死の海を浄める
港町が朝靄の向こうへ消えてから一時間ほど、軍船は穏やかな海を進んでいた。
海防局の先導船を含む三隻の軍船が互いを守るように隊列を組み、その後方を二隻の補給船が続いている。
帆が一定の風を受け、五隻の船は船体を軋ませながら南西へ進んでいた。
イオ島までは、およそ半日。
遠い場所ではない。
対岸から島影が見える日もあるほど近いからこそ、その汚染が本土へ届いてしまった。
アルノは船べりに立ち、海を見つめていた。
潮風が肩にかかる栗色の髪を揺らし、陽光を受けた灰銀色の瞳に波の光が映り込む。
この海を渡るのは、三年ぶりだった。
あの時は小さな漁船に四人だけで乗り、ベイルの操船で死の島へ向かった。
今は五隻もの船に騎士と魔術師が乗り込み、王国を挙げた遠征になっている。
それでも、胸の奥にある不安は消えなかった。
レグルスは甲板に固定した計測器の前へ立ち、一定の間隔で海中の魔力濃度を記録していた。
淡い金髪が風になびき、銀縁眼鏡の奥にある灰紫色の瞳が、揺れ続ける針を追っている。
「すでに平常値を上回っています。ただし、現時点では航行に支障が出る濃度ではありません」
「ここからもう、平常値を超えてるの?」
「汚染は対岸まで到達しています。この数値は想定範囲内です。ただし、深い場所までは測定できません」
レグルスは断定せず、薄く濁った海面と計測器を交互に確認した。
ベイルが出航前に告げた、海の黒さが増したら気を付けろという言葉も、手帳の端に記されている。
リネは赤茶色のポニーテールを風に揺らしながら、船縁から身を乗り出さない程度に海を覗き込んでいた。
アレクシスは船首近くに立ち、僚船との距離を確かめている。
磨き上げられた白銀の鎧には潮の粒が付着し始めていたが、今はそれを気にする様子もなかった。
出航から二時間ほどが過ぎた頃、計測器の針が大きく跳ねた。
海面に混じっていた濁りが急速に濃くなり、海流に沿って幾筋もの黒い線を描き始める。
潮の匂いに、鉄錆のような刺激と腐った海藻に似た臭気が混ざった。
風を吸い込んだ魔術師たちが顔をしかめ、騎士たちも外套の襟で口元を覆う。
「魔力濃度の上昇幅が大きくなっています」
レグルスが計測器を見たまま告げた。
「もう?」
「はい。先ほどまでより、針の動きが速くなっています」
針は小刻みに揺れながら、先ほどの値をさらに上回っていく。
まだ危険域には達していないが、軍船が進むほど数値は確実に高くなっていた。
アルノは黒い筋の流れを目で追った。
一本ではない。
いくつもの流れが深い場所から浮かび上がり、波に混ざって本土の方角へ伸びている。
三年前にこの海を渡った時、ここまで本土に近い場所で黒い流れは見なかった。
汚染海域は、確実に広がっている。
あの流れが対岸まで届き、港町から人を追い出したのだ。
船が進むにつれ、海に混じる黒い筋は次第に数を増していった。
波頭には黒ずんだ泡がまとわりつき、船体へぶつかってもなかなか消えない。
海防局の兵士が旗を上げ、後続の船へ警戒態勢への移行を伝えた。
各船の魔術師たちは持ち場につき、甲板に組まれた連結術式へ魔力を流し始める。
淡い光が床を走り、固定された魔力石を順番に繋いでいく。
前回の調査で護衛船が大破したことを受け、今回は魚型魔獣の群れに対抗する広範囲攻撃術式が用意されていた。
その時、見張り台から切迫した声が落ちてきた。
「右舷前方、海面下に反応!」
甲板の空気が一変した。
騎士たちが船縁へ集まり、魔術師たちが一斉に杖を構える。
黒く濁った海面の下を、巨大な影が横切った。
一つではない。
同じ方向から十を超える影が現れ、密集したまま軍船へ向かってくる。
波を切る黒い背びれは、人の背丈ほどもあった。
「魚型魔獣!」
前回の遠征にも参加していた海防局の兵士が叫ぶ。
「前回と同種! 数、二十以上!」
報告を受けた魔術師団の指揮官が、杖を甲板へ突き立てた。
「連結術式、第三段階まで展開! 各船、座標を同期しろ!」
五隻の甲板に魔法陣が浮かび上がる。
炎と雷、氷槍の術式が接続され、魔力石を介して一つの大きな攻撃陣へ組み上げられていく。
