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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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世界の境目

 王都へ報告が届いたのは、春の終わりだった。


 東部地方、ルーゼン侯爵領。その奥地で、新たな地下遺跡が発見されたという。

 調査隊から届いた報告によれば、内部には人工的な構造物が確認されており、神代文明に由来する可能性が高かった。


 簡潔にまとめられた報告書だった。

 けれど、アルノは最後まで読み終えるより先に椅子から立ち上がっていた。


「行ってきます」


 神代語辞典編纂室にいた研究員たちが、一斉に顔を上げる。


 壁際の書棚には編纂途中の資料が並び、アルノの机にも神代語辞典第四版の原稿や星環関連用語集、各地から送られてきた拓本が積み上がっていた。

 三年前には存在すらしなかった神代語専門の部署は、今では王都魔術塔でも有数の忙しさを誇っている。


「先生、またですか」


「うん」


 アルノは報告書を折り畳み、旅支度に必要な書類だけを抜き出した。


 遺跡発見の報告を受けるたび、主任研究官が仕事を置いて出かけてしまう。

 残される側が慣れてしまうのも、無理はなかった。


「三日で戻るから」


「現地まで片道五日はかかりますよ」


「……なるべく早く戻るから」


「絶対無理ですよね」


「多分」


 研究員たちは揃って諦めたような顔をした。

 その様子を見てアルノが困ったように笑っていると、奥の机で資料を整理していたエレナが立ち上がる。


 低い位置で束ねられた灰褐色の髪が肩を流れ、青灰色の瞳が報告書へ向けられた。

 エレナはアルノの手から書類を受け取ると、必要な部分だけを素早く確認し、すでに用意していた革の鞄へ収める。


「ルーゼン侯爵家から正式な調査依頼が届いています。現地までの通行証と、遺跡へ入るための許可証も入れておきます」


「ありがとうございます。エレナさん、留守の間よろしくお願いします」


「留守中はお任せください。お気をつけて」


 アルノは頷き、壁に掛けていた外套を手に取った。


 神代遺跡が見つかったのなら、行かないという選択肢はない。

 それは三年前から、何一つ変わっていなかった。


 ◇


 王都を出て五日目、一行は東へ延びる街道を進んでいた。


 春の終わりを告げる風が草原を渡り、街道沿いに咲いた小さな白い花を揺らしている。

 アルノは一人で馬へ跨がり、前方の様子を確かめながら、慣れた手つきで手綱を操っていた。


 三年前には一人で馬へ乗ることもできず、エルディオンの後ろへ乗せてもらっていた。

 それを思えば、馬上で地図を広げられるようになっただけでも大きな進歩だった。


 少し前を走るリネの赤茶色のポニーテールが、馬の歩みに合わせて弾んでいる。

 反対側ではレグルスが灰色の外套を風になびかせ、銀縁眼鏡の奥から周囲の地形と地図を交互に見比べていた。


 先頭を行くのはアレクシスだった。


 白い上着には銀糸の装飾が施され、手綱を握る手にも白い手袋をはめている。

 聖騎士団を退団した今も、身につけるものはほとんど白か銀だった。

 街道を進めば土埃を浴び、遺跡へ入れば泥や煤で汚れる。

 それでも、アレクシスがほかの色を選ぶことはない。


 以前、アルノが理由を尋ねたことがあった。


「白が好きだからです」


 返ってきたのは、それだけだった。


「この先に鉱山都市グランベルがあります」


 レグルスが地図を見ながら告げる。


「ルーゼン侯爵領へ入る前に物資を補充するのであれば、立ち寄るのが妥当でしょう」


「宿もある?」


「鉱山労働者や商人が多く出入りする都市です。問題なく確保できると思います」


 目的地である地下遺跡は、グランベルからさらに東へ進んだ先にある。

