癒しの泉
港町を出て十日。
まずは馬に乗る練習から始まった。
だが、思うようにはいかなかった。
馬の背へまたがるだけでも身体が強張り、ぎこちない動きに見かねたエルディオンは、困ったように笑って言った。
「じゃあ、一緒に乗ろうか。」
移動しながら乗り方を教わってはいるものの、一人で乗れるようになるには、まだ時間がかかりそうだった。
そのため、アルノは今もエルディオンの後ろで馬に揺られている。
最初こそ身体を強張らせていたが、数日も経つと揺れにも少しずつ慣れてきた。
それでも道が少し荒れるたび、反射的に身体へ力が入ってしまう。
「力、入りすぎだよ。」
前からエルディオンの穏やかな声が聞こえた。
「まだ少し怖くて……。」
答えた直後、小さな段差を越えて馬が揺れる。
「ひゃっ。」
思わずエルディオンの服を掴むと、前から小さな笑い声が返ってきた。
「大丈夫。この子は賢いから。」
そう言って首筋を優しく撫でると、馬は気持ちよさそうに耳を動かした。
その様子を見ているうちに、アルノも少しだけ肩の力を抜く。
「あれ?」
「ん?」
「エルさんって、意外と鍛えてるんですね。」
思わず漏れた言葉に、エルディオンは少しだけ笑った。
「国の有事には出てたからね。」
「有事って?」
「スタンピードとか、国境での戦闘とか。」
「それって騎士団の仕事じゃ……。」
「もちろん一緒にやってたよ。」
あまりにも自然な返事に、アルノは思わず首を傾げる。
「そういえば、魔術塔でも上の方だったって言ってましたよね。」
「うん。」
「どのくらい上だったんですか?」
エルディオンは少しだけ考え、それから肩の力を抜いたまま答えた。
「今でいう最高統制官かな。」
一瞬、アルノは言葉を失う。
「……最高統制官だったんですか?」
「昔は呼び名が違ったけどね。」
あまりにもあっさりした口調だった。
魔術塔最高統制官。
魔術師なら誰もが知る最高位である。
アルノは前に座る背中を見つめた。
伝説の魔術師とは聞いていた。
けれど、その伝説が少しずつ現実味を帯びていく。
改めて、自分はとんでもない人と旅をしているのだと思った。
◇
その日の昼過ぎ、街道脇の森で邪竜の残した黒変を見つけた。
アルノは馬を降りると、黒く変色した木々へ向かって静かに手をかざす。
「Purus。」
柔らかな白い光が森を包み込み、木々へ刻まれていた黒い筋はゆっくりと薄れ、本来の色を取り戻していく。
一行は旅を続ける中で、邪竜の残した黒変を見つけるたび、アルノは立ち止まって浄化を繰り返した。
そんなある日、エルディオンがふと振り返る。
「そういえば。」
「はい?」
「少しずつだけど、魔力量が増えてきてるみたいだよ。」
アルノは思わず目を見開いた。
「……本当ですか!?」
「うん。」
エルディオンは穏やかに頷く。
「Purusを使うようになってからかな。」
その言葉を聞いた瞬間、アルノの表情がぱっと明るくなった。
「やった……!」
魔力量の少なさは、見習いだった頃からずっと抱えてきた悩みだった。
魔法陣の知識をどれだけ身につけても、それだけは変えられないと思っていた。
だからこそ、その一言が何より嬉しかった。
「よかったね。」
リネも嬉しそうに笑う。
レグルスは静かに頷き、その様子を穏やかな眼差しで見つめていた。
馬は街道を北へ進んでいく。
左右には広い草原が広がり、風に揺れる草の向こうでは細い川が陽光を受けてきらめいていた。
小さな村をいくつも通り過ぎ、その先には緩やかな山並みがどこまでも続いている。
アルノは流れていく景色へ目を向けた。
知らない景色ばかりだった。
魔術塔の見習いだった頃は、こんなふうに世界を旅する日が来るとは思ってもいなかった。
毎日魔法陣を書き、書類を運び、雑用をこなし、ときには失敗して叱られる。
そんな日々が、自分のすべてだった。
それが今では、邪竜を追って各地を巡っている。
相変わらず実感はなかった。
先頭を進むレグルスが振り返る。
「もうすぐ着きます。」
「次の町ですか。」
「はい。」
レグルスは地図を確認しながら頷いた。
「今夜はあの町で宿を取ります。」
旅の手配はほとんどレグルスが引き受けていた。
宿の確保も補給も街道の選定も迷いがなく、その手際の良さは見ていて感心するほどだった。
「旅慣れてますね。」
「仕事柄です。」
