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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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天を衝く岩壁

 登山道は、緩やかに標高を上げていった。

 夕暮れが近づけば風を避けられる場所で歩みを止め、夜明けとともに再び山道を進む。

 そんな日々を繰り返しながら、一行は少しずつラウム山脈の奥へ分け入っていった。


 最初のうちは、針葉樹の森がどこまでも続いていた。

 踏み固められた雪道も歩きやすく、朝日を受けた木々が静かに輝いている。

 冷たい空気の中には鳥の鳴き声が響き、山へ入る前に思い描いていた険しさは、まだ感じられなかった。


 アルノは白い息を吐きながら周囲を見回す。


「思ったより歩きやすいですね。」


「まだ入口だからね。」


 先頭を歩くエルディオンが振り返り、小さく笑う。


「本番は、この先。」


 その言葉どおりだった。

 さらに歩みを進めるにつれ、景色は少しずつ姿を変えていく。


 背の高かった針葉樹は次第に数を減らし、幹も細く低くなっていった。

 風は冷たさを増し、雪煙が足元をかすめる。

 やがて一本、また一本と木々が消えていく。

 気付けば、辺りには背丈ほどの低木が点々と残るだけになっていた。


「木が……。」


 アルノが思わず呟く。

 宿の主人が言っていた言葉が頭をよぎる。


 ――木が消える。


 その意味を、ようやく理解し始めていた。

 さらに進む。

 最後の一本を過ぎた瞬間だった。

 アルノは思わず立ち止まる。


「……え。」


 目の前へ広がっていた景色に、言葉を失った。


 そこにあったのは、想像していた雪山ではない。

 空へ突き立つ、巨大な岩壁。

 黒々とした岩肌を厚い雪と氷が覆い隠し、白と黒が幾重にも折り重なっている。

 吹きつける風が雪煙を巻き上げ、そのたびに岩肌が鋭い牙のように姿を現した。

 山というより、一枚の巨大な壁だった。


 アルノは無意識に息を呑む。


「……すごい。」


 圧倒される、という言葉では足りない。

 人を寄せ付けることを拒むような威圧感。

 何百年、何千年もの時をそこに立ち続けてきた存在だけが持つ、圧倒的な存在感だった。


 エルディオンはその岩壁を見上げ、静かに口を開く。


「ここからが、本当のラウム山脈だ。」


 しばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていたアルノは、ようやく我に返った。


「これ……どうやって登るんですか。」


 見上げる先には、天を衝く岩壁が果てしなく続いている。

 厚く積もった雪と氷が岩肌を覆っているものの、その下にあるのは切り立った断崖だった。

 風が吹くたび雪煙が舞い、鋭く露出した黒い岩が一瞬だけ姿を現す。

 エルディオンは何も言わず、岩壁の裾へ向かって歩き出した。


「こっち。」


 三人も後を追う。

 近づくにつれ、その巨大さはさらに際立っていく。

 岩壁は見上げても頂が見えない。

 厚い雲が山頂を覆い隠し、その先がどうなっているのか誰にも分からなかった。

 やがてエルディオンが足を止める。


「ほら。」


 アルノは示された先へ目を向けた。


「……え?」


 岩壁に沿うように、細い道が続いていた。

 幅は、人が二人並ぶには狭い。

 片側は垂直に切り立った岩壁。

 もう片側は、雪煙の向こうへ消えていく断崖だった。

 足元は雪で覆われているが、その下には凍った岩が隠れている。

 踏み外せば、どこまで落ちるのか想像もつかない。


 アルノは思わず息をのんだ。


 右は岩壁。

 左は、雪煙の向こうへ落ち込む奈落。

  谷底は見えない。

  落ちれば終わりだった。


「……本当にここ通るんですか?」


 思わず尋ねる。


「通ります。」  


 レグルスは迷いなく答えた。


「行きたくない。」


「私も、できれば行きたくありません。」


「じゃあやめましょう。」


「やめません。」


 アルノは泣きたくなった。

 返事の代わりに、エルディオンはその細い道へ一歩踏み出した。

 迷いのない足取りだった。

 リネは荷物を背負い直し、小さく息を吐く。


