追憶の継承庫
翌朝。
朝食を終え、一行が食後のお茶を飲んでいた頃だった。
現当主が少し緊張した面持ちで姿勢を正し、静かに口を開く。
「一つ、ご案内したいものがございます」
エルディオンが顔を上げた。
「代々受け継がれてきた品が保管されております」
当主は穏やかな口調で続ける。
「もしよろしければ、ご覧になりますか」
エルディオンは深い蒼の瞳をわずかに細めた。
「見てみたい」
その返事に当主は静かに頷いた。
◇
継承庫は屋敷の地下にあった。
石造りの階段を下りるたび、空気は少しずつ冷たさを増していく。
上階の明るく穏やかな空間とは別世界のようで、壁へ掛けられたランプだけが揺れる灯を落としていた。
やがて重厚な扉が姿を現す。
幾つもの古い鍵を当主が一つずつ外していくたび、静かな金属音が地下へ響いた。
最後の鍵が外される。
ゆっくりと扉が開くと、ひんやりとした空気とともに、長い年月を閉じ込めたような匂いが流れ出した。
アルノは思わず息を呑む。
思っていたより、ずっと広かった。
棚や木箱、武具や家具、額縁――。
様々な品々が整然と並び、そのどれもが長い年月を静かに語っている。
しかも五百年前どころではない。
さらに古い時代の品まで残されていた。
壁には錆びた楔帷子が掛けられ、その隣には古い木製のロザリオや、今では使われなくなった祭具が並ぶ。
装飾の施された燭台や、時代ごとに意匠の異なる剣も大切に保管されていた。
何百年という時間が、この場所にはそのまま積み重ねられているようだった。
それは、この屋敷が幾度もの時代を越え、アルヴァレス家が代々この地を守り続けてきた証でもあった。
「すごい……」
アルノが思わず呟く。
栗色の髪を揺らしながら辺りを見回す灰銀の瞳は、好奇心と驚きに満ちていた。
レグルスも銀縁眼鏡の奥から棚を見渡したまま、珍しく言葉を失っている。
観測者として見れば、ここは研究資料の宝庫だった。
エルディオンはゆっくりと歩き出した。
棚や家具、古い木箱を一つひとつ眺めながら歩く姿は、まるで五百年前の記憶を静かに辿っているようだった。
やがて、一枚の布が掛けられた場所で足を止める。
自ら布を外すと、一台の古い書斎机が姿を現した。
濃い色の木で作られた机には、長い年月を経た傷が残っている。
それでも丁寧に手入れされていたことがひと目で分かった。
エルディオンは静かに歩み寄る。
指先で机の縁をそっとなぞった。
長い年月で丸くなった木肌の感触を、確かめるように。
「ああ……」
小さく息を吐く。
「父さんの机だ」
アルノには古い机にしか見えなかった。
けれど、エルディオンの穏やかな表情を見れば、それが特別な品なのだと分かる。
エルディオンは引き出しへ手を伸ばした。
だが、開けなかった。
そのまま静かに手を離す。
「開けないんですか?」
アルノが不思議そうに尋ねる。
「父さんの机だから」
それだけ答えて、小さく笑う。
「懐かしいな」
次に向かったのは壁際だった。
一本の剣が飾られている。
銀の装飾が施された立派な剣だった。
「それも?」
リネが尋ねる。
「うん」
エルディオンは頷く。
「父さんの」
少し笑った。
「持たせてもらえなかった」
「なんで」
「僕より剣の方が危なかったからじゃないかな」
赤茶色のポニーテールを揺らしたリネが思わず吹き出し、アルノも少しだけ納得した。
確かに、ありそうだった。
そのまま奥へ進む。
小さな宝石箱が棚の上へ置かれていた。
黒い木で作られた箱には繊細な花の模様が彫られ、長い年月を経ても美しさを失っていない。
当主が静かに蓋を開くと、中には髪飾りと指輪が大切に納められていた。
派手な装飾ではない。
けれど、どこか温かな雰囲気をまとっている。
エルディオンの表情が少しだけ柔らかくなった。
「母さんのだ」
その声は静かだった。
誰も何も言わない。
エルディオンは指輪を見つめたまま、小さく息をつく。
懐かしさを噛みしめるような沈黙が流れ、やがてふっと笑みを浮かべた。
「母さんには逆らえなかったな」
ぽつりと呟く。
アルノは少し意外だった。
優しそうな人を思い浮かべていたからだ。
「そうなんですか」
「うん」
エルディオンは頷く。
「父さんも逆らえなかった」
その答えに、リネが思わず小さく笑う。
穏やかな空気のまま、一行はさらに継承庫の奥へ歩みを進めた。
そこには小さなゆりかごが置かれていた。
何度も磨かれてきたのだろう。
古い木には艶が残り、今も大切に受け継がれてきたことが伝わってくる。
エルディオンは数秒、その場へ立ち尽くした。
「残ってるんだ」
困ったように笑う。
リネはゆりかごとエルディオンを見比べた。
「想像できない」
「僕も」
その返事に、アルノは思わず笑ってしまった。
◇
継承庫のさらに奥には、木箱がいくつも積み重ねられていた。
古い衣服や壊れた魔導具、子どもの頃に遊んだと思われる玩具、年代ごとにまとめられた書類――。
受け継がれてきた品は数え切れない。
その中には、エルディオンですら初めて目にする物も多かった。
五百年という歳月は、それほど長い時間だった。
やがて、一つの木箱が目に留まる。
ほかの箱よりもひと回り小さく、布で丁寧に包まれて保管されていた。
エルディオンが静かに蓋を開ける。
中に納められていたのは、一冊の本だった。
革張りの表紙は時を重ねた色合いへ変わっている。
それでも保存状態は驚くほど良く、大切に扱われてきたことが分かる。
