↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/84

海の向こう

 休息を終えて宿を発ってから、七日が過ぎていた。


 一行は南西へ続く街道を進んでいた。


 山あいの道を抜けるにつれ、周囲の景色は少しずつ姿を変えていく。

 険しかった斜面は緩やかな丘陵へ変わり、その先には風に揺れる草原がどこまでも続いていた。


 街道沿いには小さな宿場町が点在している。一日の終わりにはそこで身体を休め、翌朝になれば再び南西へ向かう。無理のない行程を重ねるうちに、アルノの身体も少しずつ本来の調子を取り戻していた。


 十日間眠り続けていた影響は、まだ完全には消えていない。

 長い時間歩けば足は重くなり、荷物を背負った肩には鈍い痛みが残った。


 それでも、宿を出た頃と比べれば、足取りは見違えるほど軽くなっている。


 隣を歩いていたリネが、ちらりと横目でアルノの様子をうかがった。

 潮気を含み始めた風に、明るい赤茶色のポニーテールが揺れている。


「今日は調子どう?」


 歩調を合わせながら尋ねられ、アルノは小さく笑った。

 柔らかな栗色の髪が風に揺れ、少したれた灰銀色の瞳が穏やかに細められる。


「だいぶ楽になったよ。最初の頃は少し歩くだけで息が上がってたけど、最近はずいぶん歩けるようになった」


「それならよかった」


 リネはほっとしたように頷いた。

 大きなアーモンド形の琥珀色の瞳には、まだわずかに心配そうな色が残っている。


 その時、後ろから穏やかな声が聞こえた。


「でも、無理だけはしないこと。つらい時は、ちゃんと言うんだよ」


 エルディオンの長い銀髪が、草原を渡る風を受けてさらりと流れる。

 深い碧眼は柔らかく、アルノの足取りを静かに見守っていた。


「はい、エルさん」


 アルノが素直に頷くと、その隣を歩いていたレグルスが銀縁眼鏡を指先で押し上げた。


「体力が尽きた場合、荷物は私が預かります。アルノさん本人はリネさんにお願いします」


「なんで私なのよ」


「四人の中で最も安定して運べるからです」


 淡い金髪を風に揺らしながら、レグルスは事実を告げるように答えた。

 灰紫色の瞳には冗談を言っている様子がまったくなく、リネは困ったように笑った。


 そんなやり取りを交わしながら歩いていると、草原を渡っていた風の匂いがふっと変わった。

 乾いた草の香りに、湿り気が混じっている。

 アルノは足を止め、小さく息を吸い込んだ。


「……海」


 鼻先をくすぐったのは、微かな潮の香りだった。


 前方では街道が緩やかな下り坂となり、その先に青く輝く水平線が見えている。

 陽光を受けた海面が、遠くで細かな光を弾いていた。

 リネも目を細める。


「着いたね」


 レグルスは地図と周囲の地形を見比べ、静かに頷いた。


「予定どおりです」


 街道をさらに下ると、やがて港町の全景が目の前に広がった。


 大小さまざまな帆船が岸壁に並び、船員たちは声を掛け合いながら荷物を積み込んでいる。

 市場からは魚を競り落とす威勢のいい掛け声が響き、潮風に乗って焼き魚の香ばしい匂いが漂ってきた。


 白い海鳥が甲高く鳴きながら、港の上空を旋回している。

 そこにあったのは、不吉な気配に包まれた町ではなかった。

 漁へ向かう者がいて、荷を運ぶ者がいて、朝から食事を楽しむ者がいる。

 活気に満ちた、ごく普通の港町だった。


 アルノは思わず周囲を見回した。


「思っていたより……普通ですね」


「何を想像してたの?」


 リネが少しおかしそうに笑う。


「死の島の近くだから、もっと重苦しい雰囲気なのかと思ってた」


 すると、近くで魚を並べていた漁師が、その言葉を聞いて豪快に笑った。


「坊主、それは失礼ってもんだ」


