それでも、行きます
王前会議室には、息苦しいほどの沈黙が満ちていた。
イオ島遠征は失敗に終わった。
王国騎士団も魔術師団も多くの犠牲を払いながら、裂け目を封鎖することさえできなかった。
島を覆う汚染は今も広がり続け、その脅威は海を越えようとしている。
そして、その危機を解決できるかもしれない唯一の人物は、王国によって地下牢へ閉じ込められていた。
「アルノ・ルーメル」
王が、確かめるようにその名を呟いた。
「その者なら本当に可能なのか」
「可能です」
末席に座るレグルスは即答した。
淡い金髪の下、細い銀縁眼鏡の奥にある灰紫色の瞳には、わずかな迷いも浮かんでいない。
「彼は第二星環の裂け目を正常に戻しました」
「神代文字を解読できます」
「神代魔法陣へ干渉できます」
「そして私が知る限り」
レグルスはそこで言葉を切り、会議室にいる者たちを静かに見回した。
「現在王国で神代魔法陣を理解している唯一の人物です」
その断言に、ガルディアの顔から血の気が引いた。
反論しようにも、イオ島で失敗したのは自分たちだった。
王国最高峰を自負していた封鎖術式は裂け目に触れることすらできず、多くの負傷者と失われた船だけを残した。
王はガルディアから目を離し、傍らに控えていた宰相へ顔を向けた。
「調査は終わったか」
「終わっております」
宰相は用意していた書類を机の上へ置いた。
紙の擦れる乾いた音が、静まり返った会議室へ響く。
「アルノ・ルーメル拘束の件について」
「異界接触の証拠は確認できませんでした」
淡々とした報告だったが、その内容は決して軽くない。
王国は確かな証拠もないまま、一人の研究者を危険人物と断じて拘束したことになる。
「危険思想の証拠もありません」
「研究内容は、エルディオン・ルクス=アルヴァレス救出に関するものです」
王の眉間へ、深い皺が刻まれた。
「つまり」
「誤認拘束です」
宰相の言葉が落ちた瞬間、会議室の空気が凍り付いた。
ガルディアが弾かれたように顔を上げる。
「待て」
「それは――」
「さらに」
宰相はガルディアの言葉を遮り、次の書類へ手を伸ばした。
「管理局へ提出された情報提供書についても調査しました」
レグルスが顔を上げる。
その向かいでは、ガルディアの指が椅子の肘掛けを強く掴んでいた。
「提出者は魔術塔所属の魔術師です」
「魔術塔?」
「はい」
王の目が鋭く細められる。
宰相はガルディアへ一度だけ視線を向けたあと、変わらぬ調子で報告を続けた。
「現在拘束し事情聴取中です」
ガルディアの顔色がさらに悪くなった。
レグルスは、その変化を見逃さなかった。
情報提供書が提出された経緯をどこまで知っているのかは、まだ断定できない。
それでも、ガルディアがまったくの無関係ではないという疑念は、確信へ近づいていた。
「陛下」
宰相が書類を揃え、王へ向き直った。
「アルノ・ルーメルの拘束は解除すべきかと」
王はすぐには答えなかった。
机の上に並ぶ調査書へ視線を落とし、しばらく無言のまま考え込む。
やがて、覚悟を定めたように顔を上げた。
「解除しろ」
低い声が会議室へ響く。
「直ちにだ」
ガルディアが椅子を鳴らして立ち上がった。
「陛下!」
「何だ」
「仮に無実であったとしても」
「異界への研究を続けているのは事実です」
「危険性は――」
「危険性?」
王の声が一段低くなり、ガルディアは言葉を失った。
王は机の向こうに立つ魔術塔最高統制官を、冷たい目で見据える。
「その危険な研究者だけが解決できる問題を」
逃げ場を与えない問いが突き付けられた。
「お前達は解決できたのか」
ガルディアは答えられなかった。
裂け目は閉じていない。
島から帰還できなかった者たちも、失われた船も、なかったことにはできない。
何より、自らの魔法が届かなかった事実を、ガルディア自身が誰よりも理解していた。
「座れ」
王に命じられ、ガルディアは力を失ったように腰を下ろした。
王はそれ以上追及せず、今度はレグルスへ顔を向けた。
「ヴァルハイト」
「はい」
「案内しろ」
王は椅子から立ち上がり、深く息を吐いた。
「私が直接謝罪する」
◇
地下拘束区画へ続く階段には、一定の間隔で魔導灯が設けられていた。
青白い灯りに照らされた石壁は冷たく、地上から遠ざかるほど空気が湿り気を帯びていく。
先頭を歩く王の後ろには宰相が続き、その少し後ろをレグルスとリネが歩いていた。
護衛の騎士たちが周囲を固めていたが、誰も口を開こうとはしない。
リネは高く結んだ明るい赤茶色の髪を揺らし、前を見つめていた。
大きな琥珀色の瞳には怒りが残っていたが、三年間前衛として鍛えられた立ち姿に揺らぎはない。
アルノの無実が認められた安堵よりも、証拠もないまま拘束されたことへの憤りの方が、今は強かった。
