守られるだけでは
「エル……さん……」
声になったかどうか、自分でも分からなかった。
次の瞬間、アルノの身体が強く引き寄せられる。
確かな温もりに包まれ、銀色の髪が視界を流れた。
蒼い光が、暗闇の中で花開くように広がる。
防護術式。
エルディオンだった。
落下しながらアルノを抱き寄せ、身体ごと庇うように背中へ腕を回している。
「捕まってて」
短い言葉だった。
アルノは必死にエルディオンの服を掴む。指に力が入っているのかどうかも分からなかったが、離してはいけないと思った。
蒼い光が二人を包み、耳元で荒れ狂っていた風の音がわずかに遠ざかる。
落下の勢いと衝撃を削るための防護術式なのだろう。
だが、二人の身体は今もなお、暗闇の底へ向かって落ち続けていた。
直後、闇の中から巨大な構造物が現れた。
橋のように空中を横切る、太く長い導管だった。
壁から壁へと渡され、神代都市の奥深くへ、今も何かを運ぶために造られたものなのだろう。
あまりにも突然だった。
「っ――」
エルディオンが息を呑む。
避けきれない。
エルディオンは咄嗟に身体を捻り、アルノを強く抱え込んだ。
自分の身体を、迫る導管とアルノとの間へ差し込むように。
落下の衝撃を削るための防護術式が導管へぶつかり、青白い光が激しく弾けた。
轟音とともに導管の表面が砕け、凄まじい衝撃が二人を襲う。
エルディオンの肩が、導管へ叩きつけられた。
続いて脇腹も強く打ち付けられる。
嫌な音がした。
人の身体からしてはいけない音だった。
「エルさん!」
アルノは叫んだ。
だが、エルディオンから返事は返ってこない。
ただアルノを守る腕だけが、さらに強く身体を抱き締めた。
砕けた導管の一部が青白い光を散らしながら、暗闇の中へ消えていく。
それでも落下は止まらなかった。
風。
暗闇。
落下。
エルディオンの防護術式が何度も光り、二人へ襲いかかる衝撃を幾重にも削っていく。
だが、完全に消し去ることはできない。
エルディオンはアルノを離さないよう、腕に力を込め続けていた。
やがて、世界が激しく揺れた。
衝撃。
耳鳴り。
何かが砕け、弾ける音。
床へ叩きつけられたのだと分かったのは、少し後だった。
しばらくは何も聞こえず、呼吸さえできない。
身体が自分のものではなくなったように、指一本動かせなかった。
そして、静寂が訪れた。
アルノはゆっくりと目を開いた。
「……ん」
重い身体を起こす。
頭の奥が鈍く痛み、身体の節々が軋んだが、それでも生きていた。
横たわっていたのは、冷たく硬い床の上だった。
周囲には巨大な空間が広がり、青白い光だけが薄暗い内部を照らしている。
天井は見えない。
落ちてきたはずの上方は、底の知れない暗闇に呑み込まれていた。
遠くから水の流れるような音が聞こえるが、水ではないのかもしれない。
導管の中を流れる何か――神代都市を生かしていた力の残り香が、今も奥深くを巡っているような音だった。
壁には幾重もの魔法陣が刻まれている。
床にも、柱にも、折れた導管にも、複雑な線が隙間なく走っていた。
どこを見ても術式がある。
だが、アルノの頭はまだぼんやりしていて、それを読み取る余裕はなかった。
ふいに、エルディオンに抱き締められたまま落下した記憶がよみがえる。
アルノは弾かれたように身体を起こした。
「エルさん!」
数歩先に、銀色の髪が見えた。
エルディオンが倒れている。
その傍らでは、冷たい床を染めるように赤い血が広がっていた。
「エルさん!」
アルノの声が震える。
重い身体を引きずるように駆け寄り、その場へ膝をついた。
肩と脇腹の服が大きく破れている。
白い肌には赤い傷が走り、肩から腕へ、脇腹から腰へと血が流れていた。
落下の途中、導管へ強く叩きつけられた場所だった。
何度声をかけても返事はない。
