友の墓標
継承庫に沈黙が落ちていた。
誰も言葉を発しない。
アルノは閉じられた日記を見つめたまま、膝の上でそっと拳を握っていた。
リネも腕を組んだまま口を開かず、レグルスも銀縁眼鏡の奥から日記へ視線を向けている。
五百年前の終わり。
一人の男が、生涯抱え続けた言葉。
英雄になどならなくていい。
隣にいてほしかった。
ただ、それだけだった。
エルディオンは閉じられた日記の表紙を、指先でゆっくりと撫でていた。
長い銀髪が肩から流れ落ち、俯いた横顔を隠している。
何も言わず、表情もいつもと変わらないからこそ、アルノには声を掛けることができなかった。
壁に掛けられたランプの火が、かすかに揺れる。
古い羊皮紙と石壁に囲まれた継承庫は、誰かの呼吸さえ聞こえそうなほど静まり返っていた。
やがて、エルが顔を上げた。
「一つ聞いてもいいかな」
当主が静かに頷く。
「何でしょう」
「五百年前の話だから、分かればでいいんだけど」
エルは少し言葉を探すように視線を落とした。
深い蒼の瞳が、閉じられた日記へ一度だけ向けられる。
「アステリア家は、まだこの領地に残っているかな」
当主は目を瞬かせた。予想していなかったのだろう。
けれど、すぐに表情を改めると、はっきりと答えた。
「はい」
短い返答に、エルが顔を上げる。
「代替わりはしておりますが、本家は現在もこの地にございます」
「そうか」
エルは小さく息を吐いた。
それだけだったが、どこか安堵したようにも聞こえた。
当主はしばらく考えたあと、静かに言葉を続ける。
「墓所も残っております」
エルの瞳がわずかに動いた。
「案内できますが」
再び沈黙が落ちた。
ほんの数秒だったはずなのに、アルノにはひどく長く感じられた。
エルは日記の表紙へもう一度目を落とし、それから小さく笑う。
「お願いしてもいいかな」
◇
墓所は、屋敷の裏手にある小高い丘の上にあった。
風がよく通る穏やかな場所だった。
石畳の小道の両側には古い木々が並び、枝葉の隙間から柔らかな陽射しが降り注いでいる。
振り返れば、丘の下にアルヴァレス家の屋敷を見渡すことができた。
「こちらです」
先を歩いていた当主が、墓所の入口で足を止める。
アルノは促されるように顔を上げた。
奥には大小さまざまな墓石が並んでいる。
新しいものもあれば、文字が薄れかけた古いものもあり、何百年もの時間がその場所へ静かに積み重なっていた。
当主は墓石の間を抜け、さらに奥へ進んでいく。
やがて、一つの墓の前で足を止めた。
「こちらになります」
風が丘を吹き抜けた。
木々が揺れ、重なり合った葉の音が静かに響く。
アルノは墓石へ視線を向けた。
そこに刻まれていた文字を読み、思わず息を呑む。
レオン・アステリア
ここに眠る
エルディオン・ルクス=アルヴァレスの友
刻まれていたのは、それだけだった。
魔術師としての功績も、後世へ残した偉業も、与えられた栄誉も記されていない。
ただ一つ。
友。
それだけだった。
世界中の誰よりも長く戦い続け、それでも最後まで友を待ち続けた魔術師。
その生涯を物語る墓石に刻まれていたのは、たった一つの言葉だった。
――友。
アルノは胸の奥が、ゆっくりと締め付けられていくような感覚を覚えた。
そっと隣を見る。
エルは墓石を静かに見つめたまま、何も言わない。
風が銀色の長い髪を揺らしても、その視線は少しも動かなかった。
本当に長い沈黙だった。
やがて、エルはふっと口元を緩める。
「本当にレオンらしい」
その声は穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。
エルはゆっくりと墓前へ歩み寄る。
手にしていた白い花を静かに供え、墓石へそっと手を添えた。
何も語らない。
アルノも、リネも、レグルスも、その背中を黙って見守っていた。
丘を吹き抜ける風だけが、静かに四人の間を通り過ぎていく。
どれほどの時間が流れたのか分からない。
やがてエルが、小さく呟いた。
「待たせたね」
返事はない。
当然だった。
それでも、その一言だけで十分だった。
アルノは不思議と、レオンなら笑っているような気がした。
――また面倒なことに巻き込まれたな。
