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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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伝説の魔術師

 蒼と黒が正面から激突した。


 耳を塞いでも防ぎきれない轟音が最深部を満たし、床を埋める神代魔法陣が明滅する。

 二つの力がぶつかった地点から衝撃波が吹き荒れ、騎士たちは盾を構えたまま身を伏せ、後方の魔術師たちも腕で顔を庇った。

 石片と砂塵が巻き上がり、視界が激しく揺れる。


 それでも、黒い奔流は一歩も先へ進んでいなかった。

 邪竜の口から放たれた膨大な力を、蒼い光の壁が真正面から受け止めている。

 壁の表面には幾重もの波紋が広がっていたが、崩れる気配はない。


「……防いだ」


 誰かが呆然と呟いた。


 五百年前、都市さえ消し飛ばしたと伝えられる邪竜の咆哮だった。

 その一撃を、たった一人の魔術師が正面から受け止めている。

 王国最高峰を自負する魔術師たちでさえ、目の前で起きていることをすぐには理解できなかった。


 蒼い光の向こうで、エルディオンの銀髪が揺れていた。

 腰まで流れる月光色の髪は、風のない地下にありながら魔力の流れを受け、闇の中へ淡い軌跡を描いている。

 白磁のような肌に蒼い光が映り、長いまつげに縁取られた深い碧眼だけが、荒れ狂う黒い奔流の先を見据えていた。


 現実感が薄れるほど整った横顔だった。

 人の姿をしていながら、その存在だけが神話の中から抜け出してきたように見える。

 エルディオン・ルクス=アルヴァレス――五百年前、邪竜を封印した伝説の魔術師。


 多くの騎士や魔術師たちが、その力を初めて目の当たりにしていた。


「これが……」


「伝説の……」


 呆然とした声が漏れる中、アレクシスだけは何も言わなかった。

 陽光を思わせる金髪を衝撃波に揺らし、蒼い瞳でエルディオンの背中を見つめている。

 白銀の鎧に身を包んだ長身は微動だにしなかったが、その目だけは驚きを隠しきれずに見開かれていた。


 王都最強の聖騎士。《白銀剣》の称号を賜り、数え切れない戦場を越えてきた男だからこそ、目の前にある力の異常さを理解できた。

 技量や経験の差ではない。そもそもの規格が違うのだ。


 邪竜の放った黒い奔流が次第に細くなり、やがて途切れた。

 残滓となった黒い光が空中へ散ると、蒼い光壁の向こうに、傷一つない邪竜の姿が現れる。

 黄金の瞳には怯えも迷いもなく、低い唸り声が最深部の空気を震わせた。


「うん」


 エルディオンの周囲で、蒼い魔力がさらに膨れ上がる。


「やっぱり倒れないよね」


 邪竜が威嚇するように牙を剥いた。

 五百年前と変わらない災厄を前にしても、エルディオンの口元には淡い笑みが浮かんでいる。

 余裕ではなく、目の前の事実を確かめた者の表情だった。


「続きをやろうか」


 次の瞬間、エルディオンの姿が消えた。


「――っ!?」


 騎士たちの間から息を呑む音が上がる。

 目で追える速さではなかった。

 蒼い光の残滓だけが床から斜め上へ伸び、その先を追った時には、エルディオンはすでに邪竜の頭上へ立っていた。


 長い銀髪が月光の尾を引くように宙へ広がる。

 その周囲に蒼い魔法陣が現れた。一枚、二枚、三枚と数を増やし、十枚、二十枚を越えても止まらず、五十、そして百へ達する。


 大小の魔法陣が天井近くの空間を埋め尽くし、互いに重なることなく正確な位置へ収まっていく。

 詠唱はない。

 構築へ費やす時間さえなく、初めからそこに存在していたかのように、完成された術式だけが次々と姿を現していた。


 少し後方では、レグルスが淡い金髪を風圧に乱されながら、その光景を見上げていた。

 銀縁眼鏡の奥にある淡い灰紫の瞳が、魔法陣の配置と魔力の流れを追っていく。

 観測すべきものはあまりにも多いのに、そのどれ一つとして既存の理論には収まらなかった。


 エルディオンが片手を下ろす。


「落ちろ」


 百の魔法陣から、蒼い光が一斉に降り注いだ。


 光の柱が邪竜の巨体を呑み込み、凄まじい轟音とともに地面へ叩き付ける。

 衝撃を受けた床が大きく陥没し、同心円状に亀裂が走った。

 地響きに合わせて地下全体が揺れ、天井から細かな石片が雨のように降り注ぐ。


 邪竜の悲鳴にも似た咆哮が響き渡った。