 必要な食料や灯りを補充するには、グランベルが最後の大きな都市だった。


「じゃあ、明日はグランベルだね」


 リネが振り返る。


「今日はこの辺りで休もうか。暗くなってから野営場所を探すの、大変だから」


 異論を唱える者はいなかった。

 一行は街道から少し離れた林へ向かい、その日の野営地を整えることにした。


 ◇


 夕暮れの林に、橙色の焚火が揺れていた。


 吊り下げられた鍋からは、濃厚な香りが漂っている。

 中で煮込まれているのは、昼間にリネが仕留めた獣の肉と根菜だった。

 香草で臭みを消し、仕上げにチーズを溶かしたことで、野営中とは思えないほど立派なシチューになっている。


 焼いたパンも、焚火のそばへ並べられていた。

 もともと料理上手だったリネは、旅を重ねるごとにさらに腕を上げている。

 カッセル商会が旅人向けに扱うスパイスセット『旅シリーズ』も少しずつ種類が増え、今では限られた食材でも、その日の気分に合わせて味を変えられるほどだった。


「できたよ」


 リネが鍋の前へ人数分の皿を並べる。

 大きなアーモンド形の琥珀色の瞳には、揺れる焚火の光が映っていた。


 アレクシスは自分の皿を受け取ると、シチューを注いでもらう前に、その縁へ指先を向けた。


「Clean」


 淡い光が皿の表面を滑り、木製のスプーンとコップまで順番に包み込む。

 光が消えた時には、どれも新品のように磨き上げられていた。

 それを見届けてから、リネはアレクシスの皿へシチューを取り分けた。

 濃厚な香りを含んだ湯気が、焚火の明かりの中へ立ち上っていく。


 アレクシスは、単に綺麗好きという程度ではない。

 自他ともに認める、重度の潔癖症だった。

 食器や寝具は必ず自分で洗浄し、旅先の宿では部屋の取っ手に触れることさえ避ける。

 二年半も行動を共にしてきたアルノたちにとっては、すでに見慣れた習慣だった。


「毎回やるんですね」


 アルノが見つめていると、アレクシスは当然のように頷いた。


「口へ入れるものに使う道具ですから」


「私がちゃんと洗ったんだけど」


「リネ殿を信用していないわけではありません。万全を期しているだけです」


「それ、信用してないのと何が違うの?」


 リネが不満そうに頬を膨らませる。

 アレクシスは返答に迷ったようだったが、やがて何も言わずにスプーンを取った。


 最強格の剣士として名を馳せた一方で、アレクシスには魔術師としての才能がほとんどなかった。

 唯一まともに扱えた魔法は、洗浄術式《Clean》だけだった。


 白銀剣と呼ばれた男が、剣ではなく皿を光らせている。

 初めて見た時には誰もが反応に困ったが、今ではすっかり見慣れた光景だった。


「アレクシスさん、本当は魔術師になりたかったんですよね」


 アルノがパンをちぎりながら尋ねる。

 アレクシスはシチューを一口食べ、飲み込んでから頷いた。


「幼い頃は身体が弱く、ほとんど部屋から出られませんでした。その頃に読んでいた絵本の影響です」


「絵本ですか」


「『邪竜と伝説の魔術師』です」


 それがエルディオンを主人公として描いた物語だと、ここにいる全員が知っている。


 幼いアレクシスは、絵本の中で邪竜へ立ち向かう銀髪の魔術師に憧れた。

 いつか自分も魔法を使い、誰かを救う人間になりたいと願ったが、魔術師としての適性には恵まれなかった。

 それでも諦めずに選んだのが剣だった。

 結果として二十三歳で《白銀剣》の称号を授けられ、聖騎士団第一位へ上り詰めたのだから、才能の向きが違っていただけなのだろう。


「それで、エルさんを迎えに行く旅へ加わったんですね」


「はい」


 アレクシスは短く答えた。

 燃える薪が小さく爆ぜ、その蒼い瞳に橙色の光が映り込む。


「エルディオン殿は、私が目指す道を示してくださった方です。ご本人が私を知らなくとも、受けた恩が消えるわけではありません」