「対象、右舷前方!」
「座標固定!」
「駄目です! 速すぎます!」
魚型魔獣は海面のすぐ下で進路を変え、魔術師たちの観測を振り切っていく。
固定しようとするたびに座標がずれ、完成しかけた術式の光が不安定に明滅した。
前回も同じだった。
一体へ攻撃を当てるために何度も座標を修正し、ようやく捕捉した時には船のすぐそばまで接近されていた。
十人の魔術師が魔力を重ねても一撃では倒せず、海へ潜られれば追撃もできなかった。
「右舷、来ます!」
海面が大きく盛り上がった。
黒い水を押しのけ、魚型魔獣が空中へ飛び出す。
鮫に似た巨体は分厚い鱗に覆われ、人間を丸呑みにできるほど大きな口には、無数の牙が並んでいた。
まだ連結術式は完成していない。
アレクシスが白銀剣を抜き、船縁へ踏み込む。リネも甲板を蹴ろうと身構えたが、海上では二人の攻撃が届く範囲にも限界がある。
その横を、アルノが前へ出た。
「アルノ」
リネが呼ぶと、アルノは迫る魔獣から目を離さずに答えた。
「大丈夫」
右手を上げ、指先で空間をなぞる。
風の流れ。軍船との距離。海面下を進む魔獣の位置。
すべてを一つの線へ重ねる。
「……Le-Ventus」
声は、海風に紛れるほど穏やかだった。
次の瞬間、アルノの前から音が消えた。
空気が一本の線へ圧縮され、飛び上がった魚型魔獣の身体を通り抜ける。
巨体はアルノたちへ届く前に二つへ分かれ、そのまま海面へ落下した。
だが、風の刃はそこで止まらなかった。
海面を切り裂きながら右舷前方へ走り、群れの中心を一息に貫いていく。
水中にいた黒い影が、風の線に触れた端から次々と動きを止めた。
一体、二体という数ではない。
密集して迫っていた魚型魔獣の群れが、一本の線に沿って断ち切られていく。
最後の影を通り過ぎたところで風が消え、一拍遅れて海面が弾けた。
切り開かれた水が高く噴き上がり、大量の飛沫となって甲板へ降り注ぐ。
誰も動かなかった。
騎士たちは剣を構えたまま、魔術師たちは杖を掲げたまま止まっている。
五隻の甲板に展開された連結術式だけが、行き場を失った光を明滅させていた。
やがて、魚型魔獣の残骸が一体ずつ海面へ浮かび上がる。
「……終わったのか?」
騎士の一人が呟いた。
「全部……一撃で?」
前回の遠征に参加していた魔術師は、信じられないものを見るように海を凝視していた。
「あれは、一体倒すだけでも十人がかりだったんだぞ」
「詠唱も、ほとんどなかった」
「今のは本当に風魔法なのか?」
誰も答えられない。
アルノが使ったものは、確かに風魔法だった。
だが、魔術師たちが知っている風魔法とは、魔力の使われ方も威力もまるで違っていた。
大量の魔力を注ぎ込み、力任せに風を起こしたのではない。
アルノが使ったものは、確かに風魔法だった。
だが、魔術師たちが知るそれとは、あまりにも威力が違っていた。
アルノ本人だけが、周囲の反応に気付いていなかった。
灰銀色の瞳は、倒した魔獣ではなく、その周囲に広がる海へ向けられている。
魔獣の残骸から黒いものが滲み出し、もともとの汚染と混ざって海面をさらに濁らせていた。
「魔力濃度、上昇しています」
レグルスが計測器を確認する。
「魚型魔獣の体内に蓄積されていた魔力が、海中へ流出しているようです」
脅威を排除しても、汚染は残る。
それどころか、倒した魔獣から流れ出す魔力によって、軍船の周囲だけが急激に濃くなっていた。
このまま進めば、船底の防護術式にも影響が出る可能性がある。
アルノは船べりへ手を置き、海流を見つめた。
黒い汚染は無秩序に広がっているように見える。
けれど、波の下には流れがあり、魔力もまた、その流れに沿って移動していた。
「アルノ、まだ使うの?」
リネが隣へ駆け寄った。
「このままだと、船の術式が汚染されるかもしれない」
「でも、裂け目を閉じる魔力は残しておかないと」
「分かってる。必要な範囲だけにするよ」
アルノは海へ意識を戻し、海面へ手をかざした。
「Le-Purus」
発音と同時に、柔らかな白い光が指先からこぼれ、波へ触れた。