「今だ!」


 アレクシスが白銀の剣を掲げる。

 青白い光を帯びた刃が、立ち込める砂塵の中で鋭く閃いた。


「王都騎士団!!」


「応!!」


 応じた騎士たちが盾を上げ、一斉に駆け出す。

 先ほどまで邪竜の力に圧倒されていた者たちの目にも、戦意が戻っていた。

 伝説の魔術師が作り出した好機を、誰一人として無駄にするつもりはない。


「総攻撃!!」


 騎士たちの後方では、魔術師団が次々と術式を完成させていた。

 炎が渦を巻き、雷が枝分かれし、鋭い氷槍が空間を埋める。そこへ唸りを上げる暴風が重なり、無数の魔法が倒れた邪竜へ降り注いだ。


 爆発と閃光が立て続けに起こり、黒い鱗の表面で火花が弾ける。

 邪竜が身を起こそうとするたび、騎士たちの槍と魔術師たちの攻撃がその動きを押し戻した。

 アレクシスは先頭を駆け、巨体の脇をすり抜けるように白銀の剣を振るう。


 その中を、リネも迷うことなく飛び出していた。

 高い位置で結んだ明るい赤茶色の髪が炎の光を受けて翻り、大きなアーモンド形の琥珀色の瞳が真っ直ぐ邪竜を捉える。

 熱と生命力をそのまま形にしたような少女は、エルディオンの攻撃で体勢を崩した邪竜の懐へ一直線に駆け込んだ。


「おおおおおっ!!」


 踏み込んだ足元で床が砕ける。

 全身の力を乗せて振り抜かれた拳が黒い鱗へ叩き込まれ、鈍い破砕音を響かせた。

 鱗の一部が砕け、その下から黒い血が飛び散る。


「効いてる!」


 アルノの声が戦場へ響いた。


 邪竜が苦しげに身を捩り、巨大な身体をよろめかせる。

 アレクシスの剣が首筋を裂き、リネの一撃が翼の付け根にある鱗を砕いた。

 魔術師団の集中砲火も絶え間なく降り注ぎ、黒い鱗を焼き、その内側へ着実に傷を刻んでいく。


 そして何より、戦況を支配していたのはエルディオンだった。

 蒼い魔法陣が幾重にも展開され、邪竜が体勢を立て直そうとするたび、上方から押さえ込むように光が落ちる。

 逃げ道も反撃の機会も与えず、巨大な身体を何度も地面へ叩き付けていた。


 轟音が響くたび、最深部の床が震える。

 邪竜の翼は裂け、全身を覆う鱗には無数の傷が走り、黒い血が床へ滴り落ちていた。

 五百年前には誰も倒せなかった災厄が、今は確かに押されている。


 騎士たちの胸に、同じ思いが浮かび始めていた。

 魔術師たちの顔にも、わずかな希望が戻っている。

 五百年前の災厄に、人類が今度こそ勝てるかもしれない。


「押してる……」


 アルノが呟いた。

 風圧に乱れた明るい栗色の髪の下で、大きな灰銀の瞳が戦場を見つめている。

 光の加減で銀色にも見えるその瞳は、邪竜の傷と、周囲に展開された魔法陣のすべてを逃さず追っていた。


 第五星環では、異界エネルギーを摂取できないと悟った邪竜が自ら飛び去った。

 第二星環では逃げられ、第七星環でも取り逃がした。


 だが、今は違う。

 王国中から集められた精鋭と、王都最強の聖騎士、共に旅をしてきた仲間たち、そして伝説の魔術師がいる。

 その全員が力を合わせ、初めて邪竜を追い詰めていた。


 邪竜の身体が、再び大きく傾いた。


 誰もが攻撃の手を緩めなかった。

 ここで終わらせる。

 その思いが、騎士たちをさらに前へ進ませ、魔術師たちに次の術式を組み上げさせる。


 その時だった。


 邪竜の黄金の瞳が、人間たちから外れた。

 剣を振るうアレクシスも、頭上に浮かぶエルディオンも見ていない。

 その視線は、最深部に開いた裂け目だけへ向けられていた。


 アルノの顔色が変わる。


「まさか……」


 見覚えのある動きだった。

 第二星環でも、邪竜は追い詰められた末に裂け目へ向かった。

 傷付いた身体を引きずるように首を動かし、ゆっくりと空間の亀裂へ顔を近付けていく。


「まずい!」


 アルノの叫びに、邪竜の近くにいたリネが振り返る。


「アルノ!?」


「止めないと!」


 リネは即座に床を蹴った。

 全身をひねり、邪竜の側面へ渾身の拳を叩き込む。

 重い衝撃に巨体が大きくよろめき、踏み出しかけていた脚が床を削った。


 それでも、邪竜は裂け目から目を逸らさなかった。

 傾いた身体を立て直し、傷付いた巨体を引きずりながら歩みを進める。


 遅かった。


 邪竜が大きく息を吸い込む。

 裂け目の向こうで揺らめいていた異質な光が流れを変え、巨大な口へ向かって一気に吸い寄せられた。空気とも魔力とも違う何かが空間を通り抜けるたび、床に刻まれた神代魔法陣が不規則に明滅する。


