三年後
エルディオンが消えてから、三年が過ぎた。
王国東部で新たに発見された神代遺跡の地下には、長い年月を閉じ込めていたような冷たい空気が満ちていた。
崩れかけた石壁には消えかけた導線が残り、天井の亀裂から落ちた砂が床を薄く覆っている。
その奥へ、四人分の足音が響いていた。
「祭壇があります」
先頭近くを進んでいたレグルスが足を止めた。
手にした灯りを掲げると、崩れた通路の先に広い空間が浮かび上がる。
その中央には、白い石で造られた祭壇が残されていた。
アルノたちの表情が一斉に変わった。
神代遺跡に残された祭壇には、施設を動かす神代スペルが刻まれていることが多い。
これまでの三年間で何度も遺跡を巡ってきた四人にとって、見過ごすことのできない場所だった。
アルノは崩れた石段を下り、祭壇へ近付いた。
十五歳だった少年も、今では十八歳になっている。
三年前はリネと並んでもほとんど同じ背丈だったが、今ではアルノのほうが頭ひとつ高い。
細身の印象は残っているものの、少年らしく細かった肩は広がり、薄かった胸板にもほどよく厚みがついていた。
三年間に及ぶ旅と遺跡調査によって、身体全体がしなやかに鍛えられている。
肩にかかるほどに伸びた明るい栗色の髪が、歩みに合わせて揺れる。
その下では、大きな灰銀の瞳が祭壇の構造を追っていた。
以前はどこか少年らしかった輪郭も、大人びたものへ変わっている。
優しい顔立ちは変わらない。むしろ、昔より柔らかく見えるくらいだった。
それなのに、不思議と頼りなくは見えない。
三年前までのアルノなら、困ったように笑っていた場面でも。
今は真っ直ぐ前を見る。
失ったものがある。
それでも進むと決めた人間の顔だった。
祭壇の後方には、魔物の群れが蠢いている。
黒ずんだ皮膚を持つ獣型の魔物が、侵入者を警戒するように低い唸り声を上げていた。
だが、アルノの意識は祭壇へ向いていた。
「読める?」
リネがすぐそばまで歩み寄った。
「うん」
アルノは祭壇の表面へ手を触れた。
刻まれた神代文字へ淡い光が宿り、長く失われていた意味が、文字を読むよりも先に頭の奥へ流れ込んでくる。
初めて目にする神代スペルだった。
それでも、意味だけは不思議なほど鮮明に理解できた。
「……Ventus」
アルノが呟くと、レグルスがすぐに反応した。
「意味は」
「風」
短い沈黙が落ちた。
「風かぁ」
「風だね」
「風ですか」
三人が揃って微妙な表情を浮かべる。
探しているのは、異空間へ消えたエルディオンへ繋がるための神代スペルだ。
風を操る言葉が、その手掛かりになるとは考えにくかった。
アルノも残念そうに祭壇を見つめていたが、やがて何かを確かめるように首を傾げた。
「試してみる」
アルノはスペルへ魔力を重ね、正しい音を意識しながら口を開いた。
「Ventus」
発音と同時に、スペルに乗せた魔力が解き放たれた。
空気が震える。
次の瞬間、凄まじい轟音が地下遺跡を揺らした。
どぉぉぉぉぉん――!
