奈落の足音
岩壁へ刻まれた細い登山道を、一行は慎重に進んでいた。
アルノは前を歩くエルディオンの背中だけを見つめ、一歩ずつ足を運ぶ。
歩くだけなのに、全身から力が抜けなかった。
わずかに踏み外せば、その先に待つのは奈落だけだ。
吹き抜ける風が、容赦なく身体を揺らした。
靴底の鉄鋲が凍った岩をしっかりと捉える。
雪を踏みしめるたび、ぎゅっ、と乾いた音が静かな山へ吸い込まれていった。
思っていたより滑らない。
そう感じたのも束の間だった。
風が岩壁へぶつかり、唸るような音を立てる。
次の瞬間、横殴りの突風が吹き抜けた。
「っ!」
アルノは咄嗟に岩壁へしがみつく。
だが。
足元の雪が崩れた。
凍りついた雪が音を立てて砕け、白い粒が奈落へ舞い落ちる。
踏みしめていたはずの足場が、一瞬で消えた。
嫌な感触だった。
次の瞬間。
地面が消えた。
身体が細い登山道から放り出される。
吹き荒れる風が耳元で唸り、容赦なく全身を引き裂くように吹き抜けた。
視界がぐるりと反転する。
黒い岩壁。
白く舞い上がる雪煙。
そして、どこまでも青く澄んだ冬の空。
一瞬ごとに景色が入れ替わり、自分が落ちているのか、世界が回っているのかさえ分からなくなる。
身体が宙へ投げ出された。
重力だけが、容赦なく奈落へ引きずり込もうとする。
終わった。
そう思った。
だが。
腕に衝撃が走る。
「っ!」
肩が外れそうなほど強く引かれ、身体が宙で止まる。
息が詰まり、全身へ鋭い痛みが走った。
見上げる。
リネだった。
崖の縁へ身を屈め、雪へ膝を食い込ませながら、アルノの腕を必死に掴んでいる。
「掴まって!」
アルノは必死に反対の手を伸ばす。
眼下では風が唸り、谷底から吹き上げるような冷気が容赦なく身体を揺らす。
足元では砕けた雪が次々と崖下へ落ち、その白い軌跡はすぐに雪煙へ飲み込まれていった。
岩を掴む。
雪を掴む。
指先が切れる。
凍りついた岩肌が手袋を擦り、鋭い痛みが走る。
それでも指先へ力を込め、必死に身体を引き寄せた。
リネは離さない。
歯を食いしばって引く。
雪を踏みしめる音と荒い息遣いだけが響く。
細い登山道では踏ん張る場所も限られ、リネの身体もじりじりと崖の縁へ引き寄せられていく。
エルディオンも手を伸ばす。
二人がかりで引き上げる。
数秒にも満たない時間だった。
それなのに、アルノには永遠のように長く感じられた。
ようやく身体が崖の上へ戻る。
アルノは雪の上へ倒れ込んだ。
心臓が暴れていた。
息ができない。
全身が震えていた。
あと少しで死んでいた。
本当に。
あと少しだった。
リネも息を切らしている。
頬へ張り付いた髪を気にする余裕もなく、荒い呼吸を繰り返していた。
だが最初に出た言葉は。
「何やってるの」
だった。
怒っているわけではない。
むしろ逆だった。
肩を震わせながらアルノを見つめる琥珀色の瞳には、叱責よりも安堵の色が濃く浮かんでいる。
本気で心配している顔だった。
アルノは何も言えなかった。
◇
その夜。
一行は岩陰にある横穴の洞窟で野営した。
洞窟の入口では冷たい風が絶え間なく唸り、外へ積もった雪を巻き上げている。
奥へ入ると風は幾分和らいだが、岩肌から伝わる冷気は身体の芯まで染み込んできた。
乾いた薪がぱちりと音を立て、橙色の火が四人の影を岩壁へ長く映し出していた。
アルノは毛布へ身体を包んでいても震えが収まらなかった。
昼間の出来事が頭から離れない。
谷底。
風。
浮いた身体。
掴まれた腕。
目を閉じるたび、その光景が鮮明によみがえり、背筋を冷たいものが這い上がった。
そんなアルノの前へ、小さな木のカップが差し出された。
「飲む?」
顔を上げると、エルディオンが革袋を片手に立っていた。
「火酒。少しだけなら身体が温まる。」
アルノは恐る恐る杯を受け取る。
立ち上る香りだけで、鼻の奥がつんと熱くなった。
「……強そうですね。」
「強いよ。」
エルディオンは苦笑しながら頷く。
「一口で十分。ゆっくり飲んで」
アルノは意を決して口をつけた。
次の瞬間、喉が焼けるように熱くなる。
「げほっ、ごほっ!」
思わず咳き込み、目へ涙が浮かんだ。
その様子を見て、リネが背中をさする。
「だから、エルさんがゆっくり飲めって言ったのに。」
焚き火の周りへ、小さな笑い声が広がった。
エルディオンは小さく笑うと、自分の杯へ火酒を注ぎ、焚き火の前へ腰を下ろした。
「無理して飲まなくてもいいから。」
そう言って一口だけ口に運ぶ。
その横ではレグルスも受け取ったカップを口元へ運んでいたが、表情一つ変わらない。
「……強いですね。」