 邪竜の身体が淡く発光する。

 黒い鱗の隙間から異質な輝きが漏れ、脈打つように全身へ広がっていった。

 地下空間を満たす空気が震えた。


 第二星環でも同じだった。

 邪竜は裂け目から異界エネルギーを喰らい、それまで受けた傷を覆すほどの力を得た。

 目の前で起きている現象が何を意味するのか、アルノには嫌というほど分かっていた。


 エルディオンの表情から、先ほどまでの笑みが消える。長いまつげの奥で碧眼が鋭く細められ、膨れ上がる邪竜の力を見極めていた。アレクシスも異変を察し、攻撃を続けながら声を張り上げる。


「何が起きている!」


 その答えは、説明を待つまでもなく現れた。


 邪竜の裂けていた翼が、内側から押し広げられるように繋がっていく。砕け落ちたはずの鱗が新たに形成され、剥き出しになっていた肉を覆った。首筋から流れていた黒い血も止まり、刻まれた傷が、まるで時間を巻き戻すように消えていく。


「嘘だろ……」


 騎士の一人が呟いた。


 誰もその言葉を否定できなかった。

 つい先ほどまで確かに存在していた傷が、目の前で失われていく。

 剣も、拳も、無数の魔法も、すべて最初からなかったことにされようとしていた。


 リネが強く拳を握り締める。

 大きな琥珀色の瞳には、目の前の光景を認めまいとする悔しさが滲んでいた。


「またぁ…」


 確かに追い詰めていた。

 傷を与え、動きを封じ、誰もが勝利へ手を伸ばしていた。

 それなのに、積み上げたすべてが異界エネルギーによって奪われていく。


 やがて邪竜は、ゆっくりと身体を起こした。

 翼も鱗も完全に再生し、その巨体には傷一つ残っていない。

 黄金の瞳が再び人間たちを見下ろし、低く響く呼吸だけが静まり返った最深部を満たしていく。


 騎士たちは剣や槍を構えたまま、動くことができなかった。

 魔術師たちも完成しかけた術式を前に、言葉を失っている。

 苦労して削った傷も、ようやく作り出した好機も、すべてが一瞬で消えた。


 絶望という言葉が、最も近かった。


 邪竜が巨大な翼を広げた。

 巻き起こった風圧が最深部を吹き抜け、砕けた床の破片や瓦礫を巻き上げる。

 天井が不穏な音を立てて軋み、騎士たちは飛来する石片から身を守るように盾を掲げた。


 アルノは歯を食いしばり、風に逆らって顔を上げた。

 邪竜の身体がわずかに沈み、翼が大きく動こうとしている。

 その姿を見た瞬間、第二星環で起きたことが鮮明に蘇った。


 逃げる気だ。


 十分な異界エネルギーを取り込んだ邪竜は、その場に留まらない。

 このまま逃がせば、また次の星環へ向かい、新たな裂け目を開く。

 そして再び、世界の外側にあるものを喰らう。


 それでは、いつまで経っても終わらない。


 邪竜の巨体が床から浮き上がり、翼が大きく空気を捉えた。

 その瞬間、これまでとは比較にならないほど強い蒼い光が地下空間を染め上げる。

 黒く沈んでいた最深部の景色が一変し、誰もが同時に振り向いた。


 そこに、エルディオンが立っていた。


 月光を編み込んだような銀髪が、溢れ出す魔力に揺れている。

 深い碧眼は飛び立とうとする邪竜だけを捉え、白磁のような横顔には感情らしいものがほとんど浮かんでいなかった。

 静かであるほど、その内側にある力の大きさが伝わってくる。


 蒼い魔法陣が一枚、エルディオンの背後へ浮かび上がった。

 続いて二枚目、三枚目が現れ、十、二十、五十と数を増していく。百を越えても展開は止まらず、大小無数の円環が天井から床までを覆い、最深部そのものを一つの巨大な術式へ変えていった。


 その規模も、刻まれた術式の密度も、王国の魔術師たちが知る常識から逸脱している。

 誰も言葉を発することができなかった。

 戦場にいるすべての魔術師が、ただ一人の背中を見つめていた。


 エルディオンは逃げようとする邪竜を見上げる。

 ほんのわずかに目を細めると、その口元へ静かな笑みを浮かべた。


「させるか」


 次の瞬間、蒼い光が爆発した。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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