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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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帰れなかった朝

 夜の研究室には、ペン先が紙を擦る音だけが響いていた。


 王都へ戻ってから数日が経っている。

 ルーゼン侯爵領で発見された王墓と、長く閉ざされていた部屋については、すでに報告書へまとめて魔術塔へ提出していた。


 失われていた王冠と王印。王家の系譜や建国当時の記録。

 そして、最後の王が子孫へ残した言葉。

 歴史研究部門は、王国の成り立ちに関わる発見だと大騒ぎになっていた。

 追加の調査隊を派遣する準備も始まり、ルーゼン侯爵家には王都から問い合わせが殺到しているらしい。


 けれど、アルノの日常はすぐに元へ戻った。

 机と紙とインク。描きかけの魔法陣。そして、積み重なっていく失敗。

 机の上には四枚の薄紙が広げられていた。

 一枚ごとに異なる魔法陣が描かれ、重ねる位置を変えるたび、円環と導線の繋がり方が複雑に変化する。

 一つの平面では足りない。

 二枚を重ねても、三次元空間を扱う術式の域を出ない。

 空間そのものへ別の軸を加え、その上で出発点と到達点を結ばなければならなかった。

 エルディオンが邪竜とともに消えた異空間へ、辿り着くために。


 アルノは一番上の紙を少しだけずらし、接続を担う導線へ新しい円環を重ねた。

 中央に接続、内側に観測、外周にグランベルで手に入れたLimes――境界の概念を配置する。


「……違うな」


 しばらく眺めたあと、外周へ引いた線を消した。

 境界の意味が強すぎる。接続は外周まで綺麗に届いているのに、そこで流れを止められていた。

 越えるべき境目として置いたはずのLimesが、閉じるための壁になってしまっている。


 今度は接続と境界の間に、通過するための経路を作った。距離、空間、固定、遷移。これまでに集めた概念を一つずつ繋ぎ直し、魔力が滞らずに流れる順序を探していく。

 完成した魔法陣は美しかった。

 線の重なりにも無理がなく、少なくとも紙の上では理論が破綻していない。


 それでも、届かない。

 アルノには分かってしまった。


 この魔法陣を起動させても、開くのは行き先のない穴だけだ。

 運がよければ何も起こらず、悪ければどこへ繋がるとも知れない裂け目を作り出す。

 エルディオンのいる場所へは、辿り着けない。


 アルノは息を吐き、完成したばかりの紙を机の端へ退けた。

 代わりに新しい紙を引き寄せる。失敗が何度目になるのかは、もう数えていなかった。


 最初の頃は、一つずつ記録していた。

 接続不全、観測不足、境界干渉、空間固定の失敗。通過後の帰還経路が確保できないものも、別の項目へ分類した。

 けれど今では、机の横に積み上げられた紙の山を見ても、どれが何度目の失敗なのか分からない。


 アルノは新しい紙へ、観測を担う円から描き始めた。

 まず見つける。次に捉える。それから繋ぐ。

 その順序なら、これまでよりも正確に到達点を定められるはずだった。だが、円の外周へ最初の導線を伸ばしたところで、ペン先が止まる。


 何を見るのか。

 どこを探せばいいのか。

 エルディオンは生きている。

 そう信じているし、疑うつもりもなかった。

 けれど、居場所が分からない。

 あの日、エルディオンは邪竜とともに四次元魔法陣の向こうへ消えた。

 それが神代文明の接触していた外側領域と同じ場所なのか、まったく異なる世界なのか。

 現在の世界からどれほど離れ、どの方向に存在しているのかさえ分かっていない。

 地図の存在しない場所を、どうやって観測すればいい。


「……足りない」


 配置だけの問題ではなかった。

 魔力の流し方を変えても、魔法陣の形をどれだけ増やしても埋まらない。

