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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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残された地図

 攻防戦から一夜が明けた。


 第四星環の最下層は、昨日の激しい戦闘が嘘だったかのように静まり返っていた。

 巨大な傷口にも似た裂け目は、今も空間を深く裂いたまま、底の見えない暗い口を開けている。

 その周囲を幾重にも覆う魔法陣は、昨夜から変わらず淡い光を放っていた。

 複雑に重なり合う術式の流れに乱れはなく、崩壊しかけていた魔力の循環も、今は安定を保っている。


 アルノは魔法陣の傍らに立ち、自分が補修した箇所へ目を向けた。

 柔らかな栗色の髪が額へ落ち、大きな灰銀の瞳が、昨日必死に繋いだ線を慎重に追っていく。

 途切れていた流路は、今も問題なく稼働していた。

 流れ込んだ魔力は補強部分を通り、周囲の術式へ淀みなく受け渡されている。

 アルノは胸の奥に溜めていた息を、ようやく少しだけ吐き出した。


「大丈夫そうですね」


「今のところは」


 レグルスが答えた。

 淡い金色の髪の奥で、灰紫色の瞳が魔法陣の状態を冷静に観察している。

 声はいつもどおり落ち着いていたが、その響きは決して楽観的なものではなかった。


 大丈夫。

 けれど、解決したわけではない。


 その違いは、アルノにも分かっていた。

 裂け目は閉じられたのではなく、外側から押さえ込まれているにすぎない。


 昨日、裂け目の向こう側に見えたものが、脳裏に蘇る。

 暗闇の奥に浮かんだ無数の目。

 それらが一斉にこちらを見つめていた光景を思い出すだけで、背筋へ冷たいものが這い上がった。

 あれは今も向こう側にいる。

 もしかすると、今この瞬間もこちらを見ているのかもしれない。


「無理はしないでください」


 レグルスの声に、アルノは目を瞬いた。


「え?」


「昨日、かなり魔力を使っています」


「あ……はい」


 言われて初めて、身体に残る重さを意識する。

 腕も足もまだ少しだるく、魔力を削られた後にだけ残る独特の疲労が、身体の芯へ沈んでいた。

 十日間も眠り続けた時ほどではない。

 だが、完全に回復したとは到底言えなかった。

 隣に立っていたリネが、アルノの顔を横から覗き込む。赤

 茶色のポニーテールが肩からさらりと落ち、琥珀色の瞳に心配そうな色が浮かんでいた。


「体つらい?」


「平気」


「本当?」


「うん」


 リネは納得していないように眉を寄せた。

 アルノはその視線に耐えきれず、ほんの少しだけ顔を逸らした。


 ◇


 裂け目と魔法陣の状態を一通り確認すると、一行は最下層のさらに奥へ足を向けた。

 白い石壁に囲まれた通路の突き当たりには、一枚の扉が静かに佇んでいた。

 表面には幾筋もの神代文字が刻まれ、長い年月を経た今も、消えることなく淡い光を宿している。


 レグルスは扉の前で足を止めた。

 銀縁の眼鏡を押し上げ、文字と扉の構造を慎重に確認してから、アルノへ視線を向ける。


「アルノさん。この扉、開けられますか」


 アルノは刻まれた神代文字へ目を凝らした。

 淡い光を帯びた文字を追うにつれ、その意味が読むというよりも、頭の奥へ直接流れ込んでくる。


 管理区画。

 保存。

 入室許可。

 内容を確かめたアルノは、小さく頷いた。


「……やってみます」


 アルノは扉へ片手を添え、神代文字へ静かに魔力を流し込んだ。

 指先から伝わった魔力が刻まれた文字を順番に満たし、扉の表面へ細い光の筋が広がっていく。

 ほどなくして、閉ざされていた扉が重い音を立てた

 石と石が擦れ合う低い響きが通路へ広がり、扉がゆっくりと奥へ開いていく。


 その先には、神代の管理室が静かに広がっていた。

 室内には崩れた棚や、風化した箱が並んでいる。

 床には読めなくなった記録が散らばり、壁際の机も一部が欠けていた。

 第二星環で見つけた研究室とは違い、この部屋には長い年月が通り過ぎた痕跡が色濃く残っている。保存術式が完全には機能していなかったのか、資料の多くは傷み、触れるだけで崩れてしまいそうだった。


