暖炉の火
第七星環を後にしたアルノたちは、過酷な山道をゆっくりと下っていった。
吹雪はすでに弱まっていたが、積もった雪は深く、足元には氷が張りついている。
わずかに気を抜けば、斜面の下まで滑り落ちかねない。
四人は互いの姿を確かめながら、一歩ずつ慎重に進んだ。
行きには果てしなく続くように思えた白い山道も、下り始めれば少しずつ景色を変えていく。
視界を覆っていた雪が薄くなり、岩の隙間から枯れた草が顔を出す。
やがて、雪を被った針葉樹の向こうに、山麓の町が見えてきた。
灰色の屋根。
立ち並ぶ煙突から、白い煙がゆっくりと空へ昇っている。
「あ……」
アルノは思わず足を止めた。
風に乗って、微かに薪の燃える匂いが届く。
その奥には、肉を焼く香ばしい匂いと、温かなスープの匂いが混じっていた。
夕食の匂い。
暖炉の匂い。
人が暮らしている町の匂いだった。
通りを歩く人影が見える。荷車を引く男がいて、家の前では厚い外套を着た女性が薪を運んでいる。その足元を、子供たちが声を上げながら駆け回っていた。
誰かが話している。
誰かが笑っている。
ただそれだけの光景に、胸の奥へ張りついていたものが少しずつほどけていく。
「戻ってきた……」
小さく呟くと、自分の声がひどく遠く聞こえた。
長かった。
本当に、長かった気がする。
実際に山へ入っていたのは、十日ほどだ。
それでも、断崖からの落下も、地の底に眠っていた都市も、そこに残されていた神代文明の記録も、わずか数日の出来事とは思えなかった。
浮遊都市アウレリア。
第六星環。
接続炉。
異界エネルギー。
そして、Le。
あまりにも多くのものを見た。
頭の中には、まだ整理し切れない光景と言葉が幾重にも重なっている。
「アルノ」
前を歩いていたリネが振り返った。明るい赤茶色の髪が、夕暮れの光を受けて赤く透けている。
「止まってると冷えるよ」
「あ、ごめん」
アルノは再び歩き出した。
そのすぐ前では、エルディオンが普段と変わらない足取りで進んでいる。
長い銀髪が、弱まった風にさらりと揺れていた。
傷はもうない。
そう言っていた。
実際、歩き方に不自然なところもない。
それでも、導管へ叩きつけられ、血に染まって倒れていた姿が頭から離れなかった。
町の門へ近づいた時、見張り台の上から門番が声を上げた。
「おい、戻ってきたぞ!」
その声に、門の近くで荷を運んでいた男や店先にいた町人たちが顔を上げる。
「あれ、山へ入った連中じゃないか」
「本当に帰ってきたのか」
驚いたような声が広がり、近くにいた者たちが次々と足を止めた。
四人が門をくぐる頃には、十人ほどの人だかりができていた。
「どこまで登ったんだ?」
「吹雪はどうだった?」
「魔物はいたのか?」
「財宝は見つかったか?」
口々に問い掛けられ、アルノは困ったように笑う。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「待てるか」
年配の男が肩をすくめた。
「無事に帰ってきたなら、気になるに決まってる」
その時、人垣の向こうから宿屋の主人が腕を組んで歩いてきた。
相変わらず無愛想な顔をしていたが、その目には隠しきれない安堵が滲んでいる。
「帰ってきたか」
短い一言だった。
アルノは思わず笑みを浮かべる。
「はい。ただいま戻りました」
「まったく……」
主人は小さく息を吐いた。
「あの山へ入ったまま戻ってこねぇんじゃ、生きてると思う方が難しい」
「心配おかけしました」
アルノが頭を下げる。
「ラウム山脈へ入って帰らねぇ旅人なんて、いくらでも見てきた」
「よく帰ってきたな」
ぶっきらぼうな言葉だったが、宿屋の主人の気持ちは伝わった。
あの山は危険だった。
雪崩。
崖。
谷底。
魔獣。
地下に眠る巨大な施設。
そして、邪竜。
