月光の彼方
蒼い光が地下空間を埋め尽くしていた。
エルディオンの足元から広がった魔法陣は、すでに最深部の床全体を覆っている。
幾重もの円環と幾何学模様が複雑に絡み合い、その間を結ぶ無数の線が脈打つように明滅していた。
神代文字は一つも使われていない。
それにもかかわらず、そこに展開されているのは、王国中の魔術師が誰一人として見たことのない魔法だった。
何を目的とした術式なのか。
どのように魔力を循環させ、これほどの規模を維持しているのか。
周囲に集まった魔術師たちは必死に構造を追おうとしていたが、理解できる者はいなかった。
ただ一つだけ、誰にでも分かることがある。
凄まじい。
その言葉だけが、目の前の光景をかろうじて表していた。
エルディオンが右手を掲げる。
月光を編み込んだような銀髪が溢れ出す魔力に揺れ、白磁の肌を蒼い光が照らしていた。
長いまつげに縁取られた深い碧眼は邪竜だけを捉え、その横顔は激しい戦場の中にあってさえ、ひどく現実感が薄い。
美しいという言葉では足りなかった。
人が魔法を操っているのではない。
魔法そのものが人の姿を得て、そこに立っているようだった。
床を満たした蒼い光が、壁を伝って天井まで駆け上がる。
次の瞬間、魔法陣の各所から光の鎖が飛び出した。
一本や二本ではない。
十本、二十本、三十本と数を増し、蛇のようにうねりながら邪竜へ殺到する。
邪竜が咆哮し、逃れようと巨大な翼を広げた。
だが、その動きよりも鎖の方が速い。
最初の一本が首へ巻き付き、続く鎖が前脚と後脚を捕らえ、さらに翼の付け根へ絡み付いていった。
四本、五本、六本。
数え切れないほどの蒼い鎖が次々と巨体を縛り上げ、床へ引き倒す。
邪竜の身体が地面へ叩き付けられ、轟音とともに地下全体が揺れた。
「押さえ込んでいる……」
誰かが呆然と呟いた。
騎士たちは構えた武器を下ろせないまま、目の前の光景に息を呑んでいる。
五百年前から災厄として語られてきた邪竜が、蒼い鎖に縛られ、身動きさえ取れずにいた。
黄金の瞳が怒りに染まる。
邪竜は全身を激しく捩り、床を削りながら拘束を引き千切ろうとした。
一本一本の鎖が張り詰め、甲高い音を響かせるものの、外れる気配はない。
エルディオンは暴れ続ける邪竜を見つめ、わずかに目を細めた。
「まだ足りないか」
その言葉と同時に、周囲の魔力がさらに膨れ上がった。
魔法陣から新たな鎖が生まれ、邪竜へ幾重にも巻き付いていく。
数は瞬く間に百を超え、黒い鱗が見えなくなるほど巨体を覆い尽くした。
翼も脚も床へ縫い留められ、邪竜は首を持ち上げることさえできなくなる。
地下空間に歓声が広がった。
「やった!」
「勝てる!」
「封印できる!」
魔術師たちの顔に希望が戻っていく。
アレクシスも白銀の剣を下ろしかけ、鎖に覆われた邪竜を蒼い瞳で見据えていた。
普段は乱れ一つ許さない金髪には砂埃が付着し、白い外套も戦いの汚れに染まっている。
王都最強格と称されるアレクシスでさえ、圧倒的な強さに言葉を失っている。
これほど巨大で緻密な魔法を、たった一人で展開する者など見たことがない。
五百年前、邪竜を封印した伝説の魔法が再現されようとしているのだと、その場にいる誰もが信じていた。
その時、小さな音が響いた。
ピシ。
無数の歓声に紛れてしまいそうな、あまりにも微かな音だった。
それでも、アルノだけは反応した。
風圧に乱れた明るい栗色の髪の下で、大きな灰銀の瞳が蒼い鎖の一本を捉える。
「え?」
邪竜の首を押さえている鎖に、細いひびが走っていた。
アルノの胸に、冷たい予感が広がる。
声を上げるよりも早く、乾いた破砕音が響いた。
