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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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牢獄より死地へ

 国王たちが去ったあと、アルノの釈放手続きはすぐに始められた。

 拘束を示す書類から封印が外され、牢内の魔法を封じていた術式も完全に停止する。

 冷たい石床を満たしていた淡い光が消えると、地下牢はただの何もない部屋へ戻った。


 アルノは開かれた石扉の前で一度だけ足を止め、それから明るい廊下へ踏み出した。

 久しぶりに触れた外の空気が、肩にかかるまで伸びた明るい栗色の髪をわずかに揺らす。


「外だ……」


「一か月ぶり」


 待っていたリネが隣へ並ぶ。

 高い位置で結んだ赤茶色のポニーテールが弾み、アルノを見上げる琥珀色の瞳には、安堵と呆れが入り混じっていた。


「そんなに経ってたんだ」


「研究以外は記憶に残ってなかったみたいだね」


「……否定できない」


 紙もペンもない地下牢で、アルノは頭の中だけを使って魔法陣を組み続けていた。

 接続、境界、観測、空間、距離。何度崩れても線を引き直していたため、閉じ込められていた時間の長さに実感がなかった。

 レグルスは淡い金髪の下からアルノの顔色を確かめ、丸みのある銀縁眼鏡の奥にある灰紫色の瞳を細めた。


「少なくとも、いつものアルノさんです」


 レグルスが淡々と告げると、アルノは困ったように笑った。

 リネはそんなアルノの顔色を確かめ、何も言わずに隣へ並ぶ。


「行きましょう」


 レグルスが廊下の先へ目を向けた。


「王前会議室で、正式な作戦説明があります」


 アルノは頷き、もう一度だけ牢の中を振り返った。

 石床には、指先で何度もなぞった魔法陣の線が薄く残っている。


 アルノはその跡から視線を離すと、リネとレグルスとともに地下拘束区画をあとにした。


 ◇


 王前会議室には、第二次死の島遠征に関わる各部門の責任者が集められていた。

 国王と宰相を中心に、王国騎士団長、魔術管理局統括管理官、海防局の代表が席に着いている。

 反対側には再編成された魔術師団の幹部が並び、机の上にはイオ島周辺の海図と、前回の遠征記録が広げられていた。


 ただし、以前この場にいた魔術塔最高統制官ガルディア・ノルヴェンの姿はない。


 現在は職務を停止され、アルノの拘束にどこまで関わっていたのか調査を受けている。

 魔術管理局へ情報提供書を提出した魔術師についても、宰相の指示で事情聴取が続けられていた。


 アルノはその件について詳しく尋ねなかった。

 調査は宰相たちに任せ、今は自分にしかできないことを考えるべきだった。


 イオ島。死の島と呼ばれる、第四星環の眠る場所。


 前回の遠征隊は、魚型魔獣の群れに襲われながらも汚染海域を突破し、島への上陸を果たした。

 一体を倒すだけでも十人の魔術師を要し、複数の船が損傷するほどの被害を受けたが、第四星環までは到達している。


 しかし、魔術塔の魔術師たちは神代魔法陣を解読できず、封鎖術式へ干渉することもできなかった。汚染と魔獣の襲撃が激しさを増す中、遠征隊は汚染を止められないまま撤退を余儀なくされた。


