北への旅路
朽ちた港跡へ戻った頃には、再び日が傾き始めていた。
西の空は茜色に染まり、崩れた岸壁の影が静かな海へ長く伸びている。
潮風は穏やかだったが、人気の絶えた港には波が砕ける音だけが響き、島全体を包んでいた静寂がなおも残っていた。
島へ上陸してから、すでに一日以上が過ぎている。
ベイルとの約束の時間など、とうに過ぎていた。
アルノは崩れた岸壁の先へ視線を向ける。夕暮れの海には、船影一つ見えなかった。
「……さすがに帰ってるよね」
リネが小さく呟く。
「当然です」
レグルスは静かに答えた。
「約束では、昨日の日没まででしたから」
アルノも分かっていた。
ベイルは最初から、時間を過ぎれば港へ戻ると言っていた。
それを責めることはできない。ここから先は、自分たちで帰る方法を考えるしかない。
そう思いながら、もう一度海へ目を向ける。
その時だった。
水平線の向こうに、小さな影が浮かんでいた。
「あ」
リネが声を上げる。
黒い影はゆっくりと大きくなり、やがて風を受けた帆と、見覚えのある船体が夕陽の中へ姿を現した。
「ベイルさん……?」
船首には、日に焼けたベイルが立っていた。
岸壁に並ぶ四人の姿を見つけた瞬間、目を大きく見開く。
「いた!」
思わず漏れた声は、すぐ怒鳴り声へ変わった。
「お前さんたち!」
「生きてやがったのか!」
船は勢いよく港跡へ向かってくる。
「どうして……」
アルノが呟くと、船を寄せながらベイルは照れくさそうに頭をかいた。
「昨日は約束どおり帰った。」
「でもよ、ミラが『もう一回見てこい』ってうるさくてな。」
ぶっきらぼうに鼻を鳴らす。
「朝にも来た。」
「姿が見えなかったから、一度港へ戻って……もう一回来ただけだ。」
リネが少し笑う。
「やっぱり心配してくれたんだ。」
「違ぇよ。」
ベイルは即座に言い返した。
「一度乗せた客を放っとけるか。」
言い切ると、少し照れくさそうに咳払いを一つする。
アルノは思わず笑った。
ベイルは四人を順番に見回した。
怪我はないか。
誰も欠けていないか。
確かめるような視線だった。
「……ったく。」
「無茶しやがって。」
そう呟いた声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
死の島を離れた頃には、月が出始めていた。
船は静かな波を切り、ゆっくりと本土を目指して進んでいく。
夜空には雲一つなく、淡い月明かりが海面を白く照らしていた。
往路で見た荒れた海が嘘のように、波は穏やかだった。
行きとは違う。
空も青い。
波も静かだ。
あの島だけが、世界から切り離されていたみたいだった。
アルノは船べりへ手を添え、静かな海を見つめる。
第四星環。
裂け目。
五百年前の記録。
レオン・アステリア。
一つひとつを思い返すたび、胸の奥に残る感覚は言葉にならなかった。
昨日の出来事のはずなのに、遠い昔のことを振り返っているような、不思議な距離を感じる。
◇
本土へ着いた頃には、夜もすっかり更けていた。
船が岸壁へ近づくと、足音が駆け寄ってくる。
「ベイル!」
聞き覚えのある声だった。
ランタンを手にしたミラが岸壁へ姿を現す。
「戻ったのかい!」
船の上に四人の姿を見つけると、ほっと息をついた。
「全員無事だね。」
ベイルは照れくさそうに鼻を鳴らす。
「だから言っただろ。」
「何が『だから』だい。」
ミラは呆れたように笑う。
「朝も夕方も様子を見に行って、帰ってきたら今度は夜遅くまで落ち着かないで。」
「うるせぇ。」
短く返したベイルだったが、その表情はどこか安堵していた。
港町は昼間の賑わいこそ消えていたが、静まり返っているわけではない。
家々の窓には温かな明かりが灯り、ときおり酒場から人々の話し声や笑い声が夜風に乗って聞こえてくる。
潮の香りの向こうには料理の匂いも漂い、人が暮らしている温もりを感じさせた。
死の島にはなかった、人の営みがそこにはあった。
アルノは思わず足を止める。
人の気配がある。
ただ、それだけで胸の奥の張り詰めていたものが少しだけほどけた。
「何見てるの?」
リネが聞いた。
「いや」
アルノは少し笑う。
「人がいるなあと思って」
「死の島にいなかったもんね」
リネはそう言って肩を竦めた。
その通りだった。
◇
休息は二日ほどになった。
レグルスは毎朝早くから魔術塔支部へ通い、第四星環で見つかった資料の整理と報告に追われていた。
調査記録や神代文字の写しをまとめる作業は予想以上に多く、一日のほとんどを支部で過ごしている。
一方、アルノは魔力不足の身体を休めながら、宿で本を読んだり、港町を歩いたりして静かな時間を過ごしていた。
久しぶりに立ち寄った書店では、魔法陣や魔術理論の本を手に取り、棚を眺めているだけでも自然と時間を忘れてしまう。