「各地を回りますし、遺跡調査も移動が前提ですから。」
なるほど、とアルノは頷く。
リネは軽く手綱を操りながら笑った。
「私は歩くのも好きだけど、やっぱり馬は速くて助かるわ。」
「そうだね。」
エルディオンも笑う。
「徒歩もいいけど、馬上も景色がどんどん変わるからね。」
そんな話をしているうちに、街道の先へ赤い屋根が見えてきた。
目的の宿場町だった。
◇
街道沿いに築かれた宿場町は、多くの旅人や商人で賑わっている。
市場には色とりどりの商品が並び、威勢のいい呼び声があちこちから響いていた。
荷車が行き交い、子どもたちは路地を駆け回る。
その光景は、どこにでもある平和な町そのものだった。
邪竜も、異界も、星環もない。
人々は今日という一日を当たり前のように過ごし、商人は商売をし、子どもは笑っている。
そんな日常を目にすると、アルノは少しだけ肩の力が抜けた。
一行は宿を確保すると、そのまま食堂で遅い夕食を取ることにした。
温かな料理が運ばれ、ようやく一息ついた、その時だった。
「魔術師様でしょうか」
控えめな声に、一同が揃って振り返る。
立っていたのは、日に焼けた五十代ほどの男だった。
農作業に慣れた節くれ立った手を胸の前で握り締め、どこか困り果てたような表情を浮かべている。
「そうですが」
レグルスが落ち着いた口調で答えると、男は安堵したように小さく息を吐いた。
「お願いがあります」
その一言で、食卓の空気が静かに引き締まる。
◇
翌朝、一行は男の案内で町外れの森へ向かっていた。
朝露に濡れた草を踏みながら進む男は、振り返ることなく口を開く。
「泉なんです。」
「昔からある泉でして。」
「飲むと疲れが取れるんです。」
「怪我も治りやすくなる。」
その話に、リネが目を丸くした。
「そんな便利なの?」
「はい。」
男は力強く頷く。
「この辺りじゃ有名です。」
「皆、水を汲みに行きます。」
森へ続く道は長い年月をかけて踏み固められていた。
荷車は通れないものの、人が行き交うには十分な幅があり、村人たちにとって大切な場所だったことがうかがえる。
しかし、男の表情はそこで曇った。
「ですが最近おかしいんです。」
「森の魔物が荒れ始めた。」
「水を飲んだ人間も体調を崩す。」
「泉へ近付く人も減りました。」
レグルスが足を止めることなく問い掛ける。
「いつ頃からですか」
「二週間ほど前です。」
二週間。
その数字を聞いた瞬間、アルノは小さく眉を寄せた。
死の島で異変が起きた時期と、ほぼ重なっている。
偶然とは思えなかった。
森の奥へ進むにつれ、空気は少しずつ重くなっていく。
やがてアルノは、その違和感の正体に気付いた。
静かだった。
見上げれば木々は青々と葉を茂らせ、木漏れ日も穏やかに差し込んでいる。
それなのに鳥のさえずりはほとんど聞こえず、獣の気配も驚くほど薄い。
森が息を潜めている。
そんな不自然さが辺りを包んでいた。
リネも周囲を見回し、小さく眉を寄せる。
「変だね」
「そうですね」
レグルスも短く頷いた。
その時だった。
右手の茂みが大きく揺れ、一匹の影が勢いよく飛び出してくる。
「っ!」
狼だった。
いや、狼型の魔物だ。
本来なら、それほど危険な相手ではない。
だが、その姿は明らかに異常だった。荒い呼吸を繰り返し、濁った瞳には焦点が合っていない。
まるで理性だけを奪われ、何かに追い立てられているようだった。
「リネ!」
「任せて!」
リネは一気に間合いを詰める。
鋭い踏み込みとともに放たれた拳が魔物を正面から捉え、その巨体を大きく吹き飛ばした。
魔物は背後の木へ激突し、そのまま力なく地面へ崩れ落ちる。
森には再び静寂が戻った。
リネは警戒を解かないまま魔物へ近付き、その場へしゃがみ込んだ。
「変」
短い一言に、アルノたちも足を進める。
狼型の魔物はすでに息絶えていた。
だが、身体に致命傷らしい傷は見当たらず、病に侵されている様子もない。
それでも全身からは、どこか歪んだ魔力がわずかに漂っていた。
「魔力の流れが乱れていますね。」
レグルスは静かに観察を続ける。
「狂暴化の原因でしょうか。」
アルノも魔物へ視線を落とした。
胸の奥に、小さな引っ掛かりが残る。
どこか似ている。
第一星環周辺で見た異常に。
あれほど深刻ではない。
それでも何かが少しずつ狂わされ、本来あるべき姿を失っているような、不気味な感覚だけは同じだった。
