答えを探して
継承庫の中は、静まり返っていた。
石造りの地下室には、古い木箱や家具、武具が整然と並んでいる。
灯されたランプの炎だけが小さく揺れ、その淡い光が、壁に掛けられた古い楔帷子をぼんやりと照らしていた。
エルディオンは椅子に座ったまま、膝の上に置いた日記を見つめていた。
長い銀髪が肩から静かに流れ、伏せられた深蒼の瞳は、古びた表紙から動かない。
レオン・アステリアの日記。
そこに残されているのは、五百年前の文字だった。
五百年前を生きた、エルディオンの友人の言葉だった。
アルノは息を潜めていた。
淡い灰銀の瞳を日記へ向けたまま、隣に立つエルディオンの様子を窺っている。
リネも赤茶色のポニーテールを肩へ垂らし、いつもの行動力を抑えるように黙っていた。
レグルスでさえ銀縁眼鏡の奥から静かに二人を観察するだけで、何も言わなかった。
エルディオンの指が、ゆっくりとページの端へ触れた。
ほんの少しだけ、動きが止まる。
それから紙を傷めないように、静かにページをめくった。
乾いた紙が擦れる音が、静まり返った継承庫の中ではやけに大きく聞こえた。
◇
上席に連れられて向かったのは、島の中央部だった。
調査隊が発見した神代遺跡。
本来であれば、数年単位で調べるべき場所だったのだろう。
壁面に残る文様も、通路の構造も、柱に刻まれた古い文字も、どれ一つとして既存の遺跡記録と一致しない。
だが、その時の私は、それらを詳しく見る余裕がなかった。
入口には何重もの結界が張られていた。
通路には術師だけでなく騎士も立ち、誰もが低い声で話しながら、足音を殺して動いている。
ここで何か異常が起きている。
それだけは、遺跡へ入った瞬間に分かった。
上席は足を止めない。私はその後に続いた。
エルは、正体不明の大型生物を追っている。
私も本来なら、そちらへ向かうつもりだった。
エルを一人で行かせる理由がない。
あいつなら大丈夫だと思っていた。
けれど、それでも一人で行かせたくはなかった。
だから早く済ませる。
そう思っていた。
遺跡の通路は広く、天井も高かった。
灯りを掲げても、暗闇の奥まで光が届かない場所がある。途中、壁面に古い魔法陣らしきものが見えた。
見たことのない構造で気にはなったが、私は立ち止まらなかった。
上席はさらに奥へ進んでいく。
やがて、通路の先から冷たい風が流れてきた。
地下にある遺跡の奥から、風が来る。その時点でおかしい。
上席が無言のまま足を速め、私もその後を追った。
広い空洞へ出た。
そこで私は足を止めた。
白い石床いっぱいに巨大な魔法陣が広がっている。
祭壇の中心には巨大な透明結晶が据えられていた。
そして、その上の空間が裂けていた。
◇
日記を読むエルディオンの声は、静かだった。
けれど、アルノには分かった。
一定だった呼吸が、ほんの少しだけ浅くなっている。
五百年前のイオ島。今は死の島と呼ばれている場所で、レオンが何を目にしたのか。
それを、エルディオンは日記から読み上げている。
いや。
文字を追いながら、自らも五百年前を思い出しているのかもしれなかった。
◇
私は最初、自分の目を疑った。
幻覚だと思った。そうでなければ説明できない。
空間が裂けるなど、聞いたことがなかった。
魔法陣学の理論にも、魔術塔の記録にも存在しない。
神話や寓話ならともかく、現実に起きる現象ではない。
だが、違った。
何度見ても同じだった。
空間が裂けていた。
裂け目は、遺跡の空洞の中央に浮かんでいた。
黒い傷口のように横へ大きく裂け、左右へ長く伸びている。
人が何人も並んで通れるほどの幅があり、奥には底知れない闇が広がっていた。
正体不明の大型生物が、ここから現れたという報告にも納得できる大きさだった。
裂け目の縁は絶えず揺らいでいる。
周囲の光が歪み、空気そのものが軋んでいた。
向こう側は見えない。ただ暗いのではなく、こちら側の光が届かない。
そこだけが、別の場所だった。
裂け目の縁からは、ときおり黒い雫のようなものが零れ落ちていた。
それは白い石床へ落ちるたび、じわりと黒く染み広がっていく。
