静かな異変
神代都市で迎える、最初の夜だった。
淡い街灯の光が石畳を照らし、その脇を流れる水路には澄んだ水が絶え間なく流れている。
中央広場の噴水も止まることなく水を吹き上げ、その音だけが静まり返った町へ響いていた。
誰もいない町だった。
それなのに、灯りは点き、水は流れ続けている。
まるで今もどこかの家に住民が暮らし、通りを歩く者がいるかのように、都市はいつもどおりの夜を迎えていた。
静かだった。
ひどく静かだった。
◇
「今日はここにしようか」
エルディオンが、通りの向こう側に建つ二階建ての建物を指差した。
淡い街灯の光を受け、腰まで伸びた銀髪が柔らかく揺れている。
他の建物と同じ石造りだったが、入口の上には大きな看板が残されていた。
そこへ描かれた図柄を見つけ、リネが琥珀色の瞳を細めながら見上げる。
「あれ宿屋かな」
「なんで分かるの?」
「ほら」
リネが指差した先には、寝台らしき絵が描かれていた。
長方形の枠の上には枕が置かれ、掛けられた毛布らしき模様まで細かく表現されている。
「本当だ」
レグルスも銀縁眼鏡を押し上げながら、静かに頷いた。
「少なくとも泊まる場所ではありそうですね」
アルノも看板を見上げた。
絵の横には神代文字が刻まれており、そこには確かに宿泊施設と書かれている。
だが、わざわざ口にする必要もなかった。
文字を読めない三人も、看板を見ただけで同じ結論へ辿り着いている。
◇
宿の中は、驚くほど綺麗な状態を保っていた。
入口の正面には受付らしきカウンターがあり、その背後には鍵を掛けるための棚が並んでいる。
広いロビーには椅子や机まで残され、床にも目立った埃は積もっていなかった。
ただ、人の姿だけがない。
長い年月を経ているはずなのに、建物は荒れ果てていなかった。
今にもカウンターの向こうから宿の主人が姿を現し、客を迎え入れても不思議ではないほど整っている。
「すごい……」
アルノは思わず呟いた。
壊れていない。
荒れてもいない。
まるで、昨日まで営業していたようだった。
◇
そして、宿の中は暖かかった。
入口から数歩進んだところで、四人はほとんど同時に足を止めた。
外では指先の感覚が失われるほどの寒さに晒され、何日もの間、吹雪と強風の中を進んできた。
だが、建物の中だけは別世界だった。
「暖かい……」
リネが外套を脱ぎ、赤茶色のポニーテールを軽く振る。
レグルスも普段の冷静な表情を僅かに崩し、周囲を見回していた。
ロビーの壁際に設けられた暖炉には、橙色の火が灯っている。
誰も薪をくべていないはずなのに、炎は一定の大きさを保ったまま静かに揺れていた。
「空調ですね」
アルノは天井を見上げた。
壁の奥や床の下には、細い線が張り巡らされている。
熱を生み出す術式と、暖められた空気を循環させる術式が建物全体へ繋がり、室内の温度を一定に保っていた。
「神代文明ってすごかったんだね」
リネがぽつりと言った。
誰も否定できなかった。
◇
二階へ上がると、宿泊用の部屋も残されていた。
それぞれの室内には寝台と机、壁際には荷物を収める棚が備え付けられている。
どれも目立った傷や汚れはなく、寝台の上には柔らかそうな毛布まで残されていた。
窓の外には、夜を迎えた神代都市の灯りが見える。
石畳に沿って街灯が規則正しく並び、水路の表面へ淡い光を落としていた。
人の姿はどこにもなく、遠くから噴水の水音だけが微かに届いている。
静かな夜だった。
◇
部屋へ荷物を下ろし、四人はようやく一息ついた。
切り立った崖を登り、吹雪の中を歩き続けた。
アルノは途中で足場を踏み外し、奈落へ落ちかけてもいる。
何日もの間、落ち着いて身体を休めることすらできなかった。
その間に蓄積していた疲労が、暖かな場所へ辿り着いたことで一気に身体へ押し寄せてくる。
アルノは窓際へ立ち、眼下に広がる街並みを見下ろした。
淡い灯りが揺れている。
誰もいない。
それなのに、町だけが生き続けていた。
「エルさん」
「ん?」
「邪竜、いますかね」
エルディオンは窓の外へ視線を向けた。
深い青の瞳で静かな都市を眺め、しばらく何かを考えるように黙り込む。
そして。
「さあ」
と言った。
「分からない」
アルノは苦笑した。
ここまで来た。
誰にも見つけられなかった入口を開き、ラウム山脈の奥に隠されていた神代都市も発見した。
けれど、邪竜が本当にこの場所にいるのかは分からない。
目撃情報は北方で途絶えているが、それだけで第七星環にいると断定することはできなかった。
「まず休もう」
エルディオンが窓から離れ、三人を振り返る。