 空間を越えるための構造は、少しずつ見え始めている。

 必要な線も、重ねるべき円環も分かる。それでも最後には必ず、何も置けない空白が残った。


 迎えに行くと決めた。だから、止まるわけにはいかない。


 アルノは目を開け、新しい線を引いた。

 途中まで描いては消し、組み直しては、また最初へ戻る。

 窓の外から街の物音が消えても、研究室にはペン先の音が絶えず響き続けた。


 ◇


 やがて、ペンを握っていた手が止まった。


 眠るつもりはなかった。

 けれど次に意識が浮上した時、アルノは机へ突っ伏し、頬には魔法陣の線が薄く跡を残していた。窓の外はすでに白み始めている。

 最初に気付いたのは、コーヒーの香りだった。


 アルノがゆっくりと顔を上げると、机の端に湯気の立つカップと、丁寧に折られた紙包みが置かれていた。

 ソファにはリネが腰掛け、眠そうに目を擦るアルノを見つめている。


「おはよう」


「……おはよう。いつ来たの?」


「少し前」


 リネは机の上に積み上がった紙を見回してから、呆れたように息を吐いた。


「昨日も帰らなかったんだね」


「もう少しで何か分かりそうだったから」


「その『もう少し』、昨日だけで何回あったの?」


 アルノは答えられず、視線を逸らした。リネも返事を求めていたわけではないらしく、紙包みを彼の前へ押し出す。


「おばさんも心配してるよ。『たまにはうちに帰って、ゆっくり休みなさい』って」


「母さんに会ったの?」


「今朝、ルーメル書房に寄ってきたの。これはおばさんから」


 包みを開くと、中には食べやすい大きさに切られたサンドイッチが並んでいた。

 柔らかなパンに卵や野菜が挟まれ、端まで丁寧に揃えられている。研究へ夢中になると食事を忘れる息子のことを、母は今もよく分かっていた。


「冷める前にコーヒーも飲んでね」


「うん。ありがとう」


「私じゃなくて、おばさんに言って」


「……今日、帰れたら言うよ」


「帰れたら、じゃなくて帰るの」


 念を押され、アルノは困ったように笑った。

 サンドイッチを一つ手に取り、端を小さく齧る。卵の優しい塩気と、薄く塗られたバターの風味が口の中へ広がった。

 子供の頃から、何一つ変わらない味だった。

 各地を旅して、さまざまな料理を食べてきた。

 それでも、この味だけは口へ入れた瞬間、自分がルーメル書房の息子だった頃へ戻れるような気がする。


「……いつもの味だ」


「おばさんが作ったんだから、当たり前でしょ」


 リネの声は柔らかかった。

 アルノはもう一口サンドイッチを齧り、少し苦いコーヒーを飲む。眠っていた身体に、ようやく朝が戻ってきた。


 しばらくして、リネの視線が机の隅へ置かれた一枚の紙で止まった。

 そこには、王家の開かずの部屋で見つけた神代文字が写し取られている。

 Vinculum。

 絆。結びつき。遠く隔てられても、失われずに残る繋がり。


「それは使わないの?」


 リネが尋ねた。

 アルノはサンドイッチを置き、Vinculumの写しへ目を向ける。


「今の魔法陣には入れてないよ」


「どうして?」


「使い方が分からないから。それに、たぶん四次元魔法陣とは関係ないと思う」


 これまで集めてきたのは、接続や距離、空間、固定、通過といった、魔法陣の構造へ直接組み込める概念だった。けれどVinculumは、それらとは意味の種類が違う。

 あまりにも人の心に近い言葉だった。

 精密な魔法陣を動かすためのものというより、誰かへ贈る言葉のように思える。

 それでも、その響きを口にすると、不思議と心が穏やかになった。魔力を乗せていないのだから、神代スペルが何かを起こしたわけではない。

 ただ、その意味が胸の内にある痛みのそばへ、柔らかく寄り添ってくれるような気がした。


「でも、アルノはその言葉、好きなんでしょ」


「……うん」


「だったら、持って帰れて良かったね」


 リネはそれだけ言い、コーヒーのカップへ手を伸ばした。

 ルーゼン侯爵領で見つかったのは、期待していた神代遺跡ではなかった。