 アルノは慌てて頭を下げる。


「すみません」


「気にするな。俺たちは普通に漁をして、普通に飯を食って、普通に暮らしてるだけさ」


 何気なく告げられたその言葉に、アルノは少しだけ考え込んだ。


 五百年前のイオ島も、きっと同じだったのだろう。


 港を行き交う人々の声や、船を叩く波の音を聞いていると、以前エルディオンが語った「ごく普通の島だった」という言葉が思い出された。


 今では死の島と呼ばれている場所にも、人々の暮らしがあった。

 海へ出る者を見送り、帰ってきた者を迎え、誰かと食卓を囲む。

 ここにあるものと変わらない日常が、かつては確かに存在していたのだ。


 アルノは静かに海の向こうを見つめた。


 水平線の彼方に、まだ島の姿は見えない。

 それでも、あの海の先には、邪竜が向かっているかもしれないイオ島がある。

 四人は顔を見合わせた。


「行こう」


 最初に歩き出したのは、エルディオンだった。


 港へ近付くにつれ、潮風はさらに強くなった。


 岸壁には帆船や商船、小さな漁船が隙間なく並び、船員たちは帆を張り、縄を結び、荷を積み込んでいる。

 その間を荷車が忙しく行き交い、港の喧騒は街道から眺めていた時よりもずっと大きく感じられた。

 レグルスは港全体を見回しながら言った。


「まずは船を確保しましょう」


 三人も頷いた。


 死の島へ渡るには、この港から船を出してもらうしかない。

 アルノたちはまとまって岸壁を歩き、一人ずつ船主へ声を掛けて回ることにした。


 最初に頼んだのは、大きな商船の船長だった。


「死の島まで船を出していただけませんか」


 レグルスが用件を伝えると、船長は荷物を確認していた手を止めた。


「死の島だと?」


 先ほどまで威勢よく船員へ指示を飛ばしていた顔が、目に見えて曇る。


「悪いが、他を当たってくれ」


「報酬については――」


「金の問題じゃねぇ」


 船長はレグルスの言葉を遮り、はっきりと首を横へ振った。


「近付きたくねぇんだ」


 それ以上話すつもりはないらしく、船長は再び荷物の確認へ戻ってしまった。


 二人目の船主も同じだった。


「昔から、あそこへ船を向けるなって言われてる」


 三人目は露骨に顔をしかめた。


「縁起でもねぇことを言うな」


 四人目は、理由すら詳しく語ろうとしなかった。


「死にたくない。他を当たれ」


 返ってくる言葉は違っても、答えはすべて同じだった。


 アルノは小さく息を吐いた。


 死の島が危険な場所であることは知っていた。

 けれど、この港で暮らす人々にとって、あの島は単に魔獣がいるというだけの場所ではないらしい。


 近付いてはいけない場所。


 代々そう教えられ、海へ出る者たちが決して船を向けようとしない場所。

 長い時間をかけて積み重ねられた恐れが、港全体に染みついているようだった。

 リネも困ったように辺りを見回す。


「思ったより大変だね」


「ええ」


 レグルスも珍しく眉を寄せた。


「危険性は把握していましたが、これほどまで忌避されているとは想定外でした」


 何人もの船主に断られながら歩くうちに、四人は港の端まで来ていた。


 商船や旅客船が並ぶ賑やかな岸壁とは異なり、この辺りに繋がれているのは小さな漁船ばかりだった。

 人通りも少なく、聞こえてくるのは波の音と、時折響く海鳥の鳴き声くらいだ。

 その一角で、一人の男が漁船の脇にしゃがみ込み、黙々と網を繕っていた。


 年は三十代半ばほどだろう。

 日に焼けた肌に短く刈った黒髪。

 腕や肩には長く漁を続けてきた者らしい厚みがあり、太い指が手際よく網目へ糸を通している。

 レグルスは男の前で足を止めた。


「失礼します」


