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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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失われた空

 扉の向こうで、魔獣が低く唸っていた。


 すぐ近くにいる。

 爪が床を掻く音や、硬いものへ牙を立てるような音が、厚い扉越しにもはっきりと聞こえてくる。

 時折、重い身体を叩きつける鈍い衝撃が響き、そのたびに壁へ刻まれた魔法陣が淡く光り、細い線が震えるように広がった。

 まだ完全には破られていない。

 だが、このままいつまでも保つとは思えなかった。


 アルノは床に刻まれたLeの文字へ視線を落とす。

 先ほどまでは意味の分からなかった文字。

 けれど今は、その中に込められた意味が見えていた。


 損失を抑えるもの。無駄を減らし、力を必要な場所へ、必要なだけ届けるもの。


 意味が分かる。

 見える。

 だから、使える。


「行こう」


 エルディオンが立ち上がった。

 声はいつもと変わらなかったが、その動きはほんの少しだけ遅い。

 傷は塞がり、血も止まっている。けれど、すでに流れてしまった血まで戻ったわけではなかった。


「大丈夫ですか?」


 思わず尋ねると、エルディオンは長い白銀の髪を肩の後ろへ流し、確かめるように腕を回してみせた。


「アルノに治してもらったからね。だいぶいいよ」


「だいぶ、ですか」


「うん。傷は平気。問題は、さっきまで結構血が流れてたことかな」


 エルディオンは軽く笑う。


「ちょっと貧血みたいな感じ」


「全然大丈夫じゃないじゃないですか」


「歩けるから大丈夫」


「それ、大丈夫じゃないです」


 アルノが眉を寄せると、エルディオンは楽しそうに笑った。

 こんな状況でも笑えるのが、この人らしいと思う。

 けれど、だからこそ心配になる。

 エルディオンは強い。

 圧倒的に強く、きっと本人もそれを分かっている。

 だから多少の無理なら平気でしてしまうし、周囲も止めても意味がないと知っているため、強くは言わない。


 だが、今は違った。

 エルディオンは傷付き、血を流し、倒れかけた。

 それを見てしまったアルノには、いつものように「大丈夫」と笑われても、素直に頷くことはできなかった。


「無理しないでください」


「さっきも言われたね」


「何度でも言います」


「頼もしいなぁ」


 エルディオンはそう言って、深い蒼の瞳を少しだけ細めた。

 その表情が妙に嬉しそうに見え、アルノは気恥ずかしくなって視線を逸らす。


「神代スペルの使い方、少し分かりました」


「うん」


「なので」


 アルノは小さく拳を握った。


「大船に乗った気でいてください」


 言った直後、自分でも少し恥ずかしくなった。

 エルディオンは一瞬だけきょとんとし、それから声を立てて笑う。


「いいね。すごく頼もしい」


「……と言っても、攻撃スペルはありませんが」


「知ってる」


「そこは否定してくださいよ」


「だって本当だし」


 エルディオンは笑ったまま、魔獣の唸りが響く扉へ視線を戻した。


「でも、今のアルノには別のことができる」


 アルノは息を呑む。


 別のこと。

 戦うことではない。

 何かを壊すことでもない。


 自分にできるのは、線を見ること。

 構造を読み、必要な場所へ力を通すことだった。


「行こう」


 アルノは頷き、扉の脇へ刻まれた魔法陣へ手を伸ばした。


 先ほどは、ただ「閉じる」「隔てる」という意味しか読み取れなかった。

 けれど今は、幾重にも組み上げられた線の役割が、以前よりも細かく見えている。

 境界を作る線。外からの侵入を拒み、内側の空間を守るための線。

 その中心には、一つの神代文字が刻まれていた。


 Aegis。

 防護。

 守り。


 そして、その前にあるLe。


 Le-Aegis。


 守るために必要な力を、余分に漏らさない術式。

 アルノは一つひとつの意味を追っていく。


 術式全体の流れを整え、無駄な消耗をなくすことで、同じ魔力からより高い防護を生み出す。

 その仕組みが、驚くほど自然に身体の中へ入ってきた。


