白銀剣の伝令
第五星環へ向かう三頭の馬は、王都へ続く主要街道を順調に南下していた。
ラウム山脈を越えてから、風は日を追うごとに暖かさを増している。
明るい陽射しを浴びた草原が街道の両側に広がり、吹き抜ける風に合わせて柔らかな波を作っていた。
空は雲一つなく晴れ渡り、道も平らに整備されている。
険しい山道と吹雪を越えてきた今となっては、信じられないほど穏やかな道のりだった。
アルノはエルディオンの後ろで馬に揺られながら、流れていく景色を眺めていた。
風が吹くたび、明るい栗色の中短髪が揺れ、いつも少しだけ跳ねている一房が額へかかる。
大きな灰銀の瞳には、どこまでも続く草原と青空が映っていた。
遠くには深い緑に覆われた森があり、そのさらに向こうには緩やかな丘陵地帯が連なっている。
王都へ続く主要街道だけあって人の往来も多く、荷を積んだ商人の馬車や旅人、巡回中らしい騎士たちが次々と行き交っていた。
少し横を進んでいたリネが、口元を手で覆って欠伸をした。
高い位置で結ばれた赤茶色のポニーテールが馬の歩みに合わせて弾み、細められた琥珀色の瞳には、まだ眠たげな色が残っている。
「平和だねぇ」
「そうだね」
「なんか逆に落ち着かない」
「分かる」
アルノも頷いた。
第七星環へ至る旅は、過酷だった。
険しいラウム山脈を越え、邪竜によって中枢を破壊された第七星環へ足を踏み入れた。
リネを庇って地下施設へ落ちたアルノは、そこで誰にも読み解けなかった神代文字――Leの意味を理解し、傷ついたエルディオンを救った。
そして最後には、異界へ繋がったままの抽出口を閉じた。
あまりにも多くのことが、短い間に続きすぎたのだ。
今こうして、何事もなく馬上で揺られている方が不思議に思える。
平穏を望んでいたはずなのに、静かな時間が続くとかえって身構えてしまう自分に気付き、アルノはわずかに肩の力を抜いた。
反対側では、レグルスが自分の馬を危なげなく進めていた。
淡い金髪が風になびき、陽射しを受けた銀縁眼鏡が時折光を反射している。
周囲を行き交う人々や街道の状態へ視線を配る姿は、山中にいた時と変わらなかった。
アルノはふと、前に座るエルディオンへ目を向けた。
腰まで伸びた銀髪が風にさらわれ、陽光を受けて淡く輝いている。
流れた髪の先がアルノの肩へ触れては離れていく。
エルディオンの深い碧眼は、今ここではない、どこか遠い場所を見ているようだった。
「エルさん」
「ん?」
「第五星環って、エルさんにとってどんな場所なんですか」
その言葉に、エルディオンの視線が少しだけ動いた。
すぐには答えず、街道の先へ目を向ける。
風に揺れる草原を眺めながら、記憶の中にある五百年前の景色を探しているように見えた。
やがて、その口元に淡い笑みが浮かぶ。
「そうだなぁ」
長い時間を振り返るような声だった。
「封印した場所かな」
口調はいつもと変わらない。
けれど、わずかに振り向いた横顔には、どこか懐かしむような色があった。
「五百年前ですか」
「うん」
エルディオンが頷く。
馬の歩みに合わせて銀髪が揺れ、白磁のような頬へ淡い影を落とした。
「当時は大変だったよ」
「エルさんでもですか」
「うん」
エルディオンは当時の苦労さえ遠い思い出のように笑った。
「そもそも情報がなかった」
「情報?」
「邪竜について」
アルノはわずかに身を乗り出した。
声が届いたのか、リネも眠気を忘れたように顔を上げる。
レグルスも進行方向へ向けていた視線を動かし、エルディオンの話へ耳を傾けていた。
「今は異界エネルギーを食べるとか分かってるでしょ?」
「はい」
「だから、星環へ向かうってわかる」
