死の島
島が見えたのは昼過ぎだった。
アルノは甲板へ出る。
水平線の上に、小さな黒い影が浮かんでいた。
最初は岩礁かと思った。だが、船が進むにつれ、その影はゆっくりと輪郭を現していく。
島だった。
遠目には、ごく普通の島に見える。
しかし船が近付くにつれ、その印象は静かに崩れていった。
島を覆う木々は黒く変色し、崖肌には黒い筋が幾筋も走っている。
海沿いに残る石造りの建物も、ところどころ崩れ落ちていた。
まるで島全体が、長い年月をかけて少しずつ蝕まれてきたようだった。
アルノは思わず息を呑む。
「……近付きたくないな」
隣でリネが小さく呟いた。
アルノも同じ気持ちだった。
景色を見ているだけなのに、本能が近付くなと警鐘を鳴らしている。
船尾ではベイルが舵を握ったまま、島ではなく海面を鋭く見つめていた。
「……おかしい」
低く呟く。
「魚が跳ねねぇ。海鳥も寄ってこねぇ」
アルノたちは海を見回した。
言われてみれば、生き物の気配がほとんどない。
波だけが静かに揺れている。
ベイルは舌打ちすると、小さく息を吐いた。
「ちっ……やっぱり嫌な海だ」
それでも視線は海面から外さない。
「港跡までだ。その先は、お前さんたちに任せる」
レグルスが静かに頷いた。
「承知しています」
その時だった。
船体が、不自然に揺れた。
ベイルの目が鋭く細まる。
「来るぞ! 何かにつかまれ!」
海面が大きく盛り上がった。
次の瞬間。
船の脇から巨大な魚影が躍り出る。
全長は五メートルを超えていた。
黒ずんだ鱗に覆われた巨体。
裂けるように大きく開いた口には槍のような牙が並び、濁った黄色い瞳だけが獲物を見据えている。
「頼んだぞ!」
ベイルの叫びが響く。
エルディオンが一歩前へ出た。
潮風を受け、長い銀髪がさらりと流れる。
深い碧眼は迫り来る魔獣だけを静かに映していた。
「Fract――破砕。」
銀色の閃光が一直線に駆け抜けた。
巨大な魚型魔獣は空中で弾き飛ばされ、そのまま勢いよく海面へ叩きつけられる。
――どぉんっ!
轟音とともに高々と水柱が上がった。
「うわっ!」
降り注いだ海水が甲板を叩き、四人まとめてずぶ濡れになる。
リネは顔へ張り付いた髪を払いながら声を上げた。
「エルさん! ずぶ濡れになった!」
エルディオンは三人を見回し、困ったように笑う。
「水しぶきまでは止められなかったね」
アルノは思わず笑い、リネも苦笑した。
「助かったから文句は言わないけどね」
そのやり取りを聞いていたベイルも、小さく笑う。
「そんな余裕があるなら安心だ」
だが、すぐにその表情は引き締まった。
「……まだ島の縄張りだ。気を抜くな」
その後も海の魔獣が次々と水面を破って襲いかかってきたが、エルディオンは銀の閃光で、船から十分に離れた位置へ一体ずつ撃ち落としていった。
今度は甲板へ水飛沫ひとつ届かず、潮風だけが濡れた髪を揺らしていく。
最初は四人まとめてずぶ濡れにしたのに、二度目から完璧に調整するあたりが、エルディオンらしい。
船が島へ近付くにつれ、笑い声は自然と消えていく。
潮風に混じる空気が変わった。
冷たい。
それだけではない。
胸の奥へ重く沈み込むような圧迫感があった。
アルノは島を見つめる。
近付けば近付くほど、黒く変色した木々や崩れた建物がはっきりと見えてくる。
そこには、人の営みがあったとは思えないほど静かな景色が広がっていた。
「……着くぞ」
ベイルの低い声が静かな海へ落ちた。
船は速度を落としながら、朽ち果てた港跡へゆっくりと近付いていく。
岸壁の石畳はところどころ崩れ、海へ沈みかけていた。
係留柱は折れ、かつて船を繋いでいたであろう太い鎖も赤黒く錆び付いている。
人気はなかった。
波が岸壁を打つ音だけが、静かな港へ繰り返し響いている。
ベイルは慎重に船を寄せると、静かに綱を結んだ。
「ここまでだ。」
「俺は約束どおり沖で待つ。日が暮れるまでに戻って来なけりゃ、そのまま引き返す。」
「いいな。無茶だけはするな。」
四人は頷いた。
「ありがとうございました。」
アルノが頭を下げると、ベイルは照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「礼なら帰ってきてから聞く。」
「ほら、行ってこい。」
