旅立ちの前に
「遠いですね」
アルノは机の上へ広げられた地図を見つめた。
現在の国境や領地名ではなく、神代に記された地形と星環の位置が残されている。
向かいに立つレグルスは、銀縁眼鏡の位置を指先で直すと、地図へ視線を落とした。確認できる情報を一つずつ拾い上げるように、その指が紙面を静かになぞっていく。
北へ伸びた指先が、ラウム山脈を示す線へ触れる。
さらに山々の奥へ進み、やがて第七星環の推定地点で止まった。
邪竜の進行方向は、その方角と一致している。
山岳地帯。
第七星環は、かなり遠い。
地図の上ではわずかな距離にしか見えない。
それでも実際には、いくつもの土地を越え、その先に広がる険しい山々へ入らなければならない。
平地を進む旅とは違い、山岳地帯では地図どおりに進めるとも限らなかった。
アルノは、現在地から北へ続く地形を目で追った。
淡い灰銀の瞳が細かな線をたどり、無意識に持ち上げた指先が空中へ点を置き、それらを結ぶようにゆっくりと動く。
どの道を通るのか。
どこまで街道が続いているのか。
地図だけでは分からないことも多い。
線を結んだところで、第七星環までの距離が短くなるわけではなかった。
その時、エルディオンが地図へ手を伸ばした。
深い蒼の瞳は、第七星環の推定地点ではなく、そこへ至る途中の一角を静かに見つめている。
指先が地図をなぞる。
北へ。
さらに北へ。
そして途中で止まった。
アルノは首を傾げる。
「エルさん?」
呼び掛けても、エルディオンはすぐには顔を上げなかった。
地図の上へ指先を置いたまま、じっとその場所を見ている。
表情はいつもとほとんど変わらないはずなのに、その眼差しだけが、遠い記憶を辿っているように見えた。
少しだけ。
懐かしそうに。
「故郷なんだよね」
静かな声だった。
アルノは目を瞬く。
エルディオンは地図から目を離さず、神代の地図に描かれた地形の上へ、現在の場所を重ねるように指先を置いていた。
伝説の魔術師にも、生まれ育った場所がある。
当たり前のことなのに、アルノはそれまで深く考えたことがなかった。
五百年前に邪竜を封印した魔術師としての姿ばかりを知っていたせいか、エルディオンにも幼い頃があり、故郷で過ごした日々があったということが、どこか不思議に感じられた。
「ずっと帰ってないんですか」
「うん」
あっさり答える。
「十歳で故郷を出たから」
アルノは驚いた。
「そんな小さい頃に?」
「魔術学院に入ったんだよ」
エルディオンは笑う。
「卒業して」
「そのまま魔術塔に所属して」
少し考える。
「当時は魔術塔でも上の方だったし」
さらりと言う。
アルノは固まった。
魔術塔で見習いとして過ごしてきたからこそ、その一言の重みが分かる。
魔術塔には多くの魔術師が所属しているが、その中で上位に立つことが簡単でないことくらい、アルノもよく知っていた。
知識だけがあればいいわけではない。
魔法が使えれば、それだけで認められるわけでもない。
それでもエルディオンは、特別なことではないような口調で話している。
過去を誇る様子もなく、ただ思い出した順に並べているだけに見えた。
「それで?」
思わず聞いていた。
エルディオンは少し笑う。
「気付いたら邪竜が出てきた」
あまりに簡潔な説明に、アルノは返す言葉を失った。
魔術学院へ入り、卒業して魔術塔へ所属した。
その先に、邪竜の出現があった。
エルディオンが邪竜を封印し、五百年もの眠りについたことは知っているが、それ以前のことを聞くのは初めてだった。
「最後は十歳か」
リネが呟く。
赤茶色の髪を高い位置で束ねた彼女は、地図のそばへ立ったまま、琥珀色の瞳をエルディオンへ向けていた。
いつものようにすぐ言葉を重ねることはせず、返事を待つように静かに見つめている。
「そうなるね」
エルディオンは頷いた。
しばらく沈黙が続く。
誰もすぐには次の言葉を口にせず、部屋の中には窓の外から届く遠い物音だけが流れ込んでいた。
机の上には神代に描かれた古い地図が広がり、その中の一角へ、エルディオンの指先が置かれている。
アルノはもう一度、その場所を見た。