男は青ざめた顔で魔物を見つめ、小さく肩を震わせる。
「最近は……こんなのばかりです。」
誰も言葉を返さなかった。
森の静けさが、かえって不安を大きくしていく。
再び歩き始めてしばらくすると、不意に木々が途切れた。
一行は思わず足を止める。
目の前には、陽光を受けて輝く美しい泉が広がっていた。
澄み切った水面は風に合わせて穏やかに揺れ、その周囲には柔らかな草が一面に広がっている。
とても異常が起きている場所には見えなかった。
だが、アルノだけは小さく眉をひそめる。
「どうしたの?」
リネが振り返る。
アルノは泉から目を離さないまま答えた。
「何か変です。」
「変?」
「上手く言えないんだけど……。」
見た目に違和感はない。
水は澄み、周囲の景色も美しい。
それでも、胸の奥で何かが引っ掛かる。
接続が歪んでいる。
そんな感覚だけが、はっきりと残っていた。
アルノはゆっくりと泉へ歩み寄る。
水面を覗き込むと、底は深く、その先までは見えなかった。
だが、何かがある。
そんな確信だけが胸の内で強くなっていく。
「エルさん。」
「ん?」
「底が見たいです。」
エルディオンは泉へ視線を向けると、小さく頷いた。
「いいよ。」
次の瞬間だった。
泉全体が静かに揺れる。
男は息を呑み、思わず後ずさった。
大量の水がゆっくりと持ち上がり、透明な球体を描くように空中へ浮かび上がっていく。
「なっ……。」
言葉を失う男とは対照的に、リネもレグルスも落ち着いたままその光景を見つめていた。
アルノも驚かない。
エルディオンならできる。
それだけだった。
やがて泉の底が姿を現す。
石造りの床一面には、巨大な魔法陣が静かに刻まれていた。
アルノは息を呑む。
「神代文字……。」
思わず駆け寄り、複雑に刻まれた術式へ視線を走らせる。
浄化。
治癒。
そこまでは読める。
だが、その前に刻まれた文字だけは理解できなかった。
アルノはわずかに眉を寄せる。
何だろう。
風が吹き抜ける。
露わになった神代の魔法陣は、陽光を静かに反射していた。
アルノの視線が、一か所で止まる。
おかしい。
泉そのものではない。
魔法陣だ。
一本。
ほんのわずかに線の接続がずれている。
アルノは目を見開いた。
「これ……。」
その瞬間。
泉の底に刻まれた魔法陣が、かすかに明滅した。
淡い光が一度だけ脈打ち、冷たい風が森を吹き抜ける。
まるで、長い眠りについていた何かが、静かに目を覚ましたかのようだった。
泉の底に刻まれた魔法陣を見て、アルノはゆっくりとしゃがみ込んだ。
近くで見ると、その術式は想像していた以上に複雑だった。
幾重にも重なる線が幾何学模様を描き、
その間を神代文字が隙間なく埋め尽くしている。
読める文字もある。
読めない文字もある。
「ここだ。」
思わず声が漏れる。
隣へ歩み寄ったレグルスが、同じ場所へ目を向けた。
「分かるんですか。」
「分かるけど、説明はできません。」
アルノは苦笑した。
本当に説明できなかった。
ただ見れば分かる。
昔からそうだった。
少しだけずれた線。
噛み合っていない接続。
どこかおかしい魔力の流れ。
探そうとして見つけるのではない。
気付けば自然と目に入ってしまうのだ。
アルノはそっと指を伸ばした。
欠けていた線は、ほんのわずかだった。
長さにすれば指二本分もない。
それでも、その小さな欠損だけで術式全体の流れは止まっていた。
「ここが原因だと思います。」
レグルスは黙って魔法陣を見つめ続けたが、やがて静かに首を横へ振る。
「私には分かりません。」
「僕も、どうして分かるのかは分からないんです。」
アルノはもう一度欠けた部分へ視線を落とした。
直せる。
そんな確信が胸にあった。
第四星環の封印術式ほど複雑でもない。
ただ、本来あるべき形へ戻せばいい。それだけだと思えた。
「直せる?」
リネが尋ねる。
アルノは頷いた。
「たぶん。」
リネの眉が少しだけ上がる。
その表情に気付き、アルノは慌てて言い直した。
「大丈夫だと思う。」
「無理しないで。」
「うん。」
アルノは静かに泉の底へ降りると、欠けた線の前で膝をついた。
指先へ集める魔力は、ごくわずかだった。大量の魔力は必要ない。
ただ切れてしまった線を繋ぐための、ほんの少しだけで十分だ。
淡い光を宿した指先で、石の表面をゆっくりとなぞる。
