ルーメル書房
あれから、エルディオンは王宮へ向かった。
邪竜復活の報告と、今後について国王へ直接説明するためだという。
一方、アルノは帰途についていた。
夕暮れの王都は、いつもと変わらなかった。
石畳の道には買い物帰りの人々が行き交い、露店からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
子どもたちが走り回り、店じまいを始める商人たちの声が街へ溶けていく。
ほんの数時間前。
邪竜が復活したとは思えないほど、穏やかな景色だった。
本当に、夢みたいだ。
伝説の魔術師。
エルディオン・ルクス=アルヴァレス。
その人と旅に出る。
そんな話を、誰が信じるだろう。
アルノは思わず苦笑した。
考え事をしているうちに、見慣れた木の看板が目に入る。
ルーメル書房。
王都の大通りから一本外れた場所にある、小さな本屋だった。
魔術書や専門書を多く扱うため、研究者や魔術師もよく訪れる。
アルノが生まれ育った家でもあった。
扉を開くと、紙とインクの匂いがふわりと鼻をくすぐる。
昔から変わらない、この店の匂いだった。
「ただいま。」
「おかえり。」
店の奥から穏やかな声が返ってくる。
父は丸眼鏡を掛け、本を読んでいた。
客がいない時間になると、いつもこうだった。
本屋なのに、商売より本を読んでいる時間の方が長い。
ページへ栞を挟み、本を閉じる。
「儀式は終わったのか。」
「うん。」
アルノは頷いた。
「話したいことがあるんだ。」
その一言で、父の表情が少しだけ変わる。
「アルノ?」
台所から母が顔を出した。
ふくよかな体を揺らしながら近付いてくる。
「おかえり。お腹空いたでしょう?」
「ご飯できてるわよ。」
柔らかな笑顔を見た瞬間、張り詰めていた気持ちが少しだけほどけた。
「ありがとう。」
「でも、その前に。」
アルノは二人を見た。
「聞いてほしい話がある。」
食卓には、大きな鍋いっぱいのシチューが並んでいた。
焼きたてのパン。
色鮮やかなサラダ。
香草を添えた鶏肉。
母は昔から、少し作りすぎる。
「研究ばっかりしてるんだから、ちゃんと食べなさい。」
それが口癖だった。
三人が席に着く。
湯気の向こうで、父が静かに口を開いた。
「それで。」
「何があった。」
アルノは一度だけ深呼吸した。
「僕。」
胸の奥が少しだけ震える。
「旅に出る。」
食卓が静かになった。
母の手が止まる。
父は黙ったまま、続きを待っている。
アルノは今日あったことを、一つずつ話した。
儀式のこと。
邪竜が復活したこと。
伝説の魔術師が目を覚ましたこと。
そして。
自分が助手に選ばれたこと。
全部話し終える頃には、シチューの湯気も冷めていた。
父はしばらく黙っていた。
やがて丸眼鏡を外し、静かにテーブルへ置く。
「そうか。」
短い一言だった。
それでも、その言葉にはいろいろな感情が込められている気がした。
母が少し不安そうに尋ねる。
「危ないの?」
アルノは少しだけ困ったように笑う。
「……分かんない。」
邪竜を追う旅になる。
どれほど危険なのか、自分にも分からない。
母は小さく頷いた。
「そう。」
少しだけ笑う。
「じゃあ、危なくなったらすぐ逃げるのよ。」
「命より大事なものなんてないんだから。」
アルノは少しだけ笑った。
「うん。」
しばらく誰も話さなかった。
時計の針だけが、小さく時を刻んでいる。
父は丸眼鏡を掛け直し、テーブルへ肘をついた。
「旅に出ると決めたのは。」
静かな声だった。
「アルノ自身か。」
アルノは父を見る。
「……うん。」
「エルディオン様に言われたからじゃないんだな。」
「違う。」
あの時のことを思い出す。
差し出された白い手。
深い碧眼。
そして。
『世界を救いに行こうか。』
あの言葉は、今も胸に残っている。
「僕が行きたいと思った。」
父はゆっくり頷いた。
「そうか。」
それだけだった。
反対はしない。
引き止めもしない。
ただ、息子の答えを受け止めてくれた。
母は少し寂しそうに笑う。
「寂しくなるわねぇ。」
「毎日、本ばっかり読んでた子が、今度は旅に出るなんて。」
母は少しだけ目を潤ませながら笑った。
父が立ち上がる。
本棚へ向かい、一冊の古い本を持って戻ってきた。
擦り切れた革表紙。
何度も読み返された跡がある。
「覚えてるか。」
アルノは目を丸くした。
「……これ。」
子どもの頃、何度も読んだ絵本だった。
表紙には、長い銀髪の魔術師が描かれている。
『封印の魔術師エルディオン』
この国の子どもなら、一度は読む物語だった。
「新しい本が入るたび、お前は魔法陣の本ばかり読んでいた。」
父は少し笑う。
「でも、この本だけは何度も読んでいたな。」
アルノも笑った。
「読んでた。」
「英雄が好きだったわけじゃない。」
「うん。」
「最後の魔法陣が気になって。」
父も母も吹き出した。
「やっぱりそこか。」
「アルノらしいわ。」
三人で笑う。
ほんの短い時間だった。
でも、その時間がたまらなく愛しかった。
父は絵本を閉じる。
「行ってこい。」
短い言葉だった。
「自分で決めた道なら、最後まで歩いてこい。」
アルノは力強く頷く。
「うん。」
母は立ち上がると、アルノの頭へそっと手を置いた。
「ご飯だけはちゃんと食べるのよ。」
「眠れる時はちゃんと眠ること。」
「危なくなったら逃げる。」
「約束。」
「約束。」
その夜。
自室へ戻ったアルノは、小さな鞄を広げた。
着替え。
筆記用具。
魔法陣を書くための紙。
インク。
窓を開けると、王都の夜風が部屋へ流れ込む。
見慣れた景色だった。
明日になれば、この景色をしばらく見ることはない。
アルノは窓の外を見つめ、小さく息を吸う。
本当に。
旅が始まるんだ。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は21時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




