Le
Le。
その文字だけが分からなかった。
扉の向こうでは、魔獣が低く唸っている。
時折、重い身体をぶつける鈍い音が響き、そのたびに床と壁がわずかに震えた。
ドォン。
壁に刻まれた魔法陣が淡く光り、衝撃を受け止めるように幾筋もの線が走っていく。
それでも扉は破られない。
少なくとも、今のところは。
アルノはその音を聞いていた。
聞いていたはずだった。
けれど、意識はすでに扉の向こうへ向いていなかった。
大きな灰銀の瞳は床へ落ち、そこから壁、天井、導管へと伸びる複雑な線を追っている。
折り重なるように刻まれた神代魔法陣。その中に、同じ文字が何度も現れていた。
Le。
Le-Nodus。
Le――。
Le――。
Nodusは分かる。
結節。接続。結び目。
ほかにも意味を読み取れる文字はあった。
流れ、循環、貯蔵、移送、蓄積。どれも都市へ力を送り届けるための言葉であり、第七星環の地下にふさわしいものばかりだった。
だが、その前に付くLeだけが分からない。
たった二文字。
短い文字なのに、どこを見ても刻まれている。
まるで、この施設を理解するための鍵であるかのように、すべての術式へ組み込まれていた。
「……なんだろう」
アルノは呟いた。
返事はなかった。
エルディオンは壁にもたれて座っている。
先ほどNeriaで少し塞いだ傷は完全には治っておらず、肩にも脇腹にも血が滲んでいた。
長い銀髪が床へ流れ、普段よりも白い顔色を際立たせている。
それでも、深い蒼の瞳はアルノを見ていた。
床や壁へ視線を巡らせる姿を、静かに追っている。
「アルノ」
呼ばれて、アルノはようやく顔を上げた。
「はい」
「休まなくていいの?」
その声はいつもより少し低かった。
痛いのだろう。
苦しいはずなのに、それでもエルディオンの口調は変わらず柔らかい。
アルノは答えようとした。
しかし、視線はすぐに床へ戻ってしまう。
「分からないんです」
「何が?」
「これです」
アルノは床に刻まれた文字を指差した。
「この文字だけが分からない」
淡い光を帯びた二文字。
Le。
神代文字は、意味を理解しなければ使えない。
Nodusも、循環も、貯蔵も、移送も分かる。
だがLeだけは、どれほど見つめても意味へ届かなかった。
「読めないの?」
「読めないというより……意味が掴めないんです」
アルノは床へ手をつき、立ち上がろうとした。
足元がふらつく。
Neriaを使ったことで魔力を持っていかれた身体は、今も鉛のように重かった。
膝が震え、視界もわずかに揺れる。
それでも立った。
立たずにはいられなかった。
壁へ近付き、一面に刻まれた巨大な魔法陣を目で追う。
幾重もの円、その内側を走る幾何学的な線、円と円を結ぶ導線。
その途中に、いくつもの神代文字が刻まれている。
Le。
Le-Nodus。
Le-Circula。
Le-Reservia。
Circula。
循環。
Reservia。
貯蔵。
それぞれの意味は分かる。
アルノは導管を見上げた。
導線が天井へ伸び、壁の中へ入り、さらに奥へと消えていく。
何本も、何十本も、何百本も。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた導管が、巨大な空間の隅々まで続いていた。
地上で見た神代都市の水路も、街灯も、畑も、宿屋の暖炉も。
すべてがここに繋がっている。
いや、違う。
ここから流れていた。
この地下施設から。
第七星環から。
都市全体へ。
「……おかしい」
思わず声が漏れた。
エルディオンが顔を上げる。
「何が?」
「大きいですよね」
アルノは導管を見上げたまま言った。
「これ全部」
壁、床、導管、天井。
都市を支えるための、巨大すぎる施設だった。
「人間一人の魔力で動かせる規模じゃありません」
口にするほど、胸の奥にあった違和感が膨らんでいく。
ずっと抱えていた疑問だった。
第一星環。
第四星環。
そして、第七星環。
どれも巨大すぎる。
星環は単なる魔法陣ではない。
都市を支え、空間を繋ぎ、異界エネルギーを扱うための施設だ。
これほどのものを動かすには、莫大な魔力が必要になる。
魔術師が同じことをしようとすれば、国中の魔術師を集めても足りないかもしれない。
「エルディオンさんなら、分からないです」
アルノは小さく言った。
エルディオンがわずかに眉を上げる。
「僕?」
「エルさんなら、一人の魔力で賄えるかもしれません」
「褒めてる?化け物みたいに聞こえるけど」
「褒めてます」
「ならいいけど」