「どんな男なのだ」
沈黙を破り、王が突然尋ねた。
レグルスは足を止めることなく、少し考えてから答える。
「諦めの悪い人です」
「諦めが悪い?」
「必要な答えが見つかるまで、何年でも探し続けます」
それが三年間、最も近くでアルノを見てきたレグルスの答えだった。
才能だけで進んできたのではない。
誰にも理解されない研究へ向き合い、失敗を重ねても、アルノは決して手を止めなかった。
リネも前を向いたまま口を開く。
「それと、自分よりほかの人を優先する人です」
王は二人の横顔を見比べた。
どちらの言葉にも、親しい友人を語る温かさと、その友人を守ろうとする固い意志があった。
「では、今回の頼みも引き受けると思うか」
「分かりません」
レグルスは即答した。
「決めるのはアルノさんです」
「だから、全部話してください」
リネの声は硬かった。
国王へ向ける言葉としては厳しかったが、それでも視線を伏せることはなかった。
「王国が困っているからって、助けて当然みたいには扱わないでください」
王は足を緩めた。
反論することも、王としての立場を振りかざすこともなく、言葉の重さを受け止めるように沈黙する。
「……分かった」
それきり会話は途切れた。
一行は幾つもの階段と通路を進み、地下拘束区画の最奥へ辿り着いた。
厚い石壁に囲まれたそこには外の音が届かず、鉄格子の向こうから冷たい空気だけが流れてくる。
重い石扉の前に立っていた管理官は、王の姿を見るなり慌てて背筋を伸ばした。
「へ、陛下!」
「開けろ」
「はっ!」
管理官が鍵を差し込み、扉を封じていた術式を解除する。
導線を走っていた淡い光が消え、石と石が擦れ合う重い音とともに扉が開いた。
王は牢の中を覗き込み、思わず眉を寄せた。
「……何をしている」
アルノは冷たい石床へ座り込み、指先で幾何学的な線をなぞっていた。
肩にかかるまで伸びた明るい栗色の髪は少し乱れている。
アルノはしばらく指を動かし続けてから、ようやく人が来たことに気付いて顔を上げた。
「あ」
国王が牢の前へ立っているというのに、驚きよりも研究を中断された戸惑いの方が大きいように見えた。
「何をしているのだ」
「魔法陣です」
「紙はないだろう」
「頭の中で組んでました」
レグルスは細い銀縁眼鏡の上から額を押さえた。
牢の中でも研究を続けているだろうとは予想していたが、本当に石床を紙代わりにしているとは思わなかった。
リネも呆れたように息を吐く。
「牢屋でも研究してたの?」
「時間がもったいないから」
アルノは当然のように答えた。
王は何とも言えない表情で、石床へ描かれた線を見下ろした。
机も紙も、本を読むための灯りさえ十分には与えられていない。
それでもアルノは、誰かを恨むことに時間を使わず、研究を続けていた。
危険思想家だと聞かされていた。
異界へ接触し、王国を危険にさらす可能性のある人物だと報告を受けていた。
だが、目の前にいるのは、ただ答えを探し続けている一人の研究者だった。
王は牢の中へ一歩踏み込み、アルノの前で足を止めた。
そして、周囲が息を呑む中、ゆっくりと頭を下げた。
「すまなかった」
地下牢は水を打ったように静まり返った。
アルノは何も言わず、自分へ頭を下げている王を見つめていた。
王は顔を上げることなく、責任を一つずつ言葉へ変えていく。
「君の研究を危険視した」
「結果として投獄した」
「調査が不十分だった」
「国として謝罪する」
長い沈黙が続いた。
リネもレグルスも、二人の間へ言葉を挟まなかった。
これは王国とアルノの間で交わされなければならない謝罪であり、誰かが代わりに受け取れるものではない。
やがて、アルノがぽつりと尋ねた。
「どうしてですか」
王が顔を上げる。
アルノの声は静かだった。
怒鳴ってもいなければ、王を責め立ててもいない。
だからこそ、その問いは重く、逃げることを許さなかった。
「どうして危険だと思ったんですか」
王は答えられなかった。
異界へ関わる研究だから。理解できない力を扱っているから。
どのような理由を並べても、十分な調査をせずに拘束した事実への言い訳にしかならなかった。
「僕は」
アルノは石床に置いていた手を握り締める。
「エルさんを迎えに行きたいだけです」
月光を編み込んだような銀髪が、記憶の中で揺れた。
腰まで届く銀の髪。白い肌と長い睫毛、その奥にある深い碧眼。
どれほど危険な状況でも、何でもないことのように柔らかく笑っていた人の姿を、アルノは三年経った今も忘れていない。
「エルさんは」
誰も口を挟まなかった。
「世界を救ったんです」
アルノは静かに、一つずつ確かめるように言葉を続ける。
「邪竜を止めた」
「王都を守った」
