眠る都市
戻る道は、落ちた時よりもずっと長く感じた。
奈落の底へ落ちるのは一瞬だった。
だが、そこから上へ戻るには、一歩ずつ進むしかない。
入り組んだ地下通路の壁には無数の導線が走り、床には神代魔法陣が刻まれている。
青白い光は弱く、ときおり消えかけるように明滅した。
第七星環は、もう長く保たない。
タンクは壊され、都市へ力を巡らせる仕組みも失われた。
それでも抽出口だけは開いたまま、異界エネルギーを漏らし続けている。
放置すればどうなるのか、アルノはもう知っていた。
第六星環。
広域汚染。
生存者なし。
アウレリア墜落。
記録に刻まれていた言葉が、頭の奥から離れない。
「アルノ」
エルディオンの声に、アルノは顔を上げた。
「はい」
「考え込むのはいいけど、足元見て」
「す、すみません」
返事をした直後、段差につまずきかける。
エルディオンがすぐに肩を支えた。
「ほら」
「……すみません」
エルディオンは長い白銀の髪を揺らし、楽しそうに笑った。
傷はすでに塞がっている。
Le-Neriaで治した跡もほとんど残っていないが、血を失ったせいか、顔色はまだ少し悪い。
それでも普段と変わらない足取りで歩いていることが、かえってアルノを不安にさせた。
「本当に大丈夫ですか?」
「歩けるよ」
「それ、大丈夫の答えじゃないです」
「じゃあ、ほどほどに大丈夫」
「余計に不安です」
そう言うと、エルディオンは深い蒼の瞳を細めた。
この人は、心配されることに慣れていないのだろう。
ずっと強く、誰かを守る側だったから。
アルノは自分の手へ視線を落とす。
その手で、エルディオンを治した。
守られてばかりだと思っていた自分が、確かに彼を助けた。
まだ実感は薄いが、指先には神代スペルを使った感覚が残っている。
Le。
損失を抑え、無駄を減らし、力を必要な場所へ届けるもの。
神代人が辿り着いた答えであり、アルノが見つけた新しい道だった。
しばらく進むと、冷たい風の音が聞こえてきた。
遠くから雪の匂いが流れ込み、あの高台が近いことを知らせている。
邪竜がいた場所。
タンクが壊された場所。
そして、アルノが落ちた場所。
「もうすぐだね」
「はい」
長い通路を抜け、折れた導管を越える。
やがて吹雪の音が近付き、白い外光が見えた。
「アルノ!!」
聞き慣れた声が響く。
次の瞬間、赤茶色の髪が視界いっぱいに広がった。
「うわっ!?」
勢いよく飛び込んできたリネを受け止めきれず、アルノはよろけた。
「リ、リネ!?」
「ばか!」
耳元で怒鳴られる。だが、その声は震えていた。
「アルノ弱いのに!」
「弱いのは否定しないけど、今そこ言う!?」
「言う!」
リネの腕に力がこもる。
「私なんか庇って……!」
あの瞬間、高台が崩れ、リネの身体が傾いた。
アルノは考えるより先に腕を掴み、引き戻した。
その反動で、自分が奈落へ落ちた。
「ほんとに心配したんだから……」
怒っているのに、泣きそうな声だった。
アルノは何と返せばいいか分からず、短く謝った。
「ごめん」
リネはしばらく離れなかった。
肩へ顔を埋め、何度か息を整えている。
「……無事でよかった」
「うん」
「リネも無事でよかった」
「私は無事だよ。アルノが落ちたから無事だったんだけど」
「それ言われると反応に困る……」
「困っていいよ」
リネはようやく身体を離した。
琥珀色の瞳の縁が、少し赤くなっていた。
少し離れた場所には、レグルスが立っていた。
灰色の外套と淡い金髪には雪が積もり、銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳が、アルノを見つめている。
「エルディオンさんが付いているので、生存確率は高いと思っていました」
淡々とした声のあとに、わずかな間があった。
「ですが、無事で安心しました」
アルノは乱れた栗色の髪を押さえ、少し照れながら頭を下げた。
「心配かけました」
「本当にです」
「落下先は未知の神代施設。周囲には魔獣の存在も確認されています。あなたの戦闘能力は低い」
「はい……」
「心配しました」
「心配かけてすみません」
「今回は、僕もアルノに助けられたよ」
エルディオンが何気なく言い、全員の動きが止まった。
