伝説の魔術師
「君だけ気付いてたね。」
その一言が、アルノの頭の中で繰り返される。
伝説の魔術師が、自分を見ている。
信じられなかった。
絵本の題材にもなった伝説の魔術師。
実家のルーメル書房は魔術書や専門書が中心だったが、その絵本だけは店の棚に並んでいた。
アルノも、子どもの頃に何度か読んだことがある。
その英雄が、今は目の前に立っている。
封印の地は静まり返っていた。
ひび割れた白い石床。
焼け焦げた魔法陣。
倒れた石柱。
立ち尽くす魔術師たち。
誰も動けない。
誰も、次に何を口にすればいいのか分からなかった。
その静寂を破ったのは、ガルディアだった。
「……エルディオン様。」
豪奢なローブをまとった壮年の魔術師が一歩前へ出る。
白髪交じりの髪がわずかに揺れた。
エルディオンはゆっくり振り返る。
「うん。」
穏やかな返事だった。
「申し訳ございません。邪竜は封印を脱し、空へ飛び去りました。」
「そうか。」
短く頷く。
怒りも焦りも見せない。
深い碧眼が崩れた封印地を静かに見回した。
「追わないとね。」
穏やかな一言だった。
それだけで、誰もが我に返る。
止まっていた時間が、ようやく動き始めた。
ロイドが周囲を見渡した。
銀縁眼鏡の奥の目は落ち着いている。
「負傷者の確認を。倒れかけた石柱には近付かないでください。」
慌てていた魔術師たちが、一斉に動き始めた。
エルディオンが静かに前へ出る。
風を受けた長い銀髪がさらりと肩を流れ、深い碧眼が崩れた石柱へ向けられた。
「下がって。」
全員が道を空けた。
エルディオンは白い指先を石柱へ触れさせた。
淡い光が広がる。
砕けた石片が、ゆっくりと浮かび上がった。
「……。」
誰も息をすることさえ忘れていた。
石片はゆっくり震えた。
次の瞬間、互いを求め合うように宙へ浮かび、吸い寄せられるように集まり始める。
誰も声を出せない。
崩れていた石柱は、音もなく元の姿を取り戻していった。
最後の欠片が収まると、ひび割れさえ消えていた。
まるで最初から壊れていなかったようだった。
あちこちから、小さく息を呑む音が漏れる。
エルディオンは石柱を見上げ、小さく頷いた。
「うん。」
深い碧眼が一度だけ確かめるように細められる。
「これなら大丈夫。」
それだけ言うと、今度は足元へ視線を落とした。
焼け焦げた魔法陣。
崩れた術式だけは、そのまま残っている。
アルノも自然と目を向けた。
焼けた接続。
崩れた線。
頭の中で何度も組み直す。
もし、ここを少し変えられていたら。
そんな考えが止まらない。
栗色の髪がわずかに揺れる。
淡い灰色の瞳は、壊れた魔法陣だけを映していた。
その瞳が、少しだけ輝く。
エルディオンは、その横顔を見つめる。
「……なるほど。」
小さく笑った。
ガルディアが再び前へ出る。
「エルディオン様。」
「うん?」
「どうか、私をお連れください。」
辺りが静まり返る。
ガルディアは真っ直ぐ背筋を伸ばえた。
「私は魔術塔最高統制官、ガルディア・ノルヴェン。」
「今回の再封印計画を統括してまいりました。」
「魔法陣理論、封印術式、遺跡調査。知識も経験もございます。」
「必ず、お力になれるかと存じます。」
誰も異論はなかった。
この場で最も経験があり、最も知識を持つ魔術師。
助手を選ぶなら、当然ガルディアだ。
そう思っていた。
エルディオンは穏やかに笑う。
「うん。」
「すごいね。」
ガルディアの表情が少しだけ緩む。
しかし。
「でも。」
その一言で、周りの空気が止まった。
「僕が一緒に行きたいのは、君じゃない。」
ガルディアの表情が強張る。
「……では、誰を。」
エルディオンは迷わず封印地の隅へ視線を向けた。
「君。」
栗色の髪がぴくりと揺れた。
アルノは思わず後ろを振り返る。
誰もいない。
ゆっくりと自分を指差した。
「……ぼ、僕ですか?」
周りがざわめく。
