帰還者
一か月後。
王前会議室には、息苦しいほどの沈黙が満ちていた。
長い机を囲む者たちは誰も口を開かず、扉の向こうから届く足音に耳を澄ませている。
窓から差し込む朝の光は明るいはずなのに、室内に並ぶ顔は一様に暗かった。
原因は一つ。
イオ島。
通称、死の島。
島に残された裂け目を封鎖するため、王命によって派遣された調査・封鎖部隊は、帰還予定日を過ぎても戻らなかった。
十隻の船に騎士団と魔術師団を乗せ、十分な食料と物資を積んで出発した大規模な部隊だった。
多少の遅れは想定されていたが、それを考慮しても遅すぎた。
そして今朝。
ようやく生き残りが帰還した。
王前会議室の扉が開く。
入ってきた男の姿を見て、誰もが息を呑んだ。
騎士団長代理として遠征部隊へ同行していた男だった。
磨き上げられていたはずの鎧は砕け、肩から胸にかけて黒く焼け焦げている。
額には汚れた包帯が巻かれ、歩くたびに右脚を庇っていた。
男は王の前まで進むと、苦痛を押し殺すように膝をついた。
「ただいま、帰還いたしました」
掠れた声が、静まり返った会議室へ落ちる。
国王は肘掛けを強く掴んだ。
「……他の者たちは」
男はすぐには答えなかった。
俯いたまま、震える息を一度だけ吐く。
「帰還できた船は、三隻です」
その言葉だけで、何が起きたのかは十分に伝わった。
会議室の空気が、さらに重く沈んでいった。
◇
一か月前。
王都南港には、十隻の船が並んでいた。
大きく張られた帆には王国の紋章が掲げられ、甲板では騎士や魔術師たちが慌ただしく出航準備を進めている。
岸壁には武器や食料を積んだ木箱が幾つも並び、港湾職員が確認の声を飛ばしていた。
封鎖部隊の規模は、地方の魔獣討伐とは比べものにならない。
騎士団から選抜された精鋭。
結界術と封印術を専門とする魔術師団。
さらに、イオ島周辺の海域を突破するための護衛船まで用意されている。
王国が用意できる戦力の中でも、相当に大きな部類だった。
岸壁の中央では、ガルディア・ノルヴェンが出航を待っていた。
白髪の混じる髪は乱れ一つなく後ろへ流され、豪奢な魔術師のローブにも皺一つない。
魔術塔最高統制官として遠征の指揮を任された男は、慌ただしく動く部下たちを落ち着いた表情で見渡していた。
その傍らには、騎士団長代理が立っている。
「出航準備は間もなく完了します」
「予定どおりだな」
ガルディアは満足そうに頷いた。
視線の先では、魔術師たちが封鎖用の魔導具を慎重に船へ積み込んでいる。
複数の魔法陣を展開するための触媒に、結界を維持する魔石。裂け目周辺の魔力を測定する観測装置も用意されていた。
「これほどの装備が必要でしょうか」
近くにいた若い魔術師が、積み上げられた木箱を見ながら尋ねた。
ガルディアは鼻で小さく笑った。
「必要以上に警戒しておくに越したことはない。島が汚染され、魔獣が棲み着いていることは事実だからな」
「裂け目については?」
「五百年前に施された封鎖術式が劣化しているだけだ」
その口調には迷いがなかった。
「構造さえ把握できれば、現代の封印術で補強できる。魔術塔の総力をもってすれば、難しい作業ではない」
若い魔術師は安堵したように頷いた。
それを聞いていた騎士団長代理は、わずかに眉を寄せた。
「先日の会議では、レグルス・ヴァルハイトが現地確認の必要性を強く訴えていました。現代魔法では裂け目そのものへ干渉できない可能性がある、と」
ガルディアの目が冷たく細められる。
「若造の研究者の言葉など杞憂だ」
淡々とした声だったが、その奥には隠しきれない苛立ちがあった。
「遺跡を幾つか見ただけで、王国の魔術体系を理解したつもりになっている。神代文明という言葉を使えば、何でも特別なものに見えるらしい」
「ですが、彼は実際に第四星環へ入り、裂け目を確認しています」
「だから何だ」
ガルディアは騎士団長代理へ視線を向けた。
「現地で何を見たかは知らん。だが、魔法陣である以上、魔法の理論から外れることはない」
海から吹き込む風が、豪奢なローブの裾を揺らす。
「五百年前の魔術師にできたことが、現代の魔術塔にできない理由はない」
騎士団長代理はそれ以上何も言わなかった。