 レグルスは室内へ入ると、棚や机の上へ残されたものを一つずつ確認し始めた。

 手つきは慎重だったが、迷いはない。


 レグルスは文字の残り方や紙の劣化、記録の形式を一つずつ確かめながら、読解できる資料かどうかを見極めていく。

 読める部分だけを見極めながら、読解に耐えられそうな資料を慎重に選び出していく。


「これを」


 レグルスが一枚の資料を机の上へ置いた。

 神代時代に書かれた記録だった。

 紙はひどく脆く、少し力を入れれば端から崩れてしまいそうだったが、中央部分に記された文字は辛うじて残っている。


 アルノは机へ身を寄せ、資料へ視線を落とした。

 指先で空中の文字の位置をなぞるようにしながら、慎重に最初の一行を読み始める。


「異常空間の沈静化を確認」


 自分の声が、静まり返った管理室へ落ちた。


「当該区域を封鎖」


「外側領域との接続を遮断した」


 ここまでは、異常に対処した後の報告書だった。

 神代時代の誰かが、この場所で発生した異変を調査し、封鎖術式を構築した。

 その結果を記録として残したものなのだろう。

 アルノは慎重に次の行へ目を移した。


「現在、異常反応は観測されていない」


 リネが張り詰めていた息を、小さく吐き出した。


「じゃあ、終わったように見えるね」


「ええ」


 レグルスが頷く。


「ここまでなら、そう判断してもおかしくありません」


 けれど、記録はそこで終わってはいなかった。

 アルノは、続く文字へ視線を落とした。


「ただし」


 その言葉を読み上げた瞬間、自然と全員の視線が資料へ集まる。


「異常空間の規模に対し封鎖術式の出力は十分とは言い難い」


 レグルスの手が止まった。

 アルノは喉の奥に生まれた嫌な感覚を押し込め、さらに続きを読む。


「長期的な観測を推奨する」


 昨日見た巨大な裂け目が、頭の中に浮かんだ。

 五百年が経過した今も消えることなく残り、向こう側に無数の目を潜ませていた異常空間。

 神代文明の術式ですら、それを完全には消し去れなかった。

 そして、記録にはさらに続きがあった。


「ただし完全閉鎖は確認できていない」


 管理室の空気が、わずかに変わった。


「極微量ながら反応が残存している」


「将来的な再発の可能性を否定できない」


 読み終えたあと、誰もすぐには言葉を発しなかった。

 アルノはゆっくりと顔を上げた。

 開いた扉の向こうには、裂け目を覆う巨大な魔法陣の一部が見えている。

 神代時代に残された記録。

 五百年前に起きた異変。

 そして昨日、自分たちが目にした裂け目。

 別々に存在していたはずの出来事が、今ようやく一本の線となって繋がったように思えた。


「当たっていたわけですね」


 レグルスが静かに呟く。


「神代時代の予測が」


 封鎖そのものは成功した。

 だが、裂け目を完全に閉じることはできなかった。

 だから五百年前、この場所で再び異変が起きたのだ。


 イオ島で異常な空間が確認され、裂け目が広がり、島へ汚染が広がっていった。

 状況の悪化を受けて魔術塔へ応援要請が出され、記録はその途中で途切れている。


 アルノは机の端へ置かれた紙束へ目を向けた。傷んだ表紙には、掠れた文字が辛うじて残っている。


『イオ島異常調査記録』

 死の島。

 今では誰も近付こうとしないその場所にも、五百年前までは別の名前があった。

 人が住み、港があり、漁をしながら暮らしていた島。

 イオ島。

 その名前が、今はひどく遠いものに感じられた。


「その応援って」


 アルノは自然とエルディオンを見た。

 エルディオンは資料へ目を落としていた。

 肩へかかる銀髪が淡い光を受け、深い碧眼には、今ではないどこかを見つめているような色が浮かんでいる。


「僕達だよ」


 短い返事だった。


「討伐隊ですか」


「うん」


 エルディオンは静かに頷く。


「邪竜討伐隊」


 その一言だけで十分だった。

 五百年前、この島で邪竜が現れた。

 異変を受けた魔術塔は討伐隊を送り、大勢の魔術師が島を訪れた。その中には、エルディオンもいた。


「僕は邪竜を追った」


 エルディオンはそれだけを告げた。

 五百年も前の出来事を、まるで昨日のことを話すように。

 けれどアルノには、その言葉が決して軽いものには聞こえなかった。

 その後、エルディオンは第五星環で邪竜を封印し、自らも五百年の眠りについた。


 だが、その間にこの場所で何が起きていたのか。

 裂け目がどのように広がり、島がどのように死んでいったのか。

 エルディオンでさえ、そのすべてを知っているわけではないのだと、アルノは思った。