 男は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「なんだ?」


「死の島まで船を出していただけませんか」


 一瞬だけ、沈黙が流れた。


 男はレグルスを見たあと、アルノ、リネ、エルディオンの順に顔を眺めていく。

 やがて表情を険しくし、手にしていた網を木箱の上へ置いた。


「死の島?」


「はい」


「冗談じゃねぇ」


 男は即座に首を横へ振った。


「悪いが、他を当たってくれ」


「報酬については――」


「金の問題じゃねぇよ」


 先ほどまでの船主たちと同じ言葉だった。

 男は沖合へ視線を向け、眉間へ深い皺を刻む。


「島の周りは魚の魔獣の縄張りだ。近付けば船を襲われるし、漁へ出た船が沈められた話も一つや二つじゃねぇ。命あっての漁だ。好き好んで、あんな海へ行けるか」


 レグルスは小さく頷いた。


「危険海域として扱われているわけですね」


「難しいことは分からん。だが、怖ぇもんは怖ぇ。それだけだ」


 男は再び網を手に取ろうとした。


「悪いが、諦めて――」


「はあ?」


 その時、背後から低い女性の声が飛んできた。

 男の手が止まる。

 それどころか、先ほどまで威勢のよかった肩が、目に見えて強張った。


「……げ」


 思わず漏れた声を聞き、アルノたちは振り返った。


 魚の入った大きな木箱を両腕に抱えた女性が、こちらへ向かって歩いてくる。

 年はこの男と同じくらいだろう。

 日に焼けた肌に、肩より少し長い赤褐色の髪を後ろで一つに束ねている。

 袖を肘までまくり上げた腕は引き締まり、重そうな木箱を軽々と運んでいた。

 彼女が近付くと、周囲で作業をしていた漁師たちが次々に声を掛ける。


「ミラ姉さん、お疲れ!」


「向こうの干物、全部並べ終わったぞ!」


「塩漬けの樽は倉庫へ入れといた!」


「ああ、ご苦労さん! 昼までに帳面も持ってきな!」


 ミラと呼ばれた女性は、よく通る声で返事をしながら木箱を地面へ下ろした。

 それから腰へ手を当て、船の前にいる男をじろりと睨む。


「ベイル。あんた、今なんて言った?」


「いや、これはだな……」


「死の島へ行きたいって頼まれてるんだろ?」


「だから断ってたんだよ!」


 ベイルは勢いよく立ち上がった。


「あそこがどれだけ危ねぇか、お前だって知ってるだろ!」


「知ってるよ。あたしを誰だと思ってんだい」


 ミラは鼻を鳴らした。


「この港の漁師どもをまとめてる、ミラ姉さんだよ」


 近くにいた漁師が小さく吹き出す。


「自分で姉さんって言ったぞ」


「聞こえてるよ!」


「すみません!」


 漁師は慌てて魚籠の陰へ隠れた。

 ミラは再びベイルへ向き直る。


「こんな小さい子が、わざわざ死の島へ行かなきゃならないって言ってるんだ。あんたが先にびびってどうするんだい」


「誰がびびってるって?」


「じゃあ行けるね」


「いや、それとこれとは話が別だろ!」


「あの」


 アルノは思わず口を挟んだ。

 二人の視線が同時に向けられる。


「小さい子じゃありません」


 ミラは灰銀色の瞳をしばらく見つめたあと、アルノの頭から足元までをゆっくり眺めた。


「いくつだい?」


「十五歳です」


「十分小さいじゃないか」


「小さくありません」


「ははっ!」


 ミラの豪快な笑い声が港へ響いた。


「悪かったよ。見た目よりしっかりしてるみたいだね」


「見た目より……」


 アルノが複雑そうな顔をすると、隣でリネが笑いを堪えるように口元を押さえた。

 ミラは四人を改めて見回した。


「それで、本気で死の島へ行くつもりなのかい?」


「はい」


 アルノは迷わず答えた。


「行かなきゃいけないんです」


