び込んでいた。

 赤茶色のポニーテールが炎のように翻り、大きな琥珀色の瞳が正面から迫る一体の動きを捉える。

 踏み込みと同時に放たれた拳が魔獣の腹へめり込み、巨体が宙を舞った。

 岩へ叩き付けられた魔獣へ追撃の蹴りを放ち、さらに後ろから飛び掛かった一体を裏拳で吹き飛ばす。魔獣たちは木々をなぎ倒しながら地面を転がり、そのまま動かなくなった。


 騎士たちは目を見開き、剣を構えたままリネの動きを追っていた。


「拳だけで……」


「なんだ、あの二人は……」


 魔術師たちも言葉を失っていた。

 自分たちが総力を挙げても苦戦した魔獣が、まるで訓練用の木人のように次々と倒されていく。


 その間、アルノは一歩も動かなかった。

 明るい栗色の髪を黒い風に揺らしながら、戦況を見守る灰銀色の瞳には焦りがない。

 魔獣の群れを押し返したリネが、アルノを振り返る。


「アルノ。」


 念を押すような視線が、アルノへ向けられた。


「魔法は禁止。」


「裂け目を閉じる方が先だから。」


「うん。」


 アルノは素直に頷いた。


 Leによって魔力消費は劇的に減った。

 それでも、今回閉じる裂け目は、これまでに見てきたものとは比べものにならない。

 邪竜が通り抜けた巨大な裂け目を閉じるために、どれほどの魔力を奪われるのか、自分にも予測できなかった。

 ここで使うわけにはいかない。


 戦闘は十分ほどで終わった。

 最後の一体がアレクシスの剣に倒れ、森に張り詰めていた唸り声が消えていく。

 騎士団長が周囲を確認し、剣を収めた。


「負傷者を確認!」


「隊列を整えろ!」


 幸い死者はなく、負傷した者も数名の軽傷者だけだった。

 これほどの戦力差を見せつけられた騎士たちは、改めてアレクシスとリネへ視線を向ける。

 この二人がいるだけで、同じ魔獣を相手にした戦いがここまで変わるのかという驚きを、隠し切れていなかった。

 負傷者の確認を終えると、レグルスが森の先を指し示した。


「第四星環まで、あと十分。」


「急ぎましょう。」


 一行は隊列を整え、再び歩き始めた。

 やがて頭上を覆っていた木々が途切れ、重なり合っていた枝葉の向こうに暗い空が開ける。

 その先に現れたものを見て、全員が足を止めた。


 第四星環だった。


 そこに立つ石塔は、第一星環や第二星環で見たものよりも、はるかに高い。

 黒ずんだ塔身が島を覆う霧を貫き、光の届かない空へそびえていた。

 異常の中心にありながら、五百年もの間、崩れずに残ってきた塔だった。

 表面には無数の亀裂と黒い侵食痕が走り、長い歳月が刻んだ傷跡が壁面を覆っている。

 それでも塔はわずかにも傾かず、今なおその姿を保っていた。


「……これが」


 一か月前の調査には参加しなかった若い魔術師が、塔を見上げたまま息を呑む。


「第四星環……」


 アルノも黙って塔を見上げていた。

 前回来た時よりも黒い靄が濃く、塔の壁面から漏れ出す異界エネルギーは、風に揺れる煙のように目で追えるほどだった。


「汚染が進行しています」


 レグルスが塔の表面を見上げ、周囲を満たす濃度を確かめる。


「前回調査時より、明らかに濃度が上昇しています」


 騎士団長が短く頷き、巨大な入口へ視線を移した。


「急ぐぞ」


 一行は塔の入口へ向かった。


 巨大な石扉は、すでに開いていた。足元には複雑な現代魔法陣の跡が残り、いくつもの術式線が扉の周囲から床へ伸びている。


 魔術師団長がその前で足を止めた。


「……これが」


「先遣隊が解除した封鎖術式です」


 一か月前、王国中から集められた魔術師たちが、一週間をかけて解除した術式だった。

 床には無数の書き換え跡が刻まれ、砕けた魔力結晶の欠片が今も散らばっている。

 削られた術式線の深さを見るだけでも、この封鎖術式がどれほど強固だったのかが伝わってきた。


「入る」


 騎士団長が先頭へ立ち、開いた扉の奥へ踏み込んだ。


 内部には暗い通路が続いていた。

 魔術師たちの杖先に灯された光が、神代文明特有の精緻な石細工を淡く照らし出す。

 かつては美しかったはずの壁面の彫刻も、今では黒い侵食に覆われ始めていた。


 通路の先にある階段を、一行は慎重に下っていく。

 一段、また一段と地下へ進むたびに空気が重くなり、呼吸も次第に浅くなった。

 胸の内側を押さえつけられるような違和感に、魔術師の一人が額へ浮かんだ汗を拭う。


 三年前、この階段を下りた時には、エルディオンもそばにいた。