身体の重さも少しずつ薄れ、ようやく普段の調子を取り戻し始めていた。
エルディオンはというと、気が向くままに港町を歩いていた。
市場を覗いたり、港を眺めたり、広場で遊ぶ子どもたちの輪にいつの間にか加わっていたりと、誰よりも自由に町を楽しんでいる。
書店から戻る途中、その様子を見つけたアルノは思わず苦笑した。
子どもたちはエルディオンを囲み、楽しそうに笑っていた。
何をして遊んでいるのか分からないが、いつの間にか中心にいる。
「何してるんですか?」
「遊んでる」
あまりにも当たり前の返事だった。
「見れば分かります」
アルノが肩を竦めると、エルディオンは楽しそうに笑う。
その様子を見ていた子どもたちも、つられるように笑い声を上げた。
そんな中、リネだけは毎朝早くから宿を出ていた。
「また出掛けるの?」
宿を出ようとするリネへ、アルノが声を掛ける。
「うん。ミラさんが漁を手伝ってみるかって。」
そう言って笑うと、リネは軽く手を振り、朝の港へ駆けていった。
死の島への航海以来、リネはすっかりミラと打ち解けていた。
朝早く港へ出ては網を引く手伝いをしたり、小舟で近場の漁へ連れて行ってもらったりしているらしい。
持ち前の人懐っこさもあって、いつの間にか港の人々とも顔見知りになっていた。
その日の夕方。
宿へ戻ってきたリネは、満面の笑みで大きな籠を掲げた。
「見て!」
籠の中には、新鮮な魚が何匹も並んでいた。
「釣れたの?」
「ううん。」
リネは得意そうに笑う。
「今日は網を引かせてもらったの。これ、お裾分けだって。」
宿の主人も快く台所を貸してくれた。
しばらくすると、焼き魚の香ばしい匂いが食堂いっぱいに広がる。
湯気の立つ汁物と焼きたての魚が並び、素朴ながら温かな夕食になった。
「おいしい……」
アルノは思わず頬を緩めた。
「新鮮だからね」
リネも嬉しそうに笑う。
エルディオンも魚をひと口食べる。
「うん、おいしい」
素直な一言だった。
レグルスも料理へ視線を落とし、小さく息をつく。
「栄養面でも申し分ありません」
「そういう感想なの?」
リネが苦笑すると、食卓に穏やかな笑い声が広がった。
死の島で張り詰め続けていた空気は、その食卓でようやく少しだけ和らいでいた。
◇
「邪竜の情報です」
休息を終えた日の夕方、レグルスは宿へ戻るなり地図を広げた。
その一言だけで、穏やかだった部屋の空気が静かに引き締まる。
食卓を囲んでいたアルノたちも自然と席を立ち、机の周りへ集まった。
「死の島を離れた後の目撃情報です」
レグルスは地図の上へ新しい報告書を並べ、一つずつ印を置いていく。
北。
さらに北。
「この方向は」
アルノが小さく呟く。
レグルスは静かに頷いた。
「第四星環で発見した地図と照らし合わせると」
「第七星環の方角です」
部屋が静まり返る。
第七星環。
詳細は何一つ分かっていない。
神代文明最大の謎。
そして今、邪竜が向かっている可能性が最も高い場所だった。
「向かってるんでしょうか」
アルノが聞く。
「断定はできません」
レグルスは落ち着いた口調で答えた。
「ですが、可能性は高いでしょう」
エルディオンは黙って地図を見つめていた。
北へ伸びる街道。
報告が重なる目撃地点。
それらを静かに見比べると、小さく口を開く。
「行くしかないね」
静かな声だった。
誰も反対しなかった。
レグルスは邪竜の目撃地点から第七星環までの距離を測り、手帳へ数字を書き込んでいく。しばらく計算を続けたあと、わずかに眉を寄せた。
「問題は移動手段です」
「乗合馬車じゃ駄目なの?」
リネが尋ねると、レグルスは首を横へ振る。
「街道を外れた目撃地点もあります。定期馬車を乗り継いでいては、邪竜との距離が開く一方です」
そう言って地図の上へ一本の線を引いた。
「馬を手配しましょう。北へ向かいながら、目撃情報を追います」
「そうね」
リネは当然のように頷いた。エルディオンも特に異論はないらしく、地図を眺めている。
アルノだけが少し困ったような顔で三人を見回した。
「……あの」
三人の視線が集まる。
「僕、馬に乗れません」
一瞬、部屋が静かになった。
「王都から出たことないもんね」
リネが納得したように頷く。
「練習する時間はありません」
レグルスが淡々と告げた。
「ですよね……」
アルノが肩を落とすと、エルディオンが楽しそうに笑った。
「大丈夫。僕が教えるよ」
「移動しながらですか?」
「たぶん何とかなる」
「その言い方、全然安心できないんですけど」
思わず返すと、リネが小さく吹き出した。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