 すでに対岸へ達していた汚染は、その後も濃度と範囲を増していた。

 沿岸の森では魔獣が相次いで出現し、港町の住民はすでに内陸への避難を終えている。

 かつて賑わっていた町から人が消えた。それでも汚染は止まらず、今も少しずつ内陸へ広がっていた。


 国王が席を立つと、室内の話し声が途絶えた。


「第二次死の島遠征隊を編成する」


 低く響いた声には、前回と同じ失敗を許さないという決意が込められていた。

 だが、並んだ騎士や魔術師たちの顔から不安が消えることはない。

 死の島という名が、今は以前よりもはっきりした恐怖を伴っている。

 実際に海域へ入り、負傷して戻った者も、この会議室にはいた。


 騎士団長が立ち上がり、海図の上へ手を置いた。


「騎士団より再編成部隊を出す。前回遠征の参加者を中心に、海上戦と上陸戦の双方へ対応できる者を選抜している」


 前回と同じ方法では、島へ辿り着くことすらできない。

 騎士団は船上での防衛を重視し、魔獣が船へ接近した場合に備えて隊列を組み直していた。


 続いて、魔術師団の代理責任者が立ち上がる。

 机に置かれた遠征記録へ目を落とした顔には、隠しきれない緊張があった。


「魔術師団からも、遠距離支援部隊を同行させます。前回は個体ごとの撃破に魔力を割きすぎたため、今回は各船の術式を連結し、広範囲への同時攻撃を行います」


 それでも、魚型魔獣の群れを突破できる保証はない。

 対策を重ねても、汚染された海域で何が起きるかまでは予測できなかった。

 国王は報告を聞き終えると、会議室の端に立つアルノへ目を向けた。


「そして」


 集まっていた全員の視線が、アルノへ集中する。


「裂け目封鎖は、アルノ・ルーメルへ一任する」


 会議室に沈黙が落ちた。


 アルノは灰銀色の瞳を伏せず、国王を見返した。

 年齢も、体格も、並んだ騎士や魔術師たちには及ばない。

 王国の上位魔術師でもなく、戦場で名を上げたこともない。

 彼らの目に映っているのは、十八歳の若い研究者にすぎなかった。


「アルノ・ルーメル」


「はい」


「君に命じる」


 国王の声が、張り詰めた会議室へ響く。


「イオ島に残る裂け目を封鎖せよ」


 命令という形を取っていても、決断はすでにアルノ自身が下していた。

 誰かに強制されたからではなく、エルディオンが救った世界を守るために行くと決めた。

 五百年前、邪竜が通った裂け目。

 レオンが遺した術式によって封じられ、今も死の島の地下に残り続けているもの。

 それを今度こそ、正常な状態へ戻す。


「承知しました」


 アルノは迷わず答えた。


「やります」


 国王が深く頷く。


 しかし、アルノの返答を聞いても、周囲に漂う不安までは消えなかった。

 魔術師団の席から、抑えた声が漏れる。


「あの若さで?」


「神代魔法陣を?」


「本当に封鎖できるのか」


「前回、我々でも干渉できなかったのに」


 言葉を聞きつけたリネの琥珀色の瞳が鋭くなる。

 何かを言い返そうとした気配に気付き、アルノはそっと片手を上げて制した。

 疑われることには慣れている。

 ここで言葉を重ねても、実際に成し遂げるまでは信じてもらえないことも分かっていた。


 その時、会議室の壁際から一人の男が前へ出た。

 王国最強と謳われた元聖騎士団第一位、《白銀剣》アレクシス・ヴァン・アークライト。


 白銀の鎧を纏った長身の騎士が進み出ると、囁いていた魔術師たちが口を閉ざした。


「私も同行する」


 短い宣言に、今度は騎士たちの間からどよめきが起こる。


「アレクシス卿が……?」


「本当に死の島へ?」


 騎士団を離れたあとも、《白銀剣》の名が持つ重みは変わっていない。

 誰もが恐れる死の島へ、王国最強の騎士が自ら向かうという事実は、それだけで場の空気を変えた。

 アレクシスは周囲の声に構わず、アルノの隣へ立つ。


「アルノは裂け目を閉じる」


 澄んだ蒼眼が、集まった騎士たちを見渡した。


「その間、私は剣を振るう」


 簡潔な言葉だった。だが、それだけで十分だった。

 アルノが裂け目へ辿り着くまでの道を、白銀剣が切り開く。

 その意味を理解した騎士団長が、力強く頷いた。


「騎士団はアルノ殿が裂け目へ辿り着くまでの道を切り開く!」


「はっ!」