最初の一本が砕け、蒼い光の欠片となって空中へ飛び散る。
地下空間を満たしていた歓声が途切れた。
次の瞬間、邪竜が咆哮した。
床も壁も天井も激しく震え、張り詰めていた鎖が次々と引き千切られていく。
一本、二本、三本。
砕け散った蒼い光が吹雪のように舞い、邪竜の黒い巨体がその奥からゆっくりと起き上がった。
「そんな……」
魔術師の一人が掠れた声を漏らす。
百本を超える鎖が、力任せに引き裂かれていた。
邪竜は幾重もの拘束を、まるで薄い紙でも破るように振り払っていく。
封じられていた翼が再び広がり、巻き起こった風が砕けた鎖の残滓を吹き散らした。
エルディオンは、その光景を黙って見つめていた。
驚いても、怒ってもいない。
ただ、思っていた結果を確かめたように、少しだけ困った笑みを浮かべる。
「……ああ」
その声は、邪竜の唸りにかき消されそうなほど小さかった。
「やっぱり駄目か」
周囲の空気が凍り付く。
「え?」
アルノが振り返る。
エルディオンは視線を邪竜から外さないまま、わずかに肩を竦めた。
「前もここで失敗したんだよね」
まるで天気の話でもするような口調だった。
だが、その言葉を耳にした者たちは揃って動きを止める。
「前も……?」
アレクシスが目を見開いた。
五百年前の封印は、伝説の魔術師による完全な成功として語り継がれている。
その前に一度失敗していたことなど、歴史の記録には残されていない。
第五星環へ向かう街道で、初めは失敗したと本人から聞いていたアルノたちだけが、その事実を知っていた。
エルディオンは鎖を振り払った邪竜を見上げる。
「やっぱり、こっちじゃ駄目か」
そう告げると、一歩前へ出た。
床を覆っていた蒼い魔法陣が、形を変え始める。
それまで鎖へ力を送り続けていた線がほどけ、別の構造へと繋ぎ直されていく。
円環の中心が移動し、幾つもの補助術式が、一点へ向けて組み上がっていった。
アルノの顔色が変わった。
見えてしまった。
大きな灰銀の瞳が術式の流れを追い、指先が無意識に空中の点と点を結ぶ。
そこで構築されようとしているものが何なのか、誰よりも早く理解してしまった。
「エルさん」
声が震えた。
エルディオンは振り返らない。
魔法陣はさらに深く、術式の根幹から形を変えていく。
それは邪竜だけを縛る構造ではなかった。
何かを中心へ据え、そこへ封印そのものを結び付ける。
楔。
そう呼ぶほかない形だった。
そして、魔法陣の中心へ組み込まれようとしているものは、邪竜ではない。術式から伸びる線のすべてが、エルディオン自身へ繋がろうとしていた。
「エルさん!」
アルノが叫ぶ。
周囲の魔術師たちは、変化した術式の意味にまだ気付いていない。
それをいち早く理解しているのは、魔法陣構造が得意なアルノだけだった。
「やめてください!」
エルディオンが少しだけ振り返る。
深い碧眼に宿っていたのは、覚悟でも悲壮感でもない。
アルノを安心させようとするような、穏やかで優しい光だった。
「アルノ」
「駄目です!」
アルノはエルディオンへ向かって走り出す。
「行っちゃ駄目です!」
蒼い光が急激に強くなった。
再構築された魔法陣から鎖が伸び、再び邪竜の巨体へ絡み付く。
同時に、別の鎖がエルディオンの身体へ向かって伸びていった。
月光を編み込んだような銀髪が舞い上がる。
蒼い鎖がその身体へ巻き付き、邪竜とエルディオンを一つの封印術式の中へ繋いでいく。
魔術師たちは、なぜ術者自身が拘束されているのか理解できず、ただ目の前の光景を見つめていた。
「何を……」
首席魔術師のロイドが呟く。
エルディオンは自分の身体へ巻き付いた鎖を一瞥し、困ったように笑った。
