最後の希望
ガルディアの言葉を合図に、魔術師たちは封鎖用の魔導具を運び始めた。
裂け目を囲むように魔石が配置され、その間へ銀製の導線が渡されていく。
床に残る神代魔法陣と、五百年前に施された封鎖術式。
そのどちらとも重ならない位置へ、新たな現代魔法陣が組み上げられていった。
術式の構築には、それから二週間を要した。
大きな問題は起きなかった。結界術師が周囲の汚染を抑え、観測班が裂け目から流れ出す魔力を測定する。
その中央で、ガルディアは完成へ近付く魔法陣を見下ろしていた。
「外周、接続完了しました」
「第二封鎖線も問題ありません」
「魔力供給路、固定します」
次々と報告が上がる。
石床へ敷かれた銀の導線が淡い光を帯び、魔石から魔石へ魔力が流れ始めた。
既存の術式を避けながら描かれた新たな円が、裂け目の周囲を幾重にも取り囲んでいく。
若い魔術師の一人が、裂け目へ不安そうな視線を向けた。
「統制官、本当に干渉できるのでしょうか」
「見れば分かる」
ガルディアは杖を構えた。
「術式は正常に起動している。あの研究者が何を危惧したのかは知らんが、魔法陣である以上、魔力を通せば応える」
騎士団長代理は答えず、周囲へ目を配った。
地下空間に風はない。
それにもかかわらず、黒い霧だけが石床を這うように動いている。
騎士たちは裂け目へ背を向け、地上へ続く通路を警戒していた。
「封鎖術式、起動準備完了しました」
魔術師の報告に、ガルディアは頷いた。
「始めろ」
魔力が流れ込む。
完成した魔法陣が一斉に輝き、幾重もの光の輪が裂け目の周囲へ立ち上がった。
外周から伸びた光の導線が、黒い霧を押し戻すように中心へ向かっていく。
最初は、成功しているように見えた。
裂け目の周囲から漏れ出していた黒い霧がわずかに薄れる。
観測装置の針も下がり始め、魔術師たちの間から安堵の息が漏れた。
「魔力濃度、低下しています」
「外周の封鎖線も安定しています」
ガルディアの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「このまま出力を上げろ」
「ですが、まだ裂け目そのものへの反応は――」
「封鎖線は機能している。続けろ」
魔術師たちは魔力をさらに注ぎ込んだ。
光が強くなる。
重なり合った円から、裂け目へ向かって新たな導線が伸びていく。
漏れ出す力を外側から抑えるのではなく、裂け目そのものへ触れ、閉じるための導線だった。
その先端が黒い空間へ触れた。
音もなく、光が消えた。
焼けたのでも、砕けたのでもない。
裂け目へ触れた部分だけが、最初から存在しなかったように途切れていた。
「……何だ?」
ガルディアの笑みが消える。
次の導線が伸びる。
それも、裂け目へ触れた瞬間に消失した。
一本。
また一本。
術式から伸びた光が次々と黒い空間へ呑み込まれ、何にも届かないまま失われていく。
「出力を維持しろ!」
「維持しています!」
「それなら、なぜ閉じない!」
魔術師が観測装置へ視線を落とし、青ざめた。
「魔力が……返ってきません」
「何?」
「吸収されている反応もありません。裂け目へ触れた記録そのものが残らないんです」
新たに構築した魔法陣が大きく明滅した。
裂け目へ伸びる導線へ魔力を送り続けても、そのすべてが接触した瞬間に失われていく。
供給を制御する術式はそれを魔力不足と判断し、魔石からさらに多くの魔力を引き出し始めた。
石床に配置されていた魔石の一つへ亀裂が走る。
甲高い音とともに砕け、鋭い破片が周囲へ飛び散った。
続いて、隣の魔石も耐え切れずに破裂する。
「防護!」
結界術師が叫ぶ。
淡い光の膜が展開され、飛来した破片を受け止めた。
しかし、今回構築した術式の崩壊は止まらなかった。
裂け目に近い導線から、次々と光が消えていく。
失われた魔力を補おうとするたびに供給路へ過剰な負荷がかかり、外周の魔石まで激しく明滅し始めた。
「供給を止めろ!」
ガルディアが命じる。
「止まりません!」
魔術師の悲鳴が響いた。
「制御線が反応しません! 不足した魔力を補おうとして、術式が魔石から魔力を引き出し続けています!」
光が一気に膨れ上がった。
次の瞬間、王国の魔術師たちが新たに構築した魔法陣が、内側から弾け飛んだ。
凄まじい衝撃が地下空間を揺らし、魔術師たちはまとめて後方へ投げ出された。