 その声から冗談ではないと察したのか、ミラの表情から笑みが消えた。


「魔獣が出たら、自分たちで何とかできるのかい?」


「問題ありません」


 レグルスが答える。


「船の防衛は、こちらで行います」


 ミラはレグルスを見たあと、リネへ視線を移した。

 リネは軽く拳を握ってみせる。


「ちゃんと守るよ」


「いい返事だ」


 ミラは満足そうに頷き、最後にエルディオンへ目を向けた。


「あんたが、この子たちの責任を持つんだね?」


「そのつもりだよ」


 銀髪の魔術師は穏やかに答えた。

 ミラは深い碧眼をまっすぐ見つめたあと、短く頷く。


「そうかい」


 それから隣に立つ夫を振り返った。


「だってさ、ベイル」


「……何が、だってさ、だ」


「行ってきな」


「は?」


「死の島まで、この子たちを送ってきな」


「お前な!」


 ベイルの声が港へ響き渡る。


「人の船だと思って簡単に言いやがって! 島の周りには魔獣がいるんだぞ!」


「分かってるよ」


「船を沈められたらどうする!」


「泳いで帰ってきな」


「無茶言うな!」


 ミラはにやりと笑った。


「じゃあ、あたしが船を出すよ」


 その一言に、ベイルの顔色が変わった。


「駄目だ!」


「なんでだい」


「危ねぇからに決まってるだろ!」


「今、あんたが言ったこと、そのまま返すよ。あたしだって船くらい出せる」


「そういう問題じゃねぇ!」


 ベイルは頭を抱えた。

 周囲では、いつの間にか何人もの漁師たちが作業の手を止め、二人のやり取りを眺めている。


「諦めろ、ベイル」


「ミラ姉さんが言い出したら止まらねぇぞ」


「お前が行った方がまだ安全だ」


「うるせぇ!」


 ベイルが怒鳴ると、漁師たちは一斉に視線を逸らした。

 ミラは腕を組み、夫を見上げる。


「どうするんだい?」


「……分かったよ」


「聞こえないね」


「分かったって言ってんだ!」


 ベイルは乱暴に頭をかいた。


「俺が連れていきゃいいんだろ!」


「ははっ! 最初からそう言えばいいんだよ」


「誰のせいで話がこじれたと思ってやがる」


「そりゃ、あんたがぐずぐずしてるからだろ」


「……もういい」


 ベイルは大きなため息をついた。

 アルノは呆気に取られていたが、隣にいたリネはすっかり楽しそうに笑っている。


「すごい人だね」


「うん……」


「お前さんたちも笑ってねぇで聞け」


 ベイルが不機嫌そうに四人へ向き直る。


「俺はベイルだ。この船の船長をしてる」


 そう言って、隣の小型漁船を親指で示した。


「それから、こいつが嫁のミラだ」


「あたしの紹介、それだけかい?」


「他に何があるんだよ」


「漁業組合をまとめてるとか、干物や塩漬けを作って町の外へ売ってるとか、いくらでもあるだろ」


「自分で全部言ってるじゃねぇか」


 ミラは気にした様子もなく胸を張った。


「男どもは好き勝手に海へ出て、釣るだけ釣って帰ってくるからね。売り方も、残った魚をどうするかも考えやしない。誰かがまとめなきゃ、せっかくの魚が腐っちまうだろ?」


「だからって、俺たちの稼ぎまで全部管理することねぇだろ」


「放っといたら、あんた酒に使うじゃないか」


「……」


 ベイルが黙り込む。


 近くの漁師たちから、堪えきれない笑い声が漏れた。


「笑うんじゃねぇ!」


 顔を赤くして怒鳴るベイルをよそに、ミラはアルノたちへ向き直った。


「死の島まで送るのはいい。ただし、条件はベイルから聞きな。船の上じゃ、こいつが船長だからね」


 ベイルは、ようやく少しだけ胸を張った。


「そういうことだ」


「調子に乗るんじゃないよ」


「乗ってねぇよ!」


 再び笑いが起こる。

