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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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生きている遺跡

 アルノが指差した先へ、全員の視線が集まった。


 切り立った崖の途中には、雪と氷に覆われた岩壁が広がっている。

 風が吹くたびに細かな雪が横へ流れ、灰色の岩肌を白く霞ませていた。

 どう見ても、そこにあるのはただの崖だった。

 入口などない。扉もなく、そこへ続く道さえ見当たらない。


 けれど、アルノには見えていた。

 岩の表面に、一本の細い線が走っている。

 それは見慣れた魔法陣の線とは違っていた。

 いや、これも魔法陣の一部なのだろう。

 ただ、あまりにも古く、岩肌そのものへ溶け込んでいるため、もはや風景の一部にしか見えなかった。


「どこ?」


 リネが琥珀色の瞳を細め、岩壁を見つめる。


「そこ」


 アルノは岩壁の一点を示した。


「岩の切れ目みたいになってるところ」


「……岩にしか見えない」


「私も岩に見えます」


 レグルスも銀縁眼鏡の奥から岩壁を観察していたが、やがて僅かに眉をひそめた。

 視線を上下へ動かし、周囲との違いを探しているものの、彼にもただの岩にしか見えないらしい。


 エルディオンだけが、少し楽しそうにアルノを見ていた。

 吹きつける風に長い銀髪を揺らしながら、深い青の瞳を穏やかに細めている。


「でも、あるんだね」


「はい」


 アルノは頷いた。

 恐怖はまだ身体の奥に残っている。

 足元の登山道は細く、すぐ左側には底の見えない奈落が口を開けていた。

 ひとたび強い風が吹けば、身体ごと持っていかれそうな場所だった。


 それでも、岩壁から目を逸らすことはできなかった。

 線が続いている。

 ここで途切れているのではなく、岩の向こうへ確かに繋がっていた。

 アルノは手袋を外した。


「ちょっと、危ないでしょ」


 リネがすぐに声を上げた。


「少しだけ」


「少しだけで落ちる場所なんだけど」


「分かってる」


 アルノは慎重に岩壁へ近付いた。

 靴底の鉄鋲が凍った岩を捉えていることを確かめながら、一歩ずつ足を進めていく。

 リネもすぐ後ろへ続いた。

 何も言わなかったが、片手を僅かに浮かせ、いつでもアルノの身体を掴める位置に立っている。

 アルノはその仕草に気付いていた。

 気付いていたからこそ、足元の恐怖を抱えたままでも、岩壁へ手を伸ばすことができた。


 むき出しになった指先が岩肌へ触れる。

 冷たい。

 凍りつくような冷気とともに、手袋越しでは分からなかった細かな凹凸が伝わってきた。


 アルノは灰銀の瞳を凝らし、見えている線と指先で触れられる線が一致する場所を探していく。


 あった。


 岩の割れ目にしか見えない細い溝。

 その奥に、微かな魔力の名残が残っている。

 弱い。今にも消えてしまいそうなほど微かなものだった。


 だが、死んではいない。

 アルノは一度息を整え、指先で慎重に線を辿った。

 一画ずつ、一つずつ、目に映る構造と指先へ伝わる感触を重ねていく。

 線は崩れているわけではない。途中で切れているわけでもなかった。


 隠されている。


 これは入口を隠すための魔法陣だった。

 誰にも見つからないように、そして風にも雪にも長い年月にも消されないように、岩壁そのものを扉として組み上げている。


「……すごい」


 思わず声が漏れた。

 レグルスが足元を確かめながら、アルノの近くへ寄る。


「開けられそうか」


「分からない。でも、鍵みたいなものはある」


「鍵?」


「たぶん、魔力じゃない」


 アルノは指先で線を追いながら答えた。

 見えている線と、その奥へ続いている線を頭の中で重ね、僅かな違和感を探っていく。


「接続を合わせるんだと思う」


 エルディオンの瞳が僅かに細くなった。


「接続」


「はい。ここ、少しだけズレてます」


 岩肌へ刻まれた線と、さらに奥へ続いている線。

 その二つは、ほんの僅かに位置がずれていた。

 普通なら誤差にも見えないほど小さな違いだった。

 だがアルノには、それが偶然の誤差ではないと分かった。

 これは、入口を閉じるために意図的に作られたズレだ。


 アルノは指先をその接続部分へ置いた。

 魔力を流すわけではない。力を込めて押し込むわけでもなかった。

 ただ、線を合わせる。

 ずれている接続を、本来あるべき位置へ戻す。

 ほんの少し。

 本当に、ほんの少しだけ。


 かちり、と何かが噛み合う音がした気がした。