「Le-Aegis」


 アルノが発音すると、床に刻まれた線が淡く光った。

 扉から伸びる魔法陣が足元へ広がり、薄い膜のような光が二人の前へ浮かび上がる。

 大きくはなく、エルディオンの防護術式のような圧倒的な力も感じられない。


 けれど、その光には無駄がなかった。

 一筋たりとも揺らぐことなく、必要な場所だけを正確に覆っている。


 魔獣の爪音が近付いた。

 扉の隙間から黒い影が覗き、青白い瞳が二人の姿を捉える。

 低い唸り声が響いた直後、魔獣が地を蹴った。


 突進。


 アルノは息を止める。

 激しい衝撃とともに、魔獣の爪が光の膜へ食い込んだ。

 薄い膜が大きく震え、眩い光が一瞬だけ走る。

 それでも破れない。

 魔獣の爪は膜の奥へ届くことなく、光の壁に阻まれて止まった。

 薄い光は最後まで形を崩さず、魔獣の一撃を受け止め切る。


「すごいね」


 エルディオンが感心したように言った。


「完全には止められません」


「十分」


「長くは保ちません」


「それも十分」


 エルディオンが一歩前へ出る。

 伸ばした指先へ蒼い魔力が収束し、鋭い光となって迸った。

 Le-Aegisが魔獣の爪を受け止めた、その一瞬を逃さず、蒼い閃光が魔獣の身体を貫く。


 続けざまに放たれた光が、迫っていた魔獣を次々と吹き飛ばした。


 倒れた魔獣の間へ迷わず踏み込み、二人は地下通路を駆け抜ける。


 通路は広かった。

 だが、広いはずなのに落ち着かなかった。

 天井があまりにも高く、普通の建物であれば安心を覚えるはずの広さが、ここではかえって自分たちの小ささを思い知らせてくる。


 壁には無数の導線が走っていた。

 太いものや細いもの、透き通ったもの、青白い光を失いかけているもの。

 かつてはこの場所を、膨大な力が絶え間なく流れていたのだろう。

 今、その流れは弱く、細い。


 導線を巡る光は途切れそうになりながら、ときおり不規則に明滅している。

 まるで、施設そのものが息切れを起こしているようだった。


 アルノには、その流れが見えた。

 第七星環は、もう元には戻らない。

 タンクは壊れ、異界エネルギーを蓄えて都市へ回す仕組みも破綻している。

 それでも抽出口だけは生きていて、今も向こう側と繋がったままになっていた。

 力は漏れ続けている。

 使われる先を失ったまま、どこかへ溜まり、どこかから染み出し、やがて周囲へ汚染を広げていく。

 第六星環で起きた事故。


 報告書で読んだ硬い言葉が、アルノの頭をよぎった。

 生存者なし。

 再建不能。

 永久放棄。

 あれと同じことが、ここでも起きるかもしれない。

 そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。


「アルノ」


 エルディオンに声をかけられ、アルノは顔を上げる。

 少し先で、エルディオンが立ち止まっていた。

 通路の右側には一枚の扉があり、周囲に並んでいたものとは明らかに状態が違っている。


 壊れていない。

 表面に刻まれた文字も、比較的綺麗に残っていた。

 研究区画。

 記録室。

 並んだ神代文字から、そのような意味が読み取れる。


「入れそう?」


 アルノは扉へ手をかざした。

 鍵となる魔法陣は残っていたが、巡っている力は弱い。

 Le-Nodus。接続。Le-Aegis。防護。その周囲に、いくつもの補助線が組み込まれている。


「開けられると思います」


「頼もしい」


「失敗したらすみません」


「その時は僕が壊す」


「壊さないでください」


 アルノが慌てて言っても、エルディオンは笑うだけだった。

 小さく息を吐き、アルノは意識を魔法陣へ集中させる。

 指先で線を追い、神代文字を読み、その中を巡る流れを辿っていった。

 余計な力は入れず、必要な場所へ、必要なだけ通す。


「Le-Nodus」


 小さく発音すると、魔法陣が淡く光った。

 かちり、と内部で何かが動く音がして、閉ざされていた扉がわずかに開く。

 アルノは詰めていた息を吐いた。


「開いた……」


「本当に便利になったね」


「便利屋みたいに言わないでください」


 そう返しながらも、胸の奥には小さな熱が灯っていた。


 扉の中は静まり返っていた。

