届かない魔法
一行が第五星環へ辿り着いたのは、夕日が地平線へ沈み始めた頃だった。
丘の向こうに見えていた白石の柱が、今はすぐ目の前に並んでいる。
西へ傾いた陽射しが石造りの遺跡を赤く染め、地面へ長い影を落としていた。
遺跡は、あの日と変わらず静かに佇んでいる。
けれど、その静けさとは裏腹に、周囲には騎士や魔術師たちの姿が絶えなかった。
天幕がいくつも張られ、王都から運び込まれた物資が積み上げられている。
日が暮れる前から各所に灯りがともされ、伝令が忙しなく行き交っていた。
遺跡の入口では、騎士団と結界術師が厳重な警戒に当たっている。
アルノは、夕日に染まる遺跡を見つめた。
風に揺れる明るい栗色の髪の下で、大きな灰銀の瞳が懐かしい景色を映している。
あの日、この場所で邪竜は目覚めた。
エルディオンと出会い、すべての旅が始まった。
まだ数か月しか経っていない。
それなのに、見習いとして封印術式の補助へ呼ばれた頃の自分が、ずいぶん昔のことのように思えた。
何も知らなかった。
自分の指摘を誰にも信じてもらえず、崩れていく封印術式を前に、ただ必死に一本の線を繋いだ。
あの頃は、まさかこんな旅になるとは思っていなかった。
入口の前には、以前とは比べものにならない数の騎士たちが並んでいた。
王都騎士団、魔術師団、結界術師。誰もが険しい表情を浮かべ、遺跡へ続く道を警戒している。
邪竜復活の情報は、すでに王国中へ広がっていた。
「アルノ」
低い声が飛んできた。
振り返ると、主任魔術師のロイド・フェルナーが立っていた。
以前より少し痩せたように見え、眼鏡の奥には疲労が滲んでいる。
目の下に残る薄い隈が、ろくに眠れていないことを物語っていた。
邪竜復活の責任の一端は、魔術塔にある。
発展した現代魔術なら、邪竜を再封印できる。
そう過信した末にアルノの警告を退け、五百年前の封印を解いた結果だった。
ロイドはしばらくアルノを見つめたまま、何も言わなかった。視
線の置き場に困り、アルノは首を傾げる。
「……?」
ロイドが小さく息を吐いた。
「数か月前とは顔つきが違うな」
アルノは瞬きをした。
「そうですか?」
ロイドは頷いた。
「ああ」
「いい顔になった」
アルノはもう一度目を瞬いた。
どう返せばいいのか分からずにいると、隣に立っていたリネが明るく笑う。
高い位置で結ばれた赤茶色のポニーテールが揺れ、大きなアーモンド形の琥珀色の瞳が楽しげに細められた。
「前はもっと頼りなかったもんね」
「リネ」
「事実でしょ」
アルノが言葉に詰まる。
エルディオンが肩を震わせていた。
横顔は、どう見ても笑いを堪えている。
「エルさんまで」
「いや、ごめんごめん」
全く悪いと思っていない顔だった。
ロイドは三人のやり取りを見て、もう一度息を吐いた。
だが、次の瞬間には表情を引き締めていた。
「状況は良くない」
それまでの空気が消える。
アルノも表情を改め、遺跡の奥へ目を向けた。
「邪竜は?」
「すでに地下遺跡へ侵入している」
アルノの胸が重くなる。
邪竜は戻ってきた。
「こちらだ」
ロイドが踵を返す。アルノたちは互いに頷き、すぐにそのあとを追った。
◇
作戦室には、大勢の人間が集まっていた。
魔術師、騎士、結界術師、王都から派遣された軍関係者。
国の中枢を担う者たちが一堂に会し、壁一面に貼られた地下遺跡の地図を見つめている。
その中に、豪奢なローブをまとった白髪交じりの男がいた。
ガルディア・ノルヴェン。
魔術塔最高統制官。
あの日の再封印計画を指揮し、アルノの警告を退けた人物だった。
ガルディアの視線が一瞬だけアルノへ向けられたが、互いに言葉を交わすことはなかった。
今はただ、邪竜を止めなければならない。
その思いだけは、この場にいる全員に共通していた。
ロイドが壁際へ進み、地下遺跡の地図を示す。
「邪竜は現在、地下最深部にいる」
地図の一点を指差す。
「目的は不明だ」
その時だった。
「おそらく捕食です」
レグルスが言った。
淡い金髪の下で、銀縁眼鏡の奥にある灰紫色の瞳が地図の一点を見据えている。
その声に迷いはなかったが、事実と推測を分ける慎重さは失っていなかった。
部屋が静まり返る。
「……捕食?」
ロイドが眉をひそめた。
「邪竜は異界エネルギーを喰います」
何人かの魔術師が顔を見合わせる。
星環を巡っていない彼らには、その言葉の意味が分からない。それは当然の反応だった。
「説明している時間はありません」
レグルスが続ける。
「後で説明します」
口調はいつもどおり淡々としていた。それでも、急いでいることだけは全員に伝わった。
「もし予想が正しければ、邪竜は地下施設の奥を目指しているはずです」
その直後だった。
どぉぉぉぉん!!
