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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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天才の術式

 アルノは裂け目の前へ静かに膝をついた。

 目の前には、巨大な魔法陣が幾重もの円環を描きながら広がっている。

 その向こうには、暗闇に浮かぶ無数の目があった。


 見られている。

 ずっと、こちらを。

 ぞわりと冷たいものが背筋を這い上がる。

 それでもアルノは目を逸らさなかった。ここで恐怖に負ければ、この術式の本質を見失う。

 そんな確信があった。


 視線を落とし、壊れた術式を追う。

 線を追う。

 構造を追う。

 意味を追う。

 目の前に刻まれた術式は、単純に複雑という言葉では表せなかった。

 幾重にも重なる補強、絡み合う接続、それぞれが意味を持つ一本一本の線。

 それらが互いを支え合い、一つの巨大な術式として成立している。


 理解はできる。

 構造も読める。


 だが、どうしてこんな発想へ辿り着くのかが分からない。

 どうして、ここまで無駄のない構造を組み上げられるのかが分からなかった。


「違う」


 小さく呟き、最初に思い描いていた補修方法を捨てる。

 それでは繋がらない。

 たとえ繋がっても、長くは保たない。

 アルノはもう一度、術式へ意識を集中させた。


 さらに奥へ。

 さらに深く。


 表面だけではなく、その内側へ潜り込むように術式を読み解いていく。


 その瞬間だった。

 轟音が星環全体を揺らし、足元の石床が震える。

 天井から砕けた石片が降り注ぎ、乾いた破砕音が静かな空間へ響き渡った。


 邪竜だ。

 エルディオンが迎え撃ち、リネが前へ出る。

 さらに後方では、レグルスが冷静に支援術式を展開している気配が伝わってきた。


 だが、アルノは振り返らない。

 今、自分が見るべきものは戦場ではない。

 この術式だけだった。


「……そうか」


 ぽつりと漏れた声とともに、視界が開ける。


 見えた。

 補強の意味が。


 この術式は、完成された魔法陣ではない。

 絶えず形を変え続ける裂け目へ対応するため、その変化を前提として組み上げられた術式だった。

 だから壊れた場所を元へ戻すだけでは意味がない。

 今この瞬間の裂け目に合わせ、新しく繋ぎ直さなければならない。


 アルノはゆっくりと右手を持ち上げた。

 白い石床に刻まれた術式を見つめながら、癖のように空中で指先を滑らせ、切れていた流れを頭の中で結び直していく。

 淡い灰色の瞳は魔法陣だけを映し、その輝きは術式を読み解くたびに少しずつ強さを増していた。


 描くべき線は、もう迷わない。

 術式を描く。

 魔力を流す。

 繋ぐ。

 補強する。


 アルノは必要な分だけ魔力を流し、術式が動き始めた瞬間を見極めて余分な流れを断つ。

 魔力をすべて流すのではなく、途中で離す。

 エルディオンに教えてもらった感覚が、考えるよりも早く身体を動かしていた。


 その瞬間、裂け目の向こう側が揺れた。

 暗闇の中に浮かぶ無数の目が、一斉にこちらを向く。


 呼吸が止まる。

 見ている。

 こっちを。

 あと少しで届くとでも言いたげに、無数の視線がアルノへ絡みついた。


 直後、邪竜の咆哮が星環を震わせた。

 赤茶色の髪を揺らしたリネは迷いなく飛び込み、渾身の拳を巨体へ叩き込む。

 その一撃で邪竜の身体はわずかに逸れたが、反撃は一瞬だった。

 唸りを上げた尾がリネを薙ぎ払い、その身体が勢いよく壁へ叩きつけられる。


「リネ!」


「平気!」


 返事は即答だった。

 平気なはずがない。

 それでもリネは歯を食いしばり、壁を蹴って再び立ち上がる。

 肩で息をしながらも邪竜の進路へ身体を投げ出す姿は、誰よりも頼もしかった。


 強い。

 本当に強い。