防護結界へ幾筋もの亀裂が走り、周囲を覆っていた光の膜も崩れ落ちる。
五百年前の封鎖術式も激しく明滅した。
だが、崩壊はしなかった。
弱々しい光を放ちながら、辛うじて裂け目を外側から封じ続けている。
騎士団長代理は剣を石床へ突き立て、どうにか身体を支えた。
「負傷者を下げろ!」
騎士たちが倒れた魔術師へ駆け寄る。
砕けた魔石の破片を受けた者が腕を押さえ、暴走した魔力に焼かれた者が石床でもがいていた。
ガルディアも片膝をついていた。
豪奢なローブは裂け、杖を握る手が震えている。
額から流れた血が頬を伝っていたが、本人はそれにも気付いていないようだった。
目の前には、変わらぬ裂け目がある。
その周囲を覆っていた黒い霧は、すでに元の濃さへ戻っていた。
裂け目は狭まっていない。
揺らいですらいない。
王国最高峰の封鎖術式を受けても、黒い空間は何一つ変わっていなかった。
「……もう一度だ」
ガルディアが呟く。
近くにいた魔術師が、耳を疑うように顔を上げた。
「統制官?」
「術式を組み直せ。今度は接続点を変える」
「無理です」
震える声だった。
「魔石の半数が失われました。負傷者も出ています」
「予備がある」
「同じ結果になります!」
若い魔術師の声が、地下空間へ響いた。
ガルディアが振り返る。
魔術師は怯えていた。
それでも視線を逸らさず、変わらぬ裂け目を見つめている。
「こちらの魔法は、裂け目へ届いていません」
「黙れ」
「構造の問題ではありません。出力を増やしても、接続点を変えても同じです。裂け目へ触れた時点で、魔力との繋がりそのものが失われています」
ガルディアの顔から血の気が引いていく。
王前会議室で、レグルスが告げた言葉が脳裏をよぎった。
現代魔法陣では、裂け目そのものを閉じることはできない。
神代魔法陣は、構造だけでは動かない。
あの時は、若い研究者の戯言だと思った。
王国の魔術体系を軽んじられたように感じ、まともに聞く価値すらないと切り捨てた。
だが、目の前で起きたことは、その警告どおりだった。
届かない。
どれほど精密に術式を組み、どれほど多くの魔力を注ぎ込んでも、裂け目には触れることすらできなかった。
「統制官」
騎士団長代理が低い声で呼ぶ。
「撤退すべきです」
「まだ終わっていない」
「我々が構築した封鎖術式は崩壊しました。防護結界も長くは保ちません」
その時、地上へ続く通路の奥から音が聞こえた。
硬い爪が石床を引っ掻く音。
重い足音。
一つではない。
暗い通路の向こうで、幾つもの影が動き始めている。
先ほどの爆発と防護結界の崩壊に引き寄せられ、魔獣が集まってきていた。
「負傷者を抱えた状態で戦闘になれば、被害が広がります」
ガルディアは唇を噛んだ。
撤退すれば、失敗を認めることになる。
魔術塔最高統制官としてレグルスの警告を退け、自分たちなら封鎖できると断言した。その結果が、負傷者と砕けた魔導具だった。
それでも、ここでさらに犠牲を出すわけにはいかない。
「……撤退する」
絞り出すような声だった。
騎士団長代理が直ちに指示を飛ばす。
「負傷者を隊列の内側へ! 騎士は通路を固めろ! 魔術師団は残った魔力で防護結界を維持!」
隊列が慌ただしく組み直される。
その時だった。
「……見えるか」
誰かが呟いた。
声を発したのは、裂け目に最も近い場所で倒れていた魔術師だった。
騎士が肩を貸そうとしたが、男は動かない。
青ざめた顔を裂け目へ向け、目を見開いたまま震えていた。
「何がです」
隣の魔術師が尋ねる。
男は震える指を持ち上げた。
「目だ」
その場にいた全員の視線が、裂け目へ向いた。
黒い空間。
光の届かない暗闇。
最初は何も見えなかった。
だが、じっと見つめるうちに、その奥で何かが動いた。
淡い光が、一つ浮かび上がる。
横に長い楕円。その中央に、瞳孔があった。
目だった。
巨大な目が、暗闇の向こうからこちらを見つめている。
「……何だ、あれは」
騎士の声が掠れた。
別の場所で、もう一つの目が開いた。
その隣にも。
上にも。
下にも。
黒い空間の奥で、無数の目が次々と開いていく。
何十。
何百。
数え切れない。
大きさも形も異なる目が、暗闇を埋め尽くしていた。
瞬きをするもの。
左右へ動くもの。
人のものに似たもの。
縦に細い瞳孔を持つもの。