思い返すだけで、身体の奥が冷たくなる。
それでも四人は、生きてこの町へ戻ってきた。
「話は後だ!」
宿屋の主人が町人たちを追い払うように手を振った。
「見りゃ分かるだろ。全員、疲れ切ってるじゃねぇか。話は後にしろ」
町人たちは名残惜しそうに頷きながら道を開ける。
「ゆっくり休めよ」
「話を聞かせてくれ」
そんな声に見送られ、四人は宿へ入った。
扉を開けた途端、暖かな空気が冷え切った身体を包み込む。
暖炉では太い薪が赤々と燃え、ぱちり、と木の爆ぜる音が静かな食堂へ響いた。
中にいた客たちは一斉に顔を上げたものの、主人の一睨みで何も言わず食事へ戻っていく。
「荷物を部屋へ置いてこい。前に使ってた部屋だ」
主人は四人へ言うと、そのまま厨房へ向かって声を張り上げた。
「四人分、すぐ食えるもん頼む! 暖かいやつだ!」
「ありがとうございます」
「礼は食ってから言え」
部屋へ荷物を置き、食堂へ戻って席へ腰を下ろした途端、アルノはようやく全身の力が抜けた。
硬い木椅子のはずなのに、不思議なくらい身体へ馴染む。
隣ではリネが背もたれへ身を預けて大きく息を吐き、レグルスは外套を脱ぎながら鞄の留め具を一つずつ確かめていた。
向かいに座ったエルディオンは、暖炉の火を眺めながら静かに微笑んでいる。
その穏やかな横顔を見た瞬間、アルノはふと思い出した。
――そうだ。
まだ、大事なことが残っていた。
「エルさん」
「うん?」
「あとで話があります」
深い碧の瞳が、少しだけ楽しそうに細められた。
「何だろう。少し怖いね」
「怖い話じゃありません」
「じゃあ、楽しみにしてる」
エルディオンはアルノの言葉に微笑んだ。
やがて、大きな鍋に入った煮込み料理が運ばれてきた。
厚切りの肉と根菜が、濃い色のスープの中で柔らかく煮込まれている。
焼きたての黒パン。
湯気を立てる温かな茶。
香草と肉の匂いが、空腹だった胃を強く刺激した。
アルノはスプーンでスープをすくい、口へ運ぶ。
熱い。
舌を火傷しそうになり、慌てて口を閉じる。
けれど、すぐに肉のうまみと塩気が広がった。
「おいしい!」
アルノは思わず頬を緩めた。
リネも満面の笑みを浮かべる。
「ほんと、おいしい!」
二人は温かなスープをもう一口味わう。
それからは誰も口を開かなかった。
久しぶりの温かい食事を、それぞれがゆっくりと味わう。
身体の内側へ、少しずつ温かさと力が戻っていく。
食事を終える頃には、張りつめていた緊張はすっかり解けていた。
眠い。
今すぐ目を閉じたら、そのまま朝まで起きられない気がする。
けれど、まだ一つだけ済ませなければならないことがあった。
アルノは席を立つと、エルディオンの前へ回り込んだ。
「エルさん」
「なに?」
首をかしげた拍子に、月光を思わせる銀髪がさらりと揺れた。
「絶対、お医者さんに診てもらってください」
エルディオンは少し目を丸くした。
「傷はもう治ってるよ」
「そういう問題じゃありません!」
思ったよりも大きな声が出た。
食堂にいた客がこちらを見る。
アルノは一瞬だけ怯んだが、すぐにエルディオンへ向き直った。
「導管に肩も脇腹もぶつけたんですよ。血だって、あんなに出てたし……。傷がなくても、身体の中がどうなってるか分からないじゃないですか」
「でも、痛くないよ?」
「それでもです!」
エルディオンは困ったように笑ったが、アルノは引かなかった。
あの時、エルディオンの顔から血の気が失われていくのを見た。
呼びかけても返事がなかった。
床へ広がる血を前に、自分には何もできなかった。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
「お願いします」
アルノが真っ直ぐ見上げると、エルディオンの表情から少しだけ笑みが薄れた。
隣でリネも頷く。