 腰まで届く銀髪と深い碧眼を持つ師の姿が一瞬だけ脳裏に浮かんだが、アルノは足を止めることなく暗がりの先へ視線を戻した。


「こんな場所から……」


 魔術師が黒く侵食された壁を見つめ、かすれた声を漏らす。


「五百年前、邪竜は出てきたというのか……」


 誰も答えなかった。

 答えは、この先にある。


 長い階段を下り切ると、杖先の光だけでは端まで照らせないほど広大な地下空間が姿を現した。

 天井は闇に沈んで見えず、足音を立てるたびに幾重もの反響が返ってくる。


 その中央に、世界へ開いた巨大な傷口があった。

 裂け目だった。


 第一星環や第二星環で見てきた、どの裂け目とも比べものにならない。

 邪竜が通り抜けたその場所は、世界そのものを無理やり引き裂いた傷跡のように暗く、深く、底を見通すことができなかった。

 裂け目の周囲には、無数の魔法陣が広がっている。

 幾重にも重なり合った術式が巨大な傷口を包み込み、今も淡い光を絶え間なく巡らせていた。


 五百年前、レオン・アステリアが築いた封印術式。

 世界を守り続けた、巨大な蓋だった。


 アルノは大きな灰銀色の瞳を見開き、幾重にも重なった術式線を追った。

 前回も同じものを見て驚いた。

 それでも、目の前に広がる構造を前にすれば、胸の奥から漏れた言葉は一つしかなかった。


「……すごい」


 これほど巨大な術式を、レオンは一人で組み上げた。

 しかも五百年間、完全に崩壊することなく、この世界を守り続けてきた。

 だが、術式の一部へ辿り着いたところで、アルノの視線が止まった。


「あ……」


 ほんのわずかに、一本の術式線が失われている。

 欠損した場所からは黒いものが垂れ落ち、魔法陣へ染み込んでいた。


 異界エネルギーだった。


「やっぱり……」


 レグルスも欠損へ気付き、銀縁眼鏡の奥にある灰紫色の瞳を細めた。


「封印術式が耐え切れなかったのか」


 アルノは術式線から目を離さないまま、ゆっくりと首を振った。


「違う」


「え?」


「レオンさんの魔法陣は、まだ世界を守ってる」


「でも」


 アルノは裂け目を見つめた。

 五百年という時間を越えて巡り続ける光が、欠けた術式線の周囲で弱く明滅している。


「五百年は……長すぎた」


 その時、裂け目の奥で暗闇が揺れた。


 何かが動いた。


「な……」


 魔術師の一人が声を漏らす。

 闇の奥に、目が浮かんでいた。

 一つでも、二つでもない。無数の目が暗闇を埋め尽くし、瞬きもせずにこちらを見つめている。

 裂け目の向こう側から、こちらの世界を覗き込むように。


 騎士の一人が、無意識に一歩後ずさった。


「なんだ……あれは……」


 魔術師たちの顔から血の気が引いていく。

 一か月前、彼らがこの場所で味わった恐怖が、再び目の前へ現れていた。


 アルノは一歩前へ出た。

 誰も止めなかった。

 いや、裂け目と封印術式を見つめるアルノの背中に、声をかけることさえできなかった。


 ゆっくりとレオンの魔法陣へ手を伸ばし、指先を一本の術式線へ触れさせる。

 五百年の間、途切れることなく世界を守り続けてきた光が、指先へ淡く伝わってきた。

 アルノは小さく微笑んだ。


「レオンさん」


 誰にも聞こえないほど小さな声だった。


「五百年間」


「ずっと守ってくれて」


「ありがとうございました」


 アルノは目を閉じ、指先に伝わる光を受け止めた。


「ここからは」


 目を開いたアルノの灰銀色の瞳が、淡い光を映して銀色へ変わる。


「僕が守ります」


 指先が動き、一本の術式線を書き換えた。


 パリン――。


 澄んだ音が地下空間へ響き、巨大な魔法陣に無数の亀裂が走った。

 五百年間、裂け目を覆い続けた光は、役目を終えたように静かに砕け散っていく。


 淡い光の欠片が消えたあとには、底の見えない暗闇だけが残った。


 次の瞬間、裂け目から膨大な異界エネルギーが噴き上がった。

 黒い奔流が地下空間を満たし、足元の石床が激しく震える。


 五百年ものあいだ閉ざされていた世界の傷跡が、今、剥き出しになった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

更新は19時半時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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