轟音とともに、建物全体が大きく揺れた。
机の上に広げられていた資料が跳ね、壁際に立っていた者たちから悲鳴が上がる。
地下からだ。
エルディオンが立ち上がる。
白磁のような顔から穏やかな表情が消え、深い碧眼が地下へ続く扉を見据えた。
「行こう」
その一言で、作戦室の空気が変わった。
アレクシスが騎士団へ合図を送り、ガルディアも杖を握って立ち上がる。
選抜された魔術師たちが続き、一行は地下遺跡へ向かった。
◇
地下へ入ったアルノは、壁から目を離せなかった。
壁、床、天井。灰銀の瞳が、そこに刻まれた無数の線を追っていく。
術式と導線、神代文字。そのすべてが途切れることなく繋がり、遺跡全体を一つの巨大な構造へ作り上げていた。
「……ここもだったんだ」
声が漏れる。
前を進んでいたリネが振り向いた。
「何が?」
「ここ」
アルノは壁へ手を触れた。指先が刻まれた線を辿り、その先へ続く魔力の流れを追う。
「ここも」
自分でも驚くほど自然に理解できた。
これまで巡ってきた星環で、同じ構造を何度も見ている。
封印を解いた時には、この地下遺跡が何のために造られたものなのか、考えることさえできなかった。
いくつもの星環を巡ってきた今だからこそ分かる。
「星環そのものだったんだ」
遥かな神代、都市へ力を送り続け、文明を支えていた巨大構造体。その一つだったのだ。
アルノの指先が線の上で止まる。
神代人が築いた技術は、知れば知るほど想像を超えていく。
どれほど巨大な文明が、これらの施設によって支えられていたのか。
まだ、到底すべてを理解することはできなかった。
再び轟音が響いた。
地下全体が激しく揺れ、天井から細かな砂埃が降り注ぐ。
「急ごう」
エルディオンが言う。
アルノは壁から手を離し、全員とともに最深部へ向かって走り出した。
◇
最深部へ辿り着いた瞬間、全員が足を止めた。
広大な床一面に、神代魔法陣が刻まれている。
幾重にも重なる円環と無数の神代文字が繋がり、一つの巨大な術式として組み上げられていた。
頭上には、淡い光を宿した透明結晶が浮かんでいる。
これまでの星環で見たものと同じだった。
そして、その中央に邪竜がいた。
光を吸い込むような黒い鱗。広げれば空間を覆い尽くすほど巨大な翼。
暗闇の中で輝く黄金の瞳。
五百年前の災厄。
伝説そのもの。
だが、邪竜はこちらを見ていなかった。
巨大な爪が、何もないはずの空間へ突き立てられている。
ビキ。
硬いものが割れるような、嫌な音が響いた。
空間が裂ける。
アルノの顔色が変わった。
第一星環、第二星環、第四星環、そして第七星環。これまで何度も目にしてきたものだった。
異界へ繋がる裂け目。
邪竜がもう一度爪を振るう。
裂け目がさらに大きく広がり、その向こう側から、見たことのない何かが漏れ始めた。
それを見ているだけで、頭の奥がざわつく。
邪竜がゆっくりと顔を近付け、それを啜り上げる。
「まずい!」
アルノが叫んだ。
エルディオンも同時に動く。
「止める!」
邪竜が振り返った。
黄金の瞳が、侵入してきた人間たちを捉える。
次の瞬間、咆哮が轟いた。
凄まじい音と衝撃が地下空間を揺らし、床の神代文字が明滅する。
アレクシスが剣を抜き、白銀の刃が青白い光を帯びた。