「覚悟、決めるしかないね。」


 レグルスも銀縁眼鏡を押し上げ、足元の雪を静かに観察する。


「凍結しています。歩幅は小さく、足裏全体で踏み込んでください。」


 アルノはごくりと唾を飲み込んだ。

 宿の主人の言葉が頭をよぎる。


 ――残るのは岩と雪だけだ。


 ようやく、その意味を理解した。

 ここには、人を守る柵もなければ、安全な道もない。

 あるのは、自然が長い年月をかけて造り上げた岩壁と、そのわずかな隙間を縫うように続く登山道だけだった。


 アルノはゆっくりと息を整える。

 目の前には、迷いなく歩き始めたエルディオンの背中がある。

 アルノはその背中を見つめ、一歩を踏み出した。


 岩壁へ刻まれた細い登山道を、一行はゆっくりと進み始めた。

 一歩踏み出すたび、靴底の鉄鋲が凍った岩を噛み、小さな音が静かな山へ響く。

 アルノは無意識に岩壁へ手を添えた。

 厚手の手袋越しにも冷たさが伝わり、自分がとんでもない場所へ足を踏み入れたことを実感する。

 谷底は見えない。


「下を見ないほうがいいよ。」


 前を歩くエルディオンが、振り返らずに言う。

 アルノは素直に頷いた。


「はい……。」


 そう答えながらも、ほんの少しだけ視線が左へ流れる。

 次の瞬間、足がすくんだ。

 雪煙の切れ間から、遥か下の谷が一瞬だけ姿を現した。

 吸い込まれそうなほど深い。

 思わず息を止める。


「アルノ。」


 エルディオンの穏やかな声が飛ぶ。


「前だけ見て。」


「……はい。」


 アルノは慌てて視線を戻し、ゆっくりと呼吸を整えた。


 ◇


 道は一定ではなかった。

 雪に埋もれて広く見える場所もあれば、人が一人通るのがやっとの幅まで狭くなる場所もある。

 岩が張り出した場所では身体を横に向けなければ通れず、吹き抜ける風が容赦なく身体を揺らした。

 リネは後ろを振り返る。


「大丈夫?」


「だ、大丈夫。」


 返事はしたものの、アルノの声は少し強張っていた。

 緊張で肩へ力が入り、気づけば呼吸も浅くなっている。


 そんな様子を見ていたレグルスが静かに口を開く。


「足元ではなく、一歩先を見るよう意識してください。」


「近くだけを見続けると、かえって身体のバランスを崩します。」


 アルノは言われたとおり少し先へ視線を向ける。

 雪煙の向こうで、あの微かな線が山の奥へ続いていた。

 目の前には、銀髪を揺らしながら迷いなく歩くエルディオンの背中がある。


 アルノは、その背中と微かな線だけを見失わないよう、一歩ずつ慎重に足を運んだ。


 その時だった。

 山の上から、ゴロ……と鈍い音が響いた。


 一行は同時に足を止める。

 静まり返った岩壁へ、小さな雪の粒がさらさらと降り落ちてきた。


 ゴロ……。


 鈍い音が、再び岩壁の上から響く。

 エルディオンの表情が変わった。


「岩壁側へ!」


 四人は反射的に身体を岩壁へ寄せる。


 次の瞬間。

 拳ほどの石が雪を弾きながら転がり落ちてきた。


 ガンッ。

 ガッ、ガッ――。


 岩へぶつかり、砕けながら次々と谷底へ消えていく。

 やがて音は遠ざかり、静寂が戻った。

 アルノは張り詰めていた息をゆっくり吐き出す。


「……終わった。」


「今のは小さい方。」


 エルディオンは崖の上を見上げたまま答えた。


「大きい時は、人くらいある岩が落ちてくる。」


 アルノは思わず絶句する。


「人くらい……。」


「だから山は天気だけじゃない。」


「山そのものが相手なんだ。」


 風が岩壁を吹き抜ける。

 雪煙が舞い上がり、視界が白く霞んだ。

 さっきまで見えていた登山道も、一瞬で雪の向こうへ消えてしまう。

 アルノは無意識に手袋の中で拳を握った。


 吹雪。

 滑落。

 落石。


 酒場で聞いた言葉が、一つずつ現実になっていく。


 ここは人が支配する場所ではない。

 自然の機嫌一つで、生死が決まる世界だった。


 エルディオンは前を見据えたまま静かに言う。


「まだ始まったばかりだよ。」


 その一言に、三人は黙って頷く。

 天を衝く岩壁は、なおも雲の向こうまで続いていた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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