アルノは震える手で傷口を見た。
触れていいのかさえ分からない。
押さえればいいのか、布で縛ればいいのか、そもそもどれほど深い傷なのかも判断できなかった。
分からない。
何も分からない。
リネはいない。
レグルスもいない。
薬もなく、自分には治癒魔法の知識さえない。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
血が止まらない。
エルディオンの顔から血の気が失われ、床へ落ちた赤が少しずつ広がっていく。
その色だけがやけに鮮やかで、アルノの視界に焼き付いた。
僕のせいだ。
その言葉が頭の中で膨らんでいく。
自分が落ちなければ、エルディオンが自分を庇わなければ、こんな怪我はしなかった。
その時だった。
ふと、一つの記憶が浮かぶ。
泉。
エルディオンの故郷へ向かう途中で立ち寄った町。
広場にあった泉の底には、古い魔法陣が刻まれていた。
揺れる水面の下で、光の揺らぎに合わせて浮かび上がった線。
その中に、アルノが意味を読み取れた文字があった。
Neria。
治癒。
「……ネリア」
言葉が口から零れた。
ストンと体に意味が落ちる。
アルノはエルディオンの傷口へ手を置く。
意味は分かる。
理解している。
だから、きっと使える。
神代語は、ただ発音すればいいわけではない。
意味を理解しなければ発動しないだろうと、以前エルディオンが言っていた。
逆に言えば、その意味を正しく理解できるなら、術式は応えてくれる。
そう信じるしかなかった。
「Neria」
神代語が発動し、アルノの手の下から淡い光が傷口へ広がった。
その瞬間だった。
身体の奥から、一気に魔力が抜けていく。
「っ……!」
視界が揺れ、呼吸が苦しくなる。
身体を支えきれず、膝が冷たい床へ落ちた。
重い。
身体が鉛に変わったようだった。
自分の中にあったものが、根こそぎ引き抜かれていく。
術式へ流しているのではなく、何かに際限なく奪われているような感覚だった。
やがて、エルディオンの指先がかすかに動いた。
長い睫毛が揺れ、閉じていた瞼がゆっくりと開いていく。
「……アルノ?」
「エルさん!」
アルノはエルディオンの背中へ手を回し、どうにか身体を抱き起こした。
「エルさん、ほんとにごめんなさい」
「僕のせいで…」
傷は塞がりきっていない。
出血も完全には止まっておらず、先ほどより多少ましになった程度だった。
「…とっさに、防護術式補強できなかった、ごめん…」
怪我をしているのに。
血を流しているのに。
それでも、エルディオンはアルノのことを心配していた。
エルディオンは自分の身体へ視線を落とし、破れた服と血に濡れた脇腹を見て苦笑する。
「なんだか、ひどいことになってる」
その言い方があまりにも軽かったので、張り詰めていたものがわずかに緩み、アルノも少しだけ笑った。
「さっきまで意識なかったんです」
「何かした?」
「治癒スペルつかいました」
「なるほど」
「魔力が、ごっそり持っていかれちゃって……」
エルディオンが苦笑する。
「助かったよ」
アルノはエルディオンの傷へ目を落とした。傷は塞がりきっておらず、出血も完全には止まっていない。
それでも、エルディオンは目を覚ました。
おかしい。
Purus(浄化)を使った時は、これほど魔力は減らなかった。
傷は少ししか治っていない。それなら、自分は何にこれほどの魔力を使ったのだろう。
答えは出なかった。
アルノの魔力は、すでにほとんど空になっていた。
エルディオンの傷からは、今も血が流れ続けている。
けれど、自分にはこれ以上治せない。
たったこれだけなのに、もう立つことさえ辛かった。
少し傷を塞いだだけで、何もできなくなってしまった。
「僕……」
言葉が続かなかった。
その時だった。
ガァァァァァァァァァ!!