騎士団が一斉に展開し、その後方では魔術師団が詠唱を始める。
エルディオンが一歩前へ出た。
腰まで流れる銀髪が、暗い地下へ差し込んだ月光のように揺れる。
そこに蒼い魔力が重なると、淡い光は次第に強さを増し、彼を中心に地下空間の闇が静かに押し退けられていった。
誰もが理解した。
本当の戦いが始まる。
「全員」
エルディオンが穏やかな声で告げる。
「死なないでね」
その直後、王国最強の騎士と伝説の魔術師、そして選りすぐりの魔術師たちが一斉に動いた。
邪竜の黄金の瞳が人間たちを見据える。
ただ見られただけだった。それなのに、空気が震え、背筋を冷たいものが走る。
前列にいた騎士の一人が、その場の圧力に耐えきれず一歩後ずさった。
邪竜は動かない。
ただそこにいる。それだけで、周囲を圧倒していた。
アルノは第二星環や第七星環でも邪竜を目にしている。
けれど、周囲に並ぶ騎士や魔術師たちの多くにとって、こうして邪竜と対峙するのは初めてだった。
その圧倒的な威圧感に、騎士や魔術師たちの多くが息を呑み、構えた武器や杖を握り締めたまま一瞬動きを止めていた。
巨大だった。
まるで、山そのものが意思を持って生きているようだった。
「王国騎士団」
低い声が響く。
アレクシスが白銀の剣を掲げる。青白い輝きが刃を伝い、周囲の騎士たちの鎧へ反射した。
「前進」
騎士たちが一斉に動く。
盾を構え、槍を前方へ向ける。
一糸乱れぬ動きで互いの死角を補い、邪竜へ立ち向かう陣形を完成させた。
その後方では、魔術師団が術式を展開していた。
炎、氷、雷、風。無数の魔法陣が空間へ浮かび上がり、地下遺跡が色とりどりの光で埋め尽くされていく。
「撃て!」
轟音とともに、すべての魔法が解き放たれた。
炎が走り、雷が弾ける。鋭い氷槍が降り注ぎ、暴風が黒い翼を包み込む。数十人分の魔法が、ほぼ同時に邪竜へ叩き込まれた。
爆発と閃光が邪竜の巨体を覆い隠す。
衝撃が地下空間を駆け抜け、床と壁を激しく揺らした。
騎士団の後方へ続くため、リネも駆け出す。
「行くよ!」
「うん!」
アルノもすぐに走り、騎士たちの後ろに設けられた支援位置へ向かう。
視界が白く染まり、土煙が舞い上がった。
誰もが攻撃の結果を見守る。
だが、次の瞬間。
土煙の中で、黄金の光が揺れた。
「――っ」
誰かが息を呑む。
巨大な影が、ゆっくりと現れた。
邪竜だった。
黒い鱗には、傷一つ付いていない。
炎も雷も氷も、何事もなかったかのように消えていた。
「そんな……」
魔術師の一人が呟く。
その後方で、ガルディアだけは杖を掲げたまま詠唱を続けていた。
白髪交じりの髪が吹き荒れる魔力に煽られ、豪奢なローブが激しくはためいている。
頭上に三重の魔法陣が現れた。
巨大な円環が互い違いに回転し、その中心へ周囲の光が吸い寄せられていく。
収束する魔力は眩い白金色へ変わり、直視できないほどの輝きを放ち始めた。
アルノは目を見開いた。
構造も、込められた魔力量も、先ほど放たれた魔法とは比べものにならない。
ガルディアが魔術塔最高統制官の地位に立っているのは、決して肩書だけによるものではなかった。
ガルディアが杖を振り下ろす。
白金の光が巨大な槍となり、邪竜へ落ちた。
