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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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迎えに行く

 光が消えた。


 ほんの少し前まで邪竜の咆哮と怒号に満ちていた地下空間へ、耳が痛くなるほどの静寂が落ちる。

 黒い鱗も、巨大な翼も、災厄を映す黄金の瞳も、すべてが跡形もなく消えていた。


 そして、エルディオンもいない。

 月光を編み込んだような銀の髪も、深い蒼の瞳も、どこか余裕を残したいつもの笑みも、そこにはなかった。


 騎士も魔術師も、アレクシスもリネもレグルスも、誰一人として動くことができず、二つの存在が消えた空白を見つめていた。

 何が起きたのか理解できた者はいない。

 ただ一人、エルディオンが立っていた場所を見つめるアルノの唇から、掠れた声が零れた。


「……エルさん?」


 返事はない。


「エルさん」


 もう一度呼んでも、聞き慣れた声は戻ってこなかった。

 何でもないことのように奇跡を起こし、困ったように笑いながらアルノの名を呼んでいた人は、どこにもいない。


 アルノは一歩、足を踏み出した。

 もう一歩進むたびに膝が震え、額から流れた血が頬を伝っていく。

 それでも痛みは遠く、目の前の空白以外、何も考えられなかった。


 床には焦げ跡も血も、銀髪の一本すら残されていない。

 あるのは、消えかけた蒼い魔力の残滓だけだった。


 アルノはエルディオンが立っていた場所へ膝をつき、震える手を伸ばしたが、その指先は何にも触れずに空を切った。


「……嘘だ」


 自分のものではないような声だった。

 ついさっきまで、ここにいた。

 優しい顔でこちらを振り返り、「楽しかったよ」と告げた。あんな顔で、あんな声で、アルノを置いていくはずがない。


「アルノ!」


 強い声とともに、両肩を掴まれた。

 振り向くと、乱れた赤茶色のポニーテールを背へ流したリネが、潤んだ琥珀色の瞳でアルノを見据えている。


「しっかりして」


「リネ……」


「分かるよ」


 リネの声も震えていた。

 邪竜に何度も立ち向かい、仲間の前では決して足を止めなかった彼女も、今は泣くのを堪えるように唇を結んでいる。

 それでもアルノの肩を掴む手からは、離すまいとする強い力が伝わってきた。


「分かるけど、ここで止まっちゃ駄目」


 その言葉に、アルノはようやく息を吸った。


 止まってはいけない。

 エルディオンは邪竜を連れて消えたが、まだすべてが終わったわけではなかった。

 アルノが顔を上げると、邪竜が爪で引き裂いた空間には、異界へ繋がる裂け目が残されている。


 亀裂の向こうでは異質な光が脈打ち、異界エネルギーが今も床へ漏れ続けていた。

 放置すれば、第五星環も第一星環や第四星環と同じように汚染されてしまう。


「……閉じないと」


 アルノは床へ手をつき、ふらつきながら立ち上がった。


「裂け目を閉じないと」


 額から流れた血が、明るい栗色の髪へ染み込んでいる。

 身体にはほとんど力が残っていなかったが、大きな灰銀の瞳だけは、異界の光を映して強く輝いていた。


「このままじゃ、エルさんがやったことが無駄になる」


 邪竜はいない。

 エルディオンもいない。

 けれど、この裂け目を残せば、エルディオンが命を懸けて守ろうとした場所が汚染されてしまう。


 アルノが裂け目へ歩き出すと、リネがすぐに隣へ並んだ。

 少し離れた場所に立っていたレグルスも、二人の動きに気付いて顔を上げる。

 淡い金髪と灰色の外套は砂埃に汚れていたが、細い銀縁眼鏡の奥にある灰紫の瞳は、アルノと裂け目から逸れなかった。


「アルノ、無理しないで」


「無理じゃない」


 声は震えていた。

 それでも、アルノは足を止めなかった。


「これは、僕にしかやれない」


 レグルスは口を挟まなかった。第二星環で裂け目を閉じ、第七星環では接続炉の抽出口を閉じたアルノを、その目で見てきた。