命令を受けた以上、従うしかない。
やがて出航を告げる鐘が鳴り響いた。
岸壁へ繋がれていた縄が外され、十隻の船が順番に港を離れていく。
王国の旗を掲げた船団は、朝日を反射する海面を割りながら南へ進み始めた。
ガルディアは船首に立ち、遠ざかる王都を振り返ることもなかった。
◇
出航から半日ほどが過ぎた頃。
イオ島を目前にした海域で、異変は起きた。
最初に異変へ気付いたのは、先頭を進んでいた船の見張りだった。
「海面に何か浮いています!」
報告を受けた騎士たちが船縁へ集まる。
波の間に、銀色のものが幾つも浮かんでいた。
魚だった。
一匹や二匹ではない。
大小さまざまな魚が白い腹を上に向け、船の周囲を埋め尽くすように漂っている。
腐敗が始まっているものもあれば、外傷一つなく死んでいるものもあった。
鼻を突く生臭さが、潮風に混じって甲板まで届く。
「この辺りで何が起きた……」
騎士の一人が口元を覆いながら呟いた。
船団は速度を落とした。
海面へ漂う魚を避けながら慎重に進むうち、澄んでいた海の色は少しずつ濁っていった。
青かったはずの水は暗い灰色へ変わり、その下に何が潜んでいるのか見通せなくなっていく。
空にも海鳥の姿はなかった。
波の音だけが、船団の周囲で不自然なほど大きく響いている。
ガルディアは甲板へ出ると、魔力測定器を手にした魔術師へ視線を向けた。
「数値は」
「上昇しています」
魔術師は強張った顔で答えた。
「通常海域の十倍……いえ、まだ上がっています。海中へ異質な魔力が広く溶け込んでいるようです」
「島から漏れ出したものだろう」
ガルディアは海面を見下ろした。
「目的地が近い証拠だ。予定どおり進め」
「しかし――」
「止まる理由はない」
その直後だった。
船底から、鈍い衝撃が響いた。
甲板が大きく傾き、積み上げられていた木箱が一斉に滑り出す。
騎士たちは近くの柱や縄へ掴まり、魔術師たちは声を上げながらその場へ膝をついた。
「何だ!」
「下です!」
見張りが叫ぶ。
「船の下に何かいます!」
次の瞬間、海面が弾けた。
黒ずんだ巨大な魚が、先頭の船へ向かって跳び上がる。
裂けるように開いた口には長い牙が並び、濁った黄色い目が甲板の人間を捉えていた。
「魔獣だ!」
騎士たちが剣を抜く。
魚型魔獣は船縁へ激突し、厚い木材を噛み砕いた。
船体が再び大きく揺れ、砕けた木片が甲板へ飛び散る。
「迎撃しろ!」
騎士団長代理の声が響いた。
魔術師たちが一斉に詠唱へ入る。
炎と雷の術式が海面へ放たれ、跳び上がった魔獣の身体を貫いた。
黒い鱗が弾け、巨体が海へ落下する。
しかし、それで終わりではなかった。
海面の下で、幾つもの影が動いている。
一つ。
二つ。
十を超える黒い影が、船団を囲むように旋回していた。
「数が多すぎる!」
騎士の叫びと同時に、別の船が大きく持ち上がった。
船底へ何かが衝突し、甲板に亀裂が走る。
続けて二匹の魚型魔獣が左右から飛び出し、船縁に牙を突き立てた。
騎士たちは足場の揺れへ耐えながら剣を振るい、魔術師たちは船を守るための防護術式を展開していく。
海そのものが、船団を拒んでいた。
倒しても、次が現れる。
血に濁った海面の下から、新たな魚影が次々と浮かび上がってくる。
その時、護衛船の一隻が大きく傾いた。
「右舷損傷!」
「船腹を食い破られました! 浸水しています!」
「排水を急げ!」
怒号と悲鳴が重なり、静かだった海は瞬く間に戦場へ変わった。
ガルディアは船首へ立ち、片手を掲げる。
足元に巨大な魔法陣が展開され、幾重もの光が空中へ浮かび上がった。
「退け」
放たれた炎が海面を薙ぎ払う。
轟音とともに水蒸気が立ち上り、船団へ迫っていた魚型魔獣がまとめて吹き飛ばされた。
焼け焦げた巨体が次々と海へ落ち、周囲へ一時的な静寂が戻る。
魔術師たちの間から安堵の声が漏れた。
ガルディアは乱れたローブを整えながら、海面を見下ろす。
「この程度だ」
自信を取り戻した声だった。
「魔獣の数が多いだけにすぎん。隊列を整え、進め」
騎士団長代理は、まだ黒く濁った海から視線を外せなかった。
魚型魔獣の影は見えなくなった。
だが、異質な魔力は少しも弱まっていない。
