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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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防衛戦

 咆哮が響いた。

 腹の底まで震わせるような轟音に、第四星環全体が大きく揺れる。

 天井から石片が降り注ぎ、裂け目の周囲に広がる魔法陣の光が一瞬だけ乱れた。


 アルノは反射的に振り返った。

 崩れ落ちた天井の向こうには、夕焼けに染まった空が広がっている。

 その赤い空を覆い隠すように、巨大な影が頭上を横切った。


 邪竜だった。


 黒い翼を大きく広げ、星環の上空を旋回している。

 五百年前、この島を死の島へ変えた存在が、再びこの場所へ戻ってきたのだ。

 その巨体には、以前の戦いで受けた傷が生々しく残っていた。

 左肩から背中にかけて黒い鱗が広い範囲で砕け散り、その下から白い傷跡が痛々しく露出している。

 黒い血が乾いた痕も残り、翼を動かすたびに傷口の周囲から砕けかけた鱗が剥がれ、夕暮れの風へ舞っていった。

 それほどの傷を負いながらも、邪竜の金色の瞳には苦痛も怒りも浮かんでいない。

 獲物を探すような冷たい光を宿したまま、静かに第四星環を見下ろしていた。


 その咆哮に応えるかのように、裂け目の向こう側で無数の目がざわりと動く。

 暗闇の奥に浮かぶ大小さまざまな目が一斉に瞬き、こちら側を窺っていた。

 邪竜の帰還を喜んでいるのか。

 それとも、外へ出る機会を待っているのか。

 アルノの背筋を冷たいものが走った。


「最悪ですね」


 隣に立つレグルスの声は硬かった。

 普段なら何が起きても観測した事実を淡々と口にする彼の表情にも、隠しきれない緊張が浮かんでいる。

 リネはすでに両拳を固く握り締めていた。

 蜜茶色のポニーテールが吹き込んだ風に揺れ、琥珀色の瞳が上空の邪竜を鋭く睨んでいる。


「どうする」


 短い問いだった。

 エルディオンはすぐには答えなかった。

 深い蒼の瞳で裂け目を見つめ、次に上空を旋回する邪竜へ視線を移す。

 夕焼けを受けた銀髪が赤く染まり、その横顔からはいつもの穏やかな笑みが消えていた。


「裂け目に近付けるな」


  低く告げられた声に、いつもの軽さはなかった。

 アルノは思わずエルディオンを見る。

 だが、彼の視線は邪竜を捉えたまま動かない。


「あの魔法陣が壊れたら終わる」


 誰も反論しなかった。その必要すらなかった。

 邪竜を倒すことよりも先に、この裂け目を守らなければならない。

 魔法陣が壊れれば、裂け目の向こう側でこちらを見つめているものが外へ出てくる。

 そうなれば、邪竜一体どころの話ではない。

 世界そのものが壊れる。


 邪竜が大きく翼を広げた。

 翼が空気を打っただけで、星環の内部まで激しい風が吹き込んでくる。

 床に積もっていた砂塵が巻き上がり、アルノは思わず片腕で顔を庇った。

 次の瞬間、邪竜の巨体が空から落ちてきた。


「……速い!」


 あれほど巨大な身体からは考えられない速度だった。

 黒い影が夕焼けを切り裂き、一直線に裂け目へ向かってくる。

 その進路へ、リネが迷わず飛び出した。

 踏み込んだ足元で石床が砕ける。

 鍛え抜かれた脚力で一気に間合いを詰めたリネは、落下してくる邪竜を正面から見据えた。


「おおおおおっ!」


 腰を深く落とし、全身の力を乗せた拳を振り抜く。

 直後、耳を塞ぎたくなるほどの轟音が弾けた。

 拳が邪竜の顎へ直撃し、爆ぜた空気が衝撃波となって周囲へ広がる。

 アルノのローブが激しくはためき、足元の小石が吹き飛ばされた。

 邪竜の巨体が、空中でわずかに揺らぐ。

 だが、止まらなかった。


 金色の瞳がゆっくりと動き、目の前に立つリネを捉える。