それらは裂け目のこちら側にいる騎士や魔術師を、一人ずつ確かめるように見つめていた。
「魔獣では……ない」
ガルディアの唇から声が漏れた。
目の奥に身体は見えない。
あれらが一つの存在に属しているのか、それとも別々の存在なのかさえ分からなかった。
生物なのか。
意思があるのか。
何一つ分からない。
ただ一つだけ、その場にいた全員が同じ感覚を抱いていた。
見られている。
裂け目の向こうにいる何かが、こちらの存在に気付いている。
その瞬間、すべての瞳孔が一斉に動いた。
無数の目が、ガルディアを捉える。
「――っ」
ガルディアの身体が硬直した。
頭の内側へ冷たい指を差し込まれたような感覚が走る。呼吸が止まり、杖を握っていた指から力が抜けていった。
「統制官!」
騎士団長代理が肩を掴む。
その声で、ガルディアはようやく息を吸った。
「撤退だ!」
今度の声に迷いはなかった。
「全員、島を離れろ!」
地上へ続く通路から、魔獣の咆哮が響いた。
暗がりの中から、黒く変色した獣が姿を現す。
その後ろにも、幾つもの異形の影が蠢いていた。
「前衛、押し返せ! 負傷者を先に階段へ!」
騎士たちが通路を塞ぎ、迫る魔獣へ剣を向ける。
魔術師たちは残った魔力で防護結界を展開し、負傷者を支えながら地下空間を離れていく。
狭い通路では隊列を大きく広げることができず、魔獣の爪が結界へ叩きつけられるたびに、淡い光の膜が激しく揺らいだ。
一行は長い階段を上り、地上を目指した。
塔の外へ出ても、戦いは終わらなかった。
灰色の霧に覆われた森の中から、新たな魔獣が次々と姿を現す。
騎士たちは隊列の前後を守り、魔術師たちは黒い泥に足を取られながら、港へ続く道を進んだ。
背後には第四星環がある。
森の中へ入れば、裂け目の姿はもう見えない。
それでも、無数の視線だけはガルディアの背中から消えなかった。
ずっと見られている。
島を離れようとする自分たちを。
逃げていく人間たちを。
暗闇の向こうから、静かに追い続けている。
◇
港へ辿り着いた時には、多くの者が自力で立てなくなっていた。
港を守っていた騎士たちが追ってきた魔獣を食い止める間に、負傷者と魔術師たちが船へ乗り込む。だが、沖合の濁った海にも、魚型魔獣の影が集まり始めていた。
「出航しろ!」
港に停泊していた十隻の船が、次々と岸を離れる。
最後の騎士が甲板へ飛び移った直後、港跡へ魔獣の群れが押し寄せた。
牙と爪が船尾を掠め、砕けた木片が海へ落ちていく。
帰路でも戦いは続いた。
魚型魔獣は船団を取り囲み、暗い海の下から何度も船底へ体当たりを繰り返した。
騎士も魔術師も、島での戦闘によって疲弊している。
往路のように、十分な力で迎撃することはできなかった。
護衛船の一隻が横から突き上げられ、大きく傾く。
甲板に亀裂が走り、そのまま海へ横転した。
救助へ向かった船も船底を食い破られ、海へ投げ出された者たちの悲鳴が暗い海へ響いた。
十隻あった船は、一隻ずつ船団から姿を消していった。
王都南港へ帰還できたのは、わずか三隻だった。
◇
出航から一か月後。
王前会議室では、帰還した騎士団長代理の報告が続いていた。
三年前に第四星環へ入ったレグルスとリネも、再び会議へ呼ばれている。
二人は末席と壁際から、傷だらけの騎士団長代理を見つめていた。
「第四星環への到達には成功しました。しかし、撤退中に多数の魔獣から襲撃を受けました」
男の声は掠れていた。
「帰路でも魚型魔獣の群れに襲われ、七隻を失いました。生存者の正確な人数は、現在も確認中です」
国王の顔が険しく歪む。
「封鎖は」
騎士団長代理は答えず、会議室の一角へ視線を向けた。
そこには、ガルディアが座っていた。
一か月前まで自信に満ちていた魔術塔最高統制官は、別人のように俯いている。
白髪交じりの髪は乱れ、頬は痩せていた。
豪奢なローブを纏っていても、以前の威厳は感じられない。
「ガルディア」
国王の低い声が響く。
「裂け目の封鎖はどうなった」
ガルディアはすぐには答えなかった。
数秒の沈黙が、ひどく長く感じられる。
やがて、乾いた唇が動いた。
「……不可能でした」
会議室が静まり返った。
「何だと」
「外側から漏れ出す力を抑えることは、一時的にはできました」
ガルディアは膝の上で拳を握り締めていた。