 騎士たちの声が揃い、会議室の空気を震わせた。

 先ほどまで消えなかった恐怖が、戦うための緊張へ変わっていく。

 国王はその様子を見届けると、海図に記されたイオ島へ目を落とした。


「死の島の汚染を止める」


 海を挟んだ対岸には、人の消えた港町と、捨てざるを得なかった暮らしが残されている。


「これ以上、汚染の拡大を許すわけにはいかん」


 その言葉に、集まった者たちが一斉に頭を下げた。


 第二次死の島遠征隊。

 王国はもう一度、あの島へ向かう。

 今度こそ、裂け目を閉じるために。


 ◇


 出発は翌朝と決まった。


 イオ島の対岸にある港町は、以前とはまるで違う場所になっていた。

 通りに面した店はすべて鎧戸を下ろし、家々の扉には避難済みであることを示す札が掛けられている。


 かつては朝早くから漁師たちの声が飛び交い、荷車が石畳を行き交っていた。

 今は軍靴と荷を運ぶ車輪の音だけが、誰もいない町へ乾いて響いている。


 岸壁には軍船が三隻と補給船が二隻並んでいた。

 前回よりも少ない船を補うため、海防局の兵士たちは船体の防護術式を入念に確認し、騎士たちも武器や食料を休む間もなく運び込んでいる。


 魔術師団は各船の甲板に魔力石を配置し、遠距離攻撃用の魔法陣を接続していた。

 前回、一体の魚型魔獣を相手に十人がかりとなった失敗を繰り返さないため、複数の術式を一度に発動できるよう準備が進められている。


 アルノは桟橋へ向かいながら、人気の消えた町を見渡した。

 三年前に訪れた時とは何もかもが違う。

 潮と魚の匂いに混じっていた料理屋の香りも、窓から聞こえていた人々の笑い声もない。


 三年前、この港で、エルディオンと並んで海を眺めながら話したことを思い出す。

 月光を編み込んだような長い銀髪を潮風に揺らし、深い碧眼でこちらを見て、難しいことなど何一つないように笑っていた。


 今、その場所には誰もいない。


「アルノ」


 呼ばれて振り向くと、リネが荷物を肩へ掛け直していた。

 空になった通りを見つめていたアルノの気持ちを察したのか、それ以上は何も聞かず、隣へ並んで歩き出す。

 少し後ろでは、レグルスが海防局から受け取った資料と、港に残された潮流記録を見比べている。

 アレクシスは乗船予定の軍船を確認し、騎士団長と護衛配置について話していた。

 四人が桟橋へ近付いた時、閉ざされた倉庫の前から聞き覚えのある声が飛んできた。


「おや、あんたたちじゃないか!」


 港に残っていたのは、ベイルとミラだった。


 三十代半ばのベイルは、潮焼けした顔をほころばせながら大きく手を上げている。

 その隣では、ミラが荷箱の確認をしていた。


「久しぶりだな!」


 ベイルの声が、静まり返っていた港によく響く。


「ベイルさん。ミラさん」


 アルノが駆け寄ると、リネも嬉しそうに手を振った。

 レグルスも資料から顔を上げ、二人へ軽く頭を下げる。


「二人とも、避難してなかったの?」


 リネが尋ねると、ミラは腰へ手を当て、軍船へ積み込まれていく荷を顎で示した。


「船を出すのに、港を知ってる人間が必要だろ。海はベイル、港はあたし。役目が終わったら、あたしたちも内陸へ下がるよ」


「こいつが最後まで残るって聞かねえんだ」


 ベイルが呆れたように言うと、ミラがすぐに睨み返した。


「あんたが潮を見なきゃ船を出せないって言ったんだろうが」


「だからって、お前まで残ることはねえだろ」


「あたしがいなきゃ、誰がこれだけの荷をまとめるんだい」


 ベイルは言い返しかけたものの、周囲に積み上げられた補給物資を見て口を閉ざした。

 ミラが港にいなければ、これだけの準備が出航に間に合わなかったことは明らかだった。


「……まあ、そうだが」


「だったら最初から黙ってな」


 いつもどおりのやり取りに、張り詰めていたリネの表情が緩む。

 人の消えた港でも、この二人だけは三年前と変わっていなかった。

 ミラは満足そうに頷くと、改めてアルノを見た。

 肩にかかる栗色の髪から、以前より厚みを増した肩、そして灰銀色の瞳へ、確かめるように視線を動かす。


「それにしても、いい男になったねぇ」


「え?」


 突然の言葉に、アルノは目を瞬いた。


「そうですか?」


「ああ。前に会った時は、自信なさげな顔してたのに」