「ずっと過酷な道のりだったんだ」
リネも頷き、レグルスも反対しなかった。
「また明日だ」
◇
宿には浴室まで残されていた。
恐る恐る蛇口をひねると、透明な湯が音を立てて流れ始める。
白い湯気が立ちのぼり、その温もりにアルノは思わず顔を綻ばせた。
何日ぶりかも分からない熱い湯が、雪山で冷え切っていた身体をゆっくりとほぐしていく。
強張っていた肩から力が抜け、長い旅の疲れまで洗い流されていくようだった。
湯上がりの身体には、宿の暖かな空気が心地よかった。
アルノは寝台へ身体を沈める。
身体を受け止めた布団は、驚くほど柔らかかった。
毛布にも温もりがあり、冷え切っていた手足を優しく包み込んでいく。
風の音を気にしなくていい夜は、久しぶりだった。
身体を横たえながら、崖から落ちる心配をしなくていい夜も。
目を閉じると、全身へ重い疲労がのしかかってきた。
本当に疲れていたのだと思う。
思っていた以上に。
アルノの意識は、ほとんど一瞬で深い眠りへ沈んでいった。
◇
翌朝。
目を覚ましたアルノは、毛布の中で僅かに身体を丸めた。
最初は気のせいだと思った。
眠っている間に毛布がずれただけなのかもしれない。
少し寒い。
昨夜は、もっと暖かかったはずだった。
暖炉の火はまだ灯っている
炎は消えておらず、昨日と同じように静かに揺れていた。
だが、室内の温度は確実に下がっている。
「……?」
アルノは身体を起こし、周囲を見回した。
まだ小さな違和感だった。
外套が必要になるほど寒いわけではなく、息が白くなるほど冷えているわけでもない。
それでも、何かがおかしかった。
部屋を出ると、廊下ではリネも既に起きていた。
腕を擦りながら歩いてきたアルノの姿を見ると、すぐに口を開く。
「寒くない?」
開口一番だった。
アルノは頷いた。
「少し」
昨夜は外套を脱いだままでも、何の問題もなかった。
しかし今朝は、薄着のままで立っていると肌寒さを感じる。
凍えるほどではない。
ただ、建物を包んでいた暖かさが弱くなっていた。
◇
一階へ降りると、エルディオンとレグルスも既に起きていた。
暖炉の火は燃え続けている。
しかし昨夜のような暖気は感じられず、広いロビーの空気には僅かな冷たさが混じっていた。
「やっぱり下がってますね」
レグルスが周囲を観察しながら言う。
エルディオンも暖炉や壁へ視線を向けたが、特に何も言わなかった。
外見上、壊れている場所はどこにも見当たらない。
アルノも壁の奥を通る術式へ目を凝らした。
線は消えておらず、暖気を循環させる構造も動いている。
それでも、昨夜より流れている力が弱かった。
◇
四人は持参してきた保存食で、簡単に朝食を済ませた。
神代都市には野菜や果物が実っている。
昨日見つけた畑には瑞々しい実が残され、今も水路から水が供給されていた。
だが、何百年も前から残されている都市の作物が安全なのかは分からない。
見た目だけでは判断できず、さすがに手を出す気にはなれなかった。
「少し街を見てもいいですか」
食事を終えたレグルスが立ち上がった。
「昨日は暗くて見えなかった場所もあります」
エルディオンが頷く。
「そうだね」
「何か見つかるかもしれません」
◇
一行は宿を出た。
神代都市は、今日も静かだった。
淡い光が空洞全体を照らし、街灯も完全には消えていない。
水路には変わらず水が流れ、建物も昨日と同じ姿を保っている。
◇
中央広場へ差しかかったとき、アルノは不意に足を止めた。
「あれ」
視線の先には噴水があった。
昨日は高く、勢いよく水を吹き上げていた。
夜になってからも動き続け、街灯の光を受けた水滴が淡く輝いていた。
だが、今は違う。
水の勢いが弱い。
完全に止まってはいないものの、吹き上がる高さは昨日の半分ほどになっていた。
「昨日こんなんだった?」
リネも首を傾げる。
「違うと思う」
アルノは噴水へ近付いた。
縁へ手を置き、内部へ張り巡らされた線を確かめる。
魔法陣そのものは壊れておらず、線が途切れている場所もなかった。
だが、そこを流れている力が少ない。
噴水だけではなかった。
通りに並ぶ街灯も、昨日より光が弱くなっている。
かろうじて灯っているものもあれば、既に完全に消えているものまであった。
アルノはゆっくりと周囲を見回した。
石畳。建物。街灯。水路。畑。
神代都市全体へ張り巡らされた、巨大な魔法陣。
昨日は、あまりの規模に圧倒されていた。
線の数が多すぎ、構造も複雑すぎたため、都市全体の流れまで捉えることができなかった。
だが、今なら見える。
町を巡る力が、昨日より確実に弱くなっている。