 それでも、最後の王が守り続けたものと、王家へ託された想いを知ることができた。

 そして、用途の分からない神代スペルが一つ、アルノの手元に残った。

 今はまだ、それで十分だった。


 扉が叩かれたのは、その時だった。


「失礼します」


 入ってきたレグルスは、研究室を見回した途端、机の上で視線を止めた。

 灰色の外套を着たまま、手には細長い筒を持っている。


「朝から散らかっていますね」


「朝からじゃないよ。昨日の夜から」


 リネの訂正を聞き、レグルスは納得したように頷いた。


「それなら、この有様にも説明がつきます」


「納得しないでください……」


 アルノは頬に残った紙の跡を擦りながら、レグルスが持ってきた筒へ目を向けた。


「それは?」


「東部の遺跡から届いた壁面記録の写しです。遺跡自体は以前から確認されていましたが、内部の調査が進んでいませんでした」


 レグルスは机にわずかな空間を作り、筒の中から数枚の紙を取り出した。

 古い文字と、欠けた円環。壁面の損傷まで写し取られているため、線の一部は途切れ、紙自体にもわずかな歪みがある。

 それでも、神代文字であることは一目で分かった。

 アルノの眠気が消える。


「これは……保存かな。こっちは循環」


 写しの端を指で押さえ、残された線の流れを追っていく。

 文字として読むよりも先に、配置された意味が頭の中へ流れ込んでくる。

 レグルスはすぐに手帳を開いた。


「新たに確認された概念ですか?」


「ううん。以前にも見たことがある。第二星環の下層に残っていた記録と近いから、たぶん施設維持に関係するものだと思う」


「断定はできませんか」


「写しだけじゃ難しいですね。欠けてる部分も多いし」


 レグルスはアルノの答えをそのまま記録した。リネは二人の邪魔にならないよう席を離れ、窓際でコーヒーを飲みながら様子を見ている。


「こちらは?」


 レグルスが別の写しを広げた。

 半分ほど欠けた文字と、途中で断たれた円。そ

 の二つは保存を示す術式と繋がっているが、単に物質を劣化から守るためのものではない。

 アルノは身を乗り出し、指先で途切れた線の続きをなぞった。


「……記録、かな」


「記録?」


「うん。でも、普通の記録とは少し違う。保存されているのは情報じゃなくて……記憶に近いかもしれない」


 口にしたところで、手が止まった。


 記憶。


 その概念を、四次元魔法陣の空白へ入れられないかと考える。

 エルディオンとの記憶を手掛かりにすれば、観測する場所を絞れるかもしれない。


 だが、すぐに違うと分かった。

 記憶はエルディオンの姿を思い出すための手掛かりにはなる。

 けれど、今いる場所を示す座標にはならない。

 観測を補助できたとしても、道標としては足りなかった。


「……違うな」


「何がですか?」


「こっちの話です」


 レグルスはそれ以上尋ねなかった。

 聞かなくても分かっているのだろう。

 この三年間、アルノの思考の中心にあり続けたものは一つしかない。


 次の写しへ手を伸ばそうとした時、研究室の扉が予告もなく開いた。


 最初に入ってきたのは、黒紺の制服を着た男だった

 。胸元には魔術管理局の徽章が留められ、手には赤い封蝋の押された書類がある。

 その後ろに同じ制服の男が二人。さらに廊下には、帯剣した衛兵の姿も見えた。


 研究室の空気が変わった。

 リネがカップを置き、レグルスも手帳を閉じる。

 先頭の男は机へ広げられた魔法陣を一度だけ見渡すと、アルノの前へ進み出た。


「アルノ・ルーメル殿」


「はい」


 アルノは椅子から立ち上がった。

 男は手にしていた書類を開き、記載された内容を確認する。

 公印と封蝋のある、正式な命令書だった。


「魔術管理局より、あなたに対する拘束命令が出ています」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……拘束?」