「慣れです。」
淡々と返され、アルノは思わず苦笑する。
身体の芯へじんわりと熱が広がっていく。
頬へ当たる空気は相変わらず冷たい。
それでも、先ほどまでの震えは少しだけ落ち着いていた。
山を吹き抜ける風の音だけが、洞窟の入口から低く響いてくる。
やがてエルディオンは立ち上がった。
「アルノ、一緒に休もう。」
アルノは焚き火へ視線を落としたまま、小さく首を振る。
「……もう少し起きてます。」
エルディオンは少しだけアルノを見つめ、それ以上は何も言わなかった。
「そっか。」
穏やかに微笑む。
「じゃあ、先に休むけど、早めに寝るんだよ。」
「おやすみ。」
「はい。」
アルノが頷くと、エルディオンは安心したように笑い、洞窟の奥へ歩いていった。
レグルスも荷物へ背を預け、静かに目を閉じる。
◇
揺れる炎を見つめていると、昼間の光景が何度も頭をよぎる。
眠ろうとしても、まぶたを閉じる気にはなれなかった。
「起きてたの?」
静かな声がした。
振り返る。
リネだった。
アルノは苦笑する。
「眠れなくて」
焚き火の火が静かに揺れ、赤く熾った薪が小さく爆ぜる。
入口から吹き込む風は弱まることなく、遠くでは山そのものが軋むような低い音を響かせている。
やがて、アルノは焚き火へ視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「ごめん」
「何が」
「足引っ張ってる」
リネは炎を見つめたまま静かに頷いた。
「うん」
あまりにも迷いのない返事だった。
アルノはさらに落ち込み、揺れる炎へ視線を落とす。
昼間に奈落へ身体を投げ出された感覚が胸の奥によみがえり、心の震えだけは、まだ収まってはいなかった。
リネは何も急かさず、焚き火へ薪を一本くべる。
ぱちり、と乾いた音とともに炎が大きく揺らめき、その光が横顔を照らして琥珀色の瞳を静かに輝かせた。
「でも今ここに来れてるのはアルノのおかげ」
アルノはゆっくりと顔を上げる。リネは炎を見つめたまま穏やかな声を続けた。
「私には見えない」
静かな声だった。
「エルさんにも見えない」
「……」
「レグルスにも見えない」
洞窟の外では風が絶え間なく唸り、雪が岩肌を叩く音が低く響いている。
二人の間には再び静かな時間が流れ、その音だけが夜の山へ溶け込んでいった。
「入口を探せるのはアルノだけ」
アルノは何も言えなかった。
「だから来た」
短い言葉だった。けれど、その一言だけで十分だった。
リネは立ち上がると毛布を肩へ掛け直す。
焚き火の熱から離れると、洞窟の入口から吹き込む冷たい風が赤茶色のポニーテールをかすかに揺らした。
数歩歩いたところで足を止め、ゆっくりと振り返る。
「それに」
焚き火の明かりを受け、琥珀色の瞳が柔らかく細められた。
「次落ちたら、また引っ張り上げるから」
少しだけ笑った。
アルノも弱々しく微笑む。ぎこちない笑顔だったが、昼間から張りつめていた表情はわずかに和らいでいた。
それが、その日初めての笑顔だった。
◇
さらに数日が過ぎた。
山を登るほど空気は薄くなり、吹きつける風は容赦なく身体の熱を奪っていく。
切り立った岩壁に沿う登山道はさらに細くなり、深く積もった雪が一歩ごとに足を取った。
誰も口を開くことはなく、ただ前だけを見据え、一歩ずつ黙々と歩みを進めた。
歩く。
歩く。
風は強い。
雪は深い。
寒さは骨まで染みる。
そして、崖の途中でアルノは不意に足を止めた。
目の前には、ごく普通の岩壁が広がっている。
誰が見ても変哲のない岩肌だった。
だが、アルノの目には、その一箇所だけが違って見えた。
途切れているはずの線が、岩の奥へ微かに続いている。
第七星環への繋がり。
微かなズレ。
他の人には見えない綻び。
その時、ふと思い出した。
初めて会った時に見た深い青の瞳。
静かな声。
「君、“見えてる”から」
呼吸が止まる。
魔法陣の歪み。
接続のズレ。
線の意味。
他の人には分からない綻び。
自分だけが見えてしまうもの。
ずっと、なぜ自分だけ見えるのだろうと思ってきた。
でも。
今だけは違う。
この力があったから。
ここまで来られた。
アルノは岩壁を見つめる。
目の前にあるのは、どこにでもある灰色の岩肌にしか見えない。
それでも、その一箇所だけは確かに別の場所へ繋がっていた。
「あった」
その声に全員が振り返った。
アルノはゆっくりと指を伸ばし、
切り立った崖の途中、誰にも見えない場所を静かに示した。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




