五百年ぶりの帰郷
泉の村を出てから、数日が過ぎていた。
一行は変わらず北へ向かって街道を進んでいる。
どこまでも続いていた広い平原は緩やかな丘陵へと姿を変え、木々の葉は南よりも深い緑を帯びていた。
朝晩に吹く風もわずかに冷たくなり、季節がゆっくりと移り変わっていることを感じさせる。
まだ冬ではない。
それでも、南とは違う空気だった。
アルノは肩へ掛けたマントを少しだけ引き寄せる。
「寒い?」
隣を並んで馬を進めるリネが、不思議そうに首を傾げた。
「少し」
「そう」
リネは前を走るエルディオンへちらりと目を向ける。
「寒いなら、エルさんにもう少しくっついてれば?」
「えっ」
アルノは思わず固まった。
「い、いいです」
リネはくすりと笑い、再び前を向いて手綱を軽く操る。
先頭を進むレグルスは地図を広げ、現在地を静かに確認していた。
「もうすぐアルヴァレス領です」
その言葉に、アルノは前方を走るレグルスへ声を向ける。
「近いんですか」
「今日中には領内へ入ります」
レグルスは地図を指先でゆっくりとなぞった。
「この辺りは河川交易が盛んです。農地も多く、ラウム山脈へ向かう前の重要な中継地でもあります」
アルノは周囲へ目を向けた。
街道には荷馬車が絶え間なく行き交い、商人や旅人の姿も多い。
騎士らしい一団が馬を走らせる横を、農夫が収穫した野菜を積んだ荷車がゆっくりと進んでいく。
これまで通ってきた街道より、明らかに賑やかだった。
「豊かなんですね」
「ええ」
レグルスは静かに頷く。
「長く栄えている土地です」
その言葉を聞きながら、アルノは何気なく前へ視線を向けた。
手綱を握るエルディオンは街道の先を見つめている。
風に銀色の髪が揺れ、深い蒼の瞳は流れていく景色を静かに映していた。
いつものように前を見つめている。
それでも、その視線だけはどこか遠かった。
「エルさん」
「ん?」
「大丈夫ですか」
エルディオンは振り返り、小さく笑う。
「大丈夫だよ」
いつもの穏やかな笑顔だった。
それでも、どこか力が入り切っていないようにも見える。
リネも同じことを感じたらしい。
「緊張してる?」
「してないよ」
エルディオンは苦笑する。
「五百年ぶりだからね」
ぽつりと漏れた一言に、一瞬、四人の間へ静けさが落ちた。
エルディオンも肩をすくめる。
五百年。
アルノには想像もつかない時間だった。
故郷も、人も、街も。
すべてが変わっていてもおかしくない。
どんな思いで故郷へ向かっているのか、アルノには想像もつかなかった。
◇
その日の夕方、一行はアルヴァレス領の手前にある宿場町へ到着した。
街道沿いに築かれた町は旅人で賑わい、石造りの建物と赤茶色の屋根が夕日に染まっている。
市場には果物が並び、店先からは威勢のいい呼び声が響いていた。
宿へ荷物を置くと、そのまま食堂へ向かう。
扉を開けた瞬間、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
煮込み料理の湯気。
焼きたてのパン。
炙ったチーズ。
空腹だった胃が、途端に存在を主張し始める。
ほどなくして料理が運ばれてきた。
深皿いっぱいに盛られた煮込み、厚切りのパン、白いチーズ、根菜と燻製肉。
そして薄い琥珀色の飲み物が、木の卓いっぱいに並べられる。
料理を見た瞬間、リネの目が輝いた。
「当たりだね」
「何が?」
アルノが首を傾げる。
「量」
かなりお腹が空いていたらしい。
アルノは思わず吹き出す。
「いただきます」
一口食べた瞬間、思わず目を瞬いた。
「おいしい」
「おいしい」
リネも即座に頷く。
レグルスも無言のまま一度だけ頷いている。