むしろ島へ近付くほど、海の奥から押し返されるような圧力が強くなっていた。
◇
それからほどなくして、水平線の上にイオ島の黒い影が浮かび上がった。
水平線の上に浮かんだ黒い影は、船団が近付くにつれてゆっくりと輪郭を現していく。
崩れた崖。
黒く変色した森。
海沿いに残された石造りの建物。
かつて港だった場所には折れた係留柱が並び、半ば海へ沈んだ岸壁へ濁った波が打ち寄せていた。
島全体が、灰色の薄い霧に覆われている。
陽光は差しているはずなのに、森の奥は夜のように暗い。
枝を広げる木々には葉がほとんど残っておらず、幹の表面には黒い筋が血管のように走っていた。
船団から声が消えた。
誰もが目の前の島を見つめている。
報告書で危険な場所だと知っていた。
魔獣が増え、汚染が拡大していることも聞いていた。
それでも、実際に目にした光景は想像を遥かに超えていた。
「……あれが、イオ島」
若い魔術師が掠れた声で呟いた。
ガルディアは答えなかった。
船が朽ちた港跡へ寄せられる。
騎士たちは先に岸壁へ渡り、安全を確認しながら周囲へ展開した。
続いて魔術師たちが観測装置と封鎖用の魔導具を運び出していく。
地面へ足を下ろした瞬間、全員の表情が変わった。
空気が重い。
息を吸うだけで、喉の奥へ冷たいものがまとわりつく。
魔力を扱う者ほど、その異質さを強く感じていた。
「防護術式を維持しろ」
ガルディアの命令で、魔術師たちが周囲へ結界を展開する。
淡い光の膜が一行を包んだ。
それでも、皮膚の下へ染み込んでくるような不快感は消えない。
島の奥へ続く道は、黒い泥に覆われていた。
足を踏み出すたびに、ぬかるんだ地面から腐敗したような臭いが立ち上る。
道の両脇には形の崩れた建物が並び、割れた窓や開いた扉の向こうには暗闇だけが残されていた。
人の声はない。
鳥も鳴かない。
虫の羽音さえ聞こえなかった。
ただ遠くから、低い振動だけが伝わってくる。
地面の下で、何かが脈打っているような音だった。
「止まれ」
騎士団長代理が片手を上げる。
前方の黒い霧の中で、何かが動いた。
騎士たちは一斉に剣を抜き、魔術師たちは術式を構える。
しかし、現れたのは魔獣ではなかった。
四本足で歩く、小さな獣だった。
かつては狐か犬に似た動物だったのだろう。
毛はほとんど抜け落ち、露出した皮膚には黒い斑点が広がっている。
濁った目は一行へ向けられていたが、逃げることも襲いかかることもしなかった。
ただ、じっと見つめている。
やがて獣は口を開いた。
鳴き声は出なかった。
代わりに、黒い液体が顎から地面へ落ちた。
「……進め」
騎士団長代理は低く命じた。
誰もその獣へ近付こうとはしなかった。
一行は結界を維持したまま、島の奥へ進んでいく。
森へ入ると霧はさらに濃くなった。
枯れた枝が防護結界へ擦れるたび、乾いた音を立てる。
地面には何かの骨が散らばり、黒い苔のようなものがその表面を覆っていた。
魔力測定器の針は、限界近くまで振り切れている。
「統制官」
観測を担当していた魔術師が、震える声で呼びかけた。
「汚染濃度が高すぎます。このまま長時間滞在すれば、結界が保ちません」
「第四星環まではどれほどだ」
「記録上では、第四星環まであと三十分ほどです」
「ならば進む」
ガルディアは迷わなかった。
「裂け目を封鎖すれば、汚染の拡大も止まる。ここで引き返す理由はない」
魔術師は何かを言いかけたが、口を閉じた。
隊列は再び動き始める。
やがて木々の間から、巨大な石柱が姿を現した。
やがて森が途切れた。
その先に、巨大な黒い石塔が立っていた。
第一星環や第二星環で発見されたものよりも遥かに大きい。塔の外壁は異界の力に侵され、至るところが黒く変色している。それでも完全には崩れず、五百年もの間、島の中央に立ち続けていた。
神代文明の施設。
第四星環。
塔の入口には、壁と一体化した巨大な扉があった。
その前に広がる石床には、幾重もの円と導線からなる封鎖術式が刻まれている。神代魔法陣ではない。五百年前、レオン・アステリアが施した現代魔法陣だった。
術式を流れる光は弱い。
導線の多くが途切れ、黒い侵食に覆われている。三年前の調査で作られたはずの経路も、変形した術式の中へ埋もれ、すでに利用できる状態ではなかった。