「見習いだぞ。」
「まだ子どもじゃないか。」
「なぜ、あの子を……。」
困惑が広がる。
ガルディアが一歩前へ出た。
豪奢なローブが静かに揺れる。
「お待ちください。」
「その者は見習いです。」
「知ってる。」
「実戦経験もありません。」
「うん。」
「知識も経験も、私には及びません。」
エルディオンは穏やかに頷いた。
「そうだね。」
あっさり認める。
ガルディアは続ける。
「でしたら、なおさら――」
「……僕、戦えません。」
アルノは柔らかな栗色の髪を揺らし、俯いた。
少したれた灰銀色の瞳が、不安そうに伏せられる。
周りの視線が一斉に集まる。
胸が苦しい。
それでも、言わずにはいられなかった。
「魔力量も多くないですし……実戦経験も、ほとんどありません。」
「その……。」
何を言えばいいのか分からない。
喉が渇く。
「僕なんかが行っても……。」
声は自然と小さくなった。
「役に立てないと思います。」
しばらく誰も口を開かなかった。
エルディオンだけが、静かな碧眼でアルノを見つめている。
「役に立つかどうかで選んでないよ。」
穏やかな声だった。
アルノはゆっくり顔を上げる。
「君、見えてるから。」
その一言で、呼吸が止まる。
「……え。」
「さっきも見えてたよね。」
エルディオンは焼け焦げた魔法陣へ視線を向けた。
「崩れるって。」
アルノは唇を噛んだ。
「……見えてました。」
声は自然と小さくなった。
エルディオンは嬉しそうに頷く。
「普通の魔術師はね。」
白い指先が空中をなぞる。
淡い光が一本の線となって浮かび上がる。
「魔法陣の形を見る。」
光の線が円を描き、その内側へ文字が並ぶ。やがて一つの術式が空中に組み上がった。
「でも君は違う。」
光が静かに揺れた。
一本だった線が枝分かれし、互いを結び始める。線は線へ、文字は文字へ、魔力は魔力へと繋がり、無数の流れが一つの術式を形作っていった。
「君は、繋がりを見てる。」
アルノは目を見開いた。
それは、自分にとって当たり前の景色だった。
だから一度も、特別なものだと思ったことがない。
「……あ。」
思わず声が漏れる。
エルディオンが小さく笑う。
「ほら。」
「今も分かった。」
アルノは息を呑む。
この人だけだ。
自分が見ている世界を、そのまま言葉にしてくれた人は。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
「名前は?」
突然話を振られ、アルノは肩を震わせた。
慌てて姿勢を正す。
「ア、……アルノ・ルーメルです。」
少しだけ噛んだ。
自分でも情けなくなる。
「アルノか。」
エルディオンは、その名前を一度だけ口にした。
それだけなのに、自分の名前が少しだけ特別なものになったような気がした。
白く細い手が、静かに差し出される。
「一緒に来る?」
ふわり、と淡い香りがした。白い花のようなのに甘くない。
冷たい夜気へ溶けるような香りだった。
命令ではない。試すようでもない。
ただ、本当に誘っているだけだった。
アルノは差し出された手を見つめた。
焼け焦げた魔法陣へ目を移し、周囲に立つ魔術師たちを見る。
怖かった。
魔力も少なく、まともに戦うこともできない自分が、伝説の魔術師と共に邪竜を追う。
そんな資格があるとは思えない。
それでも、魔法陣を前にすると、胸の奥がどうしようもなく高鳴った。
この人の隣なら、自分に見えているものの意味を知ることができるかもしれない。
アルノはゆっくりと顔を上げた。
「……行きます。」
おそるおそる手を取る。白く細い指は、見た目に反して温かかった。
エルディオンは柔らかく笑った。
「うん。」
月光を溶かしたような銀髪が、風に静かに揺れる。
「世界を救いに行こうか。」
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!




