旅立ち
翌朝。
朝は、まだ空気が冷たかった。
王都の中央にそびえる魔術塔も、どこかひんやりとしている。
吐く息が淡く空へ溶け、石畳を踏む靴音だけが静かな朝へ響いていた。
アルノとリネが正門前へ着くと、思わず足を止める。
「……多くない?」
アルノが小さく呟いた。
見送りの人が、思っていたよりずっと多い。
若い研究員。
魔術師。
事務員。
衛兵。
なぜか炊事係までいる。
皆、それぞれ仕事があるはずなのに、正門前へ集まっていた。
「伝説の魔術師だもん。」
リネが小さく肩をすくめる。
「人気者なんだね。」
その視線の先で、一人の青年がゆっくりと振り返った。
冬の朝日を受け、長い銀髪がさらりと揺れる。
白磁のような肌。
深い碧眼。
ただ立っているだけなのに、その場だけ景色が違って見えた。
リネは思わず足を止める。
子どもの頃、何度も読んだ絵本。
『封印の魔術師エルディオン』。
あの挿絵が頭に浮かぶ。
「……」
小さく息を呑む。
「絵本って。」
「盛って描いてるんだと思ってた。」
「本物の方が、ずっと綺麗なんだけど。」
思わず本音が漏れた。
アルノは苦笑する。
「……うん。」
「僕も昨日、同じこと思った。」
エルディオンが二人の前まで歩いてくる。
銀髪が風に揺れ、ふわりと淡い白い花のような香りが漂った。
「おはよう。」
柔らかな笑みだった。
「お、おはようございます。」
アルノが頭を下げる。
リネも軽く頭を下げた。
「おはようございます。」
アルノは隣のリネへ視線を向ける。
「エルさん。」
「この子はリネです。」
「僕の幼馴染で、商隊の護衛をしています。」
「今回、一緒に旅をすることになりました。」
エルディオンはリネを見る。
エルディオンが軽く笑う。
腰まで届く銀髪が風を受け、さらりと背中へ流れた。
「よろしく。」
リネも笑顔で頷いた。
「よろしく、エルさん。」
その時だった。
「陛下のおなりです。」
衛兵の声が正門前へ響いた。
衛兵の声が正門前へ響いた。
集まっていた人々が一斉に道を開ける。
ゆっくりと姿を現したのは、この国の国王だった。
年の頃は五十代半ば。
堂々とした体格に、深紅の外套を羽織っている。
その隣には、紺色の礼装を纏った宰相。
さらに魔術塔最高統制官ガルディア・ノルヴェンをはじめ、塔の幹部たちも続いていた。
国王はエルディオンを見るなり、目を細めた。
「いやあ……。」
感慨深そうに息を吐く。
「本当におるとは。」
「幼い頃から何度も絵本で読んだ英雄が、目の前にいる。」
「なんとも不思議な気分だ。」
エルディオンは困ったように笑う。
「そんなに有名なんだ。」
「帰ってきたら、一度読んでみようかな。」
「ぜひ読んでくれ。」
国王は嬉しそうに頷いた。
和らいだ空気の中、宰相が一歩前へ出た。
手にしていた書簡を静かに開く。
「ご報告がございます。」
先ほどまでの穏やかな空気が、一瞬で張り詰めた。
「昨日夕刻、西方ベルノ村へ邪竜が飛来しました。」
アルノは思わず息を呑む。
「邪竜は村へ降り立ち、およそ十分ほど羽休めをした後、飛び去っています。」
「人的被害はありません。」
「しかし――」
宰相は書簡へ視線を落とした。
「邪竜が降り立った牧草地一帯は魔力汚染を確認。」
「放牧されていた牛はすべて狂暴化し、村人では対処できない状態です。」
「ベルノ村……。」
リネが小さく呟いた。
「知ってるの?」
アルノが尋ねる。
リネは頷いた。
「商隊の護衛で何度か行ったことある。」
「酪農が盛んな村でね。」
「牛乳も、チーズも美味しいんだ。」
琥珀色の瞳が少し曇る。
「村のみんな、明るくて優しい人ばっかりだったのに……。」
アルノも胸が重くなった。
誰も命は落としていない。
それでも。
邪竜が一度降り立っただけで、人々の日常は壊れてしまう。
宰相は続けた。
「現在、騎士団へ派遣要請を――」
「僕一人で十分。」
穏やかな声だった。
エルディオンが静かに口を開く。
その笑顔は、さっきまでと何も変わらない。
宰相は言葉を止めた。
国王も静かに頷く。
誰も、その言葉を疑わなかった。
ただ一人を除いて。
「エルディオン様。」
ガルディアが一歩前へ出る。
豪奢なローブの裾が石畳をなぞる。
その後ろには、数人の魔術師が控えていた。
戦闘魔術師。
結界術師。
探索術師。
いずれも魔術塔が誇る精鋭だった。
「こちらは塔でも選りすぐりの魔術師です。」
「知識も経験も豊富で、実戦にも慣れております。」
そこで、ガルディアの視線がアルノへ向く。
「見習い一人より、はるかにお役に立てるかと存じます。」
正門前が静まり返る。
エルディオンは何も言わず、アルノの前まで歩いてきた。