いつもと変わらない軽いやり取りに、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
だが、アルノの視線はすぐに施設へ戻った。
「でも、神代人全員がエルさんくらいの魔力があったなんて考えにくい」
地上には宿屋があった。
市場があった。
家があり、学校らしき建物もあった。
壁には子供が描いたような落書きさえ残されていた。
神代人は、伝説の中だけに存在する人々ではない。
この都市で暮らし、食べ、眠り、働き、笑っていた。
彼ら全員が、エルディオンのような規格外の魔術師だったとは思えなかった。
ならば。
「どうやって動かしてたんだろう」
アルノは呟いた。
その疑問に答えるように、床を走る線が淡く光った気がした。
アルノは一歩進む。
線を追う。
導管へ繋がる線。
壁へ伸びる線。
天井へ消える線。
貯蔵。
移送。
循環。
接続。
それらすべての前にLeが付いている。
Le。
Le。
Le。
まるで何度も呼びかけられているようだった。
見ろ。
考えろ。
辿れ。
神代文字が、そう告げているように思えた。
アルノは息を呑み、目を逸らさずに線を追い続けた。
意味を追い、仕組みを追い、無意識に指先で空中の点と点を結んでいく。
すると。
「っ――!」
頭に激痛が走った。
視界が白く弾け、アルノは咄嗟に壁へ手をつく。
「アルノ?」
エルディオンの声が聞こえた。
けれど遠い。耳元からではなく、水の底から届いているようだった。
痛い。
頭が割れそうだった。
目の奥が熱を持ち、視界が激しく明滅する。
壁の線、床の線、天井の線、導管の線。
さっきまで別々に見えていたものが重なり、幾重にも増えていく。
読むという感覚ではなかった。
流れ込んでくる。
文字ではない。
単なる言葉でもない。
考え方そのものだった。
神代人が見ていた世界。
神代人が組み上げた理屈。
神代人が辿り着いた答え。
その断片が、アルノの「知りたい」という思いへ応えるように、頭の中へ押し寄せてくる。
もっと知りたい。
なぜ動くのか。
どうして保てるのか。
何を削り、何を残し、何を繋いだのか。
問いかけるたびに、魔法陣は答えを返してくる。
だが、それは言葉ではなかった。感覚であり、構造であり、膨大すぎる理屈だった。
「アルノ」
エルディオンの声が近付いた。
肩へ手が触れる。
「大丈夫?」
アルノは返事ができなかった。
エルディオンが壁から身体を起こし、すぐそばまで来ている。
傷が痛むはずなのに、そんなことも忘れたようにアルノの顔を覗き込んでいた。
いつも浮かんでいる笑みが消えている。
「アルノ」
もう一度、名前を呼ばれた。
心配している声だった。
それだけは分かった。
だが、止まれなかった。
あと少し。
あと少しで、答えへ届きそうだった。
Le。
Le。
Le。
無数の文字が、絡み合う線の中で光っている。
独立した術式ではない。
ほかの言葉の前に付き、その働きを変えるもの。
Nodusを変える。
循環を変える。
貯蔵を変える。
移送を変える。
それでも、意味そのものを壊しているわけではなかった。
接続は接続のまま。循環は循環のまま。貯蔵は貯蔵のまま。
ただ、そこにある無駄を削っている。
流れる途中で消える力。
接続のたびに漏れる力。
循環の中で摩耗する力。
術式の隙間で失われる力。
それを抑える。
整える。
余計な揺らぎを消し、最短の線を選ぶ。
必要な場所へ、必要なだけ届ける。
アルノの喉が震えた。
「そうか……」
全身に鳥肌が立つ。
神代人は、魔力を増やそうとしていたのではない。
無限の力を持っていたわけでもない。
エルディオンのような膨大な魔力で、すべてを押し切っていたわけでもなかった。
違う。
減らしていた。
失われる魔力を。
無駄になる魔力を。
流れる途中で消えてしまう魔力を。
削っていた。
抑えていた。
整えていた。
最適化していた。
「Le……」
効率。
無駄を減らす。
声へ出した瞬間、曖昧だった意味が形を持った。
損失を抑えるもの。
流れを乱さず、余計な消費を削るもの。
それがLeだった。
だから都市が動く。
だから巨大な施設を維持できる。
だから第七星環は、これほど長い年月を経てもなお生きている。
神代人は魔力を増やしたのではない。
無駄をなくしたのだ。
アルノは大きく息を吸った。
頭はまだ痛い。目の奥も熱を持っている。
それでも、さっきまでの苦しさとは違っていた。
分かった。
分かってしまった。
答えへ届いた感覚が、胸の中で震えている。
「アルノ?」
エルディオンが問いかける。