「でも当時は何も分からなかった」
エルディオンの碧眼から、先ほどまでの柔らかな色が少しずつ薄れていく。
「街や森を汚染して」
その声は穏やかなままだった。だからこそ、語られる出来事の凄惨さがはっきりと伝わってきた。
「どこかへ消える」
どれほど兵を集めても、次にどこへ現れるのか分からない。
追いついた頃には汚染だけを残し、邪竜は別の場所へ移っている。
五百年前の人々が感じた恐怖を思い、アルノは鞍の後ろへ添えていた手に力を込めた。
「だからみんな必死だった」
王都からは騎士団と魔術師団が出され、傭兵や冒険者まで集められた。
身分も所属も関係なく、国中の戦力が邪竜を倒すために動員されたのだ。
それでも、邪竜は止まらなかった。
「傷は付くんだよ」
エルディオンが淡々と語る。
「剣も通る」
アルノの脳裏に、巨大な邪竜へ挑む騎士たちの姿が浮かぶ。
「魔法も効く」
剣が鱗を裂き、無数の魔法がその身体へ叩き込まれる。
それでも、戦いは終わらない。
「でも死なない」
馬の蹄が硬い石を踏み、乾いた音を立てた。
誰もすぐには口を開かず、三頭の馬が街道を進む音だけが続いていく。
「どれだけ傷付けても?」
「うん」
エルディオンは肩を竦めた。
「理不尽だったね」
あまりにも短い言葉だった。
けれど、その一言の中に、当時の人々が味わった絶望が込められているように思えた。
傷を与えることはできる。
剣も魔法も届く。それなのに倒すことだけができない。
勝てない。終わらせることができない。
戦い続けても、その先に何があるのか分からない。
そんな相手だったのだ。
「第五星環は王都の近くだった」
エルディオンは街道の先へ目を向けたまま続ける。
「だから焦った」
邪竜がこのまま進めば、王都へ辿り着く。
国の中心が汚染されれば、どれほどの被害が出るか分からない。
当時の騎士や魔術師たちに、落ち着いて次の手段を考えるだけの時間は残されていなかった。
「そこで封印術式を組んだんですか」
「うん」
エルディオンは頷いた。
「初めは失敗したけど」
あまりにも何気なく告げられた言葉に、アルノは目を見開いた。
「失敗したんですか!?」
エルディオンが楽しそうに笑う。
「失敗したよ」
「僕でもね」
アルノの指先が、鞍の上で無意識に線を結びかける。
どのような術式を組み、どこで失敗したのか。
魔法陣を見ていない今は考えようもないと分かっていながら、その構造を想像せずにはいられなかった。
伝説の魔術師。世界最強と呼ばれた人物。
そのエルディオンでさえ、一度では邪竜を封じられなかった。
想像していた以上に、五百年前の状況は切迫していたのだ。
「周りも焦った」
エルディオンが言う。
「国で一番の魔術師が失敗したから」
最後の手段だと思われていた封印術式が失敗し、王都は混乱に陥った。
「それで?」
リネが馬を寄せる。
「どうしたの?」
エルディオンはすぐには答えず、広がる空を見上げた。
五百年前と同じ場所へ近付いているせいか、その眼差しはいつもより遠く感じられた。
「僕を楔にした」
あまりにも軽い口調だった。
レオンの日記に記されていた一文が、アルノの頭をよぎった。
『あいつ自身が、この封印を支えていた』
読んだ時にも意味は理解したつもりでいた。
けれど、本人の口から聞かされると、その言葉はまるで違う重さを持って胸の奥へ沈んでいく。
エルディオンは自分の身体を封印術式へ組み込み、五百年もの間、邪竜を繋ぎ止めていたのだ。
「上手くいった」
「上手くいったで済ませる話じゃないですよね?」
アルノが思わず声を強める。
「そうかな?」
「そうです!」
リネも大きく頷いた。
「そうだよ」
「普通やらない」