光はそのまま水中へ沈み、船底の下から大きく広がった。
やがて五隻の船を包み込み、黒く濁った海を白く照らしていく。
光が届いた場所から黒い濁りが薄れ、海本来の青が戻り始めた。
波頭に残っていた濁った泡が消え、鉄錆に似た臭気も薄れていく。
魚型魔獣の残骸から流れ出していた黒い魔力も、白い光に触れた端から跡形もなく消えていった。
浄化の光は軍船の周囲だけに留まらず、船が進む先へ向かって広がっていく。
黒く濁った海の中に幅のある青い帯が生まれ、五隻の船は本来の色を取り戻した海を進んだ。
リネは何も言わず、その光景を見つめていた。
三年前、森でPurusを使った時は、黒変した木を一本ずつ浄化していた。
それが今では、五隻の船とその先に広がる海を一度に浄化している。
「魔力濃度が低下しています」
レグルスの声には、珍しく驚きが混じっていた。
「軍船周辺は、平常値に近いところまで戻っています」
その報告とほぼ同時に、海中を満たしていた白い光が薄れ始めた。
浄化を終えた場所から静かに消えていき、あとには海本来の青さだけが残る。
アルノの顔色は変わらず、足元もしっかりしていた。
リネはそれを確かめて安堵したが、すぐに表情を引き締める。
「今のは仕方ないけど」
アルノへ人差し指を向けた。
「上陸したら、裂け目を閉じる時まで魔法は禁止ね。そっちが優先だから」
アルノは素直に頷いた。
「うん」
アレクシスが白銀剣を鞘へ収め、二人のやり取りを見て口元を緩めた。
「相変わらず、アルノには甘いのですね」
「甘くないよ」
リネは即答した
「一番大事なところで魔力切れになられたら困るだけ」
「ごもっともです」
アレクシスが頷く一方、周囲の騎士や魔術師たちはまだ言葉を失っていた。
広がった浄化の光にも目を奪われていたが、それ以上に、先ほどの攻撃魔法が理解できないらしい。
一人の魔術師が、かすれた声で呟いた。
「伝説の魔術師の弟子……」
その言葉が甲板へ落ちる。
誰も否定しなかった。
アルノ本人は、その囁きにも気付かず海を見つめていた。
浄化した範囲の外側には、まだ黒い海が広がっている。
白い光が届かなかった場所から汚染が流れ込み、青さを取り戻した水との境界を少しずつ侵食し始めていた。
Le-Purusで軍船の周囲を浄化することはできた。
けれど、海全体を元へ戻すことはできない。
死の島から汚染が流れ続けている限り、どれだけ浄化しても、やがて再び黒く染まってしまう。
根を断たなければならない。
第四星環に残された裂け目を閉じ、汚染の流出そのものを止める。
アルノが海の先へ目を向けると、水平線の一部が暗く霞んでいた。
◇
出航から半日が過ぎる頃、空の色が変わり始めた。
太陽はまだ高い位置にある。
それにもかかわらず、進行方向だけが夕暮れのように暗い。
初めは雨雲にも見えた。
だが、軍船が近付くにつれて、それが海面から立ち上る黒い霧だと分かった。
霧は海の上へ低く垂れ込め、周囲の光を吸い込むように広がっている。
風を受けても流れず、同じ場所へ留まり続けていた。
その奥に、島影が見えた。
イオ島。
五百年前、邪竜が現れた場所。
第四星環と、今も閉じきらない裂け目が残されている島。
軍船の誰もが、黒い霧の向こうを見つめていた。
初めて来た騎士たちは口を閉ざし、魔術師たちも杖を握る手へ力を込めている。
前回の遠征でここまで辿り着いた者たちは、あの日の記憶が蘇ったのか、さらに顔色を悪くしていた。
アルノは船首から島影を見つめた。
三年前は、腰まで届く銀髪がすぐそばで風に揺れていた。
今、エルディオンはいない。
あの時は閉じられなかった裂け目を、今度こそ閉じる。
リネが隣へ立ち、黒い霧を見据えた。
アレクシスも船首へ進み、レグルスは最後の数値を書き留めて手帳を閉じた。
五隻の船は速度を落とし、互いの距離を保ちながら死の島を覆う霧へ近付いていった。
死の島は。
静かに、彼らを待っていた。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