「もう一つ、見つけました」


 レグルスの声が、静かな管理室へ響いた。

 普段よりわずかに早いその声に、全員が振り返る。

 レグルスは棚の奥から一本の細長い筒を取り出していた。

 表面は黒ずみ、留め具も半ば朽ちている。

 長い年月を経ていることは一目で分かったが、不思議なことに中身だけは無事だった。

 レグルスは筒を机の上へ置くと、壊さないよう慎重に蓋を外していく。


 やがて、中から一枚の古い地図が姿を現した。

 かなり傷んでいた。

 端はところどころ欠け、描かれた線も薄くなっている。

 それでも中央には大陸の輪郭がはっきりと残り、その上には七つの印が記されていた。

 アルノは思わず身を乗り出す。


「これ……」


 レグルスの眼鏡の奥で、灰紫色の瞳がわずかに輝いた。

 普段は冷静な彼も、この発見には興奮を隠せないらしい。


「やはり七つですね」


 静かな声だった。

 けれど、その声はわずかに震えていた。


「第一星環」

 細い指先が、一つ目の印へ触れる。


「第二星環」

 次の印へ移る。


「第三」

 さらに東へ。


「第四」

 指先が止まった。


 今、自分たちが立っている場所だった。

 死の島。

 かつてイオ島と呼ばれていた島。

 第四星環。

 アルノは静かに息を呑んだ。

 これまで記録の中でしか存在しなかった星環が、初めて一枚の地図の上へ並んでいる。


「第五星環」

 レグルスの指先が次の印へ移る。

 その瞬間、エルディオンの碧眼がわずかに細められた。

 五百年前。

 邪竜を封印した場所。

 彼にとっても忘れられない土地なのだろう。


「第六星環」

 その名を口にした途端、レグルスの声が少しだけ低くなった。

 星環管理記録には『応答なし』とだけ記されていた場所。

 今は、それ以上のことは分からない。

 そして最後に、指先は地図の端近くで止まった。


「第七星環」

 そこは山岳地帯だった。

 幾重にも連なる高い山々の中に、最後の印が静かに記されている。


「七つ……本当に七つある」


 リネが驚きを隠せないまま呟く。

 レグルスは地図から目を離さなかった。


「状態一覧だけではありません。位置情報も残っていた」


 その声には、隠しきれない熱が宿っている。


「神代文明研究において、これは極めて重要な資料です」


「レグルスさん、顔」


 アルノが思わず口にすると、レグルスは我に返ったように咳払いをした。


「失礼。ですが、これは大発見です」


 その表情は真剣そのものだった。

 リネは少し呆れたように笑う。

 けれどアルノにも、その気持ちはよく分かった。


 第一。

 第二。

 第三。

 第四。

 第五。

 第六。

 第七。


 今まで点のように存在していた情報が、一枚の地図の上で初めて繋がった。


 これから自分たちが向かう道筋までが、静かに姿を現したような気がした。

 レグルスは地図を傷つけないよう慎重に巻き直し、複写した資料を一枚ずつ整理していく。


「複写したものは魔術塔へ持ち帰りましょう」


 眼鏡を軽く押し上げながら、資料へ視線を落とした。


「これだけ保存状態の良い神代文明の記録は貴重です」


 口調はいつもどおり落ち着いている。

 それでも、表情に浮かぶ満足そうな色までは隠し切れていなかった。


 ◇


 資料を整理し終えると、一行は管理室を後にした。


 帰る前に、アルノは自然と足を止める。

 視線の先には、昨日補修した裂け目があった。

 巨大な魔法陣は今も淡い光を放ち、幾重にも重なった術式が静かに空間を支えている。

 自分が必死に繋いだ線も、その一部として変わらず機能していた。


 守ることはできた。

 だが、それだけだ。


 裂け目そのものを閉じることはできなかった。

 もし、もっと魔力があったなら。

 もし、自分にもっと力があったなら。

 本当に裂け目を閉じることができたのだろうか。

 そんな考えが、どうしても頭を離れなかった。

 考えても仕方がないと分かっている。

 それでも、手は小さく震えていた。

 昨日の疲労だけが理由ではない。


「アルノ」


 エルディオンが静かに呼ぶ。

 アルノは顔を上げた。


「無理に閉じようとしなくていいよ」


 息が止まった。

 心の中を見透かされたような気がした。


「でも」


「今はね」


 エルディオンは裂け目へ視線を向ける。

 淡い光を映した碧眼は、魔法陣全体を静かに見渡していた。


「昨日、君が守った。それで十分」


 アルノは何も言えなかった。


 十分。

 そう言われても、胸の奥にはまだ足りない何かが残っている。