凄まじい咆哮が響き、地下空間全体が震えた。
アルノとエルディオンは同時に顔を上げ、暗闇の向こうへ視線を向ける。
巨大な影が動いていた。
四本の脚。長く鋭い爪。闇の中で青白く光る双眸。黒い体表には淡い光の筋が走り、脈打つように明滅している。
異界エネルギーに侵されたのか、それともこの地下で長い年月をかけて適応した生き物なのか。
それは分からない。
ただ一つ分かるのは、危険だということだけだった。
魔獣。
地下の闇に適応した異形は、低く唸りながらゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「……まずいな」
エルディオンが立ち上がる。
「ダメです!」
アルノは叫んだ。だが、止めたところでどうしようもない。
自分にはエルディオンの代わりに戦うことなどできなかった。
魔獣が走り出した。
重い足音とともに地面が揺れ、その振動が床を通して胸の奥へ響く。
エルディオンはアルノを庇うように一歩前へ出た。
蒼い光が走る。
衝突と同時に轟音が響き、魔獣の巨体が後方へ弾かれた。
だが倒れない。爪で床を削りながら踏み止まり、黒い身体を低く沈める。
エルディオンも衝撃に押され、数歩後ろへ下がった。
その瞬間。
ぽたり、と赤い雫が落ちた。
白い床の上へ、鮮やかな血が広がる。
アルノは息を呑んだ。
エルディオンはいつもと変わらないように笑っているが、血は今も流れている。
肩も脇腹も、傷は塞がりきっていない。
僕のせいだ。
僕を助けたから。
僕が落ちなければ。
僕にもっと魔力があれば。
こんなことにはならなかった。
「行こう」
エルディオンが言った。
「え?」
「倒す必要はない」
そう言うと、エルディオンはアルノの腕を取り、自分の肩へ回した。
「立てる?」
「すみません……」
「いいから」
アルノはどうにか歩こうとしたが、足に力が入らなかった。
魔力が空になった身体は重く、膝が震え、視界も定まらない。
立っているだけで息が上がった。
結局、怪我をしているエルディオンに支えられる形になった。
血を流しているのに。
傷付いているのに。
それでも、支えられているのは自分だった。
二人は通路の奥へ進んだ。
背後から魔獣の咆哮と重い足音が迫り、床や導管が激しく震える。
エルディオンはアルノの身体を支えながら魔獣との距離を測り、時折振り返っては短い防護術式で追撃を逸らした。
そのたびに血が落ちる。
ぽたり。
白い床へ。
ぽたり。
アルノの足元へ。
ぽたり。
二人が進んできた道へ、赤い点が連なっていく。
アルノはそこから目を逸らせなかった。
自分が歩いた跡ではない。
エルディオンが傷付きながら、自分を守って進んだ跡だった。
胸が痛い。
息が苦しい。泣きたいのか、叫びたいのかさえ分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしている。
自分はまた守られている。
何もできないまま。
やがて、二人は巨大な扉へ辿り着いた。
扉の表面には古い魔法陣が刻まれている。長
い年月を経ているはずだが、術式自体は壊れていなかった。
アルノには、その線が見えた。
閉じるための術式。
隔てるための術式。
外からの侵入を拒む構造。
「こっちです」
ほとんど反射的に声が出た。
エルディオンが頷き、二人は扉を越える。
直後、背後で魔獣が扉へ激突し、凄まじい衝撃が床を揺らした。
だが、魔獣は入ってこない。
巨大な扉が、外側からの侵入を阻んでいる。
魔獣はもう一度、さらにもう一度と体当たりを繰り返したが、やがて諦めたのか、重い衝突音は途絶えた。
エルディオンは壁際へ移動し、その場へ腰を下ろした。
アルノもすぐ傍へ座り込む。
しばらく、二人は何も話さなかった。
扉の向こうから、魔獣の低い唸り声だけが聞こえている。
アルノは膝の上で拳を握った。魔力を失った指先は、まだ小さく震えていた。
魔力が足りない。
力も足りない。
知識も足りない。
やがて、胸の底へ沈んでいた言葉が、押さえきれずに零れた。
「僕って何なんでしょうね」
エルディオンがこちらを見る。
アルノは顔を上げられなかった。
「また守られてる」
声が小さくなる。
「何もできない」
口にすると、余計に惨めだった。
それでも、一度溢れ出した言葉は止まらない。
「足引っ張ってばっかりだ」
自分で言い、自分で傷付く。
けれど、胸の中に溜まっていたものを飲み込むこともできなかった。
「リネみたいに戦えない。レグルスみたいに冷静に判断もできない。エルさんみたいに強くもない」
喉が詰まる。
「神代スペルなら、神代の治癒ならって思ったのに。少し傷を塞いだだけで、もう立てないくらい魔力を持っていかれて」
悔しかった。
情けなかった。
どうしようもなく、自分が無力に思えた。
「僕、何の役にもたたない」
沈黙が落ちる。
扉の向こうで、魔獣が再び体当たりを始めた。
ドォン、と鈍い音が響き、壁と床が小さく震える。
エルディオンは扉の方を見なかった。
ただ、アルノを見ていた。
「そうかな」
小さく笑う。
少し疲れていて、少し痛そうで、それでも変わらず優しい声だった。