 次の瞬間、岩壁に淡い光が走った。

 リネが息を呑み、レグルスが反射的に一歩下がる。

 その中でエルディオンだけは驚くことなく、どこか嬉しそうに笑っていた。


 岩肌に隠されていた線が、淡い光を放ちながら浮かび上がる。

 円と線、そして神代文字。

 無数の構造が互いに繋がり合いながら、岩壁全体へ複雑な魔法陣を描き出していった。

 そして、岩が動いた。

 岩壁そのものが、低い振動を響かせながら静かに奥へ沈んでいく。

 長い年月、一度も開かれることのなかった扉が、深い眠りから目覚めるような動きだった。


 それまで吹きつけていた冷たい風が止まる。

 代わりに、開いた岩壁の奥から柔らかな空気が流れてきた。

 暖かい。


 アルノは思わず目を見開いた。

 外は指先の感覚が失われるほどの極寒だった。

 それにもかかわらず、扉の向こうから流れてくる空気には、春先の風のような温もりがあった。


「……何これ」


 リネが呟いた。

 誰も答えられなかった。


 入口の奥に広がっていたのは、自然にできた洞窟ではなかった。

 最初に現れたのは、闇に沈んだ石造りの通路だった。

 壁も床も天井も、継ぎ目が分からないほど滑らかな石で作られている。

 長い年月を経ているはずなのに、崩れた場所も、亀裂の走った場所も見当たらなかった。


 一行が足を踏み入れた瞬間、壁に淡い光が灯った。

 一つ。また一つ。

 小さな光は、彼らを迎え入れるように通路の奥へ向かって順番に点いていく。


「今、点いた?」


 リネが警戒した声で言う。


「点きましたね」


 レグルスも周囲を見回していた。

 光が灯った位置や間隔を確かめるように、灰紫色の瞳を慎重に動かしている。


 アルノは壁へ目を向けた。

 そこにも線がある。


 あまりにも細く繊細で、知らなければ見落としてしまいそうなほど自然に、石の中へ刻み込まれていた。

 光を灯す魔法陣。

 空気を循環させる魔法陣。

 内部の温度を一定に保つ魔法陣。


 それらは一つずつ独立しているのではなく、壁と床を通じて互いに繋がっていた。

 アルノの指先が無意識に宙を動き、点と点を結ぶように通路を走る線を追っていく。


 まだ動いている。

 この遺跡は、何百年もの時を越えて今も機能し続けていた。


 一行は淡い光に照らされた通路を奥へ進んだ。

 風はなく、外套を着込んだままでは暑さを感じるほど暖かい。

 ほんの少し前まで吹雪の中にいたことが、遠い出来事のように思えた。


 やがて通路の先に、別の光が見えた。

 外から差し込む鋭い光ではない。

 もっと柔らかく、空間全体を包み込むような淡い光だった。


 一行は自然と足を速める。

 そして、通路を抜けた。


 ◇


 そこには町があった。


 アルノは言葉を失った。


 目の前にあるものを理解しているはずなのに、それを言葉として受け止めることができない。

 見渡すかぎりに広がっているのは、一つの町だった。


 ここはラウム山脈の山腹、その奥深くにある場所だ。

 切り立った崖の向こうに、こんな広大な空間が広がっているとは思いもしなかった。


 その山の中に、巨大な神代都市が眠っていた。


 広大な空洞の中には、石造りの建物が立ち並んでいる。

 細長い塔や家々を繋ぐ橋、町の中を巡る水路、広場や幾つもの住居が、規則的でありながらどこか自然な形で配置されていた。

 どれも古い。だが、壊れてはいない。

 建物の壁には亀裂一つなく、屋根にも崩れた跡は見当たらなかった。

 長い年月を経た石は落ち着いた色合いへ変わっているものの、町並みは人々が暮らしていた頃の姿を保っているように見える。


 空洞の天井は高く、見上げても光の源は分からなかった。

 どこから生まれているのか分からない淡い光が、都市全体を薄明るく照らしている。

 水路には澄んだ水が流れ、中央広場らしき場所では噴水が絶え間なく水を吹き上げていた。

 上がり、落ちる。

 止まることなく、ずっと。


「……町?」


 リネが小さく言った。


「町ですね」


 レグルスの声も、普段より僅かに低かった。


「神代の都市……」


 エルディオンが静かに呟く。

 その声には、滅多に見せることのない驚きが混じっていた。


 アルノは引き寄せられるように、一歩前へ踏み出した。

 足元の石畳にも線がある。建物の壁にも、水路にも、橋にも、等間隔に並ぶ街灯にも、無数の線が刻まれていた。

 あまりにも多い。

 幾つもの線が重なり、分かれ、また別の場所で繋がっている。

 視界へ流れ込んでくる情報量の多さに、アルノは思わず足を止めた。

 目の奥が痛む。頭の奥が痺れるようだった。


「アルノ?」


 リネがすぐに異変へ気付いた。