 彼が「やる」と言うのならば、その判断と力を信じて任せることに迷いはなかった。


 アルノは裂け目の前へ膝をつき、床の魔法陣へ指先を触れた。

 構造は見えている。

 裂け目の縁を広げようとする力も、そこから漏れ出す異界エネルギーの流れも、床へ刻まれた術式との繋がりも、すべてが一本の線として灰銀の瞳へ映っていた。


 裂け目そのものを力で押し潰すのではない。

 床に刻まれた神代魔法陣との接続を繋ぎ直し、乱れた術式をあるべき順序と形へ戻す。


「Le-Nodus」


 アルノの指先から淡い光が走り、床に刻まれたNodusが輝き始めた。


 その光は幾筋もの導線を伝って壁面へ伸び、刻まれていた神代文字を一文字ずつ目覚めさせていく。

 やがて壁から伸びた光が再び床の円環へ繋がり、地下施設全体が一つの巨大な術式として脈動し始めた。


 鋭い痛みが頭の奥を貫き、吐き気とともに視界が暗くなる。

 それでもアルノは魔法陣から目を逸らさず、流れの途切れた場所を探すように、指先で空中の点点と点を結んだ。


「Le-Ordo」


 床の中心に刻まれたOrdoが光を強めた。

 壁と床を結んだ術式へ正しい秩序が戻り、漏れ出していた異界エネルギーが裂け目の内側へ押し戻されていく。

 激しく揺れていた亀裂の縁が重なり合い、裂け目はゆっくりと閉じ始めた。


 魔力は急速に削られていたが、第二星環の時のように根こそぎ奪われる感覚はなかった。

 今は流れを掴み、必要な場所へ必要な力だけを送り込むことができている。


 異界の光が次第に細くなり、大きく開いていた亀裂は一本の線となる。

 やがて針の穴ほどまで縮むと、最後に一度だけ明滅した。

 最後に、光がふっと消えた。


 地下空間を満たしていた不快な気配が薄れ、床を震わせていた低い音も途絶える。

 アルノは指先を魔法陣へ触れたまま、しばらく動くことができなかった。


「……閉じた」


 そう呟いた直後、膝から力が抜けた。


「アルノ!」


 倒れかけた身体を、リネがすぐに支えた。

 反対側からレグルスも歩み寄り、二人の前で足を止める。

 その視線は閉じた裂け目からアルノへ移り、普段の冷静さの奥に隠しきれない緊張が滲んでいた。


「大丈夫……」


 答えたものの、声はほとんど出ていなかった。


 もう異界は見えない。

 エルディオンが命を懸けて守った場所に残されていた最後の穴を、自分の手で閉じることができた。

 そう思った瞬間、胸の奥へ押し込めていたものが溢れそうになり、アルノは強く唇を噛んだ。

 まだ泣くことはできない。確かめなければならないことが残っていた。


「戦闘終了」


 少し離れた場所で、アレクシスが低く告げた。

 白銀の鎧も白い外套も砂埃と血に汚れ、周囲では無事な騎士たちが負傷者を助け起こしている。


「邪竜の反応、消失」


「周辺魔力、沈静化」


 魔術師たちの報告が、静まり返った最深部へ響く。

 邪竜はいなくなり、裂け目も閉じた。

 王都を脅かしていた災厄との戦いは、確かに終わったはずだった。

 それでも、歓声を上げる者はいない。

 騎士も魔術師も、誰一人として勝利を喜ぶことができなかった。

 失ったものがあまりにも大きく、そこに残された空白が、戦いの終わりを受け入れることを拒んでいるようだった。


 主任魔術師のロイドが、瓦礫を避けながら近付いてきた。

 アルノの前で立ち止まると、エルディオンが消えた場所へ目を向ける。


「……ルクス=アルヴァレス殿は」


 その先を口にすることはできなかった。

 エルディオンがどうなったのか、誰にも分からない。

 邪竜とともに消え、何一つ残されていない以上、最悪の結果を考えるのは当然だった。


 アルノはリネに支えられながら、床へ残った蒼い光を見つめた。

 消えかけた魔力の残滓。その中に、世界が白く染まる直前に見た四枚の魔法陣の形を探す。


 一枚目。二枚目。三枚目。

 そして、人間には知覚できない方向へ展開された四枚目。

 あの術式は、邪竜を押し潰してはいなかった。

 焼き尽くしたのでも、斬り裂いたのでもない。