 その直後、黒い尾が空気を引き裂きながら横薙ぎに振るわれた。


「っ!」


 リネは咄嗟に両腕を交差させる。

 鈍い衝撃音が響いた。

 受け止めきれなかった身体が宙を舞い、そのまま石壁へ叩きつけられる。

 壁面に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、崩れた石と砂埃がリネの姿を覆い隠した。


「リネ!」


 アルノの声が裏返った。


「大丈夫!」


 返事はすぐに返ってきた。

 瓦礫を蹴散らしながら、リネが立ち上がる。

 口元からは赤い血が流れ、衝撃を受け止めた両腕も小さく震えていた。

 どう見ても大丈夫には見えなかったが、それでもリネはアルノを安心させるように笑った。


「思ったより重い!」


 口元の血を腕で拭い、すぐに態勢を整える。

 傷を確かめる暇すら惜しむように、再び邪竜の進路へ身体を向けた。


 その横を銀色の光が駆け抜けた。

 エルディオンが邪竜の眼前へ飛び込む。

 あまりにも速く、アルノにはその動きを目で追うことができなかった。

 銀色の光が一度だけ瞬いたように見えた直後、邪竜の顔面で巨大な爆発が起きる。

 衝撃に煽られ、邪竜の首が大きく仰け反った。

 苦痛を帯びた咆哮が空気を引き裂く。石柱が震え、裂け目を覆う魔法陣の光が波打った。

 怒っている。

 痛がっている。

 それなのに、邪竜の視線はエルディオンへ向いていなかった。


 違和感を覚えたアルノは、金色の瞳が捉えているものを追った。

 邪竜が見ているのは、眼前に浮かぶエルディオンではない。

 先ほど自分を殴ったリネでもなく、魔法陣の周囲に立つアルノたちでもなかった。


「……違う」


  思わず声が漏れる。

  邪竜が見ているのは、裂け目だった。

  巨大な瞳は一度も逸れることなく、その向こうに満ちる暗闇だけを見つめ続けている。

  レグルスも同じことに気付いたらしい。

 銀縁眼鏡の奥で灰紫色の目を細め、邪竜の視線と裂け目の位置を素早く見比べた。


「目的は変わっていません」


 冷静な声だったが、言葉には確かな緊張が滲んでいた。


「異界エネルギーです」


 その一言で、邪竜がこの場所へ戻ってきた理由が繋がった。

 ここへ来たのは、五百年前の因縁に引かれたからではない。

 自分たちを追ってきたわけでもなかった。

 邪竜は食事をしに来たのだ。

 第二星環で負った傷を癒やし、失った力を取り戻すため、裂け目から流れ出す異界エネルギーを求めている。

 だから、どれだけ攻撃されても裂け目へ向かう。


 邪竜が空中で翼を畳んだ。

 その姿を見た瞬間、アルノの胸を嫌な予感が貫いた。

 邪竜の頭部がわずかに持ち上がり、金色の瞳が裂け目を真っ直ぐに捉える。

 エルディオンも同時に気付いた。


「まずい!」


 銀色の光を纏い、邪竜との距離を一気に詰めようとする。


 だが、邪竜の方が早かった。

 大きく開かれた口の奥へ、周囲の光を呑み込むような黒い魔力が集まり始める。

 赤黒い稲妻が牙の間を走り、空気そのものが震えた。


 狙っているのは、エルディオンではない。

 裂け目を覆う魔法陣だった。


  次の瞬間、黒い奔流が放たれた。

 轟音とともに闇が押し寄せる。

 エルディオンが進路へ割り込み、幾重もの防御術式を瞬時に展開した。

 銀色の魔法陣と黒い奔流が正面から衝突し、星環を揺るがすほどの衝撃が弾ける。


 完全には防ぎきれなかった。

 逸らされた黒い光の一部が床を抉り、裂け目を囲む魔法陣へ直撃する。

 術式の光が大きく歪み、重なっていた円環の一部が明滅した。  

 星環が悲鳴を上げるように軋んだ。

 熱と衝撃が一気に押し寄せ、アルノは反射的に両腕で顔を庇う。

 砕けた石が身体へぶつかり、激しい風が足元をさらっていく。


 石が砕ける音。

 風が裂ける音。