祭壇から放たれた巨大な風刃が、広間を一直線に駆け抜けた。
奥にいた魔物の群れがまとめて弾き飛ばされ、その背後に並んでいた石柱までが次々と断ち切られていく。
石壁が砕け、天井の一部が崩れた。
細かな瓦礫と大量の砂埃が降り注ぎ、地下空間の半分が白い煙に覆われる。
そして、静寂が訪れた。
砂煙の中心に立つアルノへ、三人の視線が集まる。
アルノは気まずそうに栗色の髪を掻いた。
「えっと」
誰も答えない。
「またやり過ぎた?」
「やり過ぎました」
即答したのはレグルスだった。
淡い金髪と灰紫色の瞳、細い銀縁眼鏡という知的な外見は、三年前と大きく変わっていない。
だが、二十三歳となった現在は、王立学術院神代文明研究室の主任研究員を務めていた。
レグルスは以前から、神代文明を研究する者の間では論文で知られた存在だった。
さらに邪竜を追う旅の中でいくつもの星環へ足を踏み入れ、その構造と記録を直接見てきた実績を持つ。
今では神代文明研究の第一人者として、若くして調査部門を任されていた。
砂埃を被った灰色の外套を払い、レグルスは半壊した広間を見回した。
「遺跡ごと吹き飛ばすつもりですか」
「そんなつもりは無かったんだけどな……」
アルノが困ったように笑う。
「結果としてそうなっています」
「攻撃魔法って難しいね」
「なぜその感想になるのが理解できません」
レグルスが真顔で言った。
その横で、リネが楽しそうに笑う。
「神代スペルってすごいのね」
高い位置で結ばれた明るい赤茶色の髪は艶を増し、揺れるたびに鮮やかな赤い光を浮かべる。頬の脇には結びきれなかった短い髪が数房落ち、整いすぎた顔立ちへ、彼女らしい親しみやすさを残していた。
三年前まで頬に残っていた幼さは薄れ、輪郭はすっきりと大人びている。長いまつげに縁取られた大きな瞳は美しいアーモンド形で、澄んだ琥珀色が光を受けるたび、蜂蜜を溶かしたように輝いた。すっと通った鼻筋と柔らかな唇まで、一つひとつの造作が不思議なほど調和している。
十八歳になったリネは、誰の目にも非の打ちどころのない美少女へ成長していた。街を歩けば振り返られ、声を掛けられることも珍しくない。それでも本人は自分の容姿にまるで興味がなく、今も頬についた砂埃を無造作に袖で拭っている。
三年前より背も伸び、すらりとした長い手足が、彼女の立ち姿をいっそう美しく見せていた。かつての華奢な身体には女性らしい柔らかな丸みが加わり、細く引き締まった腰と相まって、旅装の上からでも均整の取れた体つきが分かる。
けれど、その身体はただ美しいだけではない。三年間の旅と戦いによってしなやかに鍛えられ、立ち姿には揺るぎがなかった。わずかに重心を動かすだけで、いつでも仲間の前へ飛び出せることが伝わってくる。
戦い、守り、仲間を支える。その真っ直ぐなところだけは、十五歳の頃から何一つ変わっていなかった。
「いや本当に加減が分からなくて」
アルノは砂煙が晴れ始めた広間へ目を向けた。
「風ってこんな威力出る?」
「普通は出ません」
レグルスが答える。
「アルノだからです」
「それ褒めてる?」
「いいえ」
またも即答だった。
「アルノ殿」
後方から、低くよく通る声が飛んだ。
三人が振り返ると、白い外套を砂埃に染めた長身の男が立っている。
陽光を思わせる金髪と澄んだ蒼眼。
鍛え上げられた身体を包む白銀の鎧は、崩れかけた遺跡の中でさえ美しく磨き上げられていた。
整った顔立ちと隙のない立ち姿は、正統派の英雄という言葉をそのまま形にしたようだった。
アレクシス・ヴァン・アークライト。
かつて聖騎士団第一位に座し、《白銀剣》の称号を賜った王国最強格の騎士である。
現在はその任を退き、なぜかアルノたちと一緒に神代遺跡を巡っていた。
アレクシスが一行へ加わったのは、二年半ほど前のことだった。
当時は前衛をリネ一人に頼っており、魔物の群れに囲まれた遺跡で、三人とも窮地へ追い込まれていた。
その時、魔物の群れを切り裂いたのが、白銀の剣だった。
エルディオンを迎えに行くための旅であれば、自分にも剣を振るう理由がある。
なぜかそう告げたアレクシスは、聖騎士団第一位の任を退き、そのまま一行へ加わった。
以来、リネとともに前衛を支え、危険な遺跡では誰よりも頼れる存在となっている。
もっとも、汚れに対する厳しさも変わらず、時には仲間を守る騎士というより、生活全般を監督する保護者のようになることがあった。
アレクシスは自らの白い外套へ付着した砂埃を見下ろした。
「服に埃が付きました」
「ごめんなさい」
「祭壇も半壊しています」
「ごめんなさい」
「壁画も消えました」
「ごめんなさい」
アルノは素直に謝る。
アレクシスは深く息を吐いたあと、外套の汚れを丁寧に払った。