 空間そのものを折り畳み、邪竜が存在する場所を、この世界から別の場所へずらしていた。


「違う……」


 掠れた声に、リネが顔を上げた。


「アルノ?」


「違う」


 アルノは再び床へ手をついた。

 魔法陣そのものは消えているが、完全に何もなくなったわけではない。

 空間の端にはわずかな歪みが残り、途切れた線のような蒼い残光が、今にも消えそうになりながら揺れていた。


 他の者には見えない。

 けれど、アルノには魔法陣が残した構造の断片が見えていた。


「死んでない」


 今度の声に宿っていたのは、悲しみだけではなかった。

 まだ消えていない線を掴もうとする、必死な確信だった。


「エルさんは、死んだんじゃない」


 レグルスが傍らへ膝をつく。灰紫の瞳がアルノの見つめる先を追ったが、そこにあるものはわからなかった。


「根拠は?」


「魔法陣の構造です」


 アルノは床の一点を指し示した。


「破壊じゃない」


 残された歪みへ沿って、指先で線を描く。


「消滅でもない」


 見えている形を一つずつ確かめ、白い光に呑まれる直前の術式を組み直していく。


「封印でもない」


 あの四枚目には、エルディオンと邪竜を閉じ込めるための中心がなかった。

 代わりに存在していたのは、ここではない別の場所へ繋がる方向だった。


「移動です」


 その言葉に、周囲の空気が動いた。


「移動?」


 ロイドが聞き返す。

 アルノ自身にも、四次元魔法陣のすべてが理解できているわけではなかった。

 それでも、あれが終わりを意味する術式ではないことだけは分かる。


「エルさんは、邪竜と一緒に別の空間へ行った」


 アルノは消えかけた痕跡を見つめたまま告げた。


「たぶん……生きています」


 願いだけで言っているわけではない。

 エルディオンの術式には行き先があり、まだ向こう側が残されている。

 その道をもう一度繋ぐことができれば、辿り着ける可能性がある。


「確証は」


「ありません」


 レグルスの問いへ、アルノは迷わず答えた。


「でも、魔法陣はそういう形だった」


 四次元魔法陣について理解できているのは、ほんの一部にすぎない。

 未知の術式を再現する方法も、エルディオンが移動した先も分からなかった。


 それでも、何も残されていないわけではない。

 ここにはエルディオンが使った術式の痕跡があり、それを見たアルノの記憶がある。


「迎えに行ける」


 口にした瞬間、胸の奥で一つの道が繋がった。


「四次元魔法陣を理解できれば、という条件付きですね」


「はい」


「少なくとも、現在の魔法理論では再現できません」


「分かってます」


「エルディオンさん以外に成功例はありません」


「分かってます」


「資料もありません」


「探します」


 何年かかるのかも分からない。

 今の自分では、四枚目の魔法陣を組むどころか、そのすべてを理解することさえできない。

 それでも、できない理由を並べて諦めるという選択だけは、アルノの中になかった。


「探します」


 もう一度、はっきりと告げる。


「必ず、そこまで辿り着きます」


 レグルスはしばらくアルノを見つめたあと、何も否定しなかった。

 リネもアルノの身体を支えたまま、強く拳を握っている。


 アルノはもう一度、エルディオンが消えた空白へ目を向けた。


 喪失の痛みは消えていない。

 けれどそこは、何も残されていない終着点ではなく、エルディオンへ続く道の始まりへ変わっていた。


 ◇


 その夜、第五星環を囲む白石柱の周辺には、負傷者を収容するための天幕が幾つも並んでいた。

 治療を行う者、地下施設の状態を確認する者、邪竜消失の報告を王都へ送る者が絶えず行き交い、誰も休めずにいる。


 アルノも眠ることができなかった。


 額の傷へ包帯を巻かれたまま、小さな天幕の隅に置かれた椅子へ腰掛けている。

 すぐそばには、数か月前に邪竜の封印が解かれ、エルディオンが五百年の眠りから目覚めた遺跡があった。


 すべてが始まった場所で、今度はエルディオンが消えた。


 アルノは膝の上で拳を握り、目を閉じた。