 その言葉に、アルノは膝の上で手を握った。


 エルディオンが残したものは、自分たちの記憶だけではない。

 五百年もの間に物語となり、その背中を追う者を生み、今も誰かの人生へ繋がっている。


「でも、聖騎士団であんなに早く出世したのは、別の理由もあったんですよね」


 リネが思い出したように口を挟む。

 アレクシスは少しも表情を変えず、真顔で答えた。


「共同浴場が嫌だったので」


「それで出世を急ぐ人、初めて見ました」


「副隊長以上には個室と専用の浴室が与えられます。私には必要なことでした」


 アルノは何も言えなくなった。

 レグルスも反論するべきところを見つけられなかったのか、黙ってシチューへ視線を戻す。

 リネだけが声を上げて笑い、その明るい笑い声が夕暮れの林へ広がった。


 ◇


 翌日の昼過ぎ、一行は鉱山都市グランベルへ到着した。


 切り立った山の斜面へ石造りの建物が連なり、幾筋もの運搬路が鉱山の入口から街まで延びている。

 鉱石を積んだ荷車が絶えず行き交い、車輪が石畳を踏むたび、乾いた音とともに細かな砂埃が舞い上がっていた。


 アルノたちは必要な食料や灯石を補充し、ひと晩だけ宿を取る予定だった。

 ところが、王立学術院の調査員と元聖騎士団第一位が街へ入ったことは、思っていた以上に早く領主の耳へ届いた。


 ほどなくして使者が現れ、グランベルから先の街道状況を説明したいという領主の意向を伝えてきた。

 断る理由もないため、四人は物資の手配を終えてから館へ向かうことにした。


 その途中、一台の荷車から麻袋が滑り落ちた。

 鉱石の欠片を詰めた重い袋が、道端にいた幼い子供へ向かって転がっていく。

 リネはすぐに馬から降り、子供を抱き寄せながら片足で麻袋を受け止めた。


「危なかったね。怪我はない?」


 リネは子供の前へ屈み込み、服へ付いた土を払ってやる。

 春の陽射しを受けた赤茶色の髪には鮮やかな赤が浮かび、柔らかく細められた琥珀色の瞳には温かな光が宿っていた。


「うん。ありがとう、お姉ちゃん」


「次からは荷車の近くで遊んじゃ駄目だよ」


 子供が大きく頷く。

 リネは安心したように笑い、持ち主の鉱夫と一緒に麻袋を荷台へ戻した。


 その様子を、館の門前に立っていた若い領主が見つめていた。


 ◇


 グランベル城主は、アルノが想像していたよりも若い男だった。

 年の頃は二十代後半。背丈はさほど高くなく、少し小太りな体つきとふっくらした頬のせいか、実際の年齢よりも親しみやすい印象を与える。

 丁寧に後ろへ撫でつけられた濃い茶色の髪と、明るい褐色の瞳をしていた。

 纏っている服は豪奢ではあるものの、余分な装飾は少なく、動きやすさが重視されている。

 机の上には鉱山の地図や採掘量を記した書類が積まれ、いずれにも細かな書き込みが加えられていた。

 応接室へ通された四人を迎えると、城主は挨拶もそこそこに、ルーゼン侯爵領までの街道状況を説明し始めた。


「三日前の雨で、東側の街道が一部崩れている。馬で通れないほどではないが、荷を積んでいるなら北側へ迂回した方が安全だ」


「崩落地点は、この辺りですか」


 レグルスが地図の一点を示す。


「ああ。修復にはあと二日ほどかかる。必要であれば、案内役を出そう」


「地図があれば問題ありません。情報提供に感謝します」


 話しぶりは真面目で、鉱山や街道の状態も細かく把握していた。

 領主として無能な人物ではないらしい。


 けれど、説明を続けている間も、その視線は何度もリネへ向けられていた。


 最初は、先ほど子供を助けたことへ礼を言いたいだけなのだろうとアルノは思った。

 しかし、地図の説明が終わっても、領主は落ち着かない様子でリネを見ている。


「先ほどは、領民の子供を助けてくれたそうだな」


「たまたま近くにいただけです」


「かなりの重さがある麻袋だったと聞いた。見事な身のこなしだった」


「慣れてるので」