 どうしてあんなふうに、何度倒されても立ち続けられるのか、アルノには分からなかった。


 だが、今は見とれている場合ではない。

 アルノは再び術式へ視線を戻す。

 指先は細かく震え、額を伝った汗が石床へ落ちた。

 十日眠り続けた身体には、この作業は重い。

 それでも不思議と手は止まらず、むしろ術式の奥へ奥へと引き込まれていく。


 壊れた部分。

 補強された部分。

 そして、そのさらに先。

 理解が深まるたび、新しい驚きが胸に広がった。


 ここで支えている。

 ここで流している。

 ここで逃がしている。


 一本一本の線に意味があり、不要な構造はどこにも存在しない。

 見れば見るほど、その完成度の高さに息を呑まずにはいられなかった。


「すごい……」


 思わず零れた声は、驚きそのものだった。

 本当に凄い。

 こんな魔法陣は見たことがない。


 読める。

 理解できる。

 それでも、自分なら絶対にこんな発想には辿り着けない。


「ほんとに天才だ……」


 その瞬間、邪竜の咆哮が星環全体へ響き渡った。

 轟音とともに足元が大きく揺れ、補修中の術式が軋むように震える。

 アルノの表情が強張った。魔力の流れが一か所へ偏り、繋ぎ直したばかりの部分へ負荷が集中しているのが分かった。


「っ!」


 まずい。

 裂け目の向こう側も呼応するように揺れ始める。

 暗闇の奥では、無数の目がざわめきながら少しずつこちらへ近付いてきた。


 あと少し。

 あと少し壊れれば届く。

 そんな執念めいた意思が、視線となって押し寄せてくる。

 アルノは歯を食いしばった。


 間に合え。

 魔力を流す。

 線を繋ぐ。

 さらに補強する。


 術式全体が熱を帯び、石床へ添えた指先が痺れていく。


 魔力は必要な分だけしか流していない。

 だが、もともと魔力量の少ないアルノにとって、その消耗は決して小さくなかった。

 身体の芯から力が抜けていくようだった。

 それでも手だけは止めなかった。


 止められない。

 ここで止まれば、すべてが終わる。


 間に合え。

 間に合え。

 間に合え。


「アルノ!」


 爆音の中、エルディオンの声だけが不思議なほどはっきりと耳へ届く。


 アルノは振り返らない。

 振り返れば集中が切れる。

 それが分かっていた。


「続けて!」


 銀色の髪をなびかせたエルディオンは邪竜の猛攻を受け止めながら、ただ一言だけ叫ぶ。

 その深い碧眼には迷いがなく、弟子を信じ切った強い意志だけが宿っていた。


「守るから!」


 アルノは小さく頷く。

 声は出ない。

 ただ術式だけを見つめ、最後の一本へ意識を集中させる。

 震える指先で線を描き、その終点へ静かに魔力を流し込んだ。


 繋がれ。

 頼む。


 その瞬間、裂け目を囲む魔法陣全体へ光が走った。

 途切れていた術式が次々と繋がり、幾重にも重ねられた補強陣が脈打つように輝き始める。

 失われていた光は環状の術式を巡りながら全体へ広がり、噛み合わなかった流れが静かに一つへ戻っていった。


 裂け目が大きく震える。

 向こう側に浮かんでいた無数の目も揺らぎ、ざわめきながら少しずつ遠ざかっていく。さっきまで感じていた、こちらへ届こうとする圧迫感が、ゆっくりと薄れていった。


 アルノは大きく息を吐く。

 肩から一気に力が抜けた。


 成功した。

 間に合った。


 安堵が胸を満たした、その直後だった。


 空から絶叫が響いた。


 アルノは反射的に顔を上げる。


 視線の先、高く跳び上がったエルディオンの周囲へ、銀色の光が収束していた。

 銀色の髪を風になびかせ、その全身へ凄まじい魔力が収束していく。

 眩い光は周囲の空気さえ震わせ、アルノが今まで見たこともないほど濃密な魔力が一つの術式へ集められていた。


 邪竜も、それに気付いたらしい。

 巨大な翼を広げる。

 逃げようとする。


 だが、遅い。


 閃光。

 轟音。

 世界が白く染まった。


 次の瞬間、邪竜の巨体が大きく揺らいだ。

 黒い鱗が砕け散り、鮮血が宙へ舞う。