 広い部屋に、いくつもの机が整然と並んでいる。

 壁際には背の高い本棚があり、その棚には薄い板状の記録媒体や、紙に似た資料が残されていた。

 椅子もそのまま置かれ、机の端には、何かを書きかけたまま放置された筆記具が転がっている。

 人の気配はない。

 それでも、かつてここに人がいた痕跡だけは、時が止まったように濃く残っていた。


 研究室。

 そう呼ぶのが一番近い場所だった。


 アルノはゆっくりと室内へ足を踏み入れる。


「レグルスが見たら喜びそうですね」


「たぶん動かなくなるね」


 エルディオンがさらりと言ったので、アルノは少し笑った。


 その時だった。

 部屋の奥、一番大きな壁に、巨大な絵が掛けられていることに気付いた。


 アルノは足を止める。

 描かれていたのは、空だった。


 青く澄んだ空と、その下にどこまでも広がる雲海。

 その上には、巨大な島が浮かんでいる。

 島の縁から流れ落ちる滝は空中を落ち、途中で白い霧へ変わっていた。

 細かな水滴が光を受け、島の周囲に幾重もの虹を作っている。

 中央には、白い建物がそびえていた。宮殿のようにも、研究施設のようにも見える。

 高い尖塔や丸い屋根、陽光を反射する広場があり、その周囲には一つの町が広がっている。


 住宅。

 庭園。

 水路。

 橋。


 空に浮かぶ島の上に、一つの都市が築かれていた。


 さらに上空には、船の形をしたものがいくつも描かれている。

 帆船に似ているが、その下にあるのは海ではなく、果てしなく広がる空だった。


 飛行船。

 そう呼ぶしかないものだった。


 アルノは言葉を失った。


 先ほど見た神代都市も美しかった。

 誰もいないのに灯りがつき、水が流れ、畑が生き続けている。

 それだけでも信じられない光景だった。

 けれど、この絵はそれ以上だった。


 空に浮かぶ都市。

 流れ落ちる滝。

 光を受けて輝く虹。

 行き交う飛行船と、空へ伸びる白い塔。


 まるで、誰かが見た夢をそのまま描いたようだった。

 アルカ神殿で見た壁画は風化が激しく、描かれていた景色の全体像を読み取ることはできなかった。だが、この壁画は違う。


 細かな色彩まで鮮やかに残り、当時の景色をそのまま切り取って、壁の中へ閉じ込めたような美しさだった。


「……綺麗」


 アルノは、ようやくそれだけを呟いた。

 エルディオンも隣へ立ち、壁画を見上げる。

 柔らいだ蒼の瞳が、絵の中に広がる空を映していた。


「本当に綺麗だね」


 しばらく、二人は黙って壁画を見つめていた。

 絵であるはずなのに、雲海を渡る風を感じるような気がする。

 島から流れ落ちる水の音まで、静かな研究室の中へ届いてくるようだった。

 そこには、人が暮らしていた気配があった。

 朝、窓を開ければ雲海が広がり、子供たちは空を進む船へ手を振った。

 市場には色鮮やかな果物が並び、研究者たちは白い塔へ急ぐ。

 橋の上では誰かが立ち止まり、滝の霧に浮かぶ虹を見上げる。

 夜になれば、都市に灯った無数の明かりが、雲の上で星のように瞬いていたのだろう。


 神代人。

 その言葉は、これまでどこか遠いものだった。

 古文書の中に記された存在。

 遺跡を造り、現代では再現できない技術を持っていた文明。

 けれど、違う。

 彼らは、ここにいた。

 食べて、眠り、働き、笑っていた。

 誰かを好きになり、誰かと喧嘩し、誰かを待ち、そして誰かを見送った。

 ただの伝説ではない。

 そこには確かに、人の暮らしがあった。

 その実感が、アルノの胸の奥へ静かに落ちていった。


 壁画の下には、神代文字が刻まれていた。

 アルノは少したれた大きな灰銀の瞳を細め、その文字を読み取る。


「浮遊都市……アウレリア」


 声に出した瞬間、その名が長く閉ざされていた研究室の中へ広がっていくように感じられた。


「アウレリア」


 エルディオンが繰り返す。


「綺麗な名前だね」


「はい」


 アルノは頷いた。

 壁画の隅には、さらに細かな文字が残されていた。

 どうやら、都市の正式名称らしい。


 エルディア海域第七諸島第三人工浮遊基盤都市。


 長い。

 その下には別の筆跡で、短く一言だけ書き加えられている。


 アウレリア。


 おそらく、正式名称よりもこちらの呼び名が人々の間に広まったのだろう。