「みんなを守った」
王は、あの日の戦いを直接目にしたわけではない。それでも、王都の空を覆った邪竜と、崩壊していく封印術式、そしてエルディオンが自らを犠牲にして邪竜を封じた顛末は、帰還者たちから詳しく報告を受けていた。
それだけではない。
王は旅立つ一行を正門まで見送り、幼い頃から絵本で読んできた英雄と実際に言葉を交わしている。
困ったように笑いながら、帰ってきたら絵本を読んでみようと話していた銀髪の魔術師を、今も覚えていた。
あの時は、当然のように帰ってくると思っていた。
「なのに」
アルノが俯く。握り締めた拳が、小さく震えていた。
「邪竜がいなくなったら終わりなんですか」
王は何も言えなかった。
「いなくなった人は」
抑えていた感情が滲み、アルノの声がわずかに震える。
「どうでもいいんですか」
重い沈黙が落ちた。
邪竜が消えたあと、王国は救われたことを喜んだ。
英雄の犠牲を讃え、歴史へ名を残そうとした。
しかし、その英雄を連れ戻そうとした者の願いを、王国は危険な研究だと断じた。
「エルさんは、たのしかったよって」
その言葉に、レグルスが顔を上げた。リネも唇を引き結び、アルノを見つめる。
「笑って消えました」
アルノの脳裏に、最後の光景が蘇る。
邪竜を閉じ込めた封印術式の中で、エルディオンは苦しそうな顔を見せなかった。
いつもと変わらない笑顔を浮かべ、月光のような銀髪も、伸ばした指先も、淡い光へ溶けていった。
「だから」
アルノは顔を上げた。
「迎えにいきたいんです」
灰銀色の瞳には涙ではなく、三年間変わることのなかった決意が宿っていた。
リネの胸が痛んだ。
レグルスも目を閉じる。
二人は、アルノがどれほど多くの遺跡を巡り、どれほど眠れない夜を重ねてきたのかを知っていた。
「僕は迎えに行きます」
静かな声だったが、迷いはなかった。
「何を言われても」
「止められても」
「絶対に」
王はアルノの目を見つめた。
地下牢へ閉じ込められても、その意志は折れていない。
誰から否定されようと、自分が選んだ道を変えるつもりもない。
アルノはずっと前から、エルディオンを迎えに行くと決めていたのだ。
三年前から一度も変わらなかった決意だった。
レグルスが一歩前へ出た。
「アルノさん」
アルノが振り向く。
レグルスは携えていた地図を広げ、牢の中にある石台の上へ置いた。
そこにはイオ島を中心として、黒く染まった海域や避難区域、魔獣の出現地点が細かく書き込まれている。
汚染範囲を示す線は島の周囲を大きく越え、対岸へ向かって伸びていた。
「イオ島です」
アルノの表情が変わった。
死の島。第四星環。五百年前に邪竜が現れた場所。
そのすべてが、目の前に広げられた地図の一点へ繋がっている。
「汚染が拡大しています」
「封鎖術式が崩れ始めています」
「このままでは沿岸部の汚染がさらに拡大します」
アルノは地図を見つめたまま、何も言わなかった。
汚染された海域と魔獣の出現地点を目で追い、その先にある町や村を確かめていく。
「第四星環の地下で、五百年前に封鎖された裂け目が再び開いています」
「魔術塔は封鎖を試みましたが、失敗しました」
「遠征隊は多数の犠牲を出し、撤退しました」
レグルスは事実だけを告げた。
助けてほしいとは言わない。
王国のために行くべきだとも言わない。
選ぶ権利はアルノにあると、先ほど王へ告げたばかりだった。
地下牢へ再び静寂が訪れた。
アルノは地図から目を離さず、しばらく考えていた。
リネは隣で、その横顔を見つめている。
どのような答えを選んでも受け止めるつもりだったが、アルノが何を選ぶのかは、すでに分かっていた。
やがて、アルノが小さく息を吐いた。
「……行きます」
王が驚いたように顔を上げる。
「本当か」
「はい」
アルノは即答した。
「エルさんが救った世界だから」
指先が地図の上にあるイオ島へ触れる。
「滅ぼさせるわけにはいきません」
王は言葉を失った。
王国はアルノを疑い、自由を奪い、その願いを危険なものとして否定した。
それでもアルノは、王国への怒りを理由に世界を見捨てようとはしなかった。
リネは何も言わず、アルノの隣へ歩み寄った。
レグルスも広げていた地図を丁寧に畳み、持ち上げる。
「準備を始めましょう」
アルノは頷き、ゆっくりと立ち上がった。
先ほどまで指でなぞっていた石床へ一度だけ視線を落とし、それから開かれた牢の扉へ向かう。
扉の向こうでは、リネとレグルスが待っていた。
二人とともに敷居を越えたアルノの背後で、冷たい地下牢が静けさを取り戻していく。
次に向かう場所は、死の島――第四星環だった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