かなり気に入ったようだった。
「これは?」
アルノは琥珀色の飲み物へ目を向ける。
宿の女主人が笑顔で答えた。
「果実酒を薄めたものだよ。旅人さんでも飲みやすいようにしてあるんだ」
アルノは少しだけ口を付ける。
甘い香りがふわりと広がり、果物の優しい風味が口いっぱいに残った。
「美味しい」
「この辺りは果物の栽培が盛んだからね」
エルディオンが穏やかに言う。
「おいしい果実酒ができるんだ」
「詳しいですね」
「地元だから」
少しだけ得意そうな返事だった。
五百年離れていても、故郷はやっぱり特別なのだろう。
アルノは思わず笑った。
◇
翌日、一行は再び馬車へ乗り込んだ。
街道沿いに古い石橋が見えてくる。
長い年月を経てもなお現役なのだろう。
苔むした石橋は周囲の風景へ自然に溶け込み、旅人や荷馬車が絶え間なく行き交っていた。
エルディオンは橋を見ると、少しだけ目を細める。
「あの橋、まだあるんだ」
「知ってるんですか」
「うん」
懐かしそうに笑う。
「あの辺でよく釣りしてた」
「釣り?」
「川魚が結構いるんだ」
アルノは少し意外そうに目を丸くした。
「エルさんが釣り」
「普通に遊んでたよ」
エルディオンは笑う。
「レオンさんも?」
「来てた」
「一緒に釣りしてたんですか」
「してない」
即答だった。
「レオンは、本読んでた」
「川に来ても?」
「川に来ても」
リネが呆れたように肩をすくめる。
「何しに来たの」
「本人は釣りをするより、楽しそうだったよ」
エルディオンは少しだけ笑う。
その笑顔は、どこか昔を懐かしむように穏やかだった。
馬車は緩やかな丘の上へ差しかかった。
視界が一気に開ける。
大きな川がゆるやかに流れ、その周囲には広大な畑と果樹園が広がっていた。
点在する小さな村々の向こうには町並みが見え、遠くまで続く景色には派手さこそないものの、長い時間をかけて育まれた豊かさが静かに息づいている。
アルノは思わず息を呑んだ。
「綺麗だ……」
「アルヴァレス領です」
レグルスが静かに告げる。
エルディオンは何も言わず、その景色を見つめていた。
まるで、一つひとつを確かめるように。
「変わりましたか」
アルノが尋ねる。
エルディオンは少し考えてから、小さく笑った。
「変わったところもある」
そして、穏やかな声で続ける。
「でも、変わってないところもある」
その時だった。
「あれ」
リネが遠くを指差した。
町の奥に見える低い山。
その一角だけが、不自然に削り取られたような形になっている。
「山が欠けてる……?」
アルノが首を傾げる。
エルディオンは答えず、少しだけ視線を逸らした。
リネが振り向く。
「まさか」
エルディオンは苦笑する。
「まさか」
「本当に?」
レグルスが尋ねる。
「本当に」
観念したように頷いた。
「十歳の時」
アルノは嫌な予感しかしなかった。
「レオンが魔法陣描いて」
「はい」
「僕が発動した」
「はい」
「山が飛んだ」
沈黙。
丘の上を吹き抜ける風だけが、静かに草を揺らしていく。
「怒られた?」
リネが聞く。
「怒られた」
即答だった。
「人生で怒られたの、この時だけ」
「当たり前でしょ」
リネは呆れたように言う。
エルディオンは少し照れくさそうに笑った。
「そうだね」
アルノはもう一度、遠くの山へ目を向ける。
五百年という長い時間が流れた今も残る、子どもの頃の失敗。
そう思うと、思わず笑みがこぼれた。
「なんか安心しました」
アルノが言う。
「何が?」
「ちゃんと怒られたことあったんだなって」
エルディオンが吹き出した。
「失礼だなあ」
◇
夕方、馬車はアルヴァレス家の屋敷へ到着した。