 苦悶の咆哮が空を震わせ、その衝撃だけで周囲の空気が波打った。

 第二星環で負った傷は、まだ完全には癒えていない。

 その傷口へ、エルディオンの渾身の一撃が容赦なく叩き込まれたのだ。


 巨大な身体は空中で大きくよろめく。


 だが、落ちない。


 邪竜はなおも翼を広げ、力任せに高度を上げていく。

 黒い翼が風を切り裂き、逃れるように空の彼方へ向かって飛翔した。


「待て!」


 エルディオンが迷うことなく追う。

 銀色の光が一直線に伸び、その背を追いかける。あと少し。

 あと一歩で届きそうな距離だった。


 しかし、邪竜は黒い雲の中へ身を躍らせた。

 赤黒い魔力が雲を覆い尽くし、巨大な影はその奥へ溶けるように消えていく。


 追撃の光も雲の中へ吸い込まれ、やがて何も見えなくなった。


 静寂が訪れる。


 激しい戦いの余韻だけを残し、星環には風の音だけが静かに戻ってきた。

 エルディオンが軽やかに着地した。

 風に揺れる銀色の髪をそのままに、彼は逃げ去った空を見上げ続けている。

 その横顔には、いつもの余裕も軽い笑みもなかった。


「あと少しだったのに」


 ぽつりと零れた言葉が、静まり返った星環へ溶けていく。

 アルノはその表情を見つめた。


 初めてだった。

 いつもは何でも分かっているように笑い、どんな状況でも落ち着いている人が、今は本気で悔しそうに空を見上げている。


 五百年前に封印した邪竜。

 あの時は封印することしかできず、ようやく届きかけた一撃も、あと一歩で逃げられた。

 その時間の重みを思うと、アルノの胸にも静かな悔しさが込み上げてくる。


 しばらく誰も口を開かなかった。

 裂け目は静かだった。


 補修された魔法陣は淡い光を保ち続け、五百年前から受け継がれてきた術式と、アルノが繋ぎ直した線が一つの流れとなって裂け目を支えている。


 壁にもたれたリネが、大きく息を吐いた。

 赤茶色の髪は乱れ、肩からは血が流れている。

 それでも琥珀色の瞳は力強く、いつものように笑みを浮かべていた。


「生きてる?」


「リネこそ」


「何とか生きてる」


 そのやり取りに、アルノは思わず笑いそうになる。

 張り詰めていた緊張が一気にほどけ、膝から力が抜けた。

 そのまま石床へ座り込むと、震える指先がようやく自分の疲労を教えてくる。

 魔力はかなり削られていた。

 それでも意識ははっきりしている。

 倒れてはいない。

 まだ、自分の足で立てる。


 少し離れた場所では、レグルスが魔法陣全体を静かに観測していた。

 銀縁眼鏡の奥の灰紫色の瞳で術式の流れを確認すると、彼はいつもの落ち着いた口調でゆっくり頷く。


「安定しています」


 その一言を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものがようやく解けた。


 間に合った。

 本当に。


 エルディオンは裂け目へ視線を向ける。

 補修された術式を確かめ、最後にアルノへ目を移した。

 深い碧眼がわずかに細められ、穏やかな笑みが浮かぶ。


「よくやったね」


 アルノは目を瞬いた。

 言葉が出ない。

 その代わりに、隣でリネが小さく笑う。


「本当に」


 レグルスは眼鏡を軽く押し上げ、事実を確認するように静かに続けた。


「間に合わなければ終わっていました」


 褒めているのか、それとも単なる事実なのか。

 判別のつかない言い方が、いかにもレグルスらしかった。


 アルノはもう一度、裂け目を見つめる。


 魔法陣を見る。


 そして、自分の手で繋ぎ直した一本一本の線へ視線を落とした。


 胸の奥が、じんわりと熱い。

 邪竜と戦ったわけではない。

 自分の手で傷を負わせたわけでもない。


 それでも――。


 自分の力で、確かに何かを守れた気がした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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