「危険思想研究の疑いがあります」


 室内から、すべての音が消えた。

 アルノは男の言葉を頭の中で繰り返した。

 危険思想という言葉の意味は分かる。それでも、それが自分とどう結びつくのかが分からなかった。


「何についてですか」


「異界への接触を試みている可能性があるとの通報がありました」


「異界……?」


 アルノは机の上に広げられた魔法陣へ目を向けた。

 研究していたのは、エルディオンを迎えに行く方法だ。

 正体の分からない異界へ接触しようとしているわけではない。

 ただ、第三者から見れば同じものに見えるのかもしれなかった。


 行き先の定まらない四次元魔法陣。

 境界を越え、別の空間へ接続しようとする研究。

 神代人が繰り返し警告を残したLimesまで、魔法陣へ組み込もうとしている。


 危険だと言われる理由が、まったく理解できないわけではない。

 それでも、アルノが望んでいることは一つだけだった。

 エルディオンのいる場所へ届きたい。

 連れ戻したい。

 それだけだった。


「待ってください」


 リネが二人の間へ踏み出した。声には、隠しきれない強さが滲んでいる。


「何かの間違いじゃないんですか。アルノは異界をどうにかしようとしてるわけじゃありません」


 執行官はリネへ答えず、アルノだけを見ていた。


「アルノ・ルーメル殿。同行願います」


 今度はレグルスが一歩前へ出た。


「拘束理由の提示が不十分です。研究内容のどの部分を危険思想と判断したのですか」


「詳細は審査の場で明らかにされます」


「では、通報内容と証拠の開示を求めます」


「異議がある場合は、魔術管理局へ正式に申し立ててください。ここで回答する権限はありません」


 執行官の声に感情はなかった。

 説明や議論をするためではなく、すでに決定された命令を執行するために来たのだ。

 リネは納得していない。今にも執行官の腕を掴みそうな顔をしている。


「アルノ」


 呼びかけられ、アルノは首を横に振った。


「大丈夫」


 全然、大丈夫ではなかった。

 けれど、ここでリネが執行官を止めれば、彼女まで拘束されるかもしれない。

 それくらいは分かる。

 レグルスは短く息を吐き、アルノへ視線を向けた。

 普段と変わらないように見える表情の奥で、灰紫色の瞳だけが鋭さを増している。


「私が確認します」


 いつもの淡々とした声に近かったが、わずかに硬い。


「命令の経緯と通報者、審査の手順を調べます。少しだけ待っていてください」


「うん。お願いします」


 執行官が横へ退き、廊下へ出るよう促した。

 アルノは歩き出す前に、机を振り返った。


 描きかけの魔法陣。届いたばかりの神代文字の写し。冷め始めたコーヒーと、母が作った食べかけのサンドイッチ。


 今日はルーメル書房へ帰ると、リネに約束したばかりだった。

 ほんの少し前まで、普通の朝だった。

 それが急に、手の届かない場所へ遠ざかっていく。


 アルノは執行官に伴われ、研究室を出た。扉が閉じる直前、リネとレグルスの姿が見えなくなる。

 机の上には、未完成の魔法陣と、まだわずかに湯気を残したコーヒーだけが取り残されていた。


 ◇


 魔術管理局の建物は、魔術塔からそれほど離れていなかった。

 黒い石で造られた外壁には装飾がほとんどなく、窓も小さい。

 魔術を扱う施設というより、書類と規則だけで動く役所のように見えた。

 中へ入ると、人の気配はあるのに話し声がほとんど聞こえなくなった。

 職員たちは書類を抱えて廊下を行き交っているが、連行されてきたアルノへ視線を向けても、すぐに目を逸らしていく。


 事情を説明されることも、質問を受けることもなかった。

 長い廊下を進み、階段を下りる。

 さらにもう一つ階段を下りたところで、壁の材質が磨かれた石から無骨な岩へ変わった。


 地下だった。


 等間隔に並ぶ鉄扉には、魔法の発動を抑える術式が刻まれている。

 天井を走る導線も同じ役割を持っており、廊下全体が一つの魔法封じになっていた。

 そこでようやく、アルノは理解した。

 事情を確認するために呼ばれたのではない。

 本当に、拘束されたのだ。


「入ってください」


 執行官が一つの扉を開いた。

 中は小さな部屋だった。石の床と壁、簡素な寝台。高い位置に小さな窓があるだけで、机も椅子も置かれていない。

 牢だった。

 アルノは入口で足を止めた。


「……ここに?」


「一時拘束です」


「どれくらいですか」


「審査が終わるまで」


「審査はいつ始まるんですか?」


「決まり次第、通知します」


 それ以上の説明はなかった。

 アルノが部屋へ入ると、背後で鉄扉が閉じた。

 鍵の掛かる重い音が響き、執行官たちの足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。


 やがて、何も聞こえなくなった。


 危険思想研究。

 異界への接触。

 通報。

 拘束。

 言葉の意味は、どれも分かる。

 けれど、そのどれもが自分のしてきたことと上手く繋がらなかった。


 エルディオンを迎えに行く。

 そのための研究が、危険思想と呼ばれている。


 アルノは寝台へ腰を下ろし、改めて部屋の中を見回した。


 紙がない。

 ペンもない。

 魔法陣を描ける机すらない。

 牢へ入れられた恐怖よりも、その事実の方が遅れて現実味を持って迫ってきた。


 研究ができない。

 さっきまで、新しい配置を試していた。

 東部の遺跡から届いた写しも、まだ半分しか確認していない。あと少し考えれば、空白へ繋がる何かが見つかるかもしれなかった。

 けれど今は、一本の線さえ引くことができない。


 アルノは両手を見下ろした。指先には、研究室で付いた黒いインクの跡が残っている。

 その指で、膝の上へ見えない円を描いてみる。

 頭の中に魔法陣を置くことはできる。

 けれど、複雑な構造を検証するには、やはり紙が必要だった。

 アルノは石壁へ背を預け、細く息を吐いた。


「……困ったな」


 その声は、静かな地下牢へ吸い込まれて消えた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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