「私も診てもらった方がいいと思う」
「医学的な確認は必要です」
レグルスまで加わった。
三対一だった。
エルディオンは三人を順番に見回し、やがて小さく息を吐いた。
「分かったよ」
◇
診療所は、宿から歩いてすぐの場所にあった。
すでに日が暮れかけていたが、事情を聞いた年配の医師は、嫌な顔一つせず四人を中へ通してくれた。
アルノたちが見守る中、エルディオンは上着とシャツを脱ぐ。
白磁のような肌が、ランプの光に照らされた。
肩にも、脇腹にも、傷はない。
赤みすら残っていなかった。
つい先日まで、深く裂けて血を流していたとは思えない。
あまりにも綺麗に治っていて、アルノ自身でさえ、あの傷が本当にあったのか不安になるほどだった。
医師は肩から腕へ指を滑らせ、骨の状態を確かめる。続いて脇腹を押し、何度かエルディオンへ痛みがないか尋ねた。
「……傷はどこにもありませんね」
医師は不思議そうに首を傾げた。
「本当に怪我をされたのですか?」
「しました!」
アルノは思わず身を乗り出した。
「肩も脇腹もひどい傷で、血も止まらなくて、意識もなかったんです!」
「ですが、傷跡は一つもありません」
医師はもう一度、エルディオンの肩を確かめた。
「骨にも異常は見当たりません。打撲の痕も残っていない。私が診る限り、外傷はまったくありませんね」
「だから大丈夫だって言ったでしょ?」
エルディオンが軽く肩をすくめる。
アルノはようやく胸を撫で下ろした。
けれど、医師の診察は終わらなかった。
目の下を確かめ、手首へ指を当てると、表情がわずかに険しくなる。
「ただし、かなり貧血が出ています」
「貧血?」
「相当な量の血を失ったのでしょう。傷が治っていても、失われた血まですぐに戻るわけではありません」
医師はエルディオンへ厳しい目を向けた。
「しばらくは安静にしてください。急に立ち上がったり、激しい運動をしたりすれば、倒れる可能性があります」
「激しい運動って、どのくらい?」
「少なくとも山へ登るような真似はやめてください」
「もう下りてきたから大丈夫だね」
「そういう問題ではありません」
医師はきっぱりと言った。
アルノは大きく頷く。
「そういう問題じゃないです」
「アルノまで」
「二、三日はよく眠って、食事をしっかり取ること。肉と豆、それから赤葉菜を多く食べてください」
その言葉を聞いた瞬間、エルディオンの整った顔がわずかに曇った。
「……赤葉菜か」
「嫌いなんですか?」
エルディオンの、曇った顔を見たアルノが尋ねる。
「苦いんだよねえ」
深い碧の瞳が、ほんの少しだけ遠くを見る。
五百年前から苦手だったのかもしれない。
「食べてください」
アルノは間髪入れずに言った。
「エルさんにも苦手なものあるんだね」
リネは楽しそうに笑った。
「失血後の食事管理は必要です」
レグルスが淡々と続けた。
エルディオンは三人を見回し、諦めたように笑った。
「……分かったよ」
◇
宿へ戻ると、主人が湯を用意してくれていた。
大きな木桶に張られた湯へ身体を沈めた瞬間、アルノは思わず声を漏らした。
「生き返る……」
熱が冷え切った手足へ染み込み、身体の奥に残っていた寒さを溶かしていく。
雪と泥で固まっていた髪を洗い、何度も湯を浴びるうちに、自分が本当に山から戻ってきたのだという実感が湧いてきた。
湯から上がる頃には、立っているのもつらいほど眠くなっていた。
部屋へ戻り、寝台へ倒れ込む。
柔らかい。
毛布も乾いている。
風の音も聞こえない。
枕元には灯りがあり、壁の向こうから誰かの話し声が微かに届いていた。
アルノは毛布を引き上げる間もなく、そのまま眠りに落ちた。
◇
目を覚ました時、部屋の中は明るかった。
アルノはしばらく天井を見つめたまま動けなかった。
暖炉の火が小さく爆ぜている。