 夕日に照らされると都市全体が金色に輝く、という説明も添えられていた。


「金色に輝く街……」


 アルノは改めて壁画を見上げる。

 確かに、絵の中の都市は淡い光を帯びていた。

 白い建物の縁が柔らかな金色へ染まり、滝から生まれた霧が虹を作っている。

 その名が似合う街だった。

 エルディオンは壁画から視線を外し、机の上に残された資料へ目を向けた。


「これ、読める?」


 アルノは机へ近付いた。

 資料は紙ではなく、薄い板状の物へ文字を刻んだものだった。

 長い年月を経ているにもかかわらず、神代文字はほとんど欠けることなく残っている。


 読める。

 表題を見た瞬間、アルノの胸がわずかに重くなった。


「第六星環事故関連記録」


 その言葉を口にした途端、部屋の空気が変わったように感じられた。

 つい先ほどまで目の前へ広がっていた壁画の空が、急に遠くなる。

 アルノは資料を手に取り、記録を読み進めた。


 第六星環。

 異界エネルギー制御装置。

 出力異常。

 急激な上昇。

 調整不能。

 緊急停止命令。

 通信途絶。


 そこでアルノは眉を寄せた。


「通信が途絶えたのは、第六星環です」


 エルディオンは何も挟まず、静かに話を聞いている。


「アウレリアじゃないんだね」


「はい。アウレリアは別の場所にあるみたいです。第六星環からエネルギー供給を受けていた都市」


 アルノは壁画を振り返った。

 空に浮かぶ都市。

 あれは第六星環そのものではない。

 第六星環から供給される力によって、空に浮かび続けていた都市だった。


 だから、供給が止まれば。


 アルノは、続きを読みたくないと思った。

 それでも、読まなければならない。


 指先へ力を込め、記録を先へ進める。


 第六星環との通信途絶後、調査隊派遣。

 調査隊到着時、周辺区域壊滅。

 第六星環周辺一帯消滅。

 巨大クレーター確認。

 生存者なし。

 抽出口封鎖試行。

 一次封鎖失敗。

 二次封鎖失敗。

 区域内立入不能。

 永久放棄を検討。


 記された言葉は硬く、そこには何の感情も込められていなかった。

 けれど、その奥に広がる光景は、想像するだけでもあまりにひどい。


 更地。

 汚染。

 生存者なし。


 そこに存在していたはずの町も、人も、研究施設も、すべて消えた。


 便利すぎる力。

 扱うことができれば、文明そのものを支える力。


 だが一度制御を失えば、人が二度と住めない土地を残すほどの力でもある。


 異界エネルギーは、人々へ豊かさを与える恩恵だった。

 同時に、あまりにも大きな災害だった。


 アルノはさらに資料をめくる。


 アウレリアへの供給量低下。

 高度維持機能不安定化。

 緊急避難勧告。

 避難船発進。

 上層区画住民退避開始。

 下層区画住民退避遅延。


 そこで、アルノの指が止まった。


 上層区画。

 下層区画。


 壁画の中では等しく美しく見えた都市にも、きっと階層があった。


 裕福な者。

 そうでない者。

 船に乗れた者。

 乗れなかった者。

 誰もが等しく、同じように助けられたわけではない。


 重くなった指で、次の記録をめくる。


 アウレリア高度維持不能。

 落下開始。

 最終避難船発進失敗。

 墜落確認。

 落下地点。

 エルディア海域西方、リュネ諸島沖。

 被害規模不明。

 生存者確認困難。

 多数の住民が海へ消えた。


 アルノは息を止めた。


 海へ。

 消えた。


 つい先ほどまで壁画の中で輝いていた都市が、滝を流し、虹を架け、飛行船が行き交っていた街が、そこに暮らしていた人々ごと海へ落ちた。


 喉の奥が苦しくなる。

 アルノは壁画へ視線を向けた。


 絵の中のアウレリアは、今も美しいままだった。

 空に浮かび、滝は流れ、虹は輝き、白い街が金色の光を浴びている。


 けれど、その結末を知ってしまった今、もう同じようには見えなかった。

 美しいからこそ、痛かった。

 失われたものの大きさが、目に見える形でそこに残されていた。


 エルディオンも黙っていた。

 ただ静かな横顔で、壁画の中に浮かぶ都市を見上げている。


「……すごい街だったんですね」


 アルノは小さく言った。


「うん」