一本。
ただ、それだけだった。
けれど、線が繋がった瞬間――。
魔法陣全体へ光が走った。
「っ」
アルノは目を見開く。
浄化。
治癒。
刻まれていた神代文字が一つ、また一つと淡い光を帯び、止まっていた術式が静かに息を吹き返していく。
途絶えていた流れが再び繋がり、魔力が魔法陣の隅々まで巡っていくのを、アルノははっきりと感じ取っていた。
泉の底から柔らかな光が広がる。
やがて空中へ持ち上げられていた水が、ゆっくりと元の場所へ戻り始めた。
滝のように流れ落ちる水は陽光を受けてきらめき、砕けた飛沫が虹色に輝きながら周囲へ散っていく。
水は静かに泉を満たし、最後の一滴が水面へ溶け込んだ。
その瞬間、森を吹き抜ける風が、ほんの少しだけ優しくなった気がした。
「戻った……。」
案内の男が呆然と呟く。
目の前で起きた出来事が信じられないのだろう。
口を半開きにしたまま泉を見つめ、その瞳には驚きと安堵が入り混じっていた。
レグルスは静かに泉全体を見渡し、術式の変化を確かめるように目を細める。
エルディオンはその様子を見守りながら、小さく笑みを浮かべていた。
アルノはゆっくりと立ち上がる。
「アルノ。」
リネがすぐに駆け寄ってきた。
「魔力大丈夫?」
アルノは少しだけ瞬きをすると、自分の身体の感覚を確かめるように息を吐いた。
重さはない。
頭も痛くない。
第一星環や第四星環の時のように、身体の奥から力が抜けていく感覚もなかった。
アルノは安心したように笑う。
「大丈夫。」
「本当に?」
「今回は大丈夫。」
それでもリネは疑わしそうな表情を崩さない。
これまで神代文字が関わるたび、アルノは無茶をして倒れてきた。
それを何度も見てきたからこそ、簡単には安心できなかった。
「前もそう言ってた。」
「今回は違うから。」
「何が違うの?」
アルノは泉の底へ視線を向け、小さく指を差した。
「魔力を注いだわけじゃないんだ。」
「線を繋げただけ。」
リネは首を傾げる。
「僕も上手く説明できない。」
正直にそう答えると、リネは小さく息を吐いた。
「でも倒れてない。」
「うん。」
「ならいい。」
その言葉に、アルノはようやく力を抜いたように笑った。
村へ戻ると、すでに噂が広がっていた。
泉が元に戻った。
魔物が静かになった。
森へ入れるようになった。
誰が言い始めたのかは分からない。
けれど、その知らせは瞬く間に村中へ伝わっていた。
広場には多くの人が集まり、案内してくれた男は何度も頭を下げている。
「本当にありがとうございました。」
「助かりました。」
その言葉に、アルノは少し困ったように笑った。
自分では大したことをしたつもりはない。ただ切れていた線を繋いだだけだ。
けれど、村人たちにとっては違う意味を持っていたらしい。
男は懐かしむように泉の方角を見つめる。
「祖父も飲んでいました。」
「怪我をしたら泉の水を飲めって。」
「子供の頃から言われてました。」
静かな口調だった。
幼い頃の思い出を一つひとつ確かめるように言葉を重ね、最後に穏やかに笑う。
「その前からあったそうです。」
アルノは静かに耳を傾けていた。
レグルスも珍しく口を挟まず、黙って話を聞いている。
泉の底へ刻まれていた神代文字が脳裏によみがえった。
浄化と治癒。
あの魔法陣は、何百年もの間、この村の人々を支え続けてきたのだろう。
その夜、宿の部屋でアルノは机へ紙を広げていた。
泉で見つけた神代文字を、一つずつ丁寧に書き写していく。
そして、神代文字の前に刻まれていた、読めない文字。
何度見返しても意味は分からない。
形だけを書き留め、線の一本一本を確かめるように見つめていると、不意に扉の向こうから声がした。
「まだ見てる。」
顔を上げる。
部屋へ入ってきたエルディオンは、机の上へ広げられた紙を覗き込み、小さく笑った。
「気になって。」
アルノは苦笑する。
エルディオンも紙へ目を落とした。
「分かりそう?」
「全然。」
正直に答えると、エルディオンは穏やかに笑う。
「そのうち分かるかもね。」
「そうだといいんですけど。」
アルノはもう一度、紙の上の文字へ視線を落とした。
やっぱり分からない。
それでも、なぜか気になって仕方がなかった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