「え?」
「アルノさんが?」
「はい」
アルノは慌てて口を挟む。
「いや、そんな大したことじゃ――」
「大したことだったよ」
エルディオンは楽しそうに続けた。
「落下の途中で怪我をしてね。アルノに治癒してもらった」
「治癒?」
レグルスの目が、研究者のものへ変わる。
「アルノさんが?」
「はい」
「神代スペルですか」
「たぶん」
「詳細を」
「あとで!」
「あとで、とはいつですか」
「今じゃない時です!」
「非常に曖昧ですね」
「今は説明してる場合じゃないでしょう!?」
リネがアルノの顔を覗き込んだ。
「でも、ほんとに助けたの?」
「……少しだけ」
アルノは灰銀の瞳を逸らした。
自分で説明するのは、ひどく気恥ずかしい。
「Leっていう神代文字を理解したみたいでね」
「Le?」
「詳細を」
「だからあとで!」
エルディオンは面白そうに笑っている。
リネの表情には、安心と驚きに交じり、少しだけ誇らしそうな色が浮かんでいた。
「そっか」
「アルノ成長したんだね」
「リネはお母さんですか」
「お姉さんです」
「そこ?」
「そこ!お母さんってひどい。おんなじ年なのに!」
リネが頬をふくらませる。
その顔をを見て、アルノは思わず笑った。
だが、エルディオンが頭上へ視線を向けた瞬間、空気が変わる。
「邪竜は?」
リネは何も言わず、上を指差した。
アルノは息を呑んだ。
山脈内部の空洞。
その天井が大きく破られ、厚い岩盤ごと抉られていた。
灰色の空から吹雪が流れ込み、高台の上で白く渦を巻いている。
邪竜の姿はない。
砕けた床。折れた導管。巨大な爪痕。黒い侵食痕。
そして、無残に壊されたタンク。
残されたものすべてが、邪竜がここにいたことと、すでに去ったことを示していた。
「飛び去りました」
レグルスが言った。
「我々が確認した時には、既に上空へ抜けた後でした。崩落と吹雪で視界が悪く、追跡は不可能でした」
エルディオンは静かに穴を見上げる。
「そっか」
「追いますか」
「もちろん」
迷いのない即答だった。
「邪竜はまだいる。」
アルノは頷く。
邪竜は移動しただけだ。旅はまだ終わっていない。
だが、その前に残された問題がある。
アルノは壊れたタンクへ目を向けた。
黒く変色した巨大な透明槽の奥で、小さな空間の裂け目が揺らいでいる。
邪竜は、中に蓄えられていた異界エネルギーを喰った。
タンクも循環設備も壊れた。
だが抽出口だけは閉じておらず、今も異界と繋がっている。
細い線。
黒く濁った流れ。
行き場を失った異界エネルギーが、静かに漏れ続けている。
「……まだ終わってません」
リネが振り返る。
「何が?」
「抽出口です」
アルノはタンクの奥を指差した。
「タンクは壊れました。都市へ回す仕組みも、もう動きません。でも、異界と繋がっているところは閉じてない」
「つまり、漏出が続いている?」
「はい」
「危険ですね」
「かなり」
第六星環の記録が脳裏に蘇る。
異界エネルギー大量漏出。
広域汚染。
生存者なし。
再建不能。
同じことを繰り返してはいけない。
この都市には、もう誰もいない。
それでも、人が去ったあとも灯りを点け、水を流し、暖炉を燃やし続けてきた。
その最後を、汚染で終わらせたくなかった。
「閉じます」
リネが眉を寄せる。
「できるの、また倒れるんじゃ…」
アルノは一瞬迷った。
怖くないわけではない。
神代人の術式は複雑で、間違えれば何が起こるか分からない。
だが、Leを理解した今なら見える。
術式の意味はそのままに、無駄な損失だけを削ればいい。
必要な場所へ、必要なだけ魔力を流し、繋がりを正しい順序で閉じていく。
「たぶん、できる」
「たぶん?」
「今のたぶんは、前向きなたぶん」
「信用しづらい」
「分かってるけど!」
エルディオンが笑った。
「大丈夫」
アルノが振り返る。
「アルノならできるよ」
その言葉はまっすぐ胸へ届いた。
「やります」
アルノは壊れたタンクへ近付いた。
足元には黒い侵食痕が広がり、重い空気が肌へまとわりつく。
異界エネルギーの残滓が、周囲に濃く漂っていた。
「近付きすぎないでください」
「分かってます」
アルノは抽出口の前へ膝をつき、床へ手を置いた。
線が見える。