「でも、落ちたんですね」


「うん」


 エルディオンの返事は短かった。

 それ以上の言葉をあえて選ばず、ただアルノと同じ景色を見つめている。


 アルノは資料へ視線を戻した。

 事故後の記録は、さらに続いていた。


 第六星環区域、永久封鎖。

 周辺都市、避難対象指定。

 星環危険論拡大。

 第七星環運用継続に反対多数。

 都市機能維持のため即時停止は困難。

 段階的避難計画。

 研究区画閉鎖。

 住民退去。

 最低限の自動運用へ移行。


 アルノは静かに目を閉じた。

 すべてが繋がった。


 誰もいなかった宿屋。

 人の姿がないまま灯り続けていた街灯。

 絶えず水を運び続ける水路と噴水。今も作物を育てている畑。


 避難勧告。

 研究区画閉鎖。

 住民退去要請。


 すべてが、ここへ繋がっている。


 第六星環の事故。アウレリアの墜落。

 異界エネルギーへ向けられた恐怖と、第七星環も同じ結末を迎えるかもしれないという不安。


 だから、人々は去った。

 この都市を捨てた。


 星環は、生活を支えるすべてに繋がっていた。

 だから、すぐに止めることはできなかった。

 人々はまず街を離れ、都市だけが残された。


 住む者がいないまま、街灯を点け続け、水を流し、暖炉を燃やし、畑を潤し続けた。


 何年も。

 何十年も。

 何百年も。

 何千年も。


 都市だけが、人の戻らない街を生かし続けていた。


「……だから」


 アルノは呟いた。


「誰もいなかったんだ」


 エルディオンが静かに頷く。

 アルノは資料を閉じた。

 板状の記録そのものは薄い。

 けれど、そこに刻まれているものは、両手で抱えきれないほど重かった。


 壁画を見上げる。

 空中都市アウレリア。

 失われた空。


「見てみたかったな」


 言葉は自然に零れた。

 エルディオンがアルノへ視線を向ける。


「行ってみたかった?」


「はい」


 アルノは壁画を見上げたまま頷いた。


「実際に見たら、きっとすごかったと思います」


「そうだね」


 エルディオンも再び壁画へ目を向ける。


「僕も見てみたかった」


 その声は、少しだけ柔らかかった。

 アルノはしばらく何も言わず、空に浮かぶ都市を見つめていた。


 もしアウレリアが今も空にあったなら、どんな景色が見えたのだろう。

 そんなことを考えても意味はない。

 もう失われた街だ。

 多くの人々とともに、海へ落ちた。


 神代文明は、ただの遺跡ではなかった。

 ただの技術でもない。

 そこには人がいた。暮らしがあり、失敗があり、悲しみがあった。

 そのすべての残り香が、この研究室には今も静かに漂っていた。


 その時だった。


 ゴウン……。


 低い音が部屋の奥から響き、床と壁がわずかに震えた。

 アルノは顔を上げる。

 壁を走る導管が、一度、二度と不安定に明滅し、その光が先ほどよりも弱くなった。


「今のは?」


 エルディオンが尋ねる。

 アルノは目を凝らし、導管の中を巡る流れを追った。

 都市へ回されていた力が、さらに細くなっている。

 第七星環は、今も死に続けていた。

 タンクは壊れ、循環は崩れている。

 それでも抽出口だけが開いたまま、危険な力を漏らし続けている。


「急いだ方がいいです」


「うん」


「リネ達と合流しましょう」


 アルノは資料を机へ戻した。


 持っていくべきか、一瞬だけ迷う。

 けれど、そのままここへ残すことにした。

 この記録は、ここにあった方がいいような気がした。


 この研究室で。

 この壁画の下で。

 アウレリアを忘れないために。


 エルディオンも何も言わなかった。

 二人は研究室を出る。扉が閉まりかけたところで、アルノはもう一度だけ振り返った。


 壁には、失われた空が広がっていた。


 雲海に浮かぶ白い都市と、その上を行き交う飛行船。

 第六浮遊都市アウレリア。

 もう二度と戻らない、神代文明の夢。


 アルノは胸の奥で小さく息を吸った。

 そして、扉を閉じた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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