誰も近付こうとはしなかった。
上席が私を見た。
「閉じられるか」
私は答えた。
「やってみます」
その時は、できると思っていた。
未知の現象であり、難しい問題であることは分かっている。
だが、解けないとは思っていなかった。
私は魔法陣を構築した。
最初に試したのは、裂け目へ直接干渉する術式だった。
開いているものを閉じ、歪んだものを元へ戻す。
理屈だけで言えば、単純なものだ。
もちろん、対象は単純ではない。
それでも、最初に試すべきはそこだった。
魔力を流す。
術式は正常に発動した。
構造にも破綻はなく、計算も合っている。
だが、裂け目には何も起きなかった。
私は眉をひそめ、もう一度術式を組んだ。
作用範囲を広げ、魔力の流量を変え、補助線を足す。
再び発動させたが、変化はない。
さらに組み直した。
固定。封鎖。遮断。収束。
思いつく限りの方法を試した。
そのたびに術式は正常に発動し、魔力は流れ、周囲の空気も反応する。
だが、裂け目だけは何も変わらなかった。
そこにあり続ける。
まるで、こちら側の魔法など存在しないかのように。
私は一度、手を止めた。
おかしい。
術式が失敗しているのなら分かる。
構造が破綻しているのなら分かる。魔力が足りないのなら、それも分かる。
だが、違う。
術式は成立している。発動もしている。
それなのに、届かない。
なぜだ。
◇
アルノは、日記に並ぶ文字から目を離せなかった。
レオンは諦めなかった。
失敗したから止まったのではなく、なぜ失敗したのかを探している。
その真っ直ぐな思考が、短く綴られた文章の一つひとつから伝わってきた。
レグルスも黙っている。けれど、その灰紫色の瞳は先ほどよりも鋭く、日記へ向けられていた。
成立している術式が、対象に届かない。
研究者であるレグルスなら、それがどれほど異常なことなのか分かるのだろう。
アルノにも分かった。術式が動いているのに結果へ結び付かないのなら、問題は術式ではなく、その術式が触れようとしているものにある。
◇
私は周囲へ目を向けた。
裂け目そのものではない。
遺跡。床。柱。壁。そこに答えがあるかもしれない。
そう考えた。
そして、気付いた。
裂け目の真下だった。
白い石床の一面に、巨大な魔法陣が刻まれていた。
最初から見えていたはずなのに、裂け目の異様さに目を奪われ、その存在を意識できていなかった。
魔法陣は空洞の床いっぱいに広がり、その中央には巨大な透明結晶が据えられていた。
さらに、その上の空間が裂けている。
まるで、床に刻まれた魔法陣が裂け目を支えているようにも見えた。
もちろん、そう断定はできない。
だが、無関係とは思えなかった。
私は魔法陣へ近付いた。
刻まれた線は細いが深く、簡単に削れたり消えたりするものではない。
何百年、あるいはそれ以上の年月を越えて残るように作られていた。
線の間には文字も刻まれている。見たことのない形だった。
神代文字。
そう判断した。
だが、読めない。
何も理解できなかった。
文字の意味が分からない。
構造が分からない。
術式の目的も分からない。
なぜその線がそこへ繋がり、なぜその文字がそこへ置かれているのか、何一つ分からなかった。
私は紙を取り出した。
一文字ずつ、一画ずつ写していく。
線の位置。
円の大きさ。
交点の角度。
補助陣の配置。
見落としがないように、全てを書き写した。
何時間も掛かった。
そして、解析を始めた。
結果は同じだった。
読めない。
何も理解できない。
これは、知らない言語の文章を読むのとは違う。
未知の理論書を前にすることとも違う。
学問の前提が違う。
魔法を組み立てる考え方そのものが、現代の魔法とは異なっていた。
入口が見つからない。
どこから手を付ければいいのかすら分からない。
私は初めて、理解できないという感覚を知った。
それは、恐ろしいことだった。
アルノは無意識に拳を握った。
第一星環。第二星環。第四星環。
今まで自分たちが見てきた裂け目。
その始まりに、レオンは立っていた。
