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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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英雄になど

 私は決めた。


 封印を解く方法は分からない。

 エルを助ける方法も分からない。


 だが、あいつが守った世界だけは守ろう。


 裂け目の向こうに何があろうと。

 何十年かかろうと。

 私が見続けようと思った。


 ◇


 裂け目は残っていた。


 私は毎日、封印地点へ通った。

 裂け目を観測し、記録を書く。

 封鎖術式を点検し、崩れかけた箇所があれば補強する。

 神代文字を調べ、資料を読み返し、また裂け目を見る。


 その繰り返しは、いつしか生活ではなく人生そのものになっていた。


 その甲斐あって、封鎖術式は正常に機能し、裂け目が広がることも、汚染が広がることもなかった。

 初めて見た時と変わらない姿のまま、裂け目だけが静かにそこに在り続けていた。


 変化は少なかった。

 だからこそ続けられたのかもしれない。


 封鎖術式は幾度も補強を重ね、裂け目が広がるより先に、汚染が外へ漏れ出すより先に、その兆候を封じてきた。


 もし裂け目が広がっていたなら。

 もし汚染が再び世界を蝕み始めていたなら。

 私はもっと早く諦めていたのだと思う。


 だが裂け目は、ただ存在していた。


 静かに。

 何も語らず。

 何も教えず。

 閉じることもできない。

 理解することもできない。

 それでも消えずに在り続ける。

 私は、その存在が腹立たしかった。


 ◇


 神代文字は読めなかった。


 資料を集め、遺跡を巡り、古文書を探した。

 それでも入口は見つからない。

 魔法陣を理解するための前提そのものが存在しなかった。


 何度挑んでも同じだった。


 読めない。

 理解できない。

 分からない。


 私はずっと天才と呼ばれてきた。

 難しい問題ほど楽しかった。

 解けない問題ほど面白かった。


 だが、これは違う。

 解けないのではない。

 問題文が読めない。

 それがどれほど絶望的なことなのか、私は初めて知った。


 ◇


 二十年が過ぎた。


 三十年が過ぎた。


 同期が引退し、後輩が長になった。

 弟子が弟子を育て始め、私より年下だった者たちも、気付けば皆老人になっていた。


 私は、まだ裂け目の前にいた。

 誰かに言われたことがある。


「先生は変わりませんね」と。


 私は笑った。


 変われなかっただけだ。

 エルが帰るかもしれない。

 その可能性を捨てられなかった。


 だから私はここにいる。


 ずっと。

 同じ場所に。


 五十年が過ぎた。


 六十年。


 私は老いた。


 鏡を見るたび、白髪は増え、顔には深い皺が刻まれていた。

 手は震え、目も悪くなり、階段を降りるだけで息が切れる。

 いつしか杖が手放せなくなり、身体は確実に時の流れを刻んでいた。


 私は腹が立った。


 まだ終わっていない。


 まだ理解できていない。


 まだ読めていない。


 まだ。


 エルも帰ってこない。


 ◇


 ある日、私はいつものように裂け目を観測していた。

 特別な日ではない。

 記録を取り、揺らぎを確認し、神代魔法陣を眺める。

 何十年も変わることのない、いつもの日課だった。


 だから最初は、気のせいだと思った。

 裂け目の奥。


 暗闇の向こう。


 何かが見えた気がした。

 私は目を擦り、もう一度見た。


 何もない。


 老いたのだと思った。

 目が悪くなったのだと思った。

 そう結論付け、その日の観測を終えた。


 ◇


 だが。

 翌日も見えた。


 その次の日も。


 また。


 また。


 また。


 何かがいる。


 それが何なのか分からなかった。


 人に見える時もある。

 違うように見える時もある。

 輪郭は定まらず、距離も大きさも分からない。


 ただ、何かがいる。

 それだけが確かだった。


 私は観測を続けた。


 恐ろしかった。

 だが、目を逸らすことはできなかった。

 半生以上を捧げてきた裂け目だった。


 私は記録を書き続けた。

 毎日、裂け目を観測し、その日の変化を書き留める。

 だが、記録は少しも進まなかった。


 見える。

 いる。


 書けるのは、それだけだった。


 近付いてくるわけでもない。

 何かをするわけでもない。

 ただ存在している。

 それが、かえって恐ろしかった。


 何を考えているのか分からない。

 何が目的なのか分からない。

 そもそも意思があるのかどうかさえ分からない。


 ただ、裂け目の向こう側には何かがある。

 それだけが確かな事実だった。


 ◇


 私は何度も考えた。


 裂け目とは何だ。


 神代魔法陣とは何だ。


 なぜ現代魔法は届かない。

 なぜ閉じることができない。

 なぜ神代人は、こんなものを残した。


 考えても、答えは出ない。


 何一つ。

 出ない。


 ◇


 その日。

 私は初めて、はっきりと見た。


 目だった。


 一つではない。


 二つでもない。


 無数だった。


 暗闇の奥。

 大量の目が浮かんでいる。


 こちらを見ている。

 じっと。

 ずっと。


 私は凍りついた。


 背筋が冷たくなる。

 本能が叫んでいた。


 見てはいけない。

 理解してはいけない。

 近付いてはいけない。


 それでも、目を離せなかった。


 無数の目は動かない。

 ただ。

 こちらを見ている。

 世界を。

 じっと。

 ずっと。


 私は恐ろしくなった。

 長い人生だった。


 魔法陣なら解けると思っていた。

 理論なら理解できると思っていた。

 分からないことも、いつかは分かると思っていた。


 違った。


 裂け目も。

 神代文字も。

 神代魔法陣も。

 向こう側も。


 私は最後まで、何一つ理解できなかった。


 ◇


 手が震える。

 文字が乱れる。

 昔のようには書けない。


 これが最後の日記になるだろう。


 私は静かに椅子へもたれ、窓の外へ目を向けた。


 夕暮れだった。

 赤い光が部屋へ差し込み、長く伸びた影が床を覆っている。


 研究室には誰もいない。

 机の上には資料だけが積み重なっていた。


 神代文字。

 裂け目。

 観測記録。

 失敗した仮説。

 解読できなかった文章。


 人生を費やして積み重ねたものばかりだった。


 だが。


 答えはどこにもなかった。


 ◇


 世間は、お前を英雄と呼ぶ。

 世界を救った英雄。

 伝説の魔術師。


 誰もがお前を称え、お前の偉業を語る。


 だが。


 私はそんなものはどうでもいい。


 英雄になどならなくていい。

 伝説になどならなくていい。

 世界を救わなくてもいい。


 だから。


 隣にいてほしかった。


 ◇


 そこで日記は終わっていた。


 継承庫に沈黙が落ちる。


 誰も言葉を発しない。


 アルノは何も言えなかった。

 リネも。

 レグルスも。


 五百年前、一人の男が生涯抱え続けた想いだけが、その場に残されていた。


 エルディオンは閉じられた日記を静かに見つめる。

 長い沈黙のあと、そっと表紙を撫でた。

 何も言わない。

 その横顔は、いつもと変わらなかった。


 だから余計に。


 アルノは声を掛けることができなかった。


 ランプの火が小さく揺れる。

 継承庫は、ひどく静かだった。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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