 リネは特に気にした様子もなく答える。

 領主はその顔をしばらく見つめたあと、意を決したように椅子から立ち上がった。


「一つ、個人的な願いを聞いていただきたい」


「私に?」


「そうだ」


 領主はリネの前まで進むと、胸へ手を当てて深く頭を下げた。


「私は、あなたの強さと優しさに心を奪われた」


「はあ」


「ぜひ我が妻に」


「嫌です」


 間を置かない即答だった。


 領主の動きが止まる。

 アルノは隣で目を瞬き、レグルスは自分の判断領域ではないと考えたのか、手元の地図へ視線を落とした。


 アレクシスだけは、求婚する側と断る側を順番に見ている。

 聖騎士として数々の儀礼へ立ち会ってきた彼にも、この展開は予想できなかったらしい。


「なぜだ」


「全部」


 リネが答える。


「全部?」


「全部」


「まだ何も話していないぞ」


「会ったばかりの相手に求婚するところも含めて、全部です」


 領主の顔から、目に見えて血の気が引いた。

 リネが誰かと結婚すること自体を想像していなかったアルノも、どう反応すればいいのか分からない。


「せめて、もう少し考えてから返事を――」


「考えても同じです」


「一日だけでも」


「嫌です」


 どれほど食い下がっても、リネの返事は変わらなかった。


 気まずい沈黙が応接室へ落ちた、その時だった。

 扉が勢いよく開き、息を切らした執事が飛び込んでくる。


「旦那様!」


 ただならぬ様子に、領主がすぐさま振り向く。

 先ほどまで浮かべていた傷心の表情が消え、領地を預かる者の顔へ変わった。


「何があった」


「鉱山で魔獣が大量発生しました! 最深坑道から溢れ出し、作業員が取り残されています!」


「坑道の入口を封鎖しろ。動ける自衛団を集め、医師と担架を向かわせるんだ」


「すでに手配しております!」


「負傷者の数は」


「確認できているだけで十二名です。奥に残っている者の数は分かりません」


 領主は机に広げていた鉱山図を掴み、迷うことなく部屋を出ようとした。


「私も行く」


「旦那様、危険です!」


「領民を残して館にいるわけにはいかない」


 領主の声に迷いはなかった。その姿を見て、アルノたちも立ち上がる。


「僕たちも行きます」


「しかし、あなた方には別の目的があるのだろう」


「だからって、放っては行けません」


 リネも頷き、手袋の締まりを確かめる。

 アレクシスはすでに腰の剣へ手を添え、レグルスは机の鉱山図を目で追っていた。


「最深坑道までの経路を確認させてください。分岐が多いのであれば、案内役も必要です」


 領主は四人の顔を見回し、深く頭を下げた。


「力を貸してほしい」


 求婚を断られたばかりの男の声ではなかった。領民を救うために助力を求める、領主としての声だった。


 ◇


 魔獣が現れたのは、現在採掘が進められている最深坑道だった。


 作業中に古い石壁の一部が崩れ、その奥から魔獣の群れが溢れ出したという。

 幸い、最初に遭遇した鉱夫たちは逃げ延びたものの、奥の坑道には取り残された者がいる可能性があった。


 入口へ着いた時には、自衛団が負傷した鉱夫を次々と運び出していた。

 服や顔を黒い粉塵で汚し、苦しげに呻く者もいる。

 坑道の奥からは、獣の唸り声と岩を引っ掻く音が聞こえていた。


「先に進んだ救助隊が、第二分岐で足止めされています」


 自衛団の隊長が鉱山図を広げる。


「魔獣の数は?」


「正確には分かりません。少なくとも二十体以上です」


 レグルスは分岐の位置と坑道の広さを確認し、逃げ道になりそうな経路を指先で辿った。


「崩落の危険があるため、大規模な魔法は使えません。アレクシスさんとリネが前衛、私は後方から魔獣の動きを確認します。アルノは負傷者と支柱の防護を」


「分かりました」


 役割が決まり、一行は坑道へ入ろうとした。


 その直前、先頭に立っていたアレクシスが足を止める。