 あらゆる音が混ざり合い、視界が一瞬、真っ白に染まった。


 何秒経ったのか分からなかった。

 耳の奥に残る轟音の中で、アルノは恐る恐る顔を上げる。

 舞い上がった砂埃が少しずつ晴れ、その向こうに裂け目の姿が浮かび上がった。


 魔法陣は残っていた。

 それを確認した瞬間、張り詰めていた息がわずかに緩む。

 だが、安心するより早く、アルノは異変に気付いた。

 裂け目を囲む魔法陣の光が乱れている。


「……っ!」


 考えるより先に身体が動いていた。

 アルノは砕けた石を避けながら裂け目の前へ駆け寄り、床いっぱいに広がる魔法陣を覗き込む。

 明滅を繰り返す術式を目で追った瞬間、息を呑んだ。


 剥がれていた。

 重なり合う補強術式のうち、ほんの一枚だけだった。

 損傷した範囲も決して広くはない。

 けれど、アルノには分かった。


 致命的だった。



「アルノ!」


 レグルスが瓦礫を避けながら駆け寄ってくる。

 眼鏡の奥の目は魔法陣の明滅を追い、すでに異常の位置を探していた。


「何が起きました」


「補強術式です」


 アルノの声は震えていた。


「一枚剥がれました」


 その言葉に応えるように、裂け目の向こう側が大きく揺れた。

 暗闇の奥に浮かぶ無数の目が、ざわりと動く。

 先ほどまで遠くからこちらを見ていただけの目が、わずかに大きくなったように見えた。


 近付いている。

 少しずつ。

 ゆっくりと、こちらへ。


 アルノの喉が詰まった。

 五百年前の記録に残されていた言葉が、頭の中をよぎる。


 何かがこちらを見ている。

 今も見ている。

 ずっと、向こう側から。


 あれは過去の記録ではなかった。

 五百年前から今まで、裂け目の向こうにいるものは、こちら側へ出る機会を待ち続けていたのだ。

 レグルスの顔色も変わった。


「まずいですね」


 普段ならどんな状況でも事実だけを述べる声に、焦りが滲んでいる。


 まずい。

 本当にまずい。

 このまま術式が崩れれば、向こう側にいるものが裂け目を越えてくる。


 邪竜を止めるどころか、自分たちがここから生きて戻れるかさえ分からない。

 それでも、明滅する魔法陣を見つめているうちに、恐怖とは別の感覚がアルノの中へ浮かび上がってきた。


 分かる。

 どこが壊れたのか。

 どの線と繋がり、何を支えていたのか。


 つい先ほどまで、アルノはこの封鎖術式の構造を読み解いていた。

 時間を忘れるほど夢中になって、何層にも重ねられた魔力流路を追い、この術式を組んだ人物の思考へ少しでも近付こうとしていた。

 すべてを理解できたわけではない。

 それでも、何を守ろうとしていたのかは分かる。

 だから読める。

 壊れた線の先を追うことができる。

 この魔法陣を最初から組み上げることはできない。

 だが、剥がれた一枚だけなら、補強できるかもしれない。


「アルノ」


 隣に立ったレグルスが問う。


「修復できますか」


 アルノはすぐには答えられなかった。


 裂け目を見る。

 魔法陣を見る。


 その向こう側からこちらを見つめる、無数の目を見る。


 怖かった。

 怖くないわけがない。

 指先は冷たくなり、呼吸もうまくできない。


 もし失敗すれば、自分の目の前で術式が崩れ、向こう側にいるものがこちらへ出てくる。

 けれど、ここで止まれば終わる。


 リネも、レグルスも、エルディオンも、今は邪竜を裂け目から遠ざけるために戦っている。

 その時間を無駄にはできなかった。


 アルノは震える指先を強く握り締める。


「やります」


 できるかどうかではない。

 やるしかなかった。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

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