 ミラは懐かしむように目を細めた。


「何かを背負ってるってより、背負ったもんに潰されかけてる顔だった。見てるこっちが心配になるくらいにね」


 アルノは何も言えなかった。

 死の島から戻ってきた時のことを覚えている。

 第四星環の地下で見つけたレオンの魔法陣を補強することしかできず、自分の力では裂け目を閉じられなかった。


 エルディオンの隣に立つには、あまりにも足りないものが多かった。


「でも今は違う」


 ミラの声に、アルノは顔を上げた。


「背負ってるもんが軽くなったわけじゃないんだろうけどさ。それでも、ちゃんと前を見てる」


 ミラの視線が一瞬だけ、アルノの隣に残された空間へ向いた。三年前、そこには銀髪の魔術師が立っていた。

 けれど、彼女は何も尋ねなかった。


「何があったかは聞かないよ」


 大きな手が、アルノの肩を軽く叩く。


「今のあんたなら大丈夫だ。そんな顔してる」


 胸の奥へ、温かなものが広がっていく。

 三年間歩き続けてきたことを、自分以外の誰かが見つけてくれたような気がした。


「……ありがとうございます」


「礼なんかいいから、帰ってきな」


 ミラの声から笑いが消えた。


「ちゃんと、生きて帰ってきな」


 短い言葉が、アルノの胸へ重く落ちた。

 死の島から全員で戻れる保証などない。

 それを誰よりも理解しているからこそ、ミラは軽々しく励まさなかった。

 アルノはまっすぐに彼女を見る。


「はい」


 今度は迷わず答えた。


「帰ってきます」


 ミラはアルノの顔をしばらく見つめ、それから満足そうに笑った。今度は隣にいるリネへ向き直る。


「あんたも、ちゃんとアルノを連れて帰るんだよ」


「もちろん」


 リネは即答した。


「首根っこ掴んででも連れて帰る」


「頼もしいねぇ!」


 ミラが声を上げて笑う横で、レグルスが淡々と口を挟む。


「物理的に可能でしょうね」


「レグルス」


「事実です」


 わずかな笑いが四人の間へ広がった。

 しかし、沖合に停泊していた先導船から出航を知らせる鐘が鳴ると、その空気もすぐに引き締まる。


 ベイルは沖の様子を確かめ、軍船の帆と海面を交互に見た。

 豪快な表情は消え、海で生きてきた船長の目になっている。


「昨日から、沖の潮が重い」


 低くなった声に、アルノたちが耳を傾ける。


「風向きが変わらなくても、海の色が変わったら気を付けろ。そこから先は、もう普通の海じゃねえ」


 レグルスはすぐに手帳へ書き留め、沖へ続く潮の流れを確認した。


「分かりました。航海中の魔力濃度と併せて記録します」


「難しいことは分からねえが、海を甘く見るな。命あっての漁だ。帰れなくなるまで進むのは、勇気じゃねえぞ」


「覚えておきます」


 アルノが答えると、ベイルは強く頷いた。

 軍船から二度目の鐘が鳴る。今度こそ、乗船の時間だった。


 アルノ達は二人へ別れを告げ、先頭の軍船へ向かう。

 桟橋を渡る途中、アルノは一度だけ振り返った。


 誰もいない港に、ベイルとミラが立っている。

 二人の背後には閉ざされた家々が並び、戻る人を待つ町が朝の光に照らされていた。

 この町を、取り戻さなければならない。


 ◇


 出航の鐘が、港全体へ響き渡った。


 係留索が外され、張られた帆が海風を受けて大きく膨らむ。

 海防局の先導船を先頭に、三隻の軍船と二隻の補給船がゆっくりと岸壁を離れ始めた。


 甲板では騎士たちが装備を固定し、魔術師たちが連結術式の最終確認を行っている。

 アレクシスは船首近くに立ち、周囲の海と僚船の位置を見渡していた。


 アルノは船べりへ立ち、遠ざかっていく桟橋を見つめた。

 リネとレグルスも隣へ並び、見送る二人へ手を振る。


 ミラは両腕を大きく振り、ベイルも片手を高く掲げていた。


 やがて二人の姿が小さくなり、閉ざされた港町も朝靄の向こうへ薄れていく。

 それでもアルノは、完全に見えなくなるまで手を下ろさなかった。


 閉じ込められていた地下牢は、もう遠い。

 アルノは自ら選び、死の島へ向かっていた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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