そんなふうに肩をすくめながら、それでも最後には呆れたように笑ってくれる。
そんな姿が、自然と胸に浮かんだ。
◇
墓参りを終えた頃には、空は夕焼け色に染まり始めていた。
四人は当主に案内され、ゆっくりと丘を下りていく。
帰り道、誰も口を開かなかった。
気まずいわけではない。
それぞれが胸の内で、五百年という歳月を思っていた。
レオンという一人の魔術師を。
そして、エルディオン・ルクス=アルヴァレスという、一人の友を。
静かな時間は、そのまま夕暮れの屋敷まで続いた。
◇
翌朝。
澄み切った青空の下、一行はアルヴァレス家をあとにした。
屋敷の前では当主をはじめ、使用人たちが並んで見送っている。
「短い間でしたが、本当にありがとうございました。」
当主が深く頭を下げる。
エルは穏やかに微笑み、小さく頷いた。
「こちらこそ。世話になったね。」
「皆様の旅路に、神々の加護がありますように。」
見送りの言葉を背に、一行はゆっくりと馬を進めた。
屋敷が少しずつ遠ざかり、やがて街並みも木々の向こうへ消えていく。
アルノはエルディオンの後ろから景色を眺めながら、胸の内で静かに呟く。
(さようなら、レオンさん。)
その想いだけを残し、一行は再び北への街道を進み始めた。
◇
旅は、いつもの日常へ戻った。
邪竜の痕跡を追いながら、北を目指す。
その道中、異界の魔力に侵された土地を見つけるたび、アルノは足を止めて浄化を施していた。
「ここもですね。」
レグルスが魔力計へ視線を落としたまま足を止める。
アルノは頷くと、黒く変色した地面の前へ膝をついた。
アルノはそっと手をかざした。
胸の奥で神代文字の意味を思い描き、その言葉へ静かに魔力を重ねる。
「Purus」
魔力を乗せて発声すると、指先から柔らかな白い光が溢れ出し、汚染された地面を静かに包み込んだ。
「終わりました。」
アルノが立ち上がると、エルは北の空へ視線を向けた。
「先を急ごう。」
「はい。」
四人は再び北への街道を進み始めた。
邪竜の痕跡を追い、街道を進む。
その途中で汚染を見つければ立ち止まり、浄化を施す。
そうしてまた北を目指す日々が、数日続いた。
汚染地帯を浄化し終えたところで、レグルスが地図を広げた。
「本日の予定はここまでです。」
街道脇の岩へ地図を置き、現在地を指で示す。
「この先に町があります。日暮れまでには到着できるでしょう。」
アルノも身を寄せ、地図を覗き込んだ。
「思ったより順調ですね。」
「大きな魔獣との遭遇がありませんでしたから。」
レグルスは淡々と答える。
「汚染自体も比較的軽度でした。この調子で進めば、予定より一日は早く北へ入れます。」
その言葉に、リネは肩の力を抜いて小さく息をついた。
「今日は久しぶりにゆっくり休めそうだね。」
アルノもほっと笑みを浮かべる。
「宿があるといいですね。」
エルがくすりと笑った。
「町なら大丈夫じゃない?」
アルノは少し照れたように笑い返す。
「そうですよね。」
そんな三人のやり取りを静かに見守っていたエルが、穏やかな声で口を開く。
「今日は温かいものでも食べようか。」
その一言に、リネは嬉しそうに笑った。
「やったー!」
レグルスはやり取りを横目に地図を畳む。
「では、出発しましょう。」
四人は再び北への街道を歩き始めた。
ゆるやかな上り坂を進むにつれ、視界が少しずつ開けていく。
夕暮れが近づく頃、一行は丘を越えた。
その先には、城壁に囲まれた小さな町が広がっていた。
アルノはその先に広がる光景を見て、思わず目を瞬かせる。
足を止めた視線の先で、町は色とりどりの花に彩られていた。
城門には花飾りが掛けられ、通りには鮮やかな旗が渡されている。
夕陽を浴びた町は、まるで春が訪れたかのような華やかさに包まれていた。
「何かのお祭りでしょうか。」
リネも町を見つめる。
「人も多いわね。」
エルはその光景を眺め、小さく微笑んだ。
「今日は、あそこで休もうか。」
四人は花に彩られた町へ向かって歩き出した。
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更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