「逃がさないよ」
その言葉は邪竜へ向けられていた。
怒りに燃える黄金の瞳と、深い蒼の瞳が正面からぶつかる。邪竜は拘束を振り解こうと暴れ、張り詰めた鎖が悲鳴のような音を上げた。
最深部全体が激しく揺れる中でも、エルディオンは笑みを崩さない。
「またお前と一緒に眠るのは嫌なんだけどね」
いつもと変わらない軽い口調だった。
けれど、その言葉が意味するものを知っているアルノには、到底笑えなかった。
「エルさん!」
リネも声を上げる。
「やめて!」
高い位置で結ばれた明るい赤茶色のポニーテールが、荒れ狂う魔力に激しく揺れていた。
大きなアーモンド形の琥珀色の瞳は見開かれ、拘束されたエルディオンを真っ直ぐに見つめている。
いつもなら誰より早く身体を動かすリネが、今だけはどう止めればいいのか分からず、その場で足を止めていた。
レグルスも淡い金髪を乱し、銀縁眼鏡の奥にある淡い灰紫の瞳を大きく見開いていた。
常に事実を観測し、冷静に判断しようとする彼でさえ、目の前で起きていることを受け入れられない。
「エルさん!」
珍しく荒げられた声が、蒼い光の中へ響いた。
封印は着実に完成へ近付いている。
床を覆う魔法陣の外周が閉じ、邪竜とエルディオンを結ぶ線が一本ずつ固定されていった。
残された時間がわずかしかないことを、アルノは嫌というほど理解していた。
エルディオンは目を細める。
「前回は何も思わなかったんだけど」
どこか懐かしむように笑った。
五百年前には、迷わず自分を封印の楔へ変えることができたのだろう。
けれど今、その視線はアルノ、リネ、レグルス、共に旅して仲間たちの姿を映していた。
「今回は困るな」
アルノの心臓が嫌な音を立てる。
「守りたい相手ができたから」
アルノは何度も首を振った。
「やめてください」
声が震え、うまく息を吸うことができない。
「エルさん」
それでも呼び続けた。
名前を呼べば、まだこちらへ戻ってきてくれるような気がした。
「お願いです」
エルディオンは何も答えない。
ただ、蒼い光の向こうからアルノを見つめていた。
弟子を見守り、大切なものを慈しむような眼差しだった。
「そんな顔しないで」
エルディオンが困ったように笑う。
「行きづらくなるから」
アルノの視界が滲んだ。
嫌だった。
エルディオンに助けられてばかりだった自分も、ようやく何かできるようになったと思っていた。
第七星環でLeを知り、エルディオンを治し、異界エネルギーの抽出口を閉じた。
ようやく少しだけ、役に立てるようになったと思った。
それなのに、最も助けたい時に、自分の手は何一つ届かない。
「嫌です」
アルノは首を振った。
「嫌です」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「まだ教わってないことがいっぱいあります」
声が掠れていた。それでも、胸の内にあるものを止めることはできなかった。
「まだ聞きたいこともあります」
旅の途中で聞けなかったことが、いくつもあった。
これから見せてもらいたい魔法も、共に訪れたい場所も、まだ数え切れないほど残っている。
「まだ一緒に旅したいです」
エルディオンが目を閉じる。
ほんの一瞬だけ、その表情に迷いが浮かんだ。
けれど再び目を開いた時には、いつもの柔らかな笑みが戻っていた。
「うん」
たった一言だった。
「僕もだよ」
アルノの目から涙が落ちた。
エルディオンは笑っていた。
旅の途中で何度も見てきた、いつもの笑顔だった。
蒼い光が膨れ上がり、邪竜とエルディオンを繋ぐ封印術式が最後の一点で閉じようとする。
封印が完成する。