 最後に見た銀髪は月光のように輝き、こちらを見つめた蒼い瞳はどこまでも優しかった。


「楽しかったよ」


 あの声が、今も耳の奥に残っている。

 過去を振り返るような言葉で、二人の旅を終わらせようとしていた。


「……僕は」


 堪えていた涙が、膝の上へ落ちた。


「楽しくないです」


 置いていかれて楽しいはずがない。

 まだ教わっていないことも、聞きたいことも、一緒に見たいものも残っている。


「まだ終わってないです」


 声に出すと、胸の奥にあったものが少しずつ形を持ち始めた。

 簡素な机の上には、地下施設から運び出された紙と、アルノが記憶を頼りに描いた魔法陣の断片が広げられている。

 四次元、異空間、高次元魔法理論。

 どれも今のアルノには遠く、手を伸ばしただけでは届かない領域だった。


 それでも、読むしかない。

 理解し、追いつき、エルディオンが辿り着いた魔法の先まで進まなければならない。

 アルノが滲んだ文字を追っていると、天幕の入口を覆う布が持ち上がった。

 姿を見せたのはリネで、その後ろには数冊の本と紙束を抱えたレグルスが立っている。


「やっぱり起きてた」


「眠れなくて」


 リネは何も責めず、アルノの隣へ腰を下ろした。

 ただそばにいてくれるだけで、張り詰めていた呼吸が少しだけ楽になる。


「追加で持ってきました」


 レグルスは抱えていた資料を机へ置いた。


「もう?」


「眠れませんでしたので」


 いつもと変わらない淡々とした口調だった。

 けれど、銀縁眼鏡の奥にある目元はわずかに赤く、彼もまたエルディオンの不在を受け止めきれていないことが伝わってくる。


「ありがとうございます」


「礼は不要です」


 レグルスは机に広げられた術式の断片へ目を落とした。


「エルディオンさんを回収するためには、まず理論を整理する必要があります」


「回収って言い方」


 リネがすぐに反応する。


「救出と言い換えますか」


「そうして」


「では救出です」


 真面目な顔で言い直すレグルスを見て、アルノの口元にわずかな笑みが浮かんだ。

 涙はまだ乾いていなかったが、二人の声があるだけで、一人で暗闇に取り残されたような感覚が少しずつ薄れていく。


「アルノ」


「うん」


「行くんでしょ」


 リネの大きな琥珀色の瞳が、真っ直ぐにアルノを見つめていた。


「行く」


「なら、私も行く」


「危ないよ」


「今さら」


 即答だった。


「アルノ一人で行かせるわけないでしょ」


 これまで、どれほど危険な場所であってもリネはアルノの隣にいた。

 第二星環でも、死の島でも、第七星環でも、その背中を守り続けてきた。

 今さら未知の場所だからという理由で、彼女が足を止めるはずがなかった。


「私も同行します」


「レグルスも?」


「当然です」


 レグルスは机の上に重ねた資料へ手を置いた。


「私は遺跡調査が専門です。魔法陣は専門外ですが興味があります」


「そこ?」


「もちろん、それだけではありません」


 わずかな間が空いた。

 普段なら事実と根拠を整えてから答えるレグルスが、その時だけは飾ることなく言葉を続けた。


「仲間ですので」


 アルノは答えられなかった。


 失ったものはあまりにも大きい。

 今すぐ立ち直ることなどできず、エルディオンのいない旅を考えるだけで胸が痛んだ。

 それでも、自分は一人ではなかった。


 リネがいる。

 レグルスがいる。

 まだ立ち上がり、エルディオンへ続く道を探すことができる。


 アルノは涙を拭い、机の上に広げられた資料へ目を向けた。

 四次元魔法陣も異空間も、今はまだ何一つ分からない。

 それでも、残された線を一つずつ結び、必ず向こう側へ続く道を見つけてみせる。


 深く息を吸い、隣にいる二人を真っ直ぐに見つめる。


「エルさんを、迎えに行く」

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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