「何ですか?」
アルノが尋ねる。
エルディオンは首を傾げた。
「さあ?」
箱を覗き込み、小さく笑う。
「初めて見た」
本を手に取る。
かすかに埃の匂いが漂った。
表紙へそっと手を添え、ゆっくりと開く。
何気なくページをめくる。
その指先が、不意に止まった。
「……」
継承庫の空気が静まり返る。
エルディオンは文字を見つめたまま動かない。
まるで信じられないものを目の前にしたようだった。
「エルさん?」
アルノが声を掛けても返事はない。
しばらく文字を見つめ続けたあと、ようやく小さく息を吐いた。
「これ……」
リネも近付き、レグルスも静かに覗き込む。
エルディオンはページから目を離さない。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「レオンの日記だ」
誰も急かさなかった。
継承庫の片隅へ椅子が運ばれる。
エルディオンは静かに腰を下ろし、膝の上へ日記を置いた。
革張りの表紙へそっと手を添え、しばらく動かない。
五百年。
その長い時間を越えて、ようやく手元へ戻ってきた友の記録だった。
やがて静かに最初のページを開く。
文字は綺麗だった。
癖が少なく、読みやすい字。
几帳面な性格が、そのまま文字にも表れている。
エルディオンは小さく笑った。
ページをめくる。
エルが釣りに誘ってきた。
断った。
断ったのに連れて行かれた。
魚は釣れなかった。
エルは楽しそうだった。
意味が分からない。
エルディオンの口元が緩んだ。
その穏やかな表情を見て、アルノは少し安心した。
五百年ぶりに親友の文字を読んでいる。
もっと張り詰めた空気になると思っていた。
けれど継承庫に流れていたのは悲しみではなく、昔話を懐かしむような穏やかな時間だった。
またページをめくる。
エルがまた変なことを思いついた。
裏山で試すと言う。
止めるべきだった。
止めるべきだった。
もう一度書く。
止めるべきだった。
火力馬鹿め。
アルノは思わず吹き出しそうになる。
エルディオンは少しだけ視線を逸らした。
「それは否定できない」
リネが真面目な顔で頷く。
その様子がおかしくて、継承庫へ小さな笑いが広がった。
学院時代の日記だった。
授業のことや研究のこと、教師への不満、魔法陣の考察。
そんな何気ない日常の合間に、何度もエルディオンの名前が現れる。
エルは今日も授業を聞いていなかった。
なのに正解した。
腹が立つ。
エルディオンが思わず肩を震わせた。
「ひどいなあ」
誰に言うでもなく、小さく笑う。
五百年前と変わらないレオンの言い回しが、そのまま目の前へ蘇る。
さらにページをめくる。
日記は続く。
学院を卒業し、魔術塔へ配属された頃の記録だった。
研究室で新しい理論や術式の研究が始まり、日々の出来事が几帳面な文字で綴られていく。
それでも、文字の印象は変わらない。どのページからも、レオンらしい真面目さが伝わってきた。
そして、あるページでエルディオンの手が止まる。
アルノも自然と息を呑んだ。
文字は同じだった。
けれど、そこに書かれた内容だけが明らかに違っていた。
魔術塔上層部より緊急招集。
イオ島における異常調査隊への追加派遣。
報告書は読んだ。
島全域で異常発生。
空間異常。
魔力汚染。
原因不明。
エルも呼ばれている。
当然だ。
呼ばない理由がない。
本人は何とかなると言っていた。
おそらく何とかなるのだろう。
エルがいる。
それだけで大抵の問題は解決する。
エルディオンの表情から笑みが消えた。
穏やかだった空気が、少しずつ張り詰めていく。
ページをめくる。
出発。
到着。
港。
避難民。
魔術塔の臨時拠点。
調査はすでに始まっていた。
だが報告は混乱している。
空間が歪む。
魔力が濁る。
何かが漏れている。
意味が分からない。
その一文に、アルノの胸がざわついた。
第二星環で見た裂け目。
死の島で広がっていた魔力汚染。
日記へ書かれた言葉が、今まで旅で見てきた光景と重なっていく。
さらにページをめくる。
正体不明大型生物の目撃報告。
魔術塔は対応を開始。
エルはもちろん追跡班だ。
私も同行するつもりだった。
当然だ。
だが。
上席に呼び止められた。
レオン。
来てくれ。
後にしてほしいと言った。
エルを手伝う必要がある。
だが上席は首を振った。
お前しか対応できない。
珍しく強い声だった。
私は不満だった。
だが命令だった。
エルは振り返って手を振った。
私もすぐにエルを追うつもりだった。
そこで一度、エルディオンの指先が止まる。
ページの上へ落ちた視線は動かない。
継承庫には、誰一人として声を発する者はいなかった。
やがて、小さく息を吐き、ゆっくりと次のページをめくる。
連れて行かれたのは島の内陸部。
立入制限区域。
周囲の木々は黒く変色していた。
土も汚染されている。
治癒術師が倒れていた。
結界術師も限界だった。
上席は言った。
どうにかしてくれ。
何を。
そう聞く前に見えた。
空間が裂けていた。
継承庫の中が静まり返る。
エルディオンは、その一文をじっと見つめていた。
まるで五百年前のあの日へ引き戻されるように。
誰も言葉を発しなかった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19字半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