五百年前。
神代文字を読めず、神代魔法陣も理解できないまま。
それでも裂け目から目を逸らさず、答えを探し続けていた。
アルノは胸の奥が重くなるのを感じた。
◇
私は裂け目を閉じる術式を試し続けた。
構造を変える。理論を変える。魔力を変える。発動条件を変える。
だが、結果は変わらない。
裂け目はそこにあった。
変化しない。
反応しない。
届かない。
私は焦っていた。
裂け目のためだけではない。エルと合流したかった。
正体不明大型生物を追っている。
あいつなら大丈夫だ。
そう思っていた。
だが、それでも一人で行かせたくはなかった。
早く終わらせる。
すぐ追い付く。
そのつもりだった。
だから考え続けた。
裂け目。
床の魔法陣。
魔法陣が届かない現象。
それらを繋ぐ仮説が必要だった。
もし、裂け目と床の魔法陣が関係しているのなら。
神代魔法で構築された魔法陣へ、現代魔法が干渉できない理由も説明できる。
もちろん証明はできない。
だが、他に説明がつかなかった。
現代魔法は届いていない。
神代魔法陣へ干渉できない以上、裂け目そのものを閉じることもできない。
ならば、どうする。
私は考え方を変えた。
閉じることはできない。
少なくとも、今は。
ならば囲う。
封じる。
観測する。
維持する。
裂け目そのものへ干渉できなくても、周囲へなら干渉できる。漏れ出すものを抑えることはできるかもしれない。
広がるのを防ぐことも、近付けないようにすることもできるかもしれない。
私は紙を広げた。
新しい魔法陣を描く。
閉鎖ではない。
封鎖。
修復ではない。
維持。
裂け目を中心に、こちら側から作れる限りの囲いを作る。
何重にも術式を重ねた。
固定。
遮断。
観測。
浄化。
維持。
補助陣。
魔力循環。
一つでは足りない。
十でも足りない。
ならば層にする。
壁にする。
檻にする。
それは、美しい魔法陣ではなかった。
神代魔法陣のような完成度はない。継ぎ接ぎで、無理やり繋ぎ合わせた術式だった。
だが、動く。
理解できる。
これは私の理論で作れる。
私は線を引いた。
消した。
また引いた。
術式同士が干渉しないよう配置を変え、維持陣の負荷を下げる。
封鎖結界を外周へ回し、観測線を内側へ通す。
魔力の逃げ道を作り、一つひとつ破綻しないよう繋いでいく。
時間は掛かった。
だが、少しずつ形になっていった。
閉じることはできない。
それでも。
守ることはできる。
それが、今の私にできる最善だった。
◇
アルノは息を止めるようにして聞いていた。
これが、第四星環の魔法陣の始まりだったのだ。
完全に閉じられなかった。
だから囲った。
消せなかったから、守った。
レオンは逃げなかった。
分からないものを前にしても、できることを探し続けた。
その姿勢は、今のアルノが神代魔法陣へ向き合う姿と重なって見えた。
胸の奥が熱くなる。
知らない人だった。
五百年前を生きた人だった。
それでも今は、少しだけ近くに感じられた。
◇
完成図を見て、私はしばらく黙っていた。
これは閉鎖ではない。
修復でもない。
穴の上に戸板を打ち付けているだけだ。
それでも、何もしないよりはいい。
神代人の問題は解けない。
だが、守ることはできる。
少なくとも。
エルと合流するまでは。
この裂け目を守れる。
そう信じていた。
そのページは、そこで終わっていた。
◇
エルディオンは、日記を見つめたまま動かなかった。
継承庫には重い沈黙が落ちる。
誰も言葉を発さず、静かな空気だけが流れていた。ラ
ンプの火が小さく揺れ、その淡い光が日記の古びた紙を静かに照らしている。
アルノは何も言えなかった。
レオンは、自分にできる最善を尽くした。
閉じられないと知っても諦めず、守る方法を探し続けた。
その封鎖術式が、五百年という長い時間、裂け目を世界から隔て続けてきたのだ。
やがて、エルディオンの指がゆっくりと次のページへ伸びた。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