「次から気を付けてください」
「はい」
完全に保護者だった。
砂煙がようやく収まり、風刃の通った跡がはっきりと見え始める。
断ち切られた石柱の向こうでは魔物たちが折り重なって倒れ、広間の壁には滑らかな切断面が残されていた。
「強いね」
アルノが言った。
「強いですね」
レグルスが頷く。
「強いね」
リネも同じ感想だった。
「非常に強いです」
アレクシスまで真顔で同意した。
四人は揃って、半壊した遺跡を見回した。
攻撃用の神代スペルとしては、間違いなく強力だった。
だが、今のアルノたちが探しているものではない。
「ハズレだね」
アルノの言葉に、三人も無言で頷いた。
断ち切られた石壁の奥を調べていたレグルスが、やがて足を止める。
「宝箱があります」
その言葉に、全員が振り返った。
崩れた壁の奥に、小さな隠し区画が現れている。
その中央には、神代時代のものと思われる古い箱が、砂埃に埋もれながら残されていた。
「開けよう」
アルノが近付き、慎重に蓋を持ち上げる。
箱の中には、黄金や宝石、銀貨、王冠、指輪が隙間なく詰め込まれていた。
光を受けた宝石が色とりどりの輝きを放ち、普通の冒険者であれば歓声を上げていたはずの光景が広がっている。
だが、四人の表情は変わらなかった。
「ハズレだね」
「ハズレですね」
「ハズレだね」
「完全なハズレです」
価値観が完全に壊れていた。
「私たち、普通の冒険者ならS級だよね」
リネが呆れたように笑う。
「お宝じゃなくてスペルが欲しいんだよ!」
アルノはがっくりと肩を落とした。切実だった。
◇
エルディオンが消えてから、アルノは神代スペルを集め続けていた。
現代魔法の理論だけでは、エルディオンが使った四次元魔法陣へ届かない。
ならば、かつて異界へ干渉していた神代人の知識を借り、その術式へ組み込まれていた概念を集めるしかなかった。
神代遺跡が見つかれば、すぐに向かう。
調査を終えれば王都へ戻り、持ち帰った記録を読み、魔法陣を組み直す。それでも足りなければ、次の遺跡へ向かった。
三年間、その繰り返しだった。
魔法陣を構築することに関して、アルノには誰にも負けない自負があった。
一度しか見ていないエルディオンの四次元魔法陣も、目に焼き付いた構造を頼りに、少しずつ紙の上へ再現できるようになっている。
それでも、完成には届かなかった。
三年間で集めた言葉をどれほど組み合わせても、最後には必ず、埋めることのできない空白が残った。
あの日、月光のような銀髪が光へ溶けた瞬間から、アルノは立ち止まっていない。
遺跡を歩き、魔物と戦い、幾つもの神代文字へ触れたことで、身体も魔法も大きく変わった。
第七星環へ向かった雪山では、何度も息を切らし、滑落しそうになり、仲間たちの足を引っ張った。けれど今では、何日も遺跡を歩き続けることも、仲間を守るために魔法を使うこともできる。
顔立ちも髪も瞳も、エルディオンとは何一つ似ていない。
それでもアルノが仲間の前へ立ち、迷いなく魔法陣へ手を伸ばす瞬間、リネは時折、あの伝説の魔術師を思い出すことがあった。
アルノ本人だけは、まだそのことに気付いていなかった。
◇
数日後。
王都魔術塔の一角には、三年前まで存在しなかった部署が設けられていた。
神代語辞典編纂室。
扉へ掲げられたプレートには、責任者の名が刻まれている。
主任研究官、アルノ・ルーメル。
十八歳という年齢を考えれば、異例の抜擢だった。
けれど、これまで誰にも読むことのできなかった神代文字を理解し、各地から集められた記録を翻訳できる人間は、アルノしかいない。
編纂室の中には幾つもの机が並び、その上へ神代文字の写しや遺跡の調査記録が積み上げられていた。
壁際の棚には、アルノが読み解いた単語や用例が項目ごとに分類され、編纂途中の辞典が何冊も収められている。
「ルーメル先生、この部分なんですが」
アルノへ声を掛けたのは、編纂補佐官のエレナ・クラウゼだった。
年齢は二十七歳。
灰色がかった濃い茶髪を襟足で一つにまとめ、やや切れ長の青灰色の瞳を手元の資料へ向けている。
平均より少し高い背と伸びた姿勢も相まって、黙っていると近寄りがたいほど隙がなかった。
顔立ちは派手ではないが、目元から鼻筋、引き結ばれた唇まで整った、知的な印象の美人だった。
濃紺の実務用ローブに余計な装飾はなく、胸元へ留められた魔術塔の銀色の徽章だけが淡く光っている。
アルノが感覚的に読み取った神代文字の意味を記録し、既出の用例と照合して、ほかの研究者にも理解できる形へ整える。それがエレナの役割だった。
彼女が編纂室へ配属されてから、アルノ一人では積み上がるばかりだった知識が、ようやく辞典として形になり始めている。
アルノは差し出された資料を受け取りながら、少しだけ眉を下げた。
