ラウム山脈
北へ向かう街道を進むにつれ、景色は少しずつ姿を変えていった。
見渡す限り続いていた平野はいつしか終わり、道は緩やかな丘陵地帯へ入っている。
起伏のある大地には背の低い草が広がり、吹き抜ける風は日を追うごとに冷たさを増していた。
街道沿いに並んでいた木々も次第に数を減らし、陽の当たりにくい岩陰には、解け残った雪が白く積もっている。
馬の蹄が、固く乾いた地面を一定の調子で叩いていた。
アルノはエルディオンの後ろで揺られながら、厚手の外套の襟元を押さえた。
馬に乗ること自体には少しずつ慣れてきたものの、冷たい風を正面から受け続けるのは思った以上に身体へ堪える。
エルディオンの背へ近づくように身を縮めながら、アルノは肩越しに前方を眺めていた。
隣ではリネが一人で馬を操り、長く続く街道の先へ目を向けている。
赤茶色のポニーテールが風に煽られて揺れ、その少し前方を、レグルスが地図を確認しながら進んでいた。
やがて、アルノは遠くに白いものを見つけた。
最初は雲だと思った。
淡く霞んだ空と同じ色をしていて、地平線の彼方へ横たわっている。
だが馬が丘を一つ越えると、その白いものは輪郭を現し始めた。
雲ではない。
山だった。
遥か遠く、幾重にも重なる峰々が空へ向かってそびえている。
頂は雪に覆われ、鋭い稜線が青白い空を切り裂くように続いていた。
あまりにも大きく、あまりにも高い。
山脈そのものが巨大な壁となって、地平線の端から端までを塞いでいるようだった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
リネも馬上から山脈を見上げ、大きなアーモンド形の琥珀色の瞳をわずかに見開く。
「大きいね」
普段は感想を口にするより先に行動するリネが、珍しく素直な驚きを声にした。
少し前を進んでいたレグルスは手綱を操りながら地図を畳むと、細い銀縁眼鏡の奥から白い峰々へ視線を向けた。
「ラウム山脈だ」
アルノは黙ったまま、その姿を見つめ続けた。
雪を被った峰々。
切り立った黒い岩肌。
谷間に深く落ちる影。
山の麓にはまだ森が広がっているが、その上には草木の姿さえ見えない。
人を寄せつけまいとするような険しい絶壁が連なり、ただ眺めているだけなのに、胸の奥を圧迫されるような感覚があった。
悠久。
そんな言葉が、不意に頭へ浮かんだ。
どれほど長い年月、あの山々はそこに立ち続けてきたのだろう。
王国が生まれるよりも前。
魔術塔が築かれるよりも前。
神代文明が栄えていた時代でさえ、変わらずあの場所に存在していたのかもしれない。
アルノの指先が、無意識に宙をなぞった。
山脈の輪郭。
重なり合う峰々。
遥か奥へ続く稜線。
理由は分からない。
それでも、あの山の奥へ目を向けるたび、胸の奥がわずかにざわついた。
馬は一定の足取りで街道を進み続ける。
丘を越えるたび、ラウム山脈は少しずつ大きくなっていった。
遠くにあるはずなのに、見上げなければ全体を捉えられないほど高い。
白い峰々は周囲の景色を飲み込み、空そのものまで狭くしているように見えた。
ふと、アルノは山脈のさらに奥へ目を留めた。
連なる峰の中でも、ひときわ高い山がある。
だが、その山頂だけは見えなかった。
厚い雲が幾重にも垂れ込め、頂を覆い隠している。
風は強く吹いていた。頬を刺すような冷気が平野を駆け抜け、枯れ草を激しく揺らしている。
それなのに、山頂を覆う雲だけは微動だにしない。
まるで空へ縫い留められたように、同じ場所へ留まり続けていた。
まるで、山頂そのものを隠そうとしているかのようだった。
「……見えない」
アルノが呟くと、前に座るエルディオンも視線を上げた。
風を受けた白銀の髪が、陽の光を弾きながらさらりと流れる。
厚手の外套を身につけていても、その姿だけは周囲の荒涼とした景色から浮き上がるほど鮮やかだった。
「昔からあんな感じだったよ」
「山頂がですか?」
「うん」
エルディオンの深い蒼の瞳は、遠くの雲へ向けられたままだった。
懐かしさを感じているのか、それとも別の何かを見ているのか、後ろにいるアルノには分からない。
その向こうに何があるのか。
山の頂がどうなっているのか。
何ひとつ見通すことはできなかった。
◇
一行がラウム山脈の麓にある町へ着いたのは、陽が傾き始めた頃だった。
町は山肌の緩やかな斜面に沿うように築かれていた。
灰色の石で造られた建物が階段状に並び、どの家も雪の重みに耐えられるよう、屋根が急な角度で傾いている。