地図には、現在の町の名も領地の名も記されていない。
ただ山と川、それから神代の施設を示す印が残されているだけだった。
それでもエルディオンには、その地形のどこが故郷なのか分かるのだろう。
五百年という時間が過ぎても、場所はそこにある。
やがて。
「せっかくだしね」
エルディオンが言った。
地図を見る。
故郷の位置を見る。
「寄ってみようかな」
◇
その日の夕方。
打ち合わせを終えたアルノは、一人で港へ出た。
西へ傾いた陽は海を赤く染め、穏やかな波が岸壁へ静かに寄せては返している。
係留された船はゆっくりと揺れ、帆柱へ結ばれた綱が風に鳴る音だけが、夕暮れの港へ静かに響いていた。
潮風が頬を撫でる。
アルノは岸壁の先まで歩き、足を止めた。
耳にかかる栗色の髪が風に揺れ、視線の先では夕陽を映した海面がゆらゆらと輝いている。
死の島で見た黒い海とは違う、穏やかな景色だった。
少し前まで。
アルノは魔術塔の見習いだった。
朝から晩まで雑務に追われ、それでも時間を見つけては魔法陣の研究を続ける。
それが当たり前の日常だった。
そんな毎日が、ずっと続くのだと思っていた。
まさか邪竜を追う旅に出るなんて思わなかった。
神代文明の遺跡へ入るなんて思わなかった。
まして。
世界の行く末に関わるような旅に出るなんて。
考えたこともなかった。
「何してるの?」
聞き慣れた声に振り返る。
エルディオンだった。
肩まで流れる銀髪が夕陽を受けて淡く輝き、深い蒼の瞳が穏やかにアルノを見つめている。
「特に何も」
アルノは答える。
エルディオンは隣へ並び、二人で海を眺めた。
どちらからともなく言葉は途切れる。
けれど、その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。
寄せては返す波の音を聞きながら同じ景色を見ているだけで、張り詰めていた気持ちが少しずつほどけていくようだった。
「少し前まで」
アルノがぽつりと言う。
「魔術塔の見習いだったんですよ」
「うん」
「まさかこんなことになるなんて思ってませんでした」
エルディオンは少し笑う。
「僕も思ってなかったな」
「エルさんも?」
「うん」
海を見る。
「邪竜を追って」
「封印して」
「それで終わると思ってた」
静かな声だった。
「でも終わらなかった」
アルノは黙る。
五百年という時間を、自分には想像することしかできなかった。
エルディオンは少しだけ笑った。
「顔つき変わったよね」
アルノは瞬きをする。
「え?」
「出会った頃より」
少し考える。
「ちゃんと前見てる」
アルノは言葉に詰まった。
自分では分からなかった。
旅に出てから、何度も失敗した。
振り返れば、自分の力不足を思い知ることばかりだった。
それでも。
第一星環を思い出す。
裂け目は閉じれた。
守ることはできた。
その代償に十日眠った。
第四星環では魔力不足。
同じことを繰り返している。
もっと魔力があれば。
もっと力があれば。
「まだ全然です」
アルノは小さく言う。
「魔力も足りないし」
「知識も足りないし」
「強さも足りません」
エルディオンは最後まで静かに聞いていた。
途中で言葉を挟むこともなく、アルノが話し終えるのを待ってから、穏やかに笑う。
「じゃあ増やしていこうか」
当たり前のような口調だった。
「旅はまだ続くし」
その一言が、不思議なくらい胸へすっと落ちた。
足りないものは多い。
知らないことも、できないことも、まだ数え切れないほどある。
だからこそ、この旅がある。
アルノは静かに海へ目を向けた。
夕陽はゆっくりと水平線へ近づき、赤く染まった海の向こうには、やがて目指す北の空が広がっている。
第七星環。
邪竜。
そして、エルディオンの故郷。
そこには、まだ見たことのない景色が待っている。
潮風が静かに吹き抜ける。
アルノはゆっくりと息を吸い込み、北の空を見つめた。
ほんの少しだけ、自分の進む道が前よりもはっきり見えた気がした。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




