戻らない友
エルディオンは静かにページをめくった。
継承庫の中はひどく静かだった。
誰も口を開かず、聞こえるのはランプの火が揺れる小さな音だけ。
アルノは無意識に姿勢を正し、リネも腕を組んだまま黙っている。
レグルスも眼鏡の奥から日記へ視線を向けたまま、一言も発しなかった。
レオンの日記。
五百年前の記録。
その続きを、四人は静かに見つめた。
◇
封鎖術式は完成した。
私は最後にもう一度だけ、紙に書き上げた術式全体を見渡した。
いや、完成と呼ぶべきなのかは分からない。
閉じることはできない。
ただ囲い、維持し、漏れ出す異常を抑えるだけ。
それが今の私にできる限界だった。
何度確認しても、答えは変わらない。
今の私にできるのはここまでだった。
私は設計書を持ち、上席のもとへ向かった。
◇
上席は黙って設計書を読み始めた。
長い沈黙が流れる。
最後まで読み終えると、静かに顔を上げた。
「閉じられるのか」
私は首を横に振る。
「閉じれません」
室内が静まり返った。
周囲の術師たちも言葉を失っている。
期待していたのだろう。
私なら裂け目を閉じられると。
だが、それはできなかった。
「ただし」
全員の視線が集まる。
「抑えることはできます」
裂け目を閉じることはできない。
神代魔法陣にも干渉できない。
だが、裂け目の周囲を固定し、漏れ出す異常を抑え、汚染の拡大を防ぐことはできる。
上席はしばらく考え、ゆっくりと頷いた。
「それでいい」
私は良くないと思った。
魔法陣構築の第一人者と自負していた私にとって、これは敗北だった。
それでも、他に方法はなかった。
◇
術式の起動は慎重に行われた。
裂け目の周囲には、私が設計した補助陣が幾重にも配置されている。
計算に間違いはない。
それでも不安は消えなかった。
神代魔法陣は理解できない。
裂け目の正体も分からない。
何が起きても、おかしくはなかった。
私は静かに頷く。
その合図で、術師たちが一斉に魔力を流し始めた。
術式が起動した。
空気が震える。
補助陣が次々と光を帯び、魔法陣が連鎖するように展開していく。
私は息を止めて観測を続けた。
裂け目は閉じない。
だが、周囲の揺らぎは次第に弱まり、黒い雫が床へ落ちることもなくなっていく。
一時間。
三時間。
半日。
裂け目は広がらなかった。
術式は安定し、汚染も抑えられている。
上席が長く息を吐いた。
周囲の術師たちからも安堵の息が漏れる。
誰かが笑い、誰かがその場へ座り込み、誰かは静かに涙を流していた。
皆、限界だったのだろう。
私はその光景を見つめていた。
そして、何も感じなかった。
成功ではない。
裂け目は、そこに残っている。
私はただ、それ以上悪化しないよう押さえ込んだだけだった。
上席が肩へ手を置いた。
「よくやった」
私は答えなかった。
よくなどない。
裂け目は閉じていない。
原因も分からない。
私は、ただ押さえ込んだだけだ。
それでも、今できることは終わった。
少なくとも急激な悪化は防げる。
ならば次は、エルを追う。
そう考えた、その時だった。
慌ただしい足音が広間へ響いた。
振り返ると、一人の伝令が息を切らしながら駆け込んでくる。
額には汗が滲み、肩で大きく息をしていた。
その切迫した様子に、その場にいた術師たちの表情が一斉に引き締まる。
伝令は上席の前まで来ると膝をついた。
「報告します」
広間が静まり返る。
「正体不明大型生物の封印に成功しました」
その一言で、広間に歓声が広がった。
「やった……」
「封印できたのか」
安堵の笑みを浮かべる者。
お互いに喜び合い歓喜する者。
私も胸を撫で下ろした。
終わった。
エルは帰ってくる。
そう思った。
「大魔導長、エルディオン・ルクス=アルヴァレス。」
伝令は一度息を整え、静かに続けた。
「消息不明です」
◇
私は理解できなかった。
誰が。
エルが。
消息不明。
意味が分からない。
伝令は報告を続ける。
「正体不明大型生物は極めて危険と判断されました。通常術式による討伐は困難とされ、エルディオン殿は高位封印術式を展開。対象ごと封印しました」
伝令は一度言葉を切った。
「しかし、帰還は確認されていません。現在も現場で捜索が続けられています」
言葉は聞こえていた。
理解できないだけで。
封印。
異空間。
帰還確認できず。
消息不明。
私は伝令へ歩み寄った。
「どこですか」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
「現場は――」
最後まで聞かなかった。
私は歩き出していた。
誰かが腕を掴んだ。
私は振り払う。
「行きます」
上席が一歩前へ出た。
「待て」
「待てません」
「現場はまだ不安定だ」
「関係ありません」
広間が静まり返る。
私は上席を真っ直ぐ見つめた。
「エルを」
誰も何も言わない。
「探さないと」
沈黙。
「戻るはずです」
誰も頷かなかった。
誰も否定もしない。
ただ、黙っている。
その沈黙が嫌だった。
まるで、皆が諦めているようで。
エルだぞ。
あいつが戻らないはずがない。
そう叫びたかった。
だが、声にならなかった。
誰も反論しない。
誰も同意もしない。
ただ重苦しい沈黙だけが、その場を支配していた。
私はその沈黙に耐えきれず、広間を飛び出した。
◇
その日の記録は乱れていた。
筆圧が強い。
文字も歪んでいる。
エル。
封印。
消息不明。
なぜ。
なぜ封印を選んだ。
なぜ一人で行った。
なぜ私を待たなかった。
――いや、違う。
私が行かなかった。
私はここにいた。
裂け目の前で。
閉じられない穴を囲っていた。
エルが戦っている間。
私は、ここにいた。
私は何をしていた。
何のために。
何を。
文字はそこで途切れていた。
長い空白。
そして。
次の行にだけ書かれていた。
泣いている暇はない。
◇
夜。
私は一人、裂け目の前へ立っていた。
誰もいない広間には、封鎖術式だけが静かに脈動している。
裂け目は変わらず空間に口を開けたままだった。
閉じられない。
理解もできない。
神代魔法陣も読めない。
エルは世界を守った。
自らを巻き込み、あの正体不明の存在を封じた。
私は裂け目を見上げる。
なぜ、封印だったのか。
エルなら倒せたはずだ――そう思う自分もいた。
だが、すぐに首を振る。
違う。
きっと、封印する以外に方法がなかっただけだ。
エルは戻る。
絶対に戻る。
だから私は守る。
この裂け目を。
この世界を。
エルが戻る、その日まで。
このページは、そこで終わっていた。
継承庫の中へ重い沈黙が落ちる。
誰も言葉を発しなかった。
ランプの灯が静かに揺れ、その淡い光だけが古い日記を照らしている。
アルノは息を呑んだまま、ページから目を離せなかった。
五百年前。
レオンは本気で信じていたのだ。
エルディオンは必ず戻ると。
だから裂け目を守り続けた。
世界を守りながら、ただ一人の友を待ち続けた。
エルディオンは静かに視線を落とした。
日記へ添えられた手は動かない。
その横顔からは何も読み取れなかった。
アルノは声を掛けることができなかった。
五百年という時間の重さを、今さら言葉一つで触れてはいけない気がしたからだ。
静寂の中、エルディオンはゆっくりと指先を動かす。
そして、何も言わないまま次のページをめくった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