アルノたちは荷物を背負い直し、船から岸壁へ飛び移る。
その瞬間だった。
胸の奥へ、重い何かが沈み込んだ。
思わず息を止める。
「……っ。」
空気が違う。
潮の匂いに混じって、説明のつかない淀みが漂っていた。
幹は黒く変色し、枝は不自然にねじれている。
葉も緑ではなく、灰色に近い色へ変わっていた。
五百年という歳月をかけて、大地そのものへ染み込んだ汚染。
地面を踏みしめるたび、靴底から嫌な感覚が伝わってくる。
「アルノ、大丈夫?」
リネが心配そうに覗き込む。
アルノは小さく頷いた。
「うん……でも。」
一度言葉を切り、港を見渡す。
「第一星環とは、全然違う。」
レグルスも周囲を見回しながら静かに口を開く。
「予想以上です。」
銀縁眼鏡の奥の灰紫色の瞳が、崩れた港を冷静に観察していた。
「長期間にわたって蓄積した影響でしょう。」
エルディオンは何も言わない。
長い銀髪を潮風に揺らしながら、ただ静かに港の奥を見つめていた。
その横顔は穏やかなままだったが、碧眼だけがどこか遠くを見ているようだった。
その時。
崩れた倉庫の奥で、小さく石が転がる音が響いた。
四人の視線が、一斉にそちらへ向く。
瓦礫の隙間から、黒い影がゆっくりと姿を現した。
狼ほどの大きさ。
だが、その姿は獣とは呼べない。
全身を黒ずんだ鱗が覆い、背びれのような突起が背中から尾まで連なっている。
裂けたように大きく開いた口からは鋭い牙が幾重にも覗き、濁った黄色い瞳だけがぎらりと光った。
魚と獣を無理やり繋ぎ合わせたような、不自然な姿だった。
「魚型魔獣…?」
アルノが呟く。
さらに瓦礫の奥で影が動いた。
一体。
二体。
さらにもう一体。
低いうなり声を漏らしながら、ゆっくりと四人を囲むように歩き出す。
「三体ですね。」
レグルスが冷静に数を告げる。
リネは一歩だけ前へ出た。
赤茶のポニーテールがふわりと揺れ、琥珀色の瞳が真っ直ぐ魔獣を見据える。
「ここは私がやる。」
静かな声だった。
次の瞬間、魔獣が地面を蹴る。
一直線に飛びかかってきた。
だが、リネは動じない。
踏み込む。
互いの距離が一瞬で消えた。
鋭い牙が届くより早く、拳が魔獣の顎を打ち抜く。
鈍い衝撃音が響き、巨体が横へ吹き飛んだ。
そのまま石壁へ激突し、崩れた瓦礫を巻き込みながら動きを止める。
間髪入れず、二体目が横から飛びかかった。
リネは身体を半歩だけ捻る。
牙を紙一重でかわすと、その勢いを利用して腹部へ拳を叩き込んだ。
魔獣は苦鳴を上げながら地面を転がり、石畳を削って止まる。
残る一体が低く唸り、様子をうかがうように距離を取った。
「逃がさない。」
リネは地面を蹴る。
小柄な身体が一気に間合いを詰めると、拳が唸りを上げた。
魔獣の身体が宙へ浮く。
そのまま崩れた倉庫の壁へ叩きつけられ、大きな音を立てて崩れ落ちた。
静寂が戻る。
吹き抜けた風だけが、崩れた港町を静かに通り過ぎていった。
倒れた魔獣の身体から、どろりと黒い液体が流れ出した。
石畳へ落ちた雫は、じゅっと嫌な音を立てながら黒い染みを広げていく。
「汚染……。」
アルノは反射的に一歩前へ出た。
このまま放置すれば、周囲へ広がるかもしれない。
右手をかざし、小さく息を吸う。
「Purus――浄化。」
足元へ展開した魔法陣が淡く輝き、柔らかな白い光が黒い液体を包み込む。
しばらく拮抗するように黒と白が揺れたあと、黒い染みは静かに薄れ、そのまま跡形もなく消えていった。
レグルスがしゃがみ込み、浄化された石畳を観察する。
「……残留汚染は確認できません。完全に浄化されています。」
アルノはほっと息を吐いた。
術は問題なく成功した。
それなのに。
「……っ。」
身体から力が抜けるような感覚に、思わず膝が揺らぐ。
ほんのわずかな浄化魔法だ。
本来なら息一つ乱れるような術ではない。
それでも身体だけが鉛のように重かった。
「アルノ?」
リネがすぐに隣へ駆け寄る。
心配そうな琥珀色の瞳が覗き込んできた。
「大丈夫?」
「う、うん。」
アルノは小さく笑って頷く。
「ちょっと疲れただけ。」
そう答えたものの、自分でも違和感は隠せなかった。
第一星環で倒れてから十日。
体力は戻りつつある。
それでも、身体の奥にはまだ見えない傷が残っているようだった。