 張り詰めていた空気が、いつの間にかすっかり和らいでいた。

 ベイルは咳払いを一つすると、真剣な顔で四人を見回した。


「死の島までは船を出す。だが、魔獣が出たら、お前さんたちで何とかしろ。俺ぁ漁師だ。魔獣退治まで請け負うつもりはねぇ」


「構いません」


 レグルスは表情を変えずに頷いた。


「島までは送り届ける。お前さんたちが上陸したら、俺は魔獣の縄張りの外まで船を戻して待つ」


 ベイルは腕を組み、沖合へ視線を向けた。


「帰ってくるなら迎えに行く。だが、日が暮れるまで待っても戻らなけりゃ、そのまま港へ帰る」


 そこで言葉を切り、四人へ真剣な眼差しを向ける。


「悪いが、命までは賭けられねぇ」


「十分です」


 アルノは真っ直ぐに答えた。


「そこまで連れて行ってもらえるだけで助かります」


 ベイルはしばらくアルノを見つめたあと、わずかに表情を緩めた。


「……そうか。無茶だけはするなよ」


 ベイルは静かに言った。

 ミラはレグルスへ向き直った。


「それで、眼鏡のあんた。出航はいつがいい?」


「可能であれば、本日中に」


「そりゃ無理だ」


 答えたのはベイルだった。


「今は潮が悪い。無理に出ても時間を食うだけだ。明日の朝なら、風も潮も島へ向かうのに都合がいい」


 レグルスはすぐに地図を広げ、海岸線と潮流の記録を確認する。


「そのとおりです。明朝であれば、潮流と追い風を利用できます。今日出航するよりも早く到着できるでしょう」


「ほらな」


 ベイルは得意げに笑った。


「賢そうな顔した、そいつも言ってる」


「経験則と計算結果が一致しただけです」


「同じことだ」


「難しい話はよく分かんないけどさ」


 ミラが口を挟む。


「海の上じゃ、長く乗ってる奴の勘も馬鹿にできないよ。ベイルはあたしには敵わないけど、船の腕だけは確かだからね」


「船の腕だけってなんだ!」


「褒めてるんだから、黙って受け取りな」


「……はい」


 あっさりと引き下がったベイルを見て、リネがとうとう声を上げて笑った。


 ベイルは恨めしそうに妻を見たあと、船へ積み込む樽や縄を確かめ始めた。


「出航は明日の朝だ。今日はゆっくり休め。死の島へ向かうなら、寝不足じゃ話にならねぇ」


「宿は決まってるのかい?」


 ミラに尋ねられ、アルノは首を横へ振った。


「まだです」


「だったら、組合で使ってる宿を紹介してやる。あそこなら飯も多いし、魚も新鮮だ」


 ミラはみんなを見る。


「今日はゆっくり休みな」


「はい」


 アルノ達は素直に返事をした。


 ミラはアルノへひとつ頷くと、何事もなかったように船へ向き直った。


 ようやく、次の目的地へ向かうための足がかりを得ることができた。


 夕暮れが港を茜色へ染めていく。


 係留された帆船の影が波の上で長く揺れ、空を飛んでいた海鳥が一羽、水平線の向こうへ消えていった。

 日中の喧騒はまだ残っているものの、港には少しずつ夜の気配が近付いている。


 アルノは海を見つめた。


 その先にあるのは、まだ姿の見えない死の島。

 五百年前には人々が暮らし、今は誰も近付こうとしない島。

 その地下には、次の星環が眠っているかもしれない。


 そして、邪竜もまた、その場所を目指している。


 潮風を胸いっぱいに吸い込み、アルノは静かに拳を握り締めた。


 明日には、あの海を渡る。


 ◇


 翌朝、港には朝日を浴びた帆船が静かに並んでいた。


 昨夜まで暗く沈んでいた波間は金色に輝き、船員たちは慣れた手つきで帆を広げ、岸壁へ繋いだ縄を解いている。

 潮風が頬を撫で、海鳥の鳴き声が朝の港いっぱいに響いていた。


 アルノたちも荷物を背負い、ベイルの船へ向かう。