ガルディアは石床へ膝をつき、魔法陣を見渡した。
「解析を始めろ」
魔術師たちが観測装置を広げる。
「封鎖術式そのものは崩すな。内部へ通じる経路だけを作り直す」
作業は、ガルディアが予想していたよりも遥かに難航した。
術式の一部へ魔力を流せば、離れた場所の導線が崩れる。
新たな経路を加えれば、それまで安定していた円が乱れ、扉全体を覆う封鎖が閉じてしまう。
魔術師たちは昼夜を問わず交代しながら解析を続けた。
それから一週間、魔術師たちは昼夜を問わず交代しながら解析を続けた。
封鎖の均衡を崩さず、内部へ通じる経路だけを作る。
口で言うほど簡単な作業ではなく、いくつもの魔力結晶が力を失って砕けた。
七日目の夜。
封鎖術式の一部を書き換えたところで、ようやく巨大な扉が低い音を立てた。
人が二人並んで通れるほどの隙間が開く。
その場にいた魔術師たちから、安堵の息が漏れた。
ガルディアは額に浮かんだ汗を拭い、開いた扉を見上げる。
「多少、手間取っただけだ」
誰へ言うでもなく呟き、塔の中へ足を踏み入れた。
◇
扉の先には、暗い通路が続いていた。
壁に刻まれた神代文字はほとんど光を失い、魔導灯を掲げなければ足元さえ見えない。
通路の奥には長い階段があり、地下深くへ向かって伸びている。
一行は防護結界を維持したまま、慎重に階段を下りた。
下へ進むほど、空気は重くなっていく。
冷たい魔力が防護結界の表面へまとわりつき、淡い光を黒く濁らせていた。
魔術師たちは何度も結界へ魔力を注ぎ直しながら、終わりの見えない階段を進んでいく。
やがて、先頭を歩いていた騎士団長代理が足を止めた。
階段が終わっている。
その先には、石造りの巨大な地下空間が広がっていた。
白い石を敷き詰めた床には、幾重もの円からなる神代魔法陣が刻まれている。
その周囲を取り囲むように無数の石柱が立ち、表面を走る神代文字が弱々しい光を明滅させていた。
中央には祭壇があった。
祭壇の上には、人の背丈を超える透明な結晶。
そして、その上で。
空間そのものが、裂けていた。
裂け目は黒かった。
霧でも影でもない。
周囲の光を呑み込み、何もない空間へ深い穴を開けている。
誰も言葉を発しなかった。
裂け目の向こうから、冷たい気配が流れ込んでくる。
生き物の気配ではない。
それでも、本能だけが告げていた。
近付いてはいけない。
見てはいけない。
ここは、この世界のものではない。
暗闇の奥で、何かが動いた。
一つ。
二つ。
数え切れないほどの目が、裂け目の向こうで次々と開いていく。
魔術師の一人が息を呑み、後ずさった。騎士たちも剣へ手を掛けたが、切っ先をどこへ向ければよいのか分からない。
「……これが、裂け目か」
騎士団長代理が剣の柄を強く握る。
ガルディアは答えず、一人で祭壇へ近付いた。
裂け目の周囲には、幾重もの現代魔法陣が展開されていた。
封鎖。
補強。
維持。
安定化。
五百年前、レオン・アステリアが幾つもの術式を重ね、裂け目の外側から押さえ込んだものだった。
術式は今も機能している。
ただし、その一部には損傷が生じていた。
幾つかの導線が途切れ、そこを流れる光が不規則に揺れている。
裂け目から漏れ出した黒い力が、そのわずかな綻びから外へ染み出していた。
ガルディアは崩れかけた魔法陣の前へ膝をつく。
複雑ではある。
しかし、そこに使われているのは現代の封印術だった。
刻まれた術式の意味も、魔力の流れも、彼には読み取ることができる。
ガルディアの口元へ、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
その下では、床を覆う神代魔法陣の導線が透明な結晶へ集まり、裂け目の奥へと繋がっていた。
だが、ガルディアが見ていたのは、自分に理解できる現代魔法陣だけだった。
「封鎖準備を始める」
魔術師たちが息を呑む。
ガルディアは立ち上がり、黒い裂け目を見上げた。
その顔に浮かんでいたのは、恐怖ではなかった。
確信だった。
「これなら封鎖できる」
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