轟音とともに光が弾け、凄まじい衝撃が地下空間を駆け抜ける。
騎士たちは盾を構えて身を伏せ、魔術師たちの外套が激しくはためいた。
床に刻まれた神代文字さえ、降り注ぐ光の中へ消えていく。
誰もが、その威力に息を呑んだ。
やがて光が薄れ、邪竜の姿が再び現れる。
黒い鱗には、傷一つ付いていなかった。
ガルディアの表情が強張る。
杖を握る指に力が込められたが、続く術式は浮かばなかった。
五年。
二十七名の上級魔術師。
百を超える試験。
アルノの警告を退けた時の言葉が、胸の奥に蘇る。
現代魔術なら、五百年前の邪竜を封じ直せる。
あの時、この場にいた誰もがそう信じていた。
ガルディアが放った魔法は、間違いなく現代魔術の頂点に立つ一撃だった。
それでも、邪竜には届かなかった。
邪竜がゆっくりと首を動かす。
まるで、鬱陶しい虫でも見るように人間たちを見下ろした。
黒い尾が、わずかに動く。
その一振りだけで、前列の騎士たちが盾と鎧ごとまとめて吹き飛ばされた。
「うわぁっ!」
「ぐあっ!」
人が宙を舞い、地面へ叩き付けられる。
悲鳴と金属がぶつかる音が重なり、戦場の空気が一変した。
遊びでも、訓練でもない。
本物の災厄だった。
アルノの背筋が冷える。
五百年前、国中の騎士と魔術師が戦った。
それでも、邪竜を倒すことはできなかった。
今なら分かる。
なぜなのか。
邪竜がゆっくりと口を開いた。
その喉の奥へ、黒い光が集まり始める。
見ているだけで本能が危険を訴えた。
空間そのものが軋み、地下を満たす異界の気配が急速に濃くなっていく。
アレクシスもすぐに気付いた。
「総員散開!」
鋭い声が飛ぶ。
騎士たちが左右へ走り、魔術師たちも後退する。
だが、邪竜の喉に集まる黒い光は、逃げる者すべてを呑み込めるほど大きく膨れ上がっていた。
間に合わない。
アルノには分かった。
あれは範囲が広すぎる。
ここにいる全員が、攻撃の外へ逃れることはできない。
その時だった。
エルディオンが前へ出る。
腰まで流れる銀髪が揺れ、白磁のような肌を蒼い光が照らした。
静かなのに圧倒的な魔力が溢れ、地下空間を満たす空気そのものが変わっていく。
騎士たちが振り向き、魔術師たちが息を呑んだ。
五百年前、邪竜を封印した伝説の魔術師。その姿が、今、彼らの目の前にあった。
エルディオンは邪竜を見上げる。深い碧眼が、光を呑み込むように細められた。
「相変わらず派手だね」
いつもと変わらない、軽い口調だった。
だが、その足元へ蒼い魔法陣が広がる。
一枚。
二枚。
三枚。
十枚。
二十枚。
魔法陣は瞬く間に数を増し、互いに接続しながら巨大な術式を作り上げていく。
騎士たちは言葉を失った。
詠唱もない。
構築するための時間さえ必要としていない。
呼吸をするように、当然のように魔法陣が生み出されていく。
魔法の完成形。
伝説と呼ばれた魔術師の力だった。
エルディオンが右手を上げる。
邪竜の喉が、黒く輝いた。
次の瞬間、黒い奔流が解き放たれる。
世界が黒に染まった。
そして。
蒼と黒が、正面から激突した。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