「どうしてそんなに優しいんですか」
アルノはようやく顔を上げた。
「僕のせいなのに」
声が震える。
「僕を助けたから怪我したのに」
「アルノ」
「なんで……」
エルディオンは少しだけ考えるように視線を伏せた。
「みんなに優しいわけじゃないよ」
思いがけない答えに、アルノは瞬きをする。
「……え?」
「アルノだから」
あまりにも簡単に告げられ、アルノはその意味を理解できなかった。
「僕だから…?」
「うん」
「どうして」
エルディオンは壁へ背を預けた。
銀色の髪が肩から流れ、傷口へ滲んだ赤へ触れそうに揺れる。
顔色は悪かったが、深い蒼の瞳だけは真っ直ぐにアルノを見ていた。
「アルは僕にないものをたくさん持ってる」
「僕が?」
「そう」
エルディオンは穏やかに笑う。
「夢中になれるものがあるところとか」
アルノは黙って、その言葉を聞いた。
「自分の力では及ばないのに、それでもやろうとするところとか」
「……」
「初めて会った僕の旅についてきてくれるところとか」
エルディオンは茶目っ気を含んだ目でアルノを見た。
その表情がいつもと変わらなくて、アルノはほんの少し笑ってしまう。
この人について行けば、何かが分かる気がした。
あの時、確かにそう思ったのだ。
そして、その予感は間違っていなかった。
胸の奥が熱くなる。
エルディオンの声は、どこまでも真っ直ぐだった。
「僕はね、そういうアルノが好きなんだ」
「好き……?」
「うん」
エルディオンは少しだけ目を細める。
「アルが何かに夢中になっているのを見るのは楽しい」
アルノは言葉を失った。
「僕は強いよ」
エルディオンがさらりと言う。
「たぶん、かなり」
「自分で言います?」
「事実だからね」
その言い方があまりにもいつも通りで、アルノの身体からわずかに力が抜けた。
だが、エルディオンはすぐに静かな声で続ける。
「でも、強いから…何でもできてしまうから夢中になれるものが少ないんだ」
その言葉には、いつもの軽さとは異なる響きがあった。
「ワクワクしたり、ドキドキしたりそういうのが少ない」
「アルノは違う」
アルノは何も言わず、ただ聞いていた。
深い蒼の瞳が、アルノを映す。
「線を見る。ズレを見る。繋がりを見る。壊すんじゃなくて、どうしてそうなっているのかを考える。そんなときのアルノの表情は輝いてる」
「……でも」
アルノは一度、言葉を切った。
「でも、何もできない」
声が小さくなる。
目を輝かせるだけでは、強くなれない。
「それでいいんだよ、今は」
蒼い瞳がアルノを真っ直ぐに見つめる。
「今は?」
エルディオンは少し笑った。
「そう、今は。今できないことは、これからできるようになればいい」
その言葉が、静かに胸の中へ落ちてきた。
エルディオンの服には、今も血が滲んでいる。
自分の方が痛く、苦しいはずなのに、それでもアルノから目を逸らさずにいてくれる。
「だから、アルノ」
エルディオンが言う。
「何もできないなんて、言わなくていい」
アルノは唇を噛んだ。
泣きたくなった。けれど、今は泣いている場合ではない気がした。
強くなりたい。
ただ強い魔法を使いたいわけではない。
エルディオンのような圧倒的な魔力が欲しいわけでも、リネのように戦える身体が欲しいわけでもなかった。
自分にしかできないことを。
自分の目にだけ見えるものを。
いつか、きちんと使えるようになりたい。
「……強くなりたいです」
アルノは小さく言った。
エルディオンは何も答えなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑った。
その時だった。
ドォン!!
凄まじい衝撃が施設全体を揺らす。
魔獣が、再び外から扉へ体当たりしていた。
先ほどよりも強い。
壁の魔法陣が淡く光り、巨大な扉が低く軋む。
まだ破られてはいないが、このまま長く耐えられるとは限らなかった。
アルノは顔を上げる。
そして初めて、自分たちが逃げ込んだ空間をきちんと見渡した。
巨大な施設だった。
壁から床へ、床から天井へ、複雑な魔法陣がどこまでも続いている。
導管が幾重にも折り重なり、壁の奥へ消えていた。
床には細かな線が張り巡らされ、天井には見たこともないほど複雑な術式が描かれている。
ここは、ただの避難場所ではない。
第七星環の地下。
神代都市を動かしていた仕組みの、さらに奥深く。
そんな場所だった。
アルノの大きな灰銀の瞳が、自然と床の線を追い始める。
接続。
流動。
循環。
貯蔵。
読めるものがある。意味を理解できる文字がある。
だが、そのすべての前に、同じ短い文字が付いていた。
何度も。
何度も。
何度も。
Le。
Le-Nodus。
Le――。
Le――。
床にも、壁にも、導管にも、天井にも。
すべてに同じ文字が刻まれている。
アルノは栗色の髪を額へ垂らしたまま、淡く光る文字を凝視した。
「……なんだろう」
その文字だけが、分からなかった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