長い銀髪が朝日に揺れる。
ふわり、と。
白い花のような、涼やかな香りが漂った。
アルノの肩へ、そっと手が置かれる。
「大丈夫。」
柔らかな笑みだった。
「この子だけで。」
何十人もの視線を浴びて、アルノは思わず指先を握り込む。
さっきまで空中で線を結んでいた癖に、自分で気付いたからだった。
ガルディアは息を呑む。
その笑顔を前にすると、それ以上の言葉は出てこなかった。
宰相が静かにアルノの前まで歩いてきた。
手には、小さな革袋が握られている。
ずしり、と重たい音がした。
「アルノ君。」
「こちらを。」
差し出された革袋を、アルノは両手で受け取る。
思った以上の重さに、思わず抱え直した。
「え……?」
「軍資金です。」
宰相は落ち着いた口調で続ける。
「国王陛下より正式な許可が下りました。」
「邪竜追跡に必要な旅費、宿代、物資の購入費。」
「必要経費は、すべて国と魔術塔が負担します。」
アルノは慌てて首を振った。
「で、でも、こんなに……。」
「遠慮は不要です。」
宰相は静かに言う。
「現在、この任務以上に優先される案件は存在しません。」
「足りなくなった場合は、各地の魔術塔支部を頼ってください。」
「すでに各支部へ通達しております。」
アルノは革袋を胸へ抱いた。
「……ありがとうございます。」
宰相は小さく頷くと、一歩下がった。
「アルノ。」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
四十代半ば。
細身の体に魔術師のローブをまとい、丸眼鏡の奥の穏やかな瞳がアルノを見つめている。
主任魔術師、ロイド・フェルナーだった。
昨夜は一睡もしていないのだろう。
いつも整えられている髪は少し乱れ、目の下には疲れが浮かんでいる。
それでも、その眼差しは優しかった。
「体調はどうだ。」
アルノは少しだけ苦笑する。
「……正直、あまり眠れませんでした。」
「そうか。」
ロイドは静かに頷いた。
「無理もない。」
昨日一日で、世界は変わった。
不安にならない方がおかしい。
しばらく沈黙が流れる。
やがてロイドは、小さく息を吐いた。
「一つだけ。」
アルノは顔を上げる。
「約束してくれ。」
「……はい。」
「生きて帰れ。」
短い言葉だった。
けれど、その一言には、上司としての願いがすべて込められていた。
アルノは力強く頷く。
「はい。」
「必ず。」
ロイドは満足そうに微笑んだ。
「それでいい。」
ロイドが静かにその場を離れる。
その背中を見送りながら、アルノは革袋をそっと抱きしめた。
たくさんの人が、自分たちの旅を支えてくれている。
その重みを、改めて感じていた。
「エルディオン様!」
明るい声が響く。
振り返ると、若い研究員が大きな紙袋を抱えて駆け寄ってきた。
「保存食です!」
「道中で召し上がってください!」
「ありがとうございます。」
エルディオンは笑顔で受け取る。
すると今度は別の職員が駆けてきた。
「こちら、防寒用の毛布です!」
「夜は冷えますから!」
「ありがとう。」
さらに。
「干し肉も持っていってください!」
「乾燥果物もあります!」
「お茶もどうぞ!」
次から次へと荷物が増えていく。
エルディオンは断ることなく、一つ一つ丁寧に受け取っていた。
「……。」
気が付けば、両腕いっぱいだった。
長い銀髪の魔術師が、大量の荷物を抱えて立っている。
伝説の英雄らしからぬ姿だった。
リネが思わず吹き出す。
「人気者だね。」
エルディオンは困ったように笑った。
「そうなのかな。」
腕いっぱいの荷物を見下ろす。
「五百年前は、こういう見送りなんてなかったから。」
「少しくすぐったい。」
アルノはその横顔を見る。
五百年前。
エルディオンが旅をしていた時代。
どんな景色を見て。
どんな人と出会い。
どんな思いで邪竜と戦ったのだろう。
エルディオンが荷物を抱えたまま笑った。
「行こうか。」
その一言で、アルノははっと我に返る。
「はい。」
リネも大きく頷く。
「うん!」
三人は並んで歩き出した。
王都から吹き抜けた風が、月光を編み込んだような銀髪を静かに揺らす。
思わず道行く人が振り返っていた。
冬の朝日が、背中を照らしている。
王都の城門を抜ければ、もう戻れない日常がある。
それでも、誰も足を止めなかった。
世界を壊す邪竜を追う旅が――
静かに始まった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は21時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