 坑道の中には濁った泥水が溜まり、岩壁には黒い煤と、魔獣が残した粘液がこびりついていた。湿った空気には土と鉄、それに腐敗した何かの匂いが混じっている。

 アレクシスは白い手袋に包まれた指で、剣の柄を強く握っていた。


「どうした。何か問題があるのか」


 領主が尋ねる。


 アレクシスは坑道の奥を見据えたまま、硬い声で答えた。


「念のため、先にお伝えしておきます」


 領主と自衛団の者たちが、その言葉を待った。


「私は、重度の潔癖症です」


「……今、言うことか?」


「今だから申し上げています」


 アレクシスは真顔だった。

 アルノたちは事情を知っているため驚かなかったが、白銀剣と呼ばれた男の告白に、自衛団の者たちは互いの顔を見合わせている。


 アレクシスは、単に汚れることを嫌っているわけではなかった。

 幼い頃から病気がちだった彼は、身の回りの者たちから、汚れや菌が病を運ぶものだと繰り返し教えられて育った。

 成長して身体が丈夫になってからも、触れれば病気になるかもしれない、

 自分が誰かへ病を移すかもしれないという恐怖だけは消えなかった。


 理屈では危険がないと分かっていても、身体が強張り、呼吸が浅くなる。洗浄魔法を使えるようになっても、触れる瞬間の恐怖まで消せるわけではなかった。


「場合によっては、動きが鈍る可能性があります」


「それなら、ここに残ってください」


 アルノが確認する。アレクシスは一度だけ目を閉じ、呼吸を整えてから首を振った。


「必要ありません」


「でも――」


「中には、救助を待っている者がいます」


 潔癖症であることと、騎士として進むことは、彼の中では別の問題なのだろう。

 アレクシスは白銀の剣を抜き、その切っ先を暗い坑道へ向けた。


「入りたくはありません」


 きっぱりと言い切る。


「ですが、入らないという選択肢もありません」


 アレクシスは泥水の中へ、最初の一歩を踏み出した。


 ◇


 坑道へ入った瞬間、湿った土と鉱石の匂いがさらに濃くなった。


 壁や天井を支える木材は煤で黒ずみ、足元には細かな石屑が散らばっている。灯りが届かない奥からは、無数の足音が近付いていた。


「来ます」


 アレクシスが低く告げる。

 直後、暗闇の向こうから魔獣が飛び出した。


 岩石のような甲殻に覆われた四足の魔獣だった。

 続いて二体、三体と姿を現し、狭い坑道を埋め尽くすように押し寄せてくる。


「ここで大規模な攻撃魔法を使えば、坑道そのものが崩れます」


 レグルスが周囲の支柱を見ながら告げる。


「分かってます」


「Ventusは禁止です」


「分かってるよ!」


 前回の遺跡を半壊させた実績があるため、反論することはできなかった。

 アルノは攻撃をアレクシスとリネへ任せ、自分は負傷者と坑道の支柱を守れる位置へ移る。

 いつでもLe-Aegisを発動できるよう、周囲へ注意を巡らせた。


 アレクシスが地面を蹴った。


 白銀の剣が暗闇に弧を描き、一体目の魔獣を甲殻ごと斬り裂く。

 返す刃で二体目の脚を断ち、倒れ込んだ頭部へ迷いなく剣先を突き立てた。


 その横を、リネが駆け抜ける。


 赤茶色のポニーテールが炎のように翻り、大きな琥珀色の瞳が魔獣の動きを正確に捉える。

 振り下ろされた前脚を身を沈めてかわすと、その懐へ踏み込み、甲殻の継ぎ目へ拳を叩き込んだ。


 鈍い破砕音が響き、魔獣の巨体が坑道の壁へ叩きつけられる。

 さらに横から迫った一体へ身体をひねり、勢いを乗せた蹴りで頭部を打ち抜いた。


 後方から続いていた自衛団の者たちが、揃って言葉を失う。

 領主も護衛に守られながら救助の指示を出していたが、先ほど求婚した相手が魔獣を殴り飛ばす姿を目の当たりにし、わずかに表情を強張らせた。


 アルノは前へ出ず、後方へ流れてきた魔獣と負傷者の位置を見ていた。


「Le-Aegis!」


 神代スペルへ乗せられた魔力が、発音と同時に解き放たれた。