 赤茶色のポニーテールを揺らして近付き、心配そうに顔を覗き込む。


「大丈夫?」


「……うん」


 嘘だった。

 大丈夫ではない。

 だが、苦しいという感覚よりも、目の前に広がる構造への驚きの方が遥かに大きかった。

 すごい。

 今は、それしか分からない。


 道路も建物も水路も畑も、すべてが一つに繋がっている。

 単独で動く魔法陣の集まりではなく、都市そのものが一つの巨大な術式として組み上げられていた。

 人が暮らすための魔法陣。

 水を流し、灯りを点け、空気を保ち、植物を育てる。

 これは何かを封じるためでも、何かを破壊するためでもない。

 町を生かすための構造だった。


「なにこれ……」


 アルノは掠れた声で呟いた。

 レグルスが振り返る。


「何が見えますか」


「全部」


「全部?」


「町全部が魔法陣です」


 その言葉を聞いた瞬間、レグルスの表情が変わった。

 再び町へ視線を向け、見えない構造を探るように街並みを見渡す。

 エルディオンもまた、静かに都市全体を眺めていた。


「なるほどね」


「分かるんですか」


「いや、分からない」


 エルディオンは笑った。


「でも、町全部が魔法陣なら、この状態にも説明がつく。」


 ◇


 町に人はいなかった。

 石畳の道をどれだけ歩いても、誰かと出会うことはなかった。

 家々の扉は固く閉ざされ、窓もそのまま残されている。

 人が集まっていたであろう広場や市場らしき場所もあったが、どこからも声は聞こえてこない。


 四人の足音だけが町へ響く。

 遠くから聞こえるのは、絶えず流れ続ける水の音だけだった。

 外で吹き荒れていた風の音は完全に遮られ、静けさが町全体を包んでいる。

 リネが槍を肩へ担ぎ直し、周囲を見回した。


「変な場所」


「うん」


 アルノも小さく頷く。

 壊れていない。荒れ果ててもいない。

 それなのに、人だけがいない。

 暮らしていた人々が、ある日突然姿を消したような静けさが、アルノの胸に薄い不安を生んでいた。

 レグルスは石畳の上へしゃがみ込み、表面を指でなぞった。

 僅かに付着していた土を払い、石の状態を観察する。


「劣化が少ない」


「古いんですよね」


「間違いなく古い。でも維持されてる」


 レグルスは顔を上げる。


「誰が?」


 誰も答えられなかった。

 そのとき、先を見ていたリネが何かに気付いた。


「あれ」


 指差した先には、畑があった。

 町の一角に、石造りの段々畑が広がっている。

 そこには葉を茂らせた野菜らしき植物や果樹、小さな花々が生えていた。

 水路から分かれた細い水の流れが、一定の間隔で畑へ注ぎ込んでいる。

 土は適度に湿り、果樹の枝には赤や黄色の実が重そうに垂れ下がっていた。

 人はいない。

 それなのに、畑は生きている。


「……なんで?」


 リネが言った。

 それは全員が抱いた疑問だった。

 畑は長く放置されているようには見えない。

 水が流れ、温度が保たれ、土も乾いていなかった。

 アルノには、その理由の一部が見えていた。


 畑の下にも魔法陣がある。

 細い線が土の下を通り、石畳へ刻まれた線と繋がっていた。

 その線は水路へ伸び、建物へ伸び、さらに町の奥へ続いている。

 この町は、ただ形を残しているのではない。

 今も動いている。

 人がいなくなったあとも、ずっと。


 ◇


 町の中を歩き続けているうちに、空洞を満たしていた光が少しずつ弱まり始めた。


 夕方なのだろうか。

 外とは繋がっていないはずなのに、町を照らす光がゆっくりと落ちていく。

 アルノが空洞の天井を見上げると、遥か上方を覆っていた淡い光が、夜を迎えるように静かに薄れていた。


 次の瞬間、街灯が灯った。


 一つ。

 また一つ。

 石造りの街灯へ淡い光が宿り、順番に通りを照らしていく。

 柔らかな光は石畳の上へ長く伸び、水路の表面で小さく揺れた。

 誰もいない町が、夜の明かりに包まれていく。


 アルノの腕に鳥肌が立った。


 美しい。

 けれど、怖い。

 人がいないのに、町だけが夜を迎えている。

 誰も帰らない家に灯りが点き、誰も歩くことのない通りを静かに照らしていた。


「生きてるんだ」


 アルノは呟いた。

 リネが隣へ立つ。


「町が?」


「うん」


 アルノは灯りの点いた街並みを見つめた。


「人はいないのに、町だけ生きてる」


 その言葉に、誰も返さなかった。

 ただ静かに、神代都市の夜が始まっていた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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