そのはずだった。
ガラスが砕けるような音が響いた。
パリン。
全員が顔を上げる。
あまりにも澄んだ、だからこそ不吉な音だった。
次の瞬間、邪竜へ巻き付いていた鎖が砕けた。
一本、二本、三本と立て続けに弾け、最後にはエルディオンへ繋がっていたものまで残らず消し飛ぶ。
蒼い光の破片が雨のように降り注ぐ中、邪竜が咆哮した。
「……あれ?前回はこれで封印できたんだけど」
エルディオンが珍しくその場で固まる。
「失敗した」
誰かが呟いた。
地下空間が凍り付いた。
先ほどまでの別れを惜しむ空気も、封印が完成するという希望も、一瞬で吹き飛んでいた。
本当にまずい。
その認識だけが、誰の胸にも同時に浮かぶ。
邪竜が翼を振り抜いた。
巨大な風圧が最深部を薙ぎ払い、騎士たちが盾ごと吹き飛ばされる。
瓦礫が飛び交い、悲鳴と怒号が重なり、整えられていた戦線が瞬く間に崩壊した。
「負傷者を下げろ!」
アレクシスが叫ぶ。
白銀の剣を振るい、迫る邪竜の爪を受け流した。
刃と爪がぶつかった甲高い音が響き、その衝撃だけで足元の床が砕ける。
砂埃に汚れた白い外套が激しく翻る。
アレクシスは後方を確認する余裕すらないまま、正面から邪竜を食い止め続けていた。
「騎士団、左翼を支えろ!」
鋭い指示に、態勢を崩していた騎士たちが動き始める。
魔術師団も後退する負傷者を援護しようと術式を組み直した。
だが、逃げようとする邪竜の暴れ方は尋常ではなかった。
邪竜は人間たちを敵として見ていない。
ただ進路を塞ぐ障害物として、爪と翼で薙ぎ払っているだけだった。
エルディオンは崩れかけた後方へ目を向ける。
負傷者が集中する一帯へ、飛ばされた瓦礫が次々と降り注いでいた。
「レグルス、後方の防御をお願い」
「承知しました」
レグルスは迷わず片膝をつき、床へ手を触れた。
淡い金髪の隙間から覗く灰紫の瞳が、負傷者と邪竜の位置、瓦礫の落下地点を素早く観測する。
その指先から伸びた線が複数の円を結び、後方一帯を囲む防御魔法陣へ組み上がった。
半透明の防壁が立ち上がり、負傷者の頭上へ降り注いだ石片を受け止める。
レグルスは魔力の流れを細かく調整しながら、防壁の薄くなった箇所へ次々と補助線を加えていった。
後退する騎士や魔術師たちのために、退路だけは塞がない。
その反対側では、リネが倒れた魔術師の腕を肩へ回し、引きずるように退避させていた。
赤茶色のポニーテールが激しく揺れ、琥珀色の瞳は周囲を絶えず見回している。
戦うだけではなく、目の前にいる仲間を一人でも多く助けようとしていた。
魔術師を防壁の内側へ押し込んだ直後、邪竜の翼が振り抜かれる。
直撃は避けたものの、凄まじい風圧がリネの小柄な身体を床から持ち上げた。
「リネ!」
エルディオンの姿が蒼い残光を残して消える。
次の瞬間には吹き飛ばされたリネの背後へ回り込み、その身体を両腕で抱き留めていた。
勢いを殺しながら床へ降り立ち、リネが自分の足で立てることを確かめる。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
リネは短く息を整えると、すぐに負傷者たちへ視線を戻した。
エルディオンも頷き、それ以上引き留めようとはしない。
互いに次にすべきことを理解し、二人は同時に別の方向へ駆け出した。
その時、レグルスの防壁まで辿り着けなかった騎士たちへ、邪竜の翼が再び叩き付けられようとしていた。アルノは考えるより先に前へ出る。
「Le-Aegis!」
黄金の防壁が、倒れた騎士たちの前へ展開された。
アルノは両手を突き出し、迫る翼を見据える。