 金色の光が負傷者たちの前へ走り、透き通った防壁を形作る。

 魔獣の爪が防壁へ叩きつけられ、重い衝撃音が坑道に響いた。

 金色の壁は激しく揺れたものの、爪を正面から受け止め、背後にいる負傷者たちを守り抜いた。

 天井から岩が崩れ落ちる。アルノはすぐにもう一枚の防壁を頭上へ展開し、落石を受け止めた。


 攻撃には加われない。それでも、守ることならできる。


 レグルスは坑道の分岐と魔獣の流れを観察していた。

 足跡の数、壁に残された傷、奥から伝わってくる振動を確かめながら、次に群れが現れる方向を見定めていく。


「右側の坑道から来ます。数は六、おそらく大型種が一体」


 警告の直後、右の暗がりから魔獣が躍り出た。


 アレクシスが最初の一体を斬り伏せる。

 切断された首から黒い血が噴き出し、その頬と白い外套へ降りかかった。


 白銀の剣が止まる。


 アレクシスの呼吸が浅くなり、剣を握る指が震えた。

 目の前に残る魔獣ではなく、頬を伝う生温かな血へ意識を奪われている。


「アレクシス!」


 リネの声が坑道へ響く。


 大型種が別の魔獣を押しのけ、リネへ向かって爪を振り下ろしていた。

 リネは一体を殴り倒した直後で、回避が間に合わない。


 アレクシスの蒼い瞳が動いた。


 震えていた手で剣を握り直し、泥水を蹴る。

 白銀の刃が横薙ぎに走り、リネへ迫っていた爪を根元から切断した。


 魔獣が苦痛に身を捩る。その下へ潜り込んだリネが、甲殻の隙間へ拳を打ち込んだ。


 大型種の核が砕け、巨体が地響きを立てて崩れ落ちる。

 さらに飛び散った黒い血がアレクシスの白い上着を汚したが、今度は剣を止めなかった。


「助かった!」


「ご無事で何よりです」


 声は硬く、顔色も悪い。それでもアレクシスは前を向いた。


 それから一時間近く、戦いは続いた。


 狭い坑道でアレクシスが前線を支え、リネがその隙間を縫って魔獣を仕留める。

 アルノは負傷者と支柱を防壁で守り、レグルスは次の襲撃地点を予測して自衛団へ指示を送った。


 最後の一体が白銀剣に斬り伏せられると、坑道には荒い呼吸と、剣先から黒い血が滴る音だけが残った。


「討伐完了です」


 魔獣の群れに道を塞がれていた坑道の奥から、取り残されていた鉱夫たちも発見された。

 崩れた支柱の陰で身を寄せ合っており、数人は怪我を負っていたものの、幸い命を落とした者はいなかった。


 領主は名簿を手に一人ずつ名前を確かめ、自衛団へ救出を指示する。

 アルノも頭上へ黄金の防壁を残し、落石から退路を守った。

 やがて最後の一人が坑道の外へ運び出され、全員の救出が確認された。


 アレクシスはそこで初めて剣を振り、刃に残った黒い血を落とした。取

 り残されていた者たちが無事だと理解した途端、張り詰めていたものが切れたように肩が下がる。


「アレクシスさん、大丈夫ですか」


「大丈夫ではありません」


 即答だった。


「今すぐ服を脱ぎ、全身を洗浄したいです」


「正直ですね……」


 アレクシスはCleanで頬と手袋の汚れを落とす。

 それでも完全には落ち着かないのか、同じ場所へ二度、三度と淡い光を重ねてから、ようやく剣を鞘へ収めた。


 リネはそんなアレクシスの隣へ立ち、背中を軽く叩いた。

 汚れた手で触れないよう、拳を使わず手首の外側を当てている。


「ありがとう」


「礼は不要です」


「でも、助けてもらったから」


 アレクシスは何も答えなかった。わずかに伏せられた蒼い瞳には、まだ恐怖の名残があった。

 それでも、最後まで退かなかった。


 ◇


 アルノは防壁を解除し、周囲の安全を確認しながら坑道の奥へ進んだ。

 その途中で、不意に足が止まる。


「……何だこれ」


 魔獣が現れた穴の横に、周囲とは色の違う岩壁があった。

 表面は長い年月を経て鉱物の膜に覆われているが、その下には、消えかけた細い導線が走っている。