軒下には細い氷柱が連なり、煙突から吐き出された白い煙が、冷たい空気の中へゆっくり溶けていた。
街道に面した門をくぐると、王都とはまるで違う空気が広がっている。
通りを行き交う人々は、厚手の外套や毛皮の帽子に身を包んでいた。
腰に斧を下げた木こりや、大きな荷を背負った運び人、狩猟道具を手にした猟師の姿も多い。
建物の壁際には薪が高く積まれ、店先には乾燥させた肉や山で採れた薬草が並べられていた。
厳しい寒さと共に生きている町なのだと、一目で分かった。
冷たい風が石畳の通りを吹き抜ける。
馬から降りたアルノは、地面へ足をつけた途端に身体を震わせた。
長く馬へ乗っていたせいで固まった足へ冷気が這い上がり、外套の隙間から容赦なく入り込んでくる。
「寒い……」
吐いた息が真っ白に染まった。
王都の冬にも雪は降る。
だが、ここで感じる寒さはまるで違った。
空気そのものが冷え切り、息を吸い込むたびに喉の奥まで痛くなる。
リネは先に馬から降りると、かじかんだ指を動かしながら周囲を見回した。
寒さに強い彼女でも、さすがに平気ではないらしい。
「山に入ったら、もっと寒くなるよね」
「当然です」
レグルスは手綱を宿の者へ預けながら、銀縁眼鏡を押し上げた。
冷気で曇ったレンズを布で拭き、淡々と町並みへ視線を巡らせる。
「先に装備を整えましょう」
一行は頷いた。
今の外套だけでは、これから先の山を越えられない。
宿を探すより先に、一行は通りの奥にある装備屋へ向かった。
装備屋へ一歩足を踏み入れると、張りつめていた冷気がふっと遠ざかった。
店の中央では薪ストーブが赤く燃え、乾いた薪のはぜる音が静かに響いている。
温かな空気には、なめした革や毛皮、それに乾燥させた薬草の香りが混ざっていた。
壁には毛皮の外套が何着も掛けられ、棚には羊毛を編み込んだ帽子や手袋、分厚い革で仕立てられた山岳靴が整然と並んでいる。
どれも飾り気はないが、雪と岩の世界で生き抜くための道具ばかりだった。
「山へ入るなら、その格好じゃ寒さに負ける。」
店主は四人を見回すと、迷いなく防寒具を選び始めた。
◇
アルノは勧められるまま、一つずつ身につけていく。
毛皮の外套を羽織り、首元へ柔らかな襟巻きを巻く。
耳まで覆う帽子を被り、厚手の手袋をはめると、冷えていた指先が少しずつ温もりを取り戻していった。
最後に渡されたのは、雪山用の山岳靴だった。
厚い革で仕立てられた頑丈な靴は足首までしっかり包み込み、靴底には岩場でも滑りにくいよう鉄鋲が打ち込まれている。
「雪だけじゃない。岩も歩くからな。」
店主が笑う。
「ラウム山脈じゃ、この靴が命を守る。」
アルノは小さく頷き、履き替えてみる。
普段の靴よりずっしりと重い。
それでも歩いてみると不思議と足元は安定し、どんな地面でも踏みしめられそうな安心感があった。
試しに近くの鏡へ目を向ける。
毛皮へ包まれた身体。
帽子から少しだけ覗く柔らかな栗色の髪。
首元まで防寒具で覆われ、少したれた大きな灰銀の瞳だけがこちらを見返している。
なんだか、もこもこだ。
「……なんか変じゃない?」
「似合う。」
リネが即答した。
「本当に?」
「うん。」
アルノはもう一度鏡を見る。
どう見ても雪国の住人だった。
隣ではリネも防寒具へ着替え、腕を回したり足を曲げたりしながら動きを確かめている。
「思ったより動きやすいね。」
レグルスも山岳靴を履き替え、縫製や靴底を確かめながら静かに頷いた。
「よく考えられています。雪だけではなく、岩場も想定した作りですね。」
そして。
エルディオンは妙に似合っていた。
白銀の長い髪は毛皮の帽子から静かに流れ、厚手の外套さえ自然に着こなしている。
雪景色の中へ立てば、そのまま風景へ溶け込んでしまいそうだった。
「なんでですか。」
「何が?」
「なんでそんなに似合ってるんですか。」
「さあなんでだろう?」
本人は本当に分かっていないらしい。
アルノは納得できなかった。
その様子に店主が苦笑する。
「その兄さん、北の人間か?」
エルディオンは首を傾げた。
「どうして?」
「着慣れてるように見える。」
店主はそれだけ言って、笑いながら荷物をまとめ始めた。
◇
会計を済ませようとした時、店主は棚の奥から細長い革袋を取り出した。
「これも持っていけ。」
中には掌ほどの細い瓶が入っている。
透明な液体が静かに揺れていた。
「火酒だ。」
アルノが首を傾げる。
「お酒ですか?」
「酒ではある。」
店主は頷いた。
「だが飲むための酒じゃない。」
瓶を一本持ち上げる。