自分の魔力だけでは、邪竜の一撃を受け止めきれないことは分かっていた。
それでも、退くことはできなかった。
翼が黄金の壁へ叩き付けられ、防壁全体が大きく軋む。
アルノは歯を食いしばり、魔力を術式へ通した。
接続の漏れを抑え、無駄な損失を削り、必要な場所へ魔力を集中させていく。
守れ。せめて今だけでも、後ろにいる人たちを守れ。
黄金の壁が強く輝く。
衝撃を受けた箇所から魔力を巡らせ、防壁全体へ均等に広げようとする。
それでも、邪竜の力はあまりにも大きかった。
防壁が砕ける。
「っ!」
アルノの身体が後方へ吹き飛ばされ、石壁へ激突した。
肺から空気が押し出され、視界が激しく揺れる。
一瞬、呼吸の仕方さえ分からなくなり、額から流れた温かいものが頬を伝った。
「アルノ!!」
焦った声が響く。
エルディオンが駆け寄り、崩れ落ちかけたアルノの身体を支えた。
アルノは痛みに耐えながら、どうにか身体を起こそうとする。
「大丈夫です」
そう言ったつもりだった。
だが、実際に出た声は弱く掠れている。
「大丈夫じゃない」
エルディオンの手がアルノの肩へ触れる。
その指先が、ほんのわずかに震えていた。
アルノは目を見開いた。
どれほど危険な場所でも余裕を失わなかったエルディオンが、自分の傷を見て動揺している。けれど、そのことを確かめる時間さえ残されていなかった。
背後では邪竜が暴れ続けている。
アレクシスの白銀の剣が何度も閃き、リネはレグルスの防壁へ負傷者を運び続けていた。
防御魔法陣を維持するレグルスも、額に汗を浮かべながら術式の修復を繰り返している。
それでも、邪竜は止まらない。
エルディオンの表情から、すべての迷いが消えた。
「アルノ」
優しい声だった。
「危ないから、ここでじっとしてて」
「嫌です」
アルノは即座に答えた。
エルディオンが困ったように笑う。
「聞いて」
「嫌です」
「アルノ」
「嫌です!」
何をしようとしているのか、分からない。
それでも、この人が何かを決めてしまったことだけは分かった。
額から流れる血で視界が赤く滲んでいる。
身体中が痛み、膝にも力が入らない。それでもアルノは、エルディオンから目を逸らさなかった。
この人が本当に何かを決めた時、誰にも止めることはできない。
けれど、今だけは止めたかった。止めなければならないと思った。
エルディオンはアルノの頭へ、そっと手を置いた。
甘く涼やかな香りが、ふわりと鼻先をかすめた。
栗色の髪を撫でる仕草があまりにも優しく、アルノは続く言葉を失う。
「ありがとう」
それだけ告げると、エルディオンは立ち上がった。
アルノの頭から離れた手が、蒼い光の残滓を引く。
エルディオンは振り返らず、暴れ続ける邪竜へ向かって歩き始めた。
月光色の銀髪が瓦礫の舞う戦場を流れ、その背中だけが暗い地下に浮かび上がって見える。
最初の蒼い魔法陣が浮かんだ。
続いて二枚目、三枚目が現れ、互いに異なる角度で展開されていく。
首席魔術師が息を呑んだ。
「三重……」
それだけでも異常だった。
三次元魔法陣。
現在の魔法が到達した最高点であり、伝説の領域とされる術式だった。
それをエルディオンは、歩みを止めることさえなく展開している。
詠唱も、構築に費やす時間もない。
呼吸するのと同じように、三枚の魔法陣が完成していた。
だが、次の瞬間。
四枚目が現れた。
地下空間が静まり返る。
騎士も魔術師も、邪竜の咆哮さえ忘れたように、その魔法陣を見つめていた。
「四枚……?」
魔術塔最高統制官、ガルディアの声が震える。
ありえない。
三次元魔法陣こそが、人間に許された限界だった。
それより先にあるものなど、理論上でさえ誰も形にできていない。