川の水位が僅かずつ下がっていくように、都市全体を動かしている力が少しずつ減っていた。
一行はさらに町の奥へ進んだ。
住宅街を抜け、市場らしき区画を通り過ぎる。
家々の扉は閉じられたままで、店先には物を並べていたらしい台だけが残されていた。
どこまで歩いても、人の姿はない。
話し声も、生活の音も聞こえない。
あるのは四人の足音と、弱くなり始めた水の音だけだった。
やがて、通りの先に大きな掲示板が見えてきた。
アルノは思わず立ち止まった。
そこには紙が貼られていた。一枚や二枚ではなく、何十枚もの紙が隙間なく並べられ、掲示板の壁面を覆い尽くしている。
「何て書いてあるの?」
リネが聞く。
アルノは掲示板へ近付き、最も手前に貼られた紙へ目を向けた。
神代文字だった。
文字の形を自然に目で追っていく。
そこに書かれた意味を理解した瞬間、アルノの表情が強張った。
「避難勧告……」
「え?」
「第一段階避難勧告」
アルノは隣の紙へ視線を移す。
「第二段階避難勧告」
さらに次の告知を読む。
「研究区画閉鎖」
その隣にも、同じような紙が貼られていた。
「住民退去要請」
全員が黙り込んだ。
掲示板を埋め尽くす大量の告知は、すべて都市の住民へ向けて出されたものだった。
避難区域や退去期限が段階的に広げられ、事態が少しずつ深刻になっていったことが分かる。
「避難したんだ」
リネが小さく呟く。
レグルスも掲示板を見つめたまま頷いた。
「だから人がいないのか」
一行は掲示板を離れ、さらに先へ進んだ。
やがて、住宅や店舗とは明らかに造りの異なる巨大な建物へ辿り着く。
高い壁には神代文字が刻まれ、入口の左右には用途の分からない細い柱が立っていた。
役所ではない。
研究施設だった。
神代文明の研究所らしく、内部には幾つもの机が規則正しく並び、壁際には天井近くまで届く本棚が設けられている。
机の上には書類や道具が残され、棚の中にも大量の資料が収められていた。
住民と同じように、ここで働いていた者たちも都市から退去したのだろう。
アルノは本棚へ近付き、一冊の資料を取り出した。
表紙を開くと、びっしりと神代文字が並んでいる。
初めて見る形式の記録だったが、文字そのものは読むことができた。
ページをめくり、内容を追っていく。
読み進めるうちに、アルノの顔から血の気が引いていった。
「第六星環……」
その言葉に、全員が振り返る。
アルノは資料を見つめたまま、記されている内容を読み上げた。
「連絡途絶」
「調査隊派遣」
「到着時、第六星環区域は壊滅」
静まり返った研究所に、アルノの声だけが響く。
ページをめくる音が、やけに大きく聞こえた。
「異界エネルギー爆発」
「都市機能崩壊」
「生存者なし」
リネが小さく息を呑む。
レグルスの表情からも感情が消え、銀縁眼鏡の奥の灰紫色の瞳が資料へ向けられていた。
「抽出口封鎖成功」
「しかし再建は不可能」
「当該区域は永久放棄を推奨」
ページの最後には、事故を受けた研究者の見解が記されていた。
アルノはゆっくりと読み上げる。
「異界エネルギーは我々へ計り知れない恩恵を与えた」
「しかし同時に、我々の理解を超えた危険性を内包している」
「第七星環においても同様の事故発生可能性を否定できない」
誰も言葉を発しなかった。
静寂だけが残った。
◇
研究所を出たアルノは、建物の前で立ち止まった。
目を閉じ、都市全体へ張り巡らされた線を意識する。
道路。建物。街灯。水路。畑。
すべてが繋がっていた。
アルノの指先が無意識に宙を動き、見えない点と点を結んでいく。
都市を巡る無数の流れを一つずつ追い、どこから力が供給されているのかを探った。
すべての線は、同じ方向へ向かっていた。
いや。
違う。
あそこから流れてきている。
アルノはゆっくりと顔を上げた。
町の奥に広がる木々の向こうに、巨大な影が立っている。
空洞の天井近くまで伸びる塔だった。神代都市に並ぶどの建物よりも高く、遠く離れた場所にありながら、町全体を見下ろすような圧倒的な存在感を放っている。
第七星環。
アルノには分かった。
街灯も、噴水も、空調も、畑も。
神代都市に残されたすべての機能が、あの塔によって生かされている。
そして今、その力は少しずつ弱くなっていた。
まるで都市そのものが、静かに息を引き取り始めているように。
アルノはじっと第七星環を見つめた。
原因があるなら。
きっと。
あそこだった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