「寒さで身体が動かなくなった時の気付けだ。」
「山じゃ一口で十分。」
「飲み過ぎれば逆に危ねぇ。」
レグルスも小さく頷く。
「携帯しておきましょう。」
「山へ入るなら必需品だ。」
店主は革袋へ瓶を戻し、他の荷物と一緒に手渡した。
「使わずに済むのが一番だがな。」
◇
装備を整え、山へ入るための食料や備品を買い揃えた四人は、日が傾く頃、酒場へ立ち寄った。
暖炉の火が店内を赤く照らし、旅人や猟師たちが思い思いに酒を飲んでいる。
その中で、エルディオンが店主へラウム山脈について尋ねると、近くの老人が苦笑しながら口を開いた。
「ラウム山脈へ行くのか。」
「やめとけ。」
周囲の客も苦笑して頷く。
「毎年死人が出る。」
「吹雪に巻かれる奴。」
「滑落する奴。」
「落石にやられる奴。」
「好きなのを選べ。」
誰も笑わなかった。
この町では、それは脅しでも噂でもない。
毎年繰り返される現実だった。
老人は木の杯をゆっくり傾ける。
「それでも行く馬鹿はいる。」
「山頂には、神代人が残した金銀財宝が眠ってるって昔から言われててな。」
アルノが思わず顔を上げた。
「財宝ですか?」
「ああ。」
老人は鼻で笑う。
「夢を見る奴は後を絶たねぇ。」
「だが、たどり着いたって話は聞いたことがねぇ。」
一拍置き、低い声で続けた。
「それどころか、帰って来ねぇ奴もいる。」
酒場に静けさが落ちた。
誰一人として、その言葉を否定しない。
アルノは少し考え、小さく尋ねた。
「山頂まで行った人はいるんですか?」
老人はゆっくり首を振る。
「知らねぇな。」
「頂上は、いつも雲の中だ。」
アルノは窓の外へ目を向けた。
夕暮れのラウム山脈は静かに町を見下ろしている。
山頂付近だけは厚い雲に覆われ、その向こうは何も見えなかった。
まるで何かを隠しているように。
――第七星環。
根拠はない。
それでも、あの雲の向こうに目的地がある。
そんな確信だけが、不思議と胸の奥に残っていた。
◇
酒場を出た一行は、そのまま通り沿いの宿へ向かった。
翌日から先は、本格的な登山道へ入る。
宿の主人は夕食を運び終えると、暖炉へ薪をくべながら静かに言った。
「明日から先は別世界だ。」
アルノたちは自然と主人へ視線を向ける。
「木が消える。」
「道も消える。」
炎がぱちりと音を立てた。
「残るのは岩と雪だけだ。」
主人は四人を見回す。
「引き返すなら、明日が最後だ。」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
ただ、暖炉の火だけが静かに揺れていた。
「……まあ、気を付けて行け。」
主人は薪をくべながら、小さくそう付け加えた。
◇
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの頃、一行は宿を後にした。
吐く息は白く、頬を刺すような冷気が肌へ触れる。
町は静まり返り、煙突から立ち上る煙だけがゆっくりと空へ溶けていった。
町外れでは、昨日話を聞いた宿の主人が腕を組んで待っていた。
「気を付けろ。」
それだけ言うと、小さく頷く。
エルディオンも穏やかに笑みを返した。
「ありがとう。」
馬は町の厩舎へ預けた。
この先は道幅が狭く、雪も深い。馬では進めないのだ。
四人は町を背に歩き始める。
踏み固められた雪道の先には、ラウム山脈へ続く登山道が伸びている。
朝日に照らされた針葉樹の森は静かで、その向こうには白い山並みがどこまでも続いていた。
山頂は今日も厚い雲に覆われ、その先は誰にも見えない。
雲の向こうには、自分たちが目指す第七星環がある。
エルディオンは山脈へ目を向け、小さく口を開いた。
「行こう。」
三人は静かに頷き、四人の足音は雪を踏みしめながら山の奥へ消えていく。
山へ入って間もなく、アルノは小さく足を止めた。
「……どうした?」
エルディオンが振り返る。
「僕、この先へ続く線が見えます。」
三人はアルノを見る。
アルノは少し先の森を指差した。
「登山道とは違います。でも、どこかへ繋がってる気がします。」
エルディオンは少しだけ目を細めた。
「その線を見失わないで。」
「道は僕が探す。」
「第七星環はアルノが探して。」
「……はい。」
四人は再び歩き始めた。
この時のアルノは、まだ知らない。
その先に待つラウム山脈が、人の常識では測れない過酷な世界であることを。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