左右から責められても、エルディオンは悪びれた様子を見せなかった。
「でも成功した」
「結果論です!」
呆れながらも、胸の奥には拭いきれない重さが残った。
今、同じ馬に乗っているエルディオンが、かつて自らを術式の一部にした場所へ戻ろうとしている。
その事実を、アルノは初めてはっきりと意識していた。
◇
最初に変化へ気付いたのは、三頭の馬だった。
それまで一定だった歩みが乱れ、耳が街道の先へ向けられる。
続いて、遠くから低い地響きが聞こえてきた。
ドドドドドドド――。
一頭や二頭ではない。
大地を連続して叩く、大量の馬蹄の音だった。
アルノはエルディオンの肩越しに街道の先へ目を凝らした。
遠くに土煙が上がり、その中から陽光を反射する白銀の一団が姿を現す。
「騎兵?」
リネが手綱を短く持ち直した。
琥珀色の瞳は鋭く細められ、いつでも動けるように騎兵の一団を見据えている。
白銀の騎士たちは、街道を埋めるほどの隊列を保ったまま、こちらへ向かってくる。
速い。
多くの騎馬が駆けているにもかかわらず、隊列にはほとんど乱れがなかった。
先頭を走る騎士が片腕を上げる。
その合図だけで後続の騎士たちが一斉に速度を落とした。
馬と馬の間隔を保ったまま滑らかに減速する姿は、アルノの目にも分かるほど美しく統制されていた。
「止まってください!」
先頭の騎士の声が街道へ響き渡る。
エルディオンが手綱を引き、馬を止める。
リネとレグルスもすぐに続き、三頭の馬は街道の端で足を止めた。
次の瞬間、白銀の騎士たちが左右へ広がり、アルノたちを囲む。
だが、剣へ手をかける者はいない。
外側へ警戒を向けた配置は、相手を捕らえるためではなく守るためのものだった。
中央の騎士が馬から降りる。
エルディオンも先に馬を下り、アルノが続く。
街道へ降り立ったところで、白銀の騎士が二人の前へ歩み出た。
陽光を受けて輝く金髪に、澄んだ蒼い瞳。
長身を包む白銀の鎧には汚れ一つなく、その上から白い外套が流れている。
立っているだけで周囲の空気が引き締まるような、隙のない姿だった。
整いすぎた顔立ちをしているが、エルディオンとは印象が違う。
人としてのすべてを厳しく磨き上げた末に完成したような、端正な美しさだった。
騎士は迷うことなくエルディオンの前まで進む。
そして、街道の上へ片膝をついた。
「伝説の魔術師殿」
低く通る声だった。
突然の最敬礼を受けたエルディオンは、心底困ったように眉を下げる。
「そういうのやめない?」
「できません」
間を置かない即答だった。
エルディオンがさらに困った顔をしても、騎士は姿勢を崩さなかった。
「私は聖騎士団第一位」
騎士が名乗る。
「《白銀剣》の称号を賜る」
「アレクシス・ヴァン・アークライト」
聖騎士団の頂点に立つ者。
名乗りを聞く前から、ただ者ではないことは誰の目にも明らかだった。
いつでも戦いへ移れる隙のない立ち姿と、周囲を囲む騎士たちから向けられる信頼が、その実力を何より雄弁に物語っている。
リネも馬上で表情を引き締め、正面からアレクシスを見ていた。
レグルスは銀縁眼鏡の奥から相手の姿を見据える。
「王都最強の聖騎士」
小さく呟かれた言葉に、アルノは改めてアレクシスへ目を向けた。
アレクシスは立ち上がると、白い外套の内側から一通の封書を取り出した。
「王都からの伝令です」
差し出された封書を、エルディオンが受け取る。
封を切って中の文面へ目を走らせると、それまで穏やかだった碧眼が次第に細められていった。
「なるほど」
「なに?」
アルノが隣から文面を覗き込もうとする。
だが、その前にエルディオンが顔を上げた。
「邪竜だ」