アルノは振り返った。
銀髪の下に覗く顔は青白く、肩にはまだ血が滲んでいる。
脇腹の傷も完全には塞がっていなかった。
ふいに、泉の記憶が蘇った。
エルディオンの故郷へ向かう途中で立ち寄った町。
広場にあった泉。その底に刻まれていた魔法陣。
揺れる水面の向こうに、Neriaという文字が見えた。
治癒。
あの時は、そこまでしか分からなかった。
けれど、今なら思い出せる。
Neriaの前に、小さな文字があった。
意味が分からなかったため、術式の一部だと認識できずに見落としていた。
しかし、確かにあった。
Le。
「Le-Neria……」
アルノは呟いた。
エルディオンがわずかに目を細める。
「何か見つけた顔だね」
その声には、少しだけ楽しそうな響きがあった。
だが、同時に心配も混じっている。
アルノが無理をしていることを、きっと分かっている。
それでも止めないのは、アルノが何かを掴もうとしていることも知っているからだ。
「エルさん」
「うん」
「試したいことがあります」
エルディオンは少しだけ笑った。
「いいよ」
「いいんですか」
「止めてもやる顔してる」
そう言われ、アルノは一瞬言葉に詰まった。
そんな顔をしていただろうか。だが、していたのだろう。自分でも分かっていた。
今は止まれない。
「でも無理はしないで」
エルディオンが言う。
その言葉だけは柔らかかった。
「顔色が悪い」
「エルディオンさんの方が悪いです」
「そうかな?」
身体の具合が悪いはずなのに、エルディオンはいつもと変わらない調子で答えた。
「強がらないでください」
その言葉に、エルディオンがぱちりと瞬く。少しだけ意外そうな顔をした。
「僕に強がらないでくださいって言ったの、アルノが初めてかも」
そして、可笑しそうに笑った。
長い睫毛が揺れ、深い蒼の瞳がわずかに細められる。
アルノもつられて少しだけ笑う。
確かに、そうなのかもしれない。
エルディオンは強い。
圧倒的に強い。
だから誰も心配せず、誰も「無理をするな」とは言わない。
本人もまた、平気な顔で何でもやってしまう。
けれど、今は違う。
肩にも脇腹にも傷があり、顔色も悪い。
それなのに笑っているから、余計に心配になるのだ。
その時、扉の向こうで魔獣が再び体当たりした。
ドォン。
施設全体が揺れ、壁の魔法陣が淡く光る。
扉はまだ持ちこたえているが、いつまで耐えられるかは分からない。
時間はなかった。
アルノはエルディオンの前へ膝をつき、傷口へ手を伸ばした。
今度は、ただ治癒するのではない。
Neria。
治癒。
その意味は分かる。
そして、Le。
治癒を弱めるものではない。
治癒そのものを削るものでもない。
治癒へ届くまでに生じる無駄を減らすもの。
必要な力を、必要な場所へ、余計な揺らぎなく通すための言葉。
アルノは深く息を吸った。
神代語は、意味を理解しなければ使えない。
だから、言葉を知っているだけでは足りない。
自分が何をしたいのか。
何を減らすのか。
何を残すのか。
何を届けるのか。
すべて分かっていなければならない。
エルディオンの傷を見る。
肩。
脇腹。
まだ赤く、今も痛むはずだった。
アルノは傷口へ添えた手へ、静かに魔力を込めた。
「Le-Neria」
神代語を紡いだ瞬間、スペルが発動した。
淡い光が広がる。
先ほどのNeriaとは違った。
光が散らない。
揺れない。
淡い光はまっすぐにエルディオンに吸い込まれていった。
エルディオンが目を見開いた。
傷が塞がっていく。
肩の裂け目が閉じ、脇腹を染めていた赤が薄れていく。
流れていた血が止まり、傷口がみるみる塞がっていった。
まるで、時間を巻き戻しているようだった。
アルノは息を止めて、その光景を見つめた。
発動している。
間違いなく治癒している。
しかも、先ほどよりずっと効率よく。
やがて、淡い光が消えた。
静寂が戻る。
扉の向こうからは、魔獣の低い唸り声が聞こえていた。
エルディオンは自分の肩へ触れ、続いて脇腹へ手を当てる。
血は止まり、傷も完全に塞がっていた。
「……今の何?」
エルディオンがぽつりと言った。
珍しく、本気で驚いている声だった。
「……わからないけど、できました」
声が震えた。
だが、結果は目の前にある。
エルディオンの肩も脇腹も、先ほどとは比べものにならないほど傷が塞がり、血も止まっていた。
アルノは呆然と自分の手を見つめる。
「……あれ」
息が上がっていない。
身体も重くない。
先ほどNeriaを使った時は、たった一度の治癒で立っていることさえ辛くなった。