 船体は決して大きくない。けれど、木の板は丁寧に磨かれ、帆や縄にも目立った傷みはなかった。

 派手さこそないものの、長年この海を渡ってきた船であることが一目で分かる。


「派手さはねぇが、まだまだ現役だ」


 船べりを軽く叩きながら、ベイルが胸を張った。


「こいつとは十五年以上の付き合いだからな」


「よく座礁させかけてるけどね」


 背後からミラの声がした。


 ベイルが勢いよく振り返る。


「させかけただけで、してねぇだろ!」


「自慢にならないよ」


 ミラはアルノたちへ向き直った。


「待たせたね」


「ありがとうございます」


 アルノが頭を下げると、ミラは笑いながら肩を軽く叩いた。


「そんなに畏まるんじゃないよ。帰ってきたら、腹いっぱい魚を食わせてやる」


 続いてリネへ顔を向ける。


「あんた、漁に興味はあるかい?」


「ある!」


 リネは即座に答えた。

 ミラの笑みが深くなる。


「いい返事だ。無事に戻ったら、今度はあたしの船に乗りな。力仕事も遠慮なく任せるよ」


「もちろん。約束ね」


「ああ、約束だ」


 二人は初対面とは思えないほど自然に笑い合った。

 アルノも荷物を運ぼうとしたが、ミラにすぐ止められた。


「あんたは持たなくていい」


「でも、これくらいなら」


「今日は死の島へ行くんだろ。出発前に余計な体力を使うんじゃないよ」


 代わりにリネへ荷袋を渡す。


「ほら、こっちはあんたに任せた」


「任せて」


 リネは難なく荷袋を担ぎ上げた。

 レグルスは船内へ積まれた荷物の数と置かれた位置を一つずつ確認する。


「食料と水、ともに問題ありません。風向きも良好です」


「今日は運がいい」


 ベイルは空と帆の動きを見上げ、満足そうに頷いた。


「昼には島が見えてくるだろう」


 アルノは船の上から海へ目を向けた。


 水平線の彼方は薄い朝靄に包まれ、死の島の姿はまだ見えない。そ

 れでも、その向こうに目的地があることだけは確かだった。


 エルディオンが静かに船首近くへ立つ。

 朝日を受けた銀髪が淡く輝き、深い碧眼が海の先を見つめていた。


「じゃあ、行こうか」


 その一言を合図にするように、ベイルが岸壁へ繋いでいた綱を外した。


「ベイル!」


 ミラの声が飛ぶ。


「今度はなんだよ!」


「無茶するんじゃないよ!」


「お前にだけは言われたくねぇ!」


「船を傷つけたら、小遣いから引くからね!」


「分かってるよ!」


 少し間があく。


「……それから」


「気を付けて行ってきな」


 ベイルは一瞬だけ黙り、船の上から妻を見た。


「……分かってる」


 先ほどまでの騒がしさとは違う、低く真剣な声だった。

 ミラはそれ以上何も言わず、片手を上げる。


「行ってきな!」


 帆が風を受け、船はゆっくりと岸を離れていく。


 港の喧騒は少しずつ遠ざかり、代わりに波が船腹を叩く音が耳へ届き始めた。

 朝日に照らされた港町が、徐々に小さくなっていく。


 岸壁では、ミラがまだ腕を高く上げていた。

 その隣に並ぶ漁師たちも、次々に手を振っている。


 リネが大きく手を振り返した。


「絶対、戻ってこようね」


「うん」


 アルノも頷き、遠ざかる港町をもう一度見つめた。


 ここから先は、誰も近付こうとしない海域。

 五百年前、人々が暮らしていた島。

 そして今は、死の島と呼ばれる場所。


 アルノはゆっくりと前を向いた。

 船首の先には、朝日に照らされた海がどこまでも広がっていた。

後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!

更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。