 アルノの灰銀色の瞳が、坑道を照らす灯りを受けて淡い銀色へ変わった。

 壁際へ屈み込み、無意識に指先で点と点を結びながら、途切れた線の先を追っていく。


「魔法陣です」


 レグルスもそばへ来て、壁へ視線を走らせた。


「魔獣は、この奥から出てきた可能性があります」


 アルノは鉱物の下に埋もれた導線へ指先を添えた。

 消えかけた構造を頭の中で組み直し、途切れている一本だけへ慎重に魔力を流す。


 淡い光が岩壁へ広がった。


 石と石の境目に細い隙間が生まれ、低い振動とともに壁の一部が奥へ沈んでいく。

 長い間閉ざされていた空気が、冷たい風となって坑道へ流れ込んだ。


 現れた通路は、鉱山よりも遥かに古かった。


 磨かれた石の床には複雑な導線が残り、壁には等間隔で窪みが設けられている。

 灯りはすでに失われていたが、アルノたちが入ると、わずかに残った魔法陣が反応するように淡く明滅した。


 一行は慎重に通路を進んだ。


 やがて、その先に広大な地下空間が現れる。


 天井近くまで伸びた石柱。崩れ落ちた装置と、床一面に刻まれた巨大な魔法陣。壁には無数の神代文字が並び、奥には地中を貫くような縦穴がいくつも開いていた。


「神代文明の採掘施設でしょうか」


 レグルスの灰紫色の瞳に、研究者としての鋭い光が宿る。崩れた装置へ近付き、残されている導線と縦穴の配置を見比べた。


「おそらく、神代文明の鉱山施設です」


 レグルスの灰紫色の瞳に、研究者としての鋭い光が宿る。地中へ伸びる縦穴や崩れた運搬装置、壁際に残された鉱石の欠片を順番に確認していった。


「鉱石を掘り出し、ここで選別や精錬を行っていたのでしょう。星環と同じ神代文明の技術が使われていますが、施設としての役割は異なります」


「閉鎖された施設ってこと?」


「その可能性は高いですね。通路が意図的に塞がれていました。閉鎖された理由は、壁の記録を確認しなければ分かりません」


 アルノは答えず、壁一面に刻まれた文字を見上げた。


 読める言葉がある。掘削、搬出、選別、精錬、封鎖。

 神代の鉱山で使われていたと思われる言葉が、作業手順や記録の中へ組み込まれている。

 その中に、一つだけ異質な単語があった。


「……Limes」


 声に出すと、広大な地下施設へ音が吸い込まれていった。


「意味は?」


 レグルスが尋ねる。


 アルノは壁から目を離さなかった。


「境界」


 指先で文字の形をなぞる。その先には、外側領域を示す神代文字と、現在の世界を示す記号が刻まれていた。


「世界と世界の境目」


 胸の奥が震えた。


 神代人は鉱石を求め、地中深くまで掘り進めた。その先で見つけたのは、新たな鉱脈ではなかった。

 世界と世界を隔てる境界。

 壁に残されていたのは、鉱山で働く者たちへ向けた警告だった。

 Limesを越えるな。向こう側を覗くな。境界の先へ手を伸ばすな。


 ただ、同じ警告だけが形を変えながら何度も繰り返されていた。


「警告ですね」


 レグルスが壁を見上げる。


「はい」


「境界を越える方法が記されているわけではありません」


「分かってます」


 答えながらも、アルノの口元には笑みが浮かんでいた。その表情を見たレグルスが、わずかに眉を寄せる。


「では、どうして笑っているんですか」


 アルノはLimesの文字へ手を触れた。


 三年間、接続を調べてきた。距離、空間、固定、通過、遷移、観測。いくつもの神代スペルを集め、魔法陣へ組み込んでは失敗を繰り返した。


 どれも必要なものだった。けれど、すべてを繋ぐための何かが足りなかった。


 移動するには、出発点と到達点が必要になる。世界を越えるのなら、まず二つの世界を隔てているものが何なのかを知らなければならない。


 Limes。


 これは扉ではない。エルディオンのいる場所へ、すぐに辿り着ける魔法でもない。


 それでも、越えるべきものに初めて名前が付いた。