膝は震え、視界は揺れ、身体の奥から魔力を根こそぎ引き抜かれるようだった。
なのに。
今は違う。
それでも、まだ立っていられる。
同じ治癒だった。
いや、先ほどより遥かに大きな治癒だった。
それなのに、消費された魔力は比べものにならないほど少ない。
その差を意識した瞬間、先ほどNeriaを使った時の感覚が鮮明によみがえった。
エルディオンは意識を失っていた。
傷は少ししか塞がらなかった。
それでも、エルディオンは目を覚ました。
アルノが治していたのは、目に見える傷だけではなかった。
命を繋ぎ止めるために、魔力を使っていたのだ。
しかも、あの時のアルノは何も考えず、ただ治したいという一心で魔力を流し込んだ。
必要な場所も、必要のない場所も区別せず、治癒へ届くまでにどれほどの魔力が失われているのかも分からないまま。
だから、あれほど魔力を失った。
Leは、その無駄を減らしたのだ。
「……これが、Le」
胸の奥が熱くなる。
嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。
ただ、世界が少しだけ違って見えた。
今まで届かなかった場所へ、初めて指先が触れたような感覚だった。
神代人は強かったのではない。
少なくとも、ただ強かったのではなかった。
彼らは力の流れを見ていた。失われるものを見つけ、無駄になるものを探し、それを減らす方法を考え続けた。
だから星環を動かせた。
だから都市を維持できた。
だから、あれほど巨大な文明を築くことができた。
エルディオンはアルノを見ていた。
自分の傷が治ったことよりも、アルノの表情を見つめているようだった。
夢中で線を追い、意味を掴み、答えへ辿り着いたその姿を、まぶしそうに、少し嬉しそうに見ている。
「すごいね」
エルディオンが言った。
その一言で、アルノはようやく息を吐いた。
「僕じゃなくて」
アルノは首を振る。
「神代人が、すごいんです」
「でも見つけたのはアルノだ」
エルディオンは静かに笑った。
「僕には見えなかった」
アルノは何も言えなくなった。
エルディオンには見えない。
リネにも。
レグルスにも。
この線も、この意味も、Leという答えも。
今、この場所で見つけたのは自分だった。
何もできないと思っていた。
守られてばかりだと思っていた。
足を引っ張ってばかりだと思っていた。
けれど、今はエルディオンの傷が塞がっている。
自分の手で。
自分が見つけた言葉で。
ドォン!!
扉が大きく揺れた。
魔獣が再び体当たりし、壁の魔法陣がひときわ強く光る。
アルノは顔を上げた。
怖さは消えていない。
魔獣は今も扉の外にいる。
リネとレグルスとも合流できておらず、邪竜も地上にいる。
状況は何一つ楽になっていなかった。
それでも、さっきまでのような絶望だけではない。
自分にもできることがある。
そう思えた。
アルノは床へ視線を落とした。
Le。
その文字は、もう分からないものではなかった。
損失を抑えるもの。
無駄を減らすもの。
流れを整え、必要な力を必要な場所へ届けるもの。
アルノはゆっくりと立ち上がった。
足元にはまだわずかなふらつきが残っているが、先ほどとは違う。
立てる。
動ける。
エルディオンも壁から背を離し、立ち上がった。
もう傷口から血が落ちることはない。
「行けそうですか」
アルノが聞く。
「もちろん」
エルディオンはいつもの調子で笑った。
そんな会話ができることに、アルノは少しだけ安心する。
だが、すぐに空気が変わった。
扉の向こうで、魔獣が低く唸る。
先ほどまでとは違う。
ただ怒っているのではない。何かに反応しているような声だった。
エルディオンも気付いたらしく、蒼い瞳を扉へ向ける。
「……来るね」
「魔獣がですか?」
「たぶん、それだけじゃない」
アルノの背筋を冷たいものが走った。
地下施設の奥。
幾重にも重なる導管の向こう。
暗闇のさらに奥深くで、何かが動く音がした。
一つではない。
複数。
低く、重い足音が少しずつ近付いてくる。
青白い光が、遠くでいくつも瞬いた。
アルノは息を呑む。
この地下には、まだ何かがいる。
それでも、アルノはもう、先ほどのようにただ震えているだけではなかった。
床に刻まれたLeが、淡く光っている。
神代都市が残した答えが、足元にある。
アルノは拳を握った。
第七星環の地下で。
奈落の底で。
ようやく一つ。
自分だけの戦い方が、見え始めていた。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