窓からは昼近い陽射しが差し込み、床へ四角い光を落としていた。
「……昼?」
部屋には誰もいなかった。
ゆっくりと身体を起こそうとすると、全身の筋肉が軋む。
「痛っ……」
思わず小さく声が漏れる。
昨日の疲れが、まだ身体の奥に残っているようだった。
着替えを済ませ、ゆっくり階下へ降りる。
宿の食堂では、エルディオンが暖炉のそばで本を読み、レグルスは机の上へ手帳や筆記具を並べ、一つずつ状態を確かめていた。
細い銀縁眼鏡も丁寧に拭き、光へ透かして汚れがないことを確認している。
アルノが暖炉のそばへ腰を下ろした頃、宿の扉が開いた。
「ただいま。」
リネが食料や旅の備品を抱えて戻ってきた。
「買い出し?」
「うん。保存食とか細かいものが減ってたからね。」
荷物を机へ置いたリネが笑う。
「なんで起こしてくれなかったの?」
「疲れてるんでしょ?」
「でも、みんなは?」
「朝ご飯は食べたし、それぞれ好きにしてただけ。」
その言葉に、アルノは少しだけ肩の力を抜いた。
「今日は休んだほうがいいよ。」
「でも――」
「今日くらいはいいでしょ。」
リネは穏やかに笑う。
「あれだけ大変だったんだから。」
その言葉に、アルノは返事を失った。
険しい山道を戻ってきた。
それは決して当たり前のことではなかった。
「……うん」
小さく頷き、アルノは暖炉の前の椅子へ腰を下ろした。
その日は、本当に何もしなかった。
遅い朝食を食べ、それから何をするでもなく暖炉の火を眺める。
赤い炎が揺れている。
薪が崩れ、小さな火の粉が舞い上がる。
何かを考えていたわけではない。
第七星環のことも、邪竜のことも、その時だけは頭に浮かばなかった。
ただ、ぼんやりと火を見ていた。
「アルノ」
リネに呼ばれたが、すぐには反応できなかった。
「アルノ?」
「……あ、ごめん。何?」
「別に。ぼーっとしてるなと思って」
「うん」
アルノはまた炎へ目を向けた。
「ちょっとだけ」
誰も急かさなかった。
話さなくてもいい。
何も考えなくてもいい。
暖炉の火が燃える音と、布を縫う小さな音、紙をめくる音だけが、静かな部屋に続いていた。
◇
夕方になって、宿屋の主人が暖炉へ薪を足しに来た。
そのついでに、レグルスが尋ねる。
「この周辺で、最も規模の大きい魔術ギルドはどこですか」
主人は薪を組み直しながら、少し考えた。
「西のラウスだな」
「ラウス」
「街道を三日ほど行った先にある。ここらじゃ一番大きい町だ。魔術師も多い」
レグルスは頷いた。
邪竜の目撃情報を集めるなら、山麓の小さな町よりも、大きな魔術ギルドがある場所の方がいい。
各地の魔術塔やギルドとの連絡も取りやすいはずだった。
「では、次はラウスへ向かうべきでしょう」
「明日?」
アルノが尋ねる。
「エルディオンさんの状態を考えれば、もう一日休む選択肢もあります」
「僕は明日でいいよ」
エルディオンが本を閉じた。
「馬に乗っているだけなら、山を歩くより楽だからね」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫」
アルノは疑うように碧い瞳を見つめたが、顔色は昨日よりもずっといい。
念のためリネを見ると、彼女も小さく頷いた。
「無理そうなら、すぐ休ませるから」
「私も状態を観察します」
レグルスが続ける。
「それなら……」
アルノはようやく頷いた。
明日から、また旅が始まる。
邪竜を追うために。
けれど、今夜だけは急がなくていい。
食堂から夕食の匂いが漂ってくる。
窓の外では、町の灯りが一つ、また一つと点り始めていた。
アルノは椅子へ深く身体を預ける。
暖炉の火は、変わらず静かに燃えていた。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