「ですが、裂け目そのものへ魔法陣が干渉しません。術式を接触させても、その部分から魔力との繋がりが消失しました。出力を上げれば、不足した魔力を補おうとして、我々が構築した術式そのものが崩壊します」
「魔術塔の封鎖術でも、裂け目を閉じられなかったというのか」
「……はい」
誰も声を発せなかった。
壁際に立つリネは、拳を強く握っている。
レグルスは表情を変えずに報告を聞いていた。
ガルディアの失敗は、予想していたとおりだった。
現代魔法が劣っているわけではない。
外側から漏れ出す力を抑えることはできる。
五百年前、レオン・アステリアが施した封鎖術式も、同じ方法で裂け目を押さえ続けてきた。
だが、それでは原因そのものは消えない。
裂け目が残る限り、封鎖術式はいつか再び傷み、異界の力が漏れ始める。
そして今回は、その応急処置を施すためにさえ、多くの犠牲を出した。
「もう一つ、報告があります」
帰還した魔術師が、震える声で口を開いた。
「三年前の調査記録に残されていたものを、我々も確認しました」
宰相の表情が硬くなる。
「裂け目の奥にあるという、無数の目か」
「はい」
魔術師は唾を飲み込んだ。
「数え切れないほどの目が、裂け目の向こうにありました。大きさも形も異なります。あれらが一つの存在なのか、別々の存在なのかは分かりません」
騎士団長代理も頷く。
「我々が撤退を始めようとした時、すべての目が一斉に動きました」
「何を見た」
「ガルディア統制官を」
会議室の視線が、ガルディアへ集まった。
ガルディアは俯いたまま、何も言わない。
「ただ見ていたのではありません」
騎士団長代理の顔から血の気が引いていく。
「こちらの存在を、明確に認識していました」
会議室の温度が下がったように感じられた。
国王はしばらく黙ったあと、レグルスへ顔を向けた。
「ヴァルハイト」
「はい」
「どう思う」
レグルスはすぐには答えなかった。
事実と推測を分けるように、これまでの報告を頭の中で整理する。
「無数の目については、三年前にも確認しています」
冷静な声が会議室へ響いた。
「正体は、今も分かっていません。一つの存在に属するものなのか、複数の存在なのか。それすら断定できる材料がありません」
「脅威なのか」
「こちらを認識しているのであれば、無害と判断する根拠はありません」
レグルスは机の上に広げられた地図へ視線を落とした。
「あれらの規模や能力も不明です。しかし、裂け目を越えてこちら側へ現れた場合、王国の戦力だけで対処できる保証はありません」
「最悪の場合は」
国王の問いに、レグルスは顔を上げた。
「王国の存続に関わります」
重い沈黙が落ちた。
国王は肘掛けを強く掴む。
「騎士団で食い止められぬのか」
騎士団長代理は、苦渋の表情で首を横へ振った。
「島周辺の魔獣だけでも、今回の戦力では対処し切れませんでした。裂け目の向こうにいるものについては、戦力も性質も分かりません」
「魔術塔は」
国王の視線がガルディアへ向く。
ガルディアは俯いたまま、何も答えられなかった。
一か月前。
できると断言した。
現代の魔術で封鎖できると、自信をもって言い切った。
だが、裂け目へ魔法を届かせることすらできず、多くの者を失って帰還した。
会議室を満たす沈黙の中で、レグルスが口を開く。
「解決方法はあります」
全員が顔を上げた。
「本当か!」
国王が身を乗り出す。
「はい」
レグルスの灰紫色の瞳が、まっすぐ前を見据えていた。
「現代魔法陣では、裂け目を外側から押さえることしかできません。完全に閉じるためには、裂け目と繋がっている神代魔法陣へ干渉する必要があります」
「それができる者がいるのか」
「私たちの知る限り、一人だけです」
レグルスは迷いなく答えた。
「三年前、第四星環の封鎖術式へ干渉し、第二星環では裂け目を完全に閉じた人物です」
国王の表情が変わる。
「誰だ」
「アルノ・ルーメルです」
会議室が静まり返った。
リネの脳裏に、肩まで伸びた栗色の髪と、大きな灰銀の瞳が浮かぶ。
三年前とは違う。
守られるだけだった少年は、もういない。
失ったものを抱えながら、それでも進み続けてきた青年がいる。
今、そのアルノは地下牢へ閉じ込められている。
王国に残された、最後の希望が。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