封鎖術式。抽出術式。安定化術式。循環術式。
その中心には、二つの神代文字が刻まれていた。
Nodus。
Ordo。
接続。
秩序。
以前は、裂け目を閉じるために必要以上の魔力を奪われ、三日間目を覚まさなかった。
術式は成功したが、流れは乱れ、多くの魔力が無駄に失われていた。
今なら分かる。
アルノはNodusへ指先を触れた。
「Le-Nodus」
神代文字が淡く光る。
低い振動とともに、床一面の魔法陣へ光が走った。
だが、以前のように魔力を無理やり引き剥がされることはない。
魔力を無駄に消費することなく、必要な場所へ流れている。
アルノは中心部のOrdoへ視線を移した。
「Le-Ordo」
裂け目が震えた。
空間が軋み、漏れ出していた異質な光が細くなっていく。
離れていた裂け目の縁が少しずつ重なり、周囲の揺らぎも収まっていった。
魔力は流れ続けている。
だが、制御できている。
術式は暴れず、力も無駄に失われていない。
光が最後に一度だけ脈打った。
そして、裂け目が閉じた。
同時に、音が消えた。
導線の奥を流れていた力の音。
都市を生かしていた心臓の鼓動のような低い振動。そのすべてが止まる。
アルノは床から手を離し、息を吐いた。
「閉じました」
レグルスが抽出口を確認し、リネが周囲を見回す。
エルディオンはアルノを見つめていた。
「やったね」
アルノは頷いた。
その時、高台の街灯が消えた。
一つ。
また一つ。
遠くの導管から青白い輝きが失われ、壁の魔法陣も端から暗くなっていく。
「……止まり始めた」
四人は高台から都市を見下ろした。
山脈内部に築かれた石造りの街。水路。広場。宿屋。畑。噴水。
誰もいないのに、昨日までは生きているようだった街の灯りが、一つずつ消えていく。
通りが影へ沈み、窓から漏れていた明かりも失われていった。
吹雪が天井の穴から流れ込み、都市に残されていた暖かさを奪っていく。
やがて街は外の山脈と同じ温度まで冷え、ただの遺跡へ戻るのだろう。
「終わったんですね」
「うん」
エルディオンは少し間を置いた。
「たぶん、ずっと前にね」
その言葉が、アルノの胸へ落ちた。
この都市は、今日終わったのではない。
住民が去り、戻る者がいなくなった時に、すでに終わっていた。
ただ灯りと水と暖炉だけが、人の暮らしの形を何百年も守り続けていたのだ。
アルノは、宿屋の暖炉と研究室の壁画を思い出した。
誰もいない街の温もり。
空に浮かんでいたアウレリア。
神代文明は美しく、そして危うかった。
街の最後の灯りが消えた。
水の音も止まり、山脈の内部へ静寂が戻る。
神代都市は、長い役目を終えて眠りについた。
「おやすみ」
エルディオンが、誰もいない街へ向けて言った。
「……おやすみなさい」
アルノも小さく続ける。
リネとレグルスは何も言わなかった。
けれど、同じように眠った都市を見つめていた。
しばらくして、エルディオンが頭上の穴へ目を向ける。
吹雪の向こうに邪竜の姿はない。
どこへ向かったのかも分からないが、この世界のどこかにはいる。
「追いますか」
「もちろん」
その声には、いつもの軽快さが戻っていた。
リネがアルノを見る。
「今度は落ちないでよ」
「落ちないよ」
リネとエルディオンが笑い、アルノは少し頬を膨らませた。
それでも、そのやり取りが嬉しかった。
戻ってこられた。
また四人で歩ける。
旅はまだ終わっていない。
邪竜がどこへ向かったのかを知るため、再び目撃情報を集めなければならない。
追う。
また、何度でも。
アルノは最後に一度だけ、灯りを失った街を振り返った。
そこにはもう、昨日までの温もりはない。
神代文明の記憶を抱いたまま、静かに眠ったのだ。
アルノは前を向く。
「行きましょう」
エルディオンが笑う。
「うん」
リネが隣へ並び、レグルスが銀縁眼鏡を押し上げた。
四人は、吹雪が舞う高台を歩き出す。
背後で、第七星環は沈黙している。
もう都市を照らすことも、水を流すことも、誰かを待つこともない。
それでも、確かにここにあった。
人が生きた街が。
空を夢見た文明が。
邪竜を追う旅は、まだ続いていく。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