「多分」


 アルノは胸の奥へ込み上げてくる熱を押さえながら、壁の文字を見つめる。


「探してたものだ」


 脳裏に、月光を編み込んだような銀髪が浮かんだ。深い碧眼と、最後に見せた優しい笑顔。

 あの日から止まっていた道が、わずかに先へ延びたような気がした。


 まだ足りない。Limesの意味を理解しただけでは、四次元魔法陣を完成させることはできない。


 それでも、三年間探し続けてきたアルノにとって、それは初めて見つけた確かな一歩だった。


 少し離れた場所では、アレクシスが汚れの残る外套を気にしながら、それでも壁の警告を見上げていた。


 越えるな。


 その言葉が、アルノの胸へ重く落ちる。


 怖くないわけではない。何が待っているのかも分からない。それでも、その先に助けたい誰かがいるのなら、進むしかない。


 先ほど泥水の中へ踏み込んだアレクシスの背中が、頭をよぎった。


「見つかったんだね」


 リネがアルノの隣へ立つ。


「うん」


 灰銀色の瞳は、最後までLimesの文字から離れなかった。


 ◇


 必要な記録を写し取り、施設の入口を封鎖し直した頃には、外は夕暮れを迎えていた。


 鉱山の入口では、救出された鉱夫たちと自衛団が一行を待っていた。領主は黒い粉塵にまみれたアルノたちの前へ進み、深く頭を下げる。


「鉱山と領民を救っていただいた。礼をしたい」


 アルノたちは顔を見合わせた。求めていたものは、すでに手に入れている。


 報酬を受け取る代わりに、神代施設の継続調査と記録の持ち出しを認めてもらうことになった。

 領主も異論を唱えず、王都から正式な調査団が来るまで、最深坑道を封鎖すると約束した。


 話が終わると、領主は最後にリネへ目を向けた。


 リネの髪も服も砂埃に汚れ、拳には魔獣の黒い血が残っている。

 先ほど大型種を殴り倒した時の光景を思い出したのか、領主の顔がわずかに強張った。


「縁談の件ですが」


 リネが振り向く。


 領主は一度咳払いをしてから、先ほどとは異なる真剣な顔で頭を下げた。


「一目見ただけで求婚した私が浅はかだった。あなたがどのような人間なのかも、何を目指して旅をしているのかも知らず、自分の望みだけを押し付けてしまった」


 予想していなかった謝罪に、リネが目を瞬く。


「無かったことにしていただきたい」


「え」


 あまりにも真剣な表情で告げられ、リネは一瞬反応に迷った。


「……ぜひ」


 領主は安堵したように息を吐き、もう一度頭を下げた。そのまま館へ戻っていく背中を、リネは複雑そうな顔で見送る。


 やがて一行がグランベルを出て、ルーゼン侯爵領へ続く街道を進み始めた頃、リネが納得できないように口を開いた。


「なんか私」


 隣を進んでいたアルノが顔を向ける。


「振られたみたいになってない?」


「自分で断ったんだよね?」


「そうなんだけど!」


 夕暮れの街道へ、リネの声とアルノの笑い声が響いた。


 その少し前では、アレクシスが汚れの落ちた白い外套を確かめながら馬を進めている。

 レグルスはすでに手帳を開き、鉱山で見つかった施設とLimesについて書き足していた。


 アルノは堪えきれずに笑いながら、新たに手に入れた神代スペル――Limesを胸の内でそっと反芻した。


 境界。


 その響きと意味は、すでに確かなものとしてアルノの中へ刻まれている。


 目的地であるルーゼン侯爵領の遺跡は、まだ先にある。それでも、そこへ向かう途中で、三年間探し続けてきたものの一端を見つけることができた。


 境界は、越えてはならない場所として記されていた。


 けれど、その先にエルディオンがいるのなら、アルノに引き返すという選択はなかった。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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