高台に建つ屋敷は広い庭園と美しい石畳に囲まれ、手入れの行き届いた植え込みが夕日に照らされている。
その姿は屋敷というより、小さな城と呼ぶ方がふさわしかった。
アルノは思わず見上げる。
「大きい……」
「普通だよ」
「普通じゃないです」
「普通じゃないでしょ」
リネも呆れたように言う。
その時、門の前へ年配の男性が姿を現した。
身なりの整った執事らしい人物は、一行へ丁寧に一礼する。
「アルヴァレス家へどのようなご用件でしょう」
アルノは慌てて頭を下げた。
「突然すみません」
「少し立ち寄らせていただきたくて」
執事は静かに頷く。
そして、その視線がエルディオンへ向いた。
動きが止まる。
「……」
完全に固まっていた。
エルディオンは不思議そうに首を傾げる。
「どうしました?」
執事は返事をしない。
ただ、信じられないものを見るような目でエルディオンを見つめている。
「失礼ですが」
ようやく声を絞り出した。
「お名前をお伺いしても?」
「エルディオン・ルクス=アルヴァレス」
執事は再び固まる。
十秒近く、その場から動かなかった。
そして。
「少々お待ちください!」
勢いよく屋敷の中へ走っていく。
リネがぽつりと呟いた。
「走った」
「走りましたね」
アルノも思わず頷く。
エルディオンだけが、きょとんとした表情を浮かべていた。
数分後。
屋敷の扉が勢いよく開き、一人の男性が姿を現した。
四十代半ばほどだろうか。
銀色の髪にはわずかに白いものが混じり、蒼い瞳はエルディオンによく似ている。
アルヴァレス家の血が今も受け継がれていることが、一目で分かった。
当主はエルディオンを見る。
そして、固まった。
「……」
重い沈黙が流れる。
「どうも」
エルディオンが軽く手を上げた。
当主の表情がわずかに引きつる。
「まさか……」
小さく呟き、それでも領主として姿勢を正した。
「どうぞ中へ」
声は少しだけ震えていた。
◇
広間へ案内される。
足を踏み入れたアルノは、正面の壁を見て思わず立ち止まった。
大きな肖像画。
そこに描かれていたのは、十歳ほどの銀髪の少年だった。
蒼い瞳。
柔らかな表情。
誰が見ても分かる。
「エルさん……」
「変わってない」
リネが思わず呟く。
「変わっていませんね」
レグルスも静かに頷いた。
エルディオンは肖像画を見上げ、小さく笑う。
「懐かしいなあ」
当主は肖像画とエルディオンを何度も見比べていた。
やがて恐る恐る口を開く。
「その……」
「はい」
「本当に、エルディオン・ルクス=アルヴァレス様なのでしょうか」
「うん」
あっさりと頷く。
当主は思わず頭を抱えた。
「あなたが……」
声がかすれる。
「伝承に残る、ご先祖様……」
エルディオンは少し困ったように笑う。
「たぶん」
「たぶん……」
当主は遠い目をした。
しばらく沈黙したあと、恐る恐る尋ねる。
「こちらに住まわれるのでしょうか」
その声は切実だった。
アルノは、その理由をようやく理解する。
目の前にいるのは、五百年前の当主。
現当主にとっては、伝承の中の祖先が突然帰ってきたようなものだ。
不安になるのも無理はない。
エルディオンは首を横へ振る。
「いや」
「立ち寄っただけ」
その瞬間、当主の表情が目に見えて和らいだ。
「そうですか」
心の底から安堵したように肩の力を抜く。
執事も小さく息を吐いていた。
横を見ると、リネが笑いを堪えるように顔を背けている。
エルディオンはそんな二人を見て、小さく苦笑した。
五百年ぶりの帰郷は。
思っていたよりも、ずっと賑やかな始まりになりそうだった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