 魔力。

 力。

 自分にできないこと。

 昨日は守れた。

 けれど、次も守れる保証はどこにもない。


「……もっと」


 思わず小さく呟く。

 エルディオンが振り返った。


「もっと魔力があれば、できることが増えるんでしょうか」


 エルディオンはすぐには答えなかった。

 少し考えてから、ゆっくりと頷く。


「増えるよ」


 静かな声だった。


「でも、魔力だけじゃない」


「え?」


「僕にはできなかったと思うな」


 アルノは思わず顔を上げる。


「補強する場所を見つけるの」


 エルディオンは巨大な魔法陣を見上げた。


「あれ、君だからできたんだよ」


 アルノは息を呑む。


「エルさんでも?」


「時間をかければできたと思う」


 エルディオンは少しだけ考える。


「でも、あの状況じゃ無理だったかな」


 邪竜。

 崩れかけた術式。

 迫る時間。

 昨日の光景が鮮明に蘇る。


「君は見た瞬間に分かったでしょ」


 図星だった。

 どこが壊れているのか。

 どこを繋げばいいのか。

 どこへ魔力を流せばいいのか。

 考えるより先に身体が動いていた。


「だから助かった」


 アルノは言葉を失った。

 嬉しかった。

 けれど、それだけでは足りないという思いも消えない。

 アルノはもう一度、裂け目を見つめる。


「結局、閉じられなかったです」


 小さな声だった。

 魔法陣は守れた。

 補強もできた。

 それでも裂け目は残っている。

 エルディオンは否定しなかった。


「そうだね」


 短く頷き、それから穏やかに笑う。


「だから、一緒にもっと強くなろうか」


 アルノはその言葉を胸の中で静かに受け止めた。

 エルディオンは再び裂け目を覆う魔法陣へ視線を向ける。

 昨日から何度も見続けている術式。

 けれど今、その眼差しはどこか懐かしいものを見るようでもあった。

 アルノは少し迷ってから口を開く。


「エルさん」


「ん?」


「この魔法陣を作った人って」


 エルディオンはすぐには答えなかった。

 五百年もの時を耐え続けた幾重もの術式。

 昨日アルノが補強した線。

 それらを静かに見つめ続ける。


「レオン・アステリア」


 ぽつりと、その名を口にした。

 アルノにとって初めて聞く名前だった。


「幼馴染」


 短く答えただけだった。

 それ以上は何も語らない。


 アルノも、それ以上は聞かなかった。

 今はまだ、その時ではない気がしたからだ。

 けれど、その名前だけは心へ深く残る。


 レオン・アステリア。


 五百年前、この裂け目を前にして、あの魔法陣を組み上げた魔術師。

 エルディオンの幼馴染。


 アルノはもう一度、巨大な魔法陣を見上げた。

 昨日、思わず「天才だ」と呟いてしまった術式。

 複雑で。

 大胆で。

 それでいて一切の無駄がない。

 五百年という途方もない年月を越え、今もなお裂け目を押さえ続けている。

 レオン・アステリア。

 どんな魔術師だったのだろう。


 ◇


 地上へ戻る頃には、空は夕暮れへ染まり始めていた。

 死の島は相変わらず静まり返っている。


 黒ずんだ木々の間を風が吹き抜け、遠くから穏やかな波音だけが聞こえてきた。

 邪竜は逃げた。

 その行方はまだ分からない。

 今すぐ追うこともできない。

 まずは島を出て魔術塔へ報告しなければならない。


 裂け目の監視。

 地図の解析。

 そして邪竜の捜索。

 やるべきことは、まだ山ほど残っていた。


 アルノは立ち止まり、静かに振り返る。

 夕暮れの中、第四星環は黒い影となって静かに佇んでいた。

 五百年前から残り続ける裂け目。

 神代文明ですら閉じ切れなかった異常。

 レオン・アステリアの魔法陣。

 そして、自分が補強した術式。

 そのすべてが、今もなおそこにある。

 終わってはいない。

 それでも、自分たちは確かに一歩前へ進んだ。


「行くよ、アルノ」


 先を歩いていたリネが振り返る。


「うん」


 アルノは力強く頷いた。


 死の島を後にする。

 そして、次の目的地へ。

 逃げた邪竜を追い、この世界を救う旅は、まだ終わらない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

更新は19時半時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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