その一言で、先ほどまでとは違う沈黙が落ちた。
「第五星環へ向かっている」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
ラウスの魔術ギルドで目撃情報を調べ、邪竜の進路が第五星環へ向かっている可能性は考えていた。それでも、予想と確認された事実とでは、胸にのしかかる重さが違う。
「王都からの観測でも確認されました」
アレクシスが告げる。その声に迷いはなく、すでに王都では迎撃へ向けて動き始めていることをうかがわせた。
「進路は第五星環」
白銀の騎士たちの間に緊張が走る。
「到達まで数日」
短い沈黙の中で、風がアレクシスの白い外套を揺らした。
街道を行き交っていた旅人たちも、ただならぬ様子を察したのか、遠巻きにこちらを見ている。
「我々が先導します」
アレクシスは胸へ手を当て、エルディオンへ深く頭を下げた。
エルディオンは手にしていた封書を畳むと、馬へ向き直った。
先ほどまで五百年前を懐かしんでいた面影はすでに消え、深い碧眼には伝説の魔術師としての鋭い光が戻っていた。
「急ごう」
その一言で、全員の進むべき道が決まった。
◇
そこからの移動は、それまでとは比べものにならないほど速かった。
聖騎士団の騎馬が三頭の前後を固め、街道を行く人々へ合図を送りながら道を開いていく。
途中で乗っていた馬も替えられ、休憩の時間も必要最低限まで減らされた。
アルノは新しい馬へ先に乗ったエルディオンの後ろへ上がり、再びその背に身体を預ける。
速度が上がるにつれて揺れも大きくなったが、初めの頃と比べれば、馬の動きに合わせることにも慣れていた。
蹄が地面を蹴る音を響かせ、周囲の景色が次々と後方へ流れていく。
移動速度は、それまでの倍以上になっていた。
陽が西へ傾き始める頃には、青かった空も次第に茜色へ染まっていった。
街道を駆ける馬たちの影が長く伸び、周囲を固める白銀の騎士たちの鎧が夕日を反射する。
やがて一行が緩やかな丘を越えた時、アルノはエルディオンの肩越しに見覚えのある景色を見つけた。
地平線の先、夕暮れの霞の中に、白石の柱が幾本も並んでいる。
遠くからでは細部まで見えない。それでも、円を描くように立つ柱群を見間違えるはずがなかった。
古い遺跡後
第五星環。
旅の始まりとなった場所。
邪竜が封印されていた場所であり、エルディオンが五百年の眠りから目覚めた場所。
そして、アルノがエルディオンと初めて出会った場所だった。
あの日、アルノは封印術式の補助要員にすぎなかった。
術式のわずかなずれに気付きながらも、自分の言葉を誰にも聞き入れてもらえず、ただ失敗していく封印を見ていることしかできなかった。
それから、まだ数か月しか経っていない。
けれど、その間に邪竜を追い、いくつもの星環を巡り、失われた神代文明の記録へ触れ、自分にできることを必死に積み重ねてきた。
アルノはエルディオンの背後で拳を握った。
今なら分かる。
あの日から、本当に多くのことがあった。
何も知らなかった頃の自分と、今の自分が同じではないことも分かっている。
それでも、まだ終わってはいない。
邪竜は生きている。そして今、すべてが始まった第五星環へ向かっている。
夕日に照らされた白石柱を見つめながら、アルノはゆっくりと息を吐いた。
前に座るエルディオンも、遠くに見え始めた第五星環から目を離さない。
五百年前に邪竜を封じた魔術師と、その封印が解かれた日に助手となった見習い。
二人を結んだ始まりの場所は、もうすぐそこだった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