四枚目の魔法陣は、存在しないはずの方向へ展開されていた。
人間には知覚できない、四つ目の軸。
見えているはずなのに、どこにあるのかを正しく捉えることができない。
理解しようとするだけで、頭の奥が軋んだ。
空間そのものが、人には見えない方向へ折れ曲がっている。
離れていたはずの魔法陣の縁が触れ合い、表側を走っていた線が、途切れることなく別の円の内側から現れた。
四枚の魔法陣は重なっているはずなのに、どの一枚もほかの面に隠れることなく見えている。
前と後ろも、内と外も、すでに意味を失っていた。
魔法陣同士が互いの内側を通り抜け、線が線を越え、円が円の裏側へ入り込んでいく。
それは平面でも立体でもなかった。
アルノの顔色が変わる。
「嘘だろ……」
見える。
アルノには、その構造が見えてしまう。
だからこそ、ほかの誰よりも恐ろしかった。
エルディオンが展開しているのは、三次元ではない。
四次元魔法陣。
人が辿り着いてはいけない場所。
おそらく、この世界でエルディオンだけが展開できる魔法陣だった。
エルディオンは、自らの周囲に浮かぶ四枚の魔法陣を見上げて苦笑する。
「とっておきだったんだけどなあ」
四枚の魔法陣が、異なる方向へ回転を始める。
蒼い光の線が邪竜の周囲を囲み、空間そのものが大きく歪んだ。
邪竜が咆哮し、翼を振るって抵抗する。
だが、今度の術式は鎖で身体を縛るものではない。
力で押さえ込むのではなく、邪竜が存在する空間そのものを別の場所へずらそうとしていた。
この世界から、切り離そうとしている。
アルノは壁へ手をつき、立ち上がろうとした。
膝が震え、身体が言うことを聞かない。
それでもエルディオンへ向けて手を伸ばす。
「待って……」
掠れた声が出た。
エルディオンが振り返る。
月光色の銀髪が蒼い光の中で揺れ、深い碧眼がアルノを見つめた。
その眼差しは、ひどく優しかった。
「アルノ」
「待って!」
手を伸ばしても届かない。
二人の間には、わずかな距離しかないはずだった。
それなのに、折り畳まれた空間がエルディオンを別の場所へ連れていこうとしている。
エルディオンは、少しだけ笑った。
「楽しかったよ」
四つの魔法陣から光が溢れる。
「エルさん!」
アルノの叫びが蒼い光に呑み込まれた。
世界が白く染まる。
邪竜の黒い巨体が輪郭を失い、折り畳まれた空間の向こうへ消えていく。
月光を編み込んだような銀髪も、その傍らで光へ溶けていった。
邪竜が消える。
エルディオンも消える。
やがて光が収まった
光が消えたあと、空間の端に蒼い線が一筋、かすかに揺れていた。
アルノが確かめるより先に、それも薄れて消えた。
地下空間へ、静寂が戻る。
誰も動くことができなかった。
さっきまで地鳴りのように響いていた邪竜の咆哮も、騎士たちの怒号も、魔術師たちの詠唱も聞こえない。
何もない。
邪竜がいた場所。
エルディオンが立っていた場所。
そこだけが世界から切り取られたように、空白になっていた。
リネは動きを止め、空になった場所を見つめていた。
琥珀色の瞳が揺れ、その隣ではレグルスが防御魔法陣を維持したまま、声もなく立ち尽くしている。
アレクシスも白銀の剣を下ろし、何も存在しなくなった空間から目を離せずにいた。
アルノは、伸ばした手を下ろすことができなかった。
「……エルさん?」
返事はない。
聞こえなかっただけかもしれない。
そう思うように、アルノはもう一度、その名前を呼んだ。
「エルさん」
返事はなかった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