「先生やめて」
「でも先生ですよね」
「十八歳だよ?」
「主任研究官ですよね」
「そうだけど」
「神代語辞典の責任者ですよね」
「そうだけど」
「先生です」
淡々と言い切られ、アルノは諦めた。
資料に記されていたのは、初めて見る神代文字だった。
形を目で追っていくと、書かれた意味が読むという過程を飛び越え、頭の奥へ直接流れ込んでくる。
「……多分だけど」
エレナがすぐにペンを構えた。
細い指先には、洗っても落ちきらなかったインクの跡が残っている。
「『流れを繋ぎ止める』」
アルノは文字の前後をもう一度確認した。
「そんな意味だと思う」
「本当ですか!?」
普段は冷静なエレナの青灰色の瞳が、わずかに明るくなる。
「うん」
アルノは慎重に言葉を選んだ。
「断定はできないけど」
周囲に並んだ別の文字との関係を確かめる。
「多分そう」
エレナはすぐに内容を書き留め、棚から関連する記録を取り出した。
第二星環と第七星環で見つかった用例を並べ、アルノの解釈との違いが分かるよう注記を加えていく。
神代文字を見ただけで意味を理解することは、アルノにとって今も特別なことではなかった。
だが、意味を知ることのできない研究者にとって、その一言は千年以上も閉ざされていた扉が開くことに等しい。
アルノはエレナが夢中で記録を整理する姿を、不思議そうに眺めていた。
作業を終えたエレナは、記録を棚へ戻す前に足を止めた。
青灰色の瞳が室内を見回し、近くにほかの研究員がいないことを確認する。
「それと、ルーメル先生」
「まだ何かある?」
エレナは抱えていた資料を胸元へ寄せ、声を少し低くした。
「先生、気を付けたほうがいいですよ。先生のこと、あまりよく思っていない人がいるみたいです」
アルノはきょとんとして、エレナを見返した。
「僕が?」
「最近、先生の研究内容や、どの遺跡へ向かったのかを詳しく尋ねる人が増えています。通常の問い合わせとは思えません」
心当たりを探すように、アルノの灰銀色の瞳が宙をさまよう。
研究室と遺跡を往復しているだけで、誰かに恨まれるようなことをした覚えはなかった。
「何かしたかな……」
「心当たりがないことは分かっています。だから忠告しています」
エレナの表情はいつもと変わらなかったが、その声には普段より強い響きがあった。冗談や根拠のない憶測で、彼女が仕事の手を止めることはない。
アルノはまだ納得できない様子で首を傾げ、それでも短く頷いた。
「……気を付けるよ」
「そうしてください」
エレナはそれ以上不安を煽るようなことは言わず、抱えていた資料の整理へ戻っていった。
アルノも目の前の神代文字へ視線を落とす。
誰が、何を理由に自分をよく思っていないのか。
考えても答えは出ず、やがて新しい文字へ意識を奪われると、その疑問は頭の隅へ追いやられていった。
◇
夜。
研究員たちが帰り、神代語辞典編纂室にはアルノ一人が残っていた。
窓の外には王都の灯りが広がり、その上で、静かな月が淡い光を落としている。
机の上には、神代語辞典や星環の調査記録とは別に、何枚もの大きな紙が広げられていた。
アルノが三年間、描き続けてきた魔法陣だった。
三年間で集めた神代スペルは、少しずつ増えている。
魔法陣の線も、エルディオンが展開した四枚目の構造へ、確実に近付いていた。
それでも届かない。
どれだけ線を組み替えても、繋がらない。
理論上は成立しているはずなのに、エルディオンがいる場所へ続く道が開かなかった。
アルノはペンを置き、窓の外へ目を向けた。
月を見つめていると、あの日の銀髪が脳裏へ蘇る。
光の中で揺れた長い髪と、自分だけへ向けられた優しい蒼の瞳。
最後に聞いた声は、三年が過ぎた今も鮮明に残っていた。
無意識に指先が動く。
空中で点と点を結び、見えない線を繋いでいく。十五歳の頃から変わらない癖だった。
指先が最後の点へ届く。けれど、その先へ続く線は、まだ見つけられなかった。
「待っててください」
答える声はない。
それでもアルノは、月から目を逸らさなかった。
「必ず迎えに行きます」
三年が過ぎても、その決意だけは何一つ変わっていなかった。
◇
同じ頃、王都の別の場所では、アルノの知らない声が交わされていた。
「エルディオン殿を探しているらしい」
「異空間へ行く研究だとか」
「危険ではないのか?」
エレナが感じ取った不穏な気配は、すでに形を持ち始めていた。
けれどアルノはまだ、その忠告が意味するものを知らない。
噂は人から人へ渡り、暗い水底へ沈む影のように、王都の中へ静かに広がり始めていた。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