少し離れた場所で、その様子をエルディオンが静かに見つめていた。
長い銀髪が潮風に揺れる。
深い碧眼がアルノを映したまま、何も言わない。
ただ、その視線だけが、いつもより少しだけ長くアルノへ向けられていた。
港の先には町があった。
いや、町だった場所だ。
崩れた石造りの建物が並び、窓は割れ、扉は朽ち果てている。
通りには人影一つなく、潮風だけが瓦礫の間を吹き抜けていた。
アルノは静かに辺りを見回す。
「……本当に人が住んでいたんですね。」
エルディオンは小さく頷いた。
「うん。」
短い返事だった。
崩れた岸壁へ目を向ける。
「あそこには避難船が並んでた。」
その声は穏やかだった。
「港中が慌ただしくてね。みんな荷物を抱えて、少しでも早く島を出ようとしてた。」
アルノは波打ち際を見つめる。
今は波が静かに岸を打つだけだ。
けれど五百年前、この場所には泣き声も叫び声も、人々の足音も響いていたのだろう。
「今みたいな静かな島じゃなかったよ。」
エルディオンはそれだけ言うと、ゆっくりと歩き出した。
誰も言葉を返さない。
四人は崩れた町並みを進みながら、島の奥を目指した。
石畳はところどころ陥没し、倒壊した建物が道を塞いでいる。
崩れた壁には黒い染みが幾重にも広がり、木々は枝をねじ曲げたまま空へ伸びていた。
レグルスは周囲を見渡しながら、銀縁眼鏡の位置を指先で直す。
「建物の配置から見て、この先に公共施設が集中していたようです。」
地図と周囲の景色を見比べ、小さく頷いた。
「魔術ギルドも、この辺りにあったはずです。」
アルノも崩れた建物を見回す。
五百年という時間は、町の姿をほとんど奪っていた。
それでも、ここには確かに人々の暮らしがあった。
その痕跡だけが、静かに残されていた。
しばらく歩いた先で、半ば崩れた石造りの建物が視界に入る。
入口の上には、風化しかけた紋章が辛うじて残っていた。
レグルスの表情がわずかに変わる。
「……見つけました。」
静かな声だった。
「魔術ギルドです。」
半壊した魔術ギルドは、辛うじて原形を保っていた。
正面の柱は崩れ落ち、屋根も半分ほど失われている。
それでも石造りの壁だけは頑丈に残り、長い年月を耐え抜いてきたことがうかがえた。
レグルスは建物全体を見回し、静かに口を開く。
「地下があるはずです。」
灰紫の瞳が崩れた床や壁を順に追っていく。
「神代文明期の魔術ギルドは、重要な資料を地下書庫へ保管する構造が一般的でした。地上部分が倒壊していても、地下は残っている可能性があります。」
そう言うと、迷いなく建物の中へ足を踏み入れた。
三人も後に続く。
室内は崩れた石材や木片が散乱し、歩くたびに乾いた埃が舞い上がった。壁際には本棚だったものが横倒しになり、風化した紙片が床一面へ散らばっている。
レグルスはしゃがみ込み、散乱した資料を一枚ずつ確かめ始めた。
紙へ触れる手つきは驚くほど慎重だった。
少し力を入れれば崩れてしまう。
そんな古い資料ばかりだった。
アルノも近くの棚へ目を向ける。
羊皮紙は茶色く変色し、文字はほとんど消えている。
持ち上げようとしただけで端から崩れ落ち、指先へ細かな砂のようになって残った。
「……読めない。」
思わず呟く。
「五百年です。当然でしょう。」
レグルスは視線を上げることなく答えた。
「保存術式が施されていない紙は、この程度の状態になります。」
それでも手は止まらない。
崩れた棚をどかし。
積もった埃を払い。
一冊ずつ。
一枚ずつ。
静かに調べ続ける。
どれほど時間が過ぎただろうか。
不意に、レグルスの動きが止まった。
崩れた棚の陰から、一つの紙束を慎重に持ち上げる。
厚い革表紙は埃に覆われていたが、不思議なことに崩れてはいない。
レグルスは袖でそっと表紙を払った。
掠れながらも、文字が姿を現す。
『イオ島異常調査記録』
アルノは静かに息を呑んだ。
イオ島。
それは、この死の島の本来の名前だった。
五百年前、この島で何が起きたのか。
その答えが、今まさに